迷いの森の亡霊たち
迷いの森までまだ距離があるが、すでに目的地が見えているというのは気持ち的に楽だった。
北に向かう道すがら、ときおり強い風が吹きつけてその冷たさに、剥き出しの顔の皮が切り裂かれたような感覚になる。
森の手前にある、雪が降り積もった場所までやって来ると、自身に「不破の隠幕」を掛け、姿を隠しながら移動する事にした。また雪鬼狼などに遭遇するかもしれないからだ。
ざくざくとした乾いた雪の下に凍った地面を感じながら、不気味な気配を感じさせる森に近づいて行く。
大きな枝葉を広げる常緑樹が生えているが、それは広葉樹と針葉樹が競い合って森を形成しているかのように見えた。
木の中には落葉して枝だけになっている物もあったが、緑色の葉を残した木は、その頭や肩の上に雪を乗せ、冷たい風が吹くとがさがさと音を立てて雪を払い落としていた。
森の手前まで来ると、俺は急に寒気を感じた。
気温による寒気ではない。肉体的な感覚とは違う、霊的感覚が反応したのだ。
迷いの森には確かになにかがありそうだ。
迷いの森に足を踏み入れると、俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。ディアナリスからもらった魔除け。惑わしの力を退けるという呪印が描かれた羊皮紙を広げると、それを手にして森の奥に向かって歩く。
──するとどうだろう、森の木々の中に、不可思議な光を放っている物が見えた。その樹木は羊皮紙を近づけるとさらに強い反応を示し、ざわざわと振動を始め、枝に乗った雪を落としながら、耳には聴こえぬ音を響かせた。
目には見えぬほどの小さな振動をしていた樹木はやがて静かになり、木の幹から発していた光も消えていた。
どうやら森にある人を迷わせる力を消し去ったらしい。──だが今のは、森に掛けられた呪いの一つに過ぎないだろう。
惑わしの呪いの媒体となっている樹木のそばを通った者は、その力の干渉を受け、方向感覚を狂わされる。そういった類の結界が森に仕掛けられているのだ。明らかに誰かがこの森を、そのような森へと変えたのだ。
幸い森の中に棲む動物は居ないらしく、生命反応はまったくない。きっと迷いの森には、動物が忌避するようななにかがあるのだ。
警戒しながら森の奥へと進み、新たに呪力の元となっている樹木を見つけ、その樹木に解呪の羊皮紙を近づけ、その呪力の根源と、それを解呪する呪印の力を解析しながら、二本目の樹木に掛けられた呪いを打ち消した。
「なるほど、そうか」
迷いの森を構成する呪いを解呪するのはそれほど難しいものではない。しかし、その呪いの根源となっている箇所を発見するのは難しい。それよりも呪いの影響を防ぐ障壁を作り出す方が簡単だ。──もっとも、解呪の羊皮紙がなければ、森の中を彷徨わせる力に気づくのに、どれだけ木々の間を歩き続ける羽目になったかは分からないが。
ディアナリスの作製した解呪の羊皮紙は、かなり高度な魔術の呪印であるようだ。それほど複雑な図形や呪文を書き記したようには見えなかったが、単純な構図の中に隠された、防衛魔術の大きな制御力を秘めているのを感じ始めていた。
「あの女……やはり、相当な術者──」
すでにこの森に掛けられている魔術に対抗する術を見つけた俺は、羊皮紙を丸めて懐にしまおうとした。が、丸めようとした瞬間! 羊皮紙がいきなり青い火を噴いた。
「なッ、にィ!」
俺は即座に羊皮紙を地面に放り、素早く一歩下がった。危うく青い火が俺の指を焼くところだった。
それが呪いの力を秘めた火だというのはすぐに察しがついた。
俺は周囲を警戒しつつ臨戦態勢に入る。
何者かがこちらを発見し、攻撃を加えてきたのだ。
すぐさま魔法に対する防壁を張り、魔術に対する警戒もおこなう。
静かな森の中に変化が起こった。何者かの気配がそこら中に湧き出ており、敵意を持った気配を漂わせ始めたのだ。
まるで森が怒りに満ちて目を覚ましたかのごとく、ざわざわと枝葉をこすり合わせる。そのざわめきの陰で、この世のものならざる声が木霊した。
森の奥の暗がりから亡霊たちが姿を現した。
青白い、淡い光を放ちながら。
死者たちの表情は「無」だった。
眼窩と開いた口の中には闇があり、体を構成している青白い光は揺らぎ、ときおり霧の中に浮かんだ残像のように、あやふやな形へと変形する。
そうした亡霊たちが口を開け、この世のものとは思えぬ絶叫を発すると、邪悪な顔つきへと変わって、俺に襲いかかって来た。
亡霊たちは生命力を奪おうとしているらしい。
青白く光る手を伸ばして、俺の体に触れようとしてきた。
「ズギュゥアァァッ」
「バァゥギュヴェッ」
二体の亡霊を魔剣で斬りつけると、そいつらから奇怪な叫びとも、霊的な肉体が引き裂かれる音とでもいうものが発せられた。
亡霊たちは、俺が奴らを滅ぼせる武器を持っていると悟ったらしく、急に慎重になって、俺から間合いを取り出した。
「どうした、かかってこいよ」
亡霊の魂を魔剣に喰わせ、その霊質を奪ってやる。俺はじりじりと奴らに迫った。
すると森の奥から、さらに暗い影が現れた。
黒紫色に滲んだ影が、森の闇から染み出して来たかのように、それは近づいて来る。──どうやら邪霊らしい。
他の亡霊と同じく眼窩に暗闇が潜んでいたが、髑髏に似た頭部を持ち、ぼろ布に似た衣には、無数の人間の苦悶する顔が浮き出ては消えていく。
青紫色にぼんやりと光る衣から骨の腕が突き出し、左右に広げた腕を回しながら呪文らしいものを呟き始めた。
亡者たちが冥府で使う言葉なのかと思わせる、不明瞭で耳障りな言葉を響かせる。精神の弱い者ならば、その不安を掻き立てる声を耳にしただけで、恐慌に駆られてしまうだろう。
『ゲェフィヴァアァ、ディヴィスス』
邪霊が両手を体の前で交差させると、まるでそこから闇が広がるようにして、黒い極光気が迫ってきた。
精神攻撃をする魔法なのは一目で判った。
幸い闇を払う魔法は、いくつも覚えがある。
「『聖燭光旗』!」
奴が呪文を詠唱している間に、こちらも呪文の詠唱を終えていた。
手から淡い光を発する球を放つと、その球が邪霊の放った暗闇と接触した。
闇に呑み込まれた光の球が見えなくなると、それは大きく爆発し、暗い森の中を明るく照らし出した。
「グフェァィィイッ、ギヴィァアァアアァァ!」
周囲に居た亡霊が聖なる光に焼かれ、緑色の炎に包まれて激しく燃え上がった。
邪霊の放った魔法は俺の放った魔法によって打ち消され、光の爆発を起こした魔法は、周囲に存在する亡霊や邪霊を神秘の炎で焼いた。
『グヴィィァァアァァッ』
邪霊が呻いた。
腕を振り回して苦しむ邪霊。
霊体を焼いていた緑色の炎は、すぐに消えてしまった。
(……? おかしい……)
光の力を浴びた邪霊は、持ち前の抵抗力で消滅を免れたように見えたが、奴は魔法の力で光を打ち消したのだ。
その魔法は、現代の魔法形態に通ずるものだった。
(この邪霊が使った攻撃魔法は、古代の魔法に属する、失われた魔法に類するものだった)
まるでこの邪霊は古代の部分と、現代の二つの部分から成り立っているかのように思われた。
『オノレェ……!』
邪霊が言葉を発した。
古代言語ではない──そして、あるのかどうかも分からない亡者たちの言葉でもなかった。奴が口にしたのは、ジギンネイスで使われている標準的な言語だったのだ。
それも酷く人間じみた口調だと感じた。
(こいつ……、ただの邪霊ではないな?)
その違和感に気づくと、邪霊はすぅ──っと後ろに下がるように離れて行く。
森の奥に逃れるつもりらしい。
「逃がさん」
そう呟きながらも、奴の正体を探ろうと魔眼を使い、邪霊と周囲の観察を念入りにおこなった。
森の中には魔法による解析を妨害する結界も張られている。それを魔眼の力が突破して、森の奥に三名の魔術師らしい人影を看破した。
(そこへ誘い出すつもりだな)
邪霊の逃げる方向で待ち構えている三人の人影。そいつらはなんらかの魔術に取り組んでいるらしく、魔法陣を囲んで呪文を唱えている。
魔法陣の中心には横たわった人物が居た。
だが森の中にある空間に辿り着く前に邪霊が逃げるのを中断し、再び呪文の詠唱を始めた。
それはやはり聞き慣れない発音であったが、古代魔術言語に近い呪文で構成されているものだった。
『グゥルナルグゥァ、アドゥィファグィーシァ』
邪霊が呪文を唱えると、森の中に急激に冷気が浸透してきた。
木々の表面が音を立てて凍りつき、俺の周囲の空気を凍てつかせる。
魔法障壁によってある程度の冷気は防げたが、このままでは氷の中に閉じ込められてしまうかもしれない。
俺は火の魔法を使い、凍りついた周囲の木々に向かって火炎を放射する。
伸ばした手から勢いよく炎が噴射され、木の幹につき始めていた氷を解かし、周囲の気温を底上げした。
幹の表面が焦げてしまった箇所もあったが、木々が燃える事はなかった。
しかし氷を解かした時に靄が発生し、森の中が靄に包まれてしまう。──その隙に邪霊は姿を隠したようだ。
「ちっ……」
木々の間から、土を掘り起こすのに似た音が聴こえてきた。
白い靄の中から魔力の流れを感じた俺は、すぐに剣を構えて腰を落とす。
危険を感じた瞬間、俺は即座に一つ目の攻撃を躱し、二本目の白い槍状の物を叩き斬った。
「ガランッ」
躱した槍が木の幹に刺さり、切断された物が木に当たって乾いた音を立てる。
幹に突き刺さっている物を見ると、それは獣の角を思わせる、長く尖った骨だった。
靄が晴れてくると、離れた所で浮いている邪霊の姿を見つけた。
奴はやはり不明瞭な呪文を唱え、突き出した手の先に──なにやら名状しがたい物を発生させていた。
それは渦巻く死と怨嗟の具象。
骨と血肉の混じった悪夢のごとき、怨霊の塊だった。
『ェゥレァボァードゥス』
邪霊の言霊によって生み出されたのは、冥府に落ちた悪意の総体とでも言うべき、邪悪な霊魂の集合体。
死肉色をしたその塊が、こちらに向かって飛んで来た。
速さはないが、人間や怪物の顔を浮かび上がらせる不気味な血肉の塊が、宙を浮いて迫って来るのは肝が冷えた。
複数の憎悪に満ちた人間の顔が浮かび上がり、犬か牛を思わせる魔獣に似た頭部も見える。それらの合成された塊が怨嗟を吐きながら迫り、俺は魔剣でそれを斬り裂いた。
人間の顔と魔獣の顔を斬り裂いたが、青白い炎を傷口から噴き出させると、傷を負わなかった部分が塊から剥がれて分裂し、それぞれが俺に襲いかかってきたのだ。
「くそがっ」
迫って来た怨霊の頭を引き裂きながら反転後退し、次々に迫って来る悪霊の魂を魔剣に喰わせた。
素早い連撃でなんとかそれを撃退すると、離れて行く邪霊を速やかに追った。──これ以上あれをのさばらせる訳にはいかない。
魔眼を使ってさらに奴の解析をおこなうと、奴の背中から魔力の糸が見え、それが森の奥へと続いて行くのが確認できた。




