バサルアーサの街で
精霊の手を握ったまま、遠くに篝火が見える所までやって来ていた。それは街の門がある場所を示す明かりだ。
精霊の道を通って現れた場所は、街から離れた所にある森のすぐ近くだった。
『あれが人の住むところだろう』
風の精霊は壁に囲まれた街を指差す。
「ああ、ありがとう。助けられたな」
俺の感謝の言葉に特別な反応を示す事なく、精霊は『さらばだ』と言葉を残し、再び精霊の道に入ったらしく、姿が一瞬で見えなくなった。
「驚いた」
風の精霊の姿が一瞬で、小さな光の渦の中に溶けるようにして消え去ったのだ。
たぶん精霊の道に入り、その入り口の穴が閉じる様子が、渦を巻いて小さくなっていくように見えたのだ。
それにしても凄い体験だった。
移動したという感覚はまったくなく、精霊の道から外部──現実世界──が見えていた所為で、もの凄い速度で移動していた気になったが、あれはほぼ瞬間移動したようなものだ。
「精霊にあんな力があるとは」
精霊の道についてはどこかの魔術書に書かれていたが、まさか本当に存在するとは。
さっき出会った風の精霊が高位の精霊だった為に、あのような力が使えたのだろう。
あの精霊がどんな目的であの場所に顕現していたのか気になったが、おそらく人間にはどうする事もできない問題であろう。俺はその事について考える事を止め、街に向かって歩きつつ、自分の居場所を確認した。
どうやらあそこに見えている街はバサルアーサで間違いないらしい。
俺は一日歩きどおしでも辿り着けない場所に、一瞬でやって来たのだ。何日もかけて移動する覚悟をしていたが、精霊の助力を得た俺は、そんな苦難から逃れて街に入る事ができるのだ。
冷たい北風が顔に吹きつけ、顔の皮膚が突っ張る感じがするほど寒い。──だがそれも、もう少しの辛抱だった。
篝火のある街の門に向かって歩き続けていると、街に向かう街道に辿り着いた。
「おっと、忘れていた」
小さな角灯を取り出すと、それに火を灯した。
真っ暗のまま門に近づくと、いらぬ警戒をさせてしまうと考えた。門番にこちらの存在を知らせ、予め彼らの注意を引いておけば、人が近づいて居るのだと考えるだろう。
俺は街の周囲をぐるりと囲む街道から、門に向かって一直線に進む道を歩き始めた。
遠くからでも門の前には数人の兵士が立っているのが確認できた。彼らは軽装だが武装しており、夜間の警備にしてはやけに物々しい雰囲気を漂わせていた。
「止まれ」
門に近づいていると、番兵が遠くから声をかけてきた。
門の左右には門楼があり、その壁の間には天幕がいくつか張られていた。
焚き火を囲んで座っていた兵士が槍を手にして立ち上がり、こちらに警戒の視線を向けてくる。
三人の兵士が門楼の中から姿を見せ、それぞれが武器を手にして門の前に立った。
(おいおい、何事だよ)
「冒険者か?」
「そうですが」
俺は二人の兵士に囲まれた。
彼らからは、なにやら焦りを感じる。──なにかあったのだろうか。
「なにかあったんですか?」
「なにも知らずに来たのか」
兵士の一人が声を上げる。その声は不安に駆られているような響きが隠れていた。
「街には入れない」と、もう一人の屈強な兵士が口にした。
「それは困ります。宿に泊まらなければ凍え死んでしまうかも」
そう訴えるが、彼らはこちらに同情するより先に、用意していた答えを口にしてきた。
「寝泊まりするなら、街の外にある小屋を利用するしかないな。朝になれば街に入れるだろう」
「小屋?」
暗くて見えなかったが、どうやら街の外には無許可の小屋が建てられているようだ。その中のいくつかは無人で、そこに泊まれと言うのだ。
「小屋の中でも火が使えなければ寒いでしょう」
「耐えろ」
「そんな無茶な」
兵士になぜ街の中に入れないのか尋ねると、街中に出た夜に徘徊する者を始末するからだと説明した。
レインスノークの街に出現した、人に化けるガーフィドでも出たのだろうか。
「ともかく、壁沿いの小屋に泊まっていけ、中に人が居ても気にするな。おまえと似たような連中ばかりだからな」
冷たく言い放つ兵士と口論しても始まらない。俺は小屋があるという方向に向かって歩き出した。
暗い夜道を戻りつつ、角灯で照らしながら門楼の横を回り込んだ。門楼の横の壁沿いには確かに多くの掘っ建て小屋が建っていて、それらはどれも木造の粗末な物だった。
(まあ寒さは寝袋でなんとかなるが)
中に人が居たら、そいつらはどうしているのか気になった。
念の為に周囲の小屋に生命反応などを確認すると、無人の小屋があったので、そこを借りる事にする。
他の小屋には人々が身を寄せ合って寝ている反応がいくつもあったが、中には死にかけている者も居る様子だ。朝には死んでいても不思議ではない。
俺は無人の小屋を結界で守り、安心してそこで仮眠を取る事にした。旅の疲れを取る休憩くらいで十分だろう。
巨人との戦いの疲れは思ったほどではない。以前よりも肉体は強化され、それは精神的な強さにも現れていた。
俺は寝袋を影の中から取り出すと、さらにその上に毛布をかけて横になった。
眠りに就くと、嫌な気配を感じた。
現実の肉体に迫る感覚的なものではない。
精神領域にまとわりつく嫌な気配だ。
精神領域に近づく者の気配を感じた防御者が罠を張り待ち構えていたが、そこに飛び込んでは来なかった。
こちらの生存を確認しに来たのだろうか。
例の魔術師たちが見張りを立てていた可能性はある。
もしかするとバサルアーサの街での騒ぎは、連中の仕業かもしれない。
奴らの中に、夜に徘徊する者を使役する術者が居る可能性は高い。
まだ奴らは俺をつけ狙うつもりなのだろう。
巨人の戦士ギゥルム以上の切り札が、奴らにあるとすればの話だが。
* * * * *
街の上空がまだ暗い時間に俺は起床した。体を休めるには十分な休養で、寝袋や毛布を片づけると小屋の外に出て、遠くの空が日の光を受けて青く色づいているのを見ながら背伸びをする。
柔軟体操をして体を解すと、小屋の中に戻って角灯に火を灯した。
バサルアーサの街に入れないので、馬車が外に出ている所はないか兵士に尋ねようと考えた。おそらく囲壁の外にも馬車の停留所はあるはずだ。
そこからさらに北西に向かう馬車に乗って、できる限り早めにこの辺りから離れたい。
小屋の周辺まで日の光照らされる頃になると、俺は門の方へ向かった。
門の前まで来ると、ちょうど門が開かれていくところだった。
番兵たちも慌ただしく入れ替わり、街の中を警備していた兵士たちから情報を確認し、それぞれの持ち場に着いたり、兵舎へと帰って行く。
夜に徘徊する者は討伐されたのだろうか?
新たに門の前にやって来た兵士にその事を尋ねると、「問題ない」という返答だった。それが日の出ているうちは大丈夫という意味なのか、それとも討伐したから大丈夫なのかは、兵士の口からは語られなかった。
街の外には乗り合い馬車の停留所はないらしく、馬車を利用する為に入街税を支払って街の中に入るしかなかった。
蛇竜獅子の牙と皮革を買い取ってもらおうと考え、俺は戦士ギルドに向かう事にした。兵士の話では大通りを進んだ先にあるというので、迷う心配はない。
まだ早朝なので人通りは少ない。店開きをしている店舗も少なく、街はゆっくりと目覚めていくようだ。
戦士ギルドの看板を見つけると、俺は石組みの建物の中へと入って行く。
ジギンネイスの戦士ギルドは独特な雰囲気があった。待合室には小さな暖炉があり、受付の奥にも暖炉が設置されていた。
受付に行くと色白の受付嬢が仕切り台の前に立って、用件を尋ねてきた。
「蛇竜獅子を討伐した。牙と皮革はいくらになる?」
そう言いながらまずは階級印章を出すと、受付嬢は名簿に名前を書き込み始めた。
「蛇竜獅子ですか、さすがは赤鉄階級。たった一人で討伐されるとは」
「この辺りの蛇竜獅子は白い毛皮なのか?」
「そうですね、白か灰色の個体が多いです。いえ、そんなに遭遇確率が高い訳でもありませんが」
なら俺は運が悪かったんだな、そう呟くと受付嬢は笑った。
「討伐報酬と牙と皮革の買い取りで、合わせて二千七百スフォラになります」
よろしいですか? と言われ、俺は「ああ」と生返事で返してしまった。スフォラ硬貨の持ち合わせが無かったので、それはそれでいいのだが、いまいちこの国の通貨価値が分かっていないので、二千七百というのが高いのか安いのか判断がつかなかった。
「狼の毛皮だといくらだ?」
受付が小金貨二枚と小銀貨七枚を持って来た時に、そう尋ねた。
「狼ですか。毛皮の色や状態によっても変わりますが、黒や茶色まら一枚約八十スフォラ。灰色狼の物だと百二十。雪狼なら最低でも二百はすると思ってください」
「なるほど、ありがとう」
俺は硬貨を受け取ると小さな皮袋にそれを入れ、掲示板の方に向かった。ここではどのような仕事があるのかを確認したかったのだ。
やはり護衛の依頼や討伐依頼が多かった。
他にも近隣で起きた事件などに関する貼り紙も見てみると、「バサルアーサの街で起きている殺人」という記事が出ていた。これが夜に徘徊する者による被害だと結論づけている理由は記事によると、夜におこなわれている事と、内臓の一部が無くなっている事だと書かれていた。
この記事だけでは真相は分からないが、もうこの街を離れる俺には関係のない事だった。
俺は北門にある馬車の停留所に向かう為、戦士ギルドの扉を開けて外に出て行った。
大通りを北に向かって進んでいると、何人かの市民の姿を見かけた。彼らは白色や灰色の毛皮の外套などを羽織り、耳や首元も隠れる頭巾に似た帽子も被っている。
厚手の防寒具に手袋など、寒さ対策はまだまだ欠かせない様子だ。
馬車の停留所まで来ると、そこには馬車が数台止まっていて、白い息を吐く輓馬と御者が客を待っている状態だった。
そのうち何人かに話しかけ、北西の街に行く馬車を探した。
「北西に? それなら一旦北に向かわないといけません。西には大きな湖がありまして、湖の南側の道を通るくらいなら北に進むのがいいでしょう」
紳士的な御者はそう言って、ガウガンスクの街に行くのがいいでしょうと説明した。
「ガウガンスクへの道は通行可能ですが、そこから先は保障致しかねます」
ガウガンスク辺りは雪が深く、北にある山岳から吹き下ろす風の所為もあって、度々道は通行できなくなると警告された。
「分かりました。それでは乗せてもらいます」
俺は御者に七百スフォラを支払い、客車に乗り込んだ。
客車は八人が乗れる空間があり、左右の腰掛けには茶色の毛皮が張られていた。膝や体にかける毛布も用意され、座り心地は悪くない。
俺が最初の客だったので御者側の席に座ると、荷物を横に置いて出発まで待つ。
街のどこかで鐘が鳴ると、客車はすぐに客で埋まり、御者が一声かけると馬は北に向かって移動を始めた。




