ジギンネイス国の未開の地にて
儀式魔術によって作られた異空間が消滅し、俺はかつて砦があったと思われる場所から、断崖の間を北に向かって移動を始める。
断崖への入り口にあたる場所には、確かにここに砦があったという石積みが残されていた。
壁の跡らしい物もあったが、ほとんど崩されていて、形の悪い石塊だけをこの場に残し、解体された砦の一部は別の場所に建材として運ばれたのだと思われた。
北に向かう道は真っ直ぐに延びていて、断崖の間を通る冷たい北風が、嘆き叫ぶ女の慟哭のように耳に響いてくる。
前のめりになって強風が吹きつける道を進んで行く。ときおり雪を含んだ突風が吹いてきて、凍った雪の塊が飛礫となって俺の体を打った。
風が止むと、その間に俺は断崖の間を駆け抜けた。
断崖を抜けた所で、白い雪を被った岩場に出て来た。どうやら北側の森から風によって運ばれて来た雪が崖の手前で集められ、解けずに大量に残っているようだ。
頭の中にある地図によると、ヘールフェンという町が東側にあり、北に向かえばバサルアーサという大きな街があるようだ。
ただバサルアーサまではかなりの距離があり、歩きでは数日かかってしまうだろう。
しかし東にあるヘールフェンまで行くにもそこそこの距離があり、さらに目的地から遠ざかってしまう。
ここから北に向かうには、途中にある森を通過したり、山を避けて進まなければならないかもしれない。
「行ってみなければ分からないか」
地図はだいたいの表記しかされていない上に、正確ではない部分が多いのだ。
岩場を抜けた先は森と平野が広がっていた。
空は一部に暗い色の雲が見えているが、風の感じからするとこちらに向かってはこないだろう。
進む方角の空は晴れていた。
上空の風もかなり強く吹いているようだが、大きな雲は見当たらない。
この寒さだと、北ではまだまだ雪が降っている可能性もある。
広々とした平地を歩いていると、森の近くに生き物の影が見えた。大きな枝角を持った鹿らしき四つ足の獣は、森の近くから丘のある方に向かって走って行った。
たった一匹で行動している草食動物だろうか。
「珍しいな」
雪が積もる場所を歩き、歩けそうな場所を探りながら丘と森の間辺りに向かって進む。
森から離れた場所で轍が作ったと思われるくぼみを見つけた。二本の轍が作る道はかろうじて北へと進む道標となっていたが、所々で轍は姿を消し、小さな池の手前で道はすっかり見えなくなってしまった。
池の水は濁っていて、茶色がかった淀んだ水の周辺は土が剥き出しており、その地面には様々な獣の足跡が残されていた。
「獣たちの水飲み場か」
池の水を飲みに二羽の鳥が舞い降りて来た。
池の一部は凍っていたが、黒っぽい羽をした鳥たちは凍っている場所を避けて池に近づくと、水を飲み始めた。
くぼんだ場所にある池の先に、隆起した小さな丘があった。この先には岩場や隆起した地面などが多くあり、俺はそうした場所を避けながら進み続けた。
北に向かう俺の前に何匹かの生き物が姿を現した。白いふわふわとした毛を纏う兎に、茶色い毛の鹿に小さな馬。黒い毛を持つ牛など。
一度、森の木陰から覗く人影を見つけた。
それは二本足で立ってこちらをじっと見つめていた。どうやら小さな犬頭悪鬼のようで、立ち止まる事なくその場を離れると、犬頭悪鬼の子供らしい人影はいつの間にか消えていた。
特に危険な猛獣に出遭う事もなく、白い雪を一部に残した山の横を通り過ぎた。土の地面が剥き出した斜面を山羊が歩いて行く。
その山はそんなに高いものではない。急斜面を登って行けば、一刻(約三十分)くらいで山頂に着くくらいの高さしかない。
赤黒い地質の山から突き出た、灰色の尖った大岩が目を引いた。それは山の中に埋もれた巨大な竜の頭から生えた角が、山肌から突き出ているかのように見えた。
赤黒い岩山の次に見えてきたのは、麓を針葉樹林に囲まれた、黒い山肌にいくつか緑の衣を纏った姿の山だった。
その麓の林から狼の群れが飛び出し、岩陰に居た四つ足の草食動物に襲いかかったのが見えた。
雌鹿に似た細い体つきの生き物たちが一斉に駆け出し、岩や隆起した地面を避けながら走って逃げている。
薄茶色の狼たちが協力して鹿に似た獣を狩り立てる。
急に進行方向を変えて逃げる鹿を追う狼。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして、鹿に似た獣は狼から必死の逃走を図るが、横から飛びかかられて地面に転がると、二頭の狼の攻撃を受けて動かなくなった。
雪が疎らに残っている場所を歩きながら、どうやら馬車が通る道を外れてしまったようだと気がついた。
例の行商人は恐らく、先ほど通過した二つの山の間を東に曲がって、ヘールフェンに向かう予定だったのだ。
荷車に乗っているのならそちらに向かった方が早かったろう。
俺は先に広がる地平に向かう事を選択し、バサルアーサに近づく経路を探りながら歩き続けた。
街の方角はなんとなく分かるが、正確な位置までは分からない状況なので、できる限り直線的に向かうよう注意する。
開けた平地の先に木々が立ち並び、そこに向かうまでに俺は二回の襲撃を受けた。
一度は白い毛皮をした雪豹に気づかず接近してしまい、唸り声を上げて襲いかかられそうになった。岩陰から現れた獣を前に俺は冷静に獣霊支配を使い、相手に退かせる事ができた。
二度目の襲撃は白色の体毛と鱗を持った蛇竜獅子だった。
蜥蜴の頭や蛇の頭を思わせる頭部をしたその魔獣は、残雪の上に身を屈めて隠れていた。うっかりと雪のある場所に近づいてしまい、そこになにかが居ると気づいた時には、俺は剣を構えなくてはならなくなった。
「グリュルルルッ」
そんな風に喉を鳴らす奇怪な魔獣。
獅子の体をしたそいつは雪の床から四本足で立ち上がると、かなり大きな体を見せつけるように俺の前に進み出る。
白い体色のものは初めて見たが、その危険な視線には明確な殺意が込められており、じりじりとした足取りでこちらに近づいて来た。
俺と魔獣は同時に突進した。
魔獣の鋭い鉤爪が空を裂く。
獅子の前足を躱した俺は魔剣を一閃させた。
開いた口の中に魔剣を叩き込み、首に向けて真っ二つにされた魔獣は、その一撃で絶命した。
死骸から牙を抜き取りながら、この白い毛皮も剥ぎ取っていこうとかと考えた。
切れ味鋭い短刀を取り出すと、それで魔獣の皮を剥いでいく。血肉や脂を削ぎ落とし、雪で綺麗にしてから塩をまんべんなく擦り込んでおいた。
魔獣の肩から背中だけにある毛皮を剥ぎ取ると、それを影の倉庫にしまった。
「ここらの蛇竜獅子は白いのが通常なのか?」
なんとなく価値がありそうな気がして剥ぎ取った毛皮だが、装備にも使えそうだ。強靭な皮は冷気にも強く、防御性能も高そうだ。
「まあ、高く売れるなら売ってしまおう」
そんな事をしているうちに、白い帽子を被った山が、黒い外套を羽織る時間になっていた。
遠くの空が夕焼けに染まっていると思っていると、すぐに夜の帳が降り始め、頭上には流れる薄雲と、星々の煌めく夜空に包まれた。
まだ歩き疲れてはいないが、どこかで体を落ち着けた方がいいだろう。──できれば雨風をしのげる場所を見つけたいところだ。
雨が降る気配はないが、風の強さは止まないかもしれない。
それに、この辺りは魔獣も出現する危険がある場所のようだった。恐らく人があまりやって来ない場所であるだろう。道と呼べる物はまったく見当たらないのだ。
「岩陰や木陰で風を防ぐしかないな」
歩きながら外部視野を使い、周辺に廃墟などがないかと探っていると、森の中に奇妙な光が灯っているのを見つけた。
(なんだ……? 家の明かりではないだろう)
その光は淡い緑色で、最初は森の一ヶ所にだけ光苔が繁殖しているのかと思ったほどだ。
しかしその緑色の光は木々の間をゆらゆらと通り、森の外へと出て来たのだった。
(おいおい、まさか亡霊……)
幸いまだ離れた所に居るそいつの正体を探るべく、魔眼を使ってどういった存在かだけでも確認する事にした。
森と森の狭間を浮遊するそれに魔眼による生命探知や魔力探知を掛けると、それは霊体であるようだったが──
(魔力の反応も強いな。まさかあれは──)
と、その霊体が動きを止めたかと思うと、一陣の風と共に一瞬で俺の目の前に接近して来た!
「ぅッ⁉」
俺は思わず後方に跳び退き、魔剣の柄に手をかけつつ、相手の魔法による攻撃に応じる体勢を取る。
『このような場所、このような時刻に、危険な眼を持つ者が一人……』
それはぼそぼそと声を発していた。
声はどちらかというと女性的な響きをしているが、風の音の所為か判断がつかない。
俺はそれが精霊である事を看破していたが、相手もこちらの魔眼について見抜いたらしい。
『不穏な風を止めたのはおまえか?』
「なに?」
緑色の淡い発を放っているその精霊は風の精霊だった。
緑色の水晶の様な体を持つ精霊は体の周囲に旋風を纏い、長い髪をなびかせている。表情は無く、娘のようにも青年のようにも見える見た目をしており、線の細い体の内側で緑色の光が明滅していた。
『ここから南に、死の力を利用した呪詛の流れを感じていた』
精霊が言っているのは、巨人ギゥルムの頭骨を利用しておこなわれた儀式魔術の事だろう。
「ああ、たぶん俺が止めた」
『そうか』
そう言うとそれは沈黙し、ふわふわと浮きながらこちらをじっと見つめる。
緑玉石を思わせる体を持つ精霊は、首を傾げるような動作をした。
『──そうか、おまえは精霊王に逢ったのだな。しかしなぜ、このような場所を歩いているのだ』
この精霊も精霊界との接点を持ち、俺と精霊界の縁について把握したらしい。
「ここから北にある人里に向かっている途中だ」
『人里……、ここから北に人の住んでいる場所となると、おまえの足では夜が明けても辿り着けないぞ』
「だろうな。だからどこかの岩陰にでも野宿するつもりでいた」
『それは危険だ』
──本来姿を見せる事のない精霊が現れているという事は、この周辺で精霊界を脅かすような異変が起きようとしているのだろう。彼らの世界とこちらの世界の不調和がどのようにして起こるのか、俺には理解できないものだが、いくつもの世界が重なる次元領域に穴でも空いたのかもしれない。
『まあもっとも、おまえの向かおうとしている先には、危険がつきものであるだろう』
「それは知っている」俺は精霊の言葉に肩を竦めた。
敵意のない精霊との対話をしながら、風の精霊のお陰で冷たい風を浴びずにいるのだと気づいた。彼──彼女かもしれない──の力の領域が俺の周辺も包み込んで、風が俺と精霊の外を通過していっているようだった。
『──よし。ではわたしが街の近くまで連れて行ってやろう』
風の精霊はそう言うと、翠玉色の手を差し出す。
俺は躊躇う事なくその手を取った。
すると──
凄まじい速度で俺は闇夜の中を移動した。
現実世界をこれほど速く移動できるはずがない。
風の精霊が俺の手を掴んだ瞬間、俺は風となって世界を駆け抜けたようだった。
それは精霊の道を通過したのだと、あとで気づいた。
現実世界だと見えていたのは実際は幽世と同じような、物質界と重なる領域の中から見える、外界の様子だったのだ。
俺は風の精霊の導きで精霊の道に入り、馬で駆ける数十──あるいは数百倍の速度で北に移動したのだった。
最後の「精霊の道」は分かりづらいかも……。現代のイメージで言えば、早送りをしたように見えた。といった感じです。ほぼ一瞬で移動が可能。ただし高位精霊のみが使える。