異空間の魔神
赤紫色の月に波紋が広がると、その月からなにかが零れ落ちてきた。
それは丸い目玉から大きな一滴の涙が落ちるみたいに、赤紫色の巨大な液体が荒野の上に落ちて来たのだ。
荒野の乾いた大地に落ちたそれは、まったく音を立てなかった。
影が地面に落ちても音を立てないように、それもまた実体を持っていないかのように。
赤紫色の涙は地上に落ちて来ると、それもまた球体の形を形成した。
ただそれは空に浮かんでいる月とは違い、窪みやひび割れを持ってはいない。
「────ひび割れ、だと?」
上空に浮かぶ月を見る地と、しだいにそれは色を失い、薄汚れた錆色のひびを残す、灰色の丸い岩石を思わせる物になっていた。
地上と上空にある物が他に無く、比較する事ができなかった所為か遠近感に狂いが生じ、実態以上に大きな物に見えてしまっていたようだ。──それでもかなりの大きさであるのは間違いないが──
大地に落ちた赤い涙が蠢き、立ち上がった。
上空に浮かぶ灰色の月を背にし、立ち上がったそれは人型の──巨人の姿を現した。
あの気味の悪い赤紫色の光。
どこかで見た覚えがある訳だ。
離れた位置に姿を現したのは、ひょろ長い体をした巨人。
魔神オグマギゲイアだったのだ!
「きゅぉぉおぉぉ──ん」
赤紫色の巨体の上に青い炎を宿した巨人が、奇怪な叫び声を上げる。
二つの青い炎の眼が、俺と鉱石獣を見下ろしていた。
その巨人の背後に浮かぶ巨石の塊。月に見えていた巨大な丸い岩は今や、暗闇に浮かぶ魔神の心臓を思わせる、赤く脈動する不気味な光を放っていた。
ひび割れた巨石の亀裂から赤紫色の光が零れ、火のごとく揺らめく脈動を放っているのだ。
「まさか異界に引きずり込んでくるとは……!」
物質界に帰還するはずが、とんでもないものに絡まれてしまった。
じりじりと後退しながら考えを巡らせるが、なぜこのような状況になってしまったのか、そればかりを考えてしまう。
(馬鹿者め。ここからいかにして脱出するかを考えろ)
俺は冷静になろうとしつつ、周囲の状況を把握しようと視線を巡らせ、異界に捕われている現状を打破する術を探った。
「グファアァァァ……!」
鉱石獣は魔神に挑むつもりでいるらしい。ガリガリと硬い地面を爪で引っ掻いている。
魔眼の力を使って異界の出口を探していた俺だったが、どうやら出口になりそうな歪みは見当たらない。
この領域を構成している力の源である魔神オグマギゲイアを撃破する他なさそうだ。
(おいおいそんなの、無理が過ぎるぜ……)
魔剣を抜き放ちながら、魔眼を通して魔神ラウヴァレアシュに呼びかけた。──だが、なんの反応もない。
ここが閉じた異空間であるのと、あの魔神が天上の神々との闘争に意識を集中している為だと思われた。
「まずいぜ」
こちらの焦りを感じ取ったかのように、赤紫色の巨人が手を伸ばしてきた。
俺はとっさに横へ跳び、攻撃を回避した。
石の獣も斜め前方に駆け出し、攻撃を回避していた。
巨人型の魔神オグマギゲイアは伸ばした手の先に凍気を発生させ、空間を凍りつかせた。
以前にも見た攻撃だったが、魔法の反応はまったく感じられない。いったいどんな力なのか見当もつかない技だ。
石獣が魔神の足下に突進し、赤紫色の光を放つ、影のように暗い体を引っ掻いた。
鋭い石の爪が魔神の体を引き裂くと「ビィイィイィィン」と空間を震わせる音を響かせ、黒い体の表面に揺らぎを発生させた。
引き裂かれた部分から闇が漏れ出たが、すぐにその傷口が閉じ、修復されてしまう。
やはりこの異空間を造り出している魔神の再生能力は、凄まじいものがありそうだ。
石獣が巨人の足下を駆け抜けて、反転して追撃をしようとした瞬間。石の体が宙に浮き上がった。
奇妙な体勢でいきなり飛び跳ねた獣の体は、黒い槍状に伸びた影に貫かれ、頭部と胸部と下半身の三つに分断されてしまった。
がらがらと崩れ去って地面に転がった石獣。
巨人の影からすうっと伸びてくる影が見えた。次は俺を狙っている。
俺は強化魔法で肉体的な力を引き上げると、魔法障壁などの防御魔法も掛け、影の槍を素早い動きで回避した。
大股で歩いて来る巨人だったが、重々しい動きと違い、足音はまったくと言っていいほど聞こえない。
やはりこの領域でも、あの体は質量らしい質量を持っていないようだ。
神の体である光体であるのは間違いなさそうだ。あれに対抗するには、光体波動を組み込んだ魔法か、武器に光体波動の力を乗せて攻撃するのが一番だろう。
しかしそれでもこちらが劣勢なのは明らかだ。
「あるいはこちらも光体を使って……」
荒野のあちこちにある岩の陰に逃げ込みながら、なんとか対抗手段を考え続ける。
こちらの手札はそれほど多くはない。
ここで切り札である光体を使うとしたら、他に手立てがなくなった時だろう。
それまでは魔法と武器で対応するしかない。
しかし……
それであの魔神をどうにかできるとは思えなかった。
巨体だからではない。その体の大きさよりも、本質的な力の差。根源的な力の違いがあるからだ。
俺も魔神などの力を取り込んではいるが、あれほど大きな存在の力を持つ魔神に、正面から対抗できるとは考えていない。
どうにかしてじわじわと力を削り、奪い、それで弱らせる事ができれば、こちらも光体を展開し、五分五分とは言わないまでも、勝ち目を拾うくらいの可能性は得られるはずだ。
「やってやる。──やるしかない‼」
覚悟を決めると巨人の攻撃を躱し、岩陰から敵の足下に接近する。
飛び出した岩陰に氷の塊が発生したのを感じ、俺は魔剣で巨人に斬りかかった。
「ビォオォオォォン……」
奇妙な音が響き傷口が塞がっていく。
光体波動を持たせた魔剣の刃でも、とてもではないが簡単に傷を負わせる事はできそうにない。
「チィッ!」
影から突き出る槍を躱し、距離を取りながら次の手を考える。
──そうだ。白銀色の刃になった死王の魔剣より、手に入れたばかりの魔法の短剣を試してみよう。あれなら光体波動を乗せるのにも適しているはずだ。
そう思いつくと魔剣を鞘に納め、魔法の短剣の柄を握る。
腰帯の背中側に取り付けていた短剣を鞘走らせると、刃に光体波動を練り込んだ。
すると魔法の短剣の刃が共鳴し、金色に輝く光の刃を纏ったのだ。その光の刃は短剣よりも長く伸ばす事ができ、俺は魔力を注いで、長剣ほどの長さの光る刃を形成した。
「これはいい!」
死王の魔剣に光体波動を乗せるよりも、格段に威力が上がったのを感じる。
魔法の短剣に秘められた力が魔力と光体の双方に影響し、共鳴するように力を循環させる。これなら余計な魔力を消費する事なく、継続して魔法を使う事ができそうだ。
そこへ地面を這う魔神の影から漆黒の槍が突き出される。
俺は光体を打ち砕く光の刃で斬りつけ、槍をことごとく消滅させた。
「ギキキッギキィッ」
魔神からそんな声が漏れ響く。
困惑か、それとも苦痛を感じたのか。
黒い体に赤紫の光を滲ませて巨人はこちらを狙ってくるが、敵意や殺意などをまったく感じない。攻撃してくる瞬間に危険な気配を察知するのが困難なほどに。
続けざまに俺の周辺を取り囲むように影が伸びてきて、そこから次々に影の槍が撃ち出される。
俺はそれを躱し、斬りつけ、影自体にも光の刃を叩きつけた。
すると魔神がまたしても奇怪な声を漏らし、影を引っ込めた。
ぶるぶると巨体を震わせると、今度は両手を体の前で交差し、身を屈めた。
魔神の体が赤い色で包まれ、ぐらぐらと燃え滾る坩堝のような音を響かせ始めた。
「────やばいっ」
俺は防御体勢を取りつつ、なによりも先に回避する事に集中した。
魔神の背中から炎が噴き上がる。
それは黒い体を突き破って現れた燃え盛る炎と溶岩の噴出。腕や肩や背中から怒濤の勢いで火柱を上げる魔神から熱波が襲いかかる。
それはまるで火山そのものだ。
「火を司る神霊よ。火の禍より我を守る盾を与え賜え!『火神の加護』!」
魔神の体から押し寄せる熱波を魔法で防いだが、飛んでくる噴石は躱すか、魔晶盾で防御してなんとか凌いだ。
魔神の体から放出された炎と岩が辺りに降り注ぎ、ひび割れた魔神の体から岩漿が吹き出すみたいに、炎をごうごうと解き放っている。
大地の暗部を司る神だと聞いてはいたが、まさかこれほどの炎を放ってくるとは。
幽鬼兵や魔神の剣士を召喚しようかと考えていたが、精霊の火蛇戦士の方が頼れるかもしれない。
──だがこの領域では、精霊の働きが弱まる恐れがある。
攻撃を避けながら調べると、この異空間は精霊界よりも死の領域に近く、魔神の放つ炎もただの炎ではなさそうだった。
いまだに炎を噴き上げている暗闇の巨人は、膨大な力の噴出を終えると、ゆっくりとした動きで立ち上がり、移動を再開した。
大股で岩陰に隠れた俺の方に向かって迫って来ている。
「ならば……!」
俺は身を潜めながら呪文への集中を開始した。
炎を内包する闇が押し寄せ、接近するのを感じる。
俺が岩陰から姿を見せると、魔神は腕を伸ばしてくる。その巨大な手に向かって魔法を解き放った。
「『マリヴェラの氷雪冠』!」
周囲の魔素を媒介する魔力の乱流が巻き起こる。
精霊の力を源としながらも、その本質的な魔法の根源にあるのは「マリヴェラ」という、邪悪な氷の女王の力を使う魔法。これならばこの異空間でもそれなりの威力を発揮できる。
周囲に満ちた魔素を利用して強力な吹雪を発生させ、荒ぶる氷雪の嵐が怒濤の力で巨人に襲いかかった。
「グヴァァォォオォォ──ン」
白い嵐の中から魔神の叫び声が木霊した。
氷が飛礫となって飛び交う嵐の中に取り込まれた黒い巨体がぐらりと揺れ、横倒しになるのが見えた。
巨人が放出した炎も吹雪によって消え、俺は白い嵐が収まると岩陰から飛び出し、オグマギゲイアに襲いかかった。
「オラァアァアァッ‼」
魔法の短剣から伸びた光刃。光体波動の力が具現化した刃で巨人の胴体を斬りつける。
裂帛の気合いと共に全力で斬りかかり、加速させた動きのまま烈しい連続攻撃を浴びせかけた。
「ギュキギキッ」
巨人の体からその音が聞こえた。
頭部から聞こえる音だと思い込んでいたが、どうやら体全体から音を発しているようだ。
傷を修復する奇妙な音は出ず、光体の力を封じる力で攻撃された魔神は巨大な手を振り上げて、俺を叩き潰そうとしてきた。
「ずぅんっ」
地面を叩いた手の横に回り込み、腕を斬りつけた。赤紫色の光が明滅する皮膜のような物を切り裂き、黒い体を光刃が深々と斬りつける。
腕はまるで砂の塊を斬ったかのようにばっさりと引き裂かれ、下から上に、上から下に振り下ろした光刃によって魔神の左腕を切断した。
「どうだッ!」
魔神の体からまた異音が鳴り響いた。
のっそりと立ち上がろうとしている巨人の頭部に駆け寄り、その首を斬りつけようとした刃の先端が、巨人の首をかすめる。
その攻撃はわずかに外れ、致命の一撃とはならなかった。
立ち上がる時に振り払われた腕が俺を捉えた。
魔晶盾で防ぎはしたが、巨体から繰り出された攻撃で弾き飛ばされてしまう。
「うごァッ!」
着地しようとした所に岩があり、そこに烈しく叩きつけられた俺はその場に崩れ落ちた。。
防御魔法の効果が働き、骨が折れはしなかったが、打撲により腕と足に深手を負ってしまった。
岩陰に転がり落ちたのですぐに回復魔法で治療を始める。──だがここでは、その魔法の効力も低減されてしまっていた。
「……くそったれが」
なんという忌々しい相手だろうか。まさかあの魔神がそんな手管を使ってくるとは驚きだ。どちらかというと人間の事など知りもせず、圧倒的な力で蹂躙してくるだけだと考えていた。
なんとか隠れながら痛みを緩和すると、痣や筋肉の張りを無視して行動に移る。巨人の手首を切断しはしたが、時間が経てば復元される危険がある。
ここは無理をしてでも攻勢に打って出るべきだと判断した。




