弟イスカとの思い出
今回の後半部分は意味が分からないかもしれないので斜め読みで構いません。
人間が上位世界へ向かうとどうなるか、といった議題。
宗教的な「天国」とか「楽園」とかいうものとは違い、レギが考えているのは「理想的な楽園」とはほど遠いもので、そこでは下位精神である人間精神は一時も存在できない──という風に考えている(上位世界の光体がある領域を見たので特にそう考えている)。
暗い井戸の底に向かうような閉塞感。──狭い領域の壁に似た暗がにりは無数の光の脈動がひしめき合い、暗紫色や暗赤色の不気味な光の中を落ちて行くと、火花の様に青い輝きが暗黒の中に飛び散った。
精神世界への入り口は常に不吉な予感に満ちている。
そうして抜けた先には無限に広がる闇があり、仄暗い光の間を抜けて飛翔する。
幽鬼兵オルダーナの記憶の糸を探って、どこかに俺が持つ糸の結び目に繋がるものはないかと暗闇を翔ける。
すると俺の意識領域に過去のなんらかの接点が反応した。
(オルダーナの生前の記憶か?)
こちらが求めているものかどうか、俺はその淡い光に近づいて行く。
するとその光は突然、こちらにまばゆい光線を飛ばしてきた!
(幻魔か⁉)
無意識領域で精神を罠にかける魔性の者。
警戒していたにもかかわらず、こんなにあっさりと接近されるとは……
──いや、なにかおかしい。
こちらの自我に干渉する気配がない。
俺が何重にも張っている結界や障壁になんの反応もないのだ。──そんな事は今までなかった。
夢魔や幻魔は自らの領域に誘い込んだ相手の意識を、無意識に近い状態にまで誘引し自我を遠ざけてしまう。夢心地にさせた相手をその無意識領域に誘い、精神的に殺すのだ。
白い闇に包まれた俺はあらゆる防護を解かずに、その成り行きを見守っていた。逃げ出そうと思えば逃げられるが、あえてどのような攻撃が待っているか確かめようと考えた。
白光が弱まり、空間が見えてきた。明らかになんらかの夢を見せるつもりなのだ。……自我がある状態で夢を見せるような事を夢魔がするとは──
(いったい、なんのつもりだ?)
俺は周囲を見回す。
どこか見覚えのある景色の中に立っていた。
丘と草原。
遠くに見える山々と、その手前にある森林。
日差しが降り注ぎ、春から夏の空を思わせる美しい青空。
そこはどうやらエブラハ領のどこかであるらしい。
(懐かしい景色を見せて安心させ、取り込む……。夢魔の常套手段だな)
さっさと幻影を見せる相手を排除してしまおう。
そう考えた時、誰かが俺を呼んだ。
「──兄さん」と。
「……イスカ」
振り向くとそこには、成長したイスカらしい人物が立っていた。
草原を背に立つ弟。そのさらに遠くには街を囲む灰色の壁が見えている。
「ずいぶん手の込んだ事をする」
まさか夢魔が死者の姿を成長させて見せてくるとは。
俺は腰に下げた剣に手を伸ばす。
そこにはむろん剣は無いが、俺の自我が武器を作り出しそれを具現化させる。──この夢の領域内でも俺の魔術は行使できるのだ。
それだけ俺の自我が強固なものになり、無意識領域でも自分の本質的な精神の中心から切り離されなくなっているのだ。
「兄さん、ずいぶん逞しくなりましたね」
「そうだろうな。──そうか、俺は明日ウイスウォルグに行くと意識しながら魔術の門を開けた。それで肉体側の無意識がこの夢の基礎的な設計を作っていたんだな」
俺は一方的にしゃべると、ずかずかとその幻の弟に近づいて行く。
「兄さ──」
「もういい、消えろ」
手にした剣を一閃させる。
まるで霧を斬ったみたいな手応えのなさ。
剣も軽く、なにも持っていないみたいだった。
斬られた弟は、どこか悲しそうな笑みを浮かべて背景の中に霞んでいき、跡形もなく消え去った。
……だが、まだ夢魔は俺を解放する気はないようだ。
(────いよいよおかしい。いったいどんな相手だ? こんな類型の精神攻撃も仕掛けてくるのか)
弟の幻影は偽物で、まだ別の手で俺を惑わそうというのだろうか。
「無駄だ。俺の精神防壁はお前の力では破れまい」
そう言霊を発すると──不意に風が吹いた。
それは俺の体を撫でていき、甘い香りを残していった。それは蜂蜜と牛酪の香り。
ゆらゆらと景色が変わって、気づけば俺は建物の中に居た。そこはウイスウォルグの館の中。小さな調理場とテーブル。
そこには幼いイスカと、その母エンリエナが居た。
彼女は弟に生菓子を焼いているところだったようだ。
金属の箱を天火の中から取り出し、皿の上に焼き立ての生菓子を叩いて落とす。
小さな縦長の箱から茶色い菓子がすぽんと抜け落ちて、白い皿の上に置かれた。
「さあ。レギも一緒に」
エンリエナが笑顔で俺を呼ぶ。
あの頃の──弟がまだ生きていた頃に見せていた笑顔で。
俺はその光景を見て、悲しみも怒りも沸いてこなかった。
ただほんの少しの懐かしさ。──それでいて、いまさらそんな思い出など自分にはなんの意味もないのだと、改めて理解したくらいだった。
「よく分かった」
俺はその幻影に別れを告げると、この精神領域を吹き飛ばそうと決めた。
俺が持つ魔術の根源的な力でもって、この領域を作り出しているものを一気に霧散させる。
通常の人間とは次元の違う強大な精神の力で。
「ふんッッ‼」
精神体から全方位に放つ衝撃波。
一瞬で周囲の情景が消え去る。
突風に散らされる枯れ葉の様に。
夢魔か幻魔か──そう考えていたが、どうやら違ったらしい。
「おいおい……」
俺はそれを見た。
闇に浮かぶ小さな光るもの。
それは光り輝く羽を広げ、その翼の上に光輪を翳している──
それは天の使いであるらしい。
まさか、昨晩の追跡者が?
しかし、あの時に感じたものとは明らかに別物だった。
昨日の天蓋でこちらを探ろうとしていた奴はもっと大きな気配だった。まさに猟犬といったものであり、次元を駆ける四つ足の獣を想起させる相手だったはずだ。
今見ているそれはよく見ると貝殻の様な外殻をしていて、鸚鵡貝に似た殻の中から、青い宝石の様に輝く軟体動物に似た物がどろりと姿を現した。
美しい蛞蝓とでもいったその青い物の体内に、朱色や黄緑色の火花みたいな物がぱちぱちと爆ぜているのが見える。
その貝殻の背からは水色に輝く雷光のほとばしりの様な細長い二枚の翅が生え、その翅から小さな静電気の輝きをまるで鱗粉の様に落としている。
大きさは猫程度で、殻から飛び出した液状の青い固まりがうねうねと動いていた。
そいつの頭上に環状の白光が宿り、ぐるぐると回転しているようだった。
精神領域を偵察する為に送り込まれたものなのだろうか。
その異質な見た目からは天上の神々というものは、人々の考えるような存在とは異なるもののように感じられた。
「なんなのだ──この虫は」
そう言い放つと手を振って、奇怪な虫に向かって一筋の魔法を放つ。
この領域で使えるようにした光体を貫く光線。
暗い光を撃ち出す魔法。
暗赤色の光が虫の胴体を撃ち抜く。
「なにっ⁉」
ところがその虫は光線を弾き返した。
光線を障壁で防ぎ、光の筋が奴の体の周囲を巡って消えていく。
虫は自身の周囲に障壁を張って攻撃を防ぎきったのだ。──こちらが光体の防壁を突破する力を使うのを読んでいたように、光体とは異なる力を行使して攻撃を防いだのだ。
貝殻を纏った虫は雷光の翅を羽撃かせると、驚くべき速さで飛び去って行ってしまう。
とてもではないが追い駆けるのは不可能な速さで。
「くそっ……!」あっさりと逃げられてしまった。──忌々しい。
あれは間違いなく天上の者が送り込んで来たものだった。しかも俺を狙って送り込み、あんな幻影まで見せてきた。──夢魔や幻魔を装ってなにを企んでいたのかは知らないが。
しかし──なぜ、精神世界にまで網を張っていたのか?
そしてなぜ攻撃してこなかったのだろうか。
幻影を見せただけでこちらを攻撃する訳でもなかった。攻撃するつもりならいくらでも方法があったはずだ。
今の奴は昨晩の上空の霊的領域を封鎖していたものとは、たぶん関係がない。
「訳が分からん」
俺はだいぶ憤慨していた。
理性では「大した事ではない」としながらも、感情的な部分では弟の思い出を利用した相手に対し、不快なものを抱いていたようだ。
精神世界の構造を改めて考えてみる。少し冷静になろうと思いながら──
この領域で使う魔法とは厳密には魔法ではない。魔法の形を取った精神的な攻撃なり、防御の力の具象。精神の世界には物質的な世界の見た目を形作っていても、質量はない。
当然、物質的な理も機能しない。だから重力もない──本来なら。深淵に近づけばその力の影響力に吸い寄せられ、永劫の闇に落ちて出られなくなるだろうが。
この精神世界にも天上の存在が入り込めるのはあり得るとしても、本来彼らの本質的領域である上位世界は、この精神世界の──無限にあるともされている階層の──かなり上層部にあるはずだ。
それがあのような虫型の使いを寄越し、さらには過去の夢を見せて、いったいなにが目的だったのだろう。
──いや、彼ら上位存在にとって、そのような行動に人間的な意味などあるはずがない。
なにか目的があったとしても、俺の精神の根幹には干渉できなかったのだ。──今はそれでいい。
俺はそう結論づけると、最初の目的であるオルダーナの記憶を探す作業に移った。
この広大な精神の海の中。
過去と現在が交錯する記憶の海。
小さく輝く光を求めて暗闇を泳ぎ回る。
そのほとんどが幻であったり、あるいは関係のない情報であったりする。
人間一人一人の生き死に。
世界の影に記された記憶たち。
ここにある多くのものは過去の記憶。積み上げられた”死”の記憶だ。
この領域もまた、死に結びついた場所なのだ。
あるいはむしろ、死こそがあらゆる存在の支配者であり、神とも言えるであろう。
その死から逃れた存在とは、精神を封じる重い鎖から逃れて精神の──霊的な──魂の自由を獲得した存在。あるいは神へ近づいた存在となるべく踏み出したもの。
地上と天上の狭間にありながら、地上側の我々の魂は重く、鈍い。そこから解放される日などくるのかと疑うほどに。
俺は理解している。
神にどれだけ祈り、命を捧げても、彼ら(上位存在)のようにはなり得ないのだという事を。
闇の中にある人間の記憶の光。
それが読み解けるのは人間精神だからこそ。──そう考えていたのだが。
そうとは言い切れないと理解した。
少なくともさっき遭遇した天の使いは、人間の記憶を利用するという手管を使ってきた。彼らにも低位の精神を理解し、汲み取る術があるようだ。
上位世界に住人が居るとすれば、それは人ではあり得ないだろう。
死の頸木から解放された人間が、果たして地上の生き物と同じであるだろうか。
それはきっと、今探している幽鬼についても同じ事が言える。──方向性はまったく異なるが──死の世界でのみ存在するものが自我を持ち、永遠に生き続けるとしたら。
それは冥府の双子──冥界神の娘たちのような、特別な存在であろう。彼女たちは人間的な心を残しているようだったが、それでもときおり感じる独特な精神も在り様には、彼女らが永く存在し続けた間に得て、失ったものを表しているようだった。
精神の海の多くは闇に包まれ、その中には無数の影が潜んでいる。
人間の心もきっと、ここと同じなのだ。




