閉ざされた世界。閉ざされた人間
かなりマニアックな内容になってしまった。
多層構造の次元世界、といった感じで理解していただければ。単純に上下に分かれている訳じゃありませんが。
ヘレニズム世界観の雰囲気に近い、と思ってもらえれば。
くすんだ空から降り続ける雪は細かく、温められていた地面に積もる事はなかった。
馬上で頭巾を被り外套を羽織った。
踏み固められた地面を早足で進む馬。
ビスケフの町から南西に向かう細々とした街道。
この道は丘や森や川を避けるようにして何度も曲がりくねり、考えていた以上に長い時間をかけてやっとエブラハ領に入ったようだ。
薄暗い森の間を抜けて寂れた石砦の横を通り過ぎる。
そこには数人の兵士と自由戦士の姿があった。
領地を守る私兵と、戦士ギルドを通して雇われた戦士たち。
この辺りを治める地主にも、亜人や魔物への警戒を強めるよう書簡を送ったのだ。
幸いこの辺りを管理する人物は、領主の指示を聞き入れるだけの良識を持っている人物だった。
一応エーデンドレイク家の類縁である人物だが、親戚付き合いなどほとんどない。──一年に数回の収支報告書が送られてくるくらいだ。
自警団の横を通り過ぎる頃には空は陰ってきた。
夕暮れが近づいた空を覆う雲。
雪を降らせる雲は段々と落ち着きを見せ、空から舞い降りる冬の白い使者は姿を消していた。
風もなく移動しやすいが、薄雲の向こう側にあるはずに太陽は傾き始め、エブラハ領への関所を通過する頃には空は暗くなってきていた。
遠くの空にある日差しが山の陰に入って行く。
黒い山脈の壁の向こうに。
まるで巨大な壁の向こうで火事が起きているかのように空を紅く染めていた。
ふと思いつき、俺は馬に揺られながら魔術領域に意識を入り込ませ、光体の力を利用した視野の拡張を試す事にした。
原理としては、物質界にある肉体から光体の視野を飛翔させる形になる。
物質界で光体を展開するのではなく、霊的な領域と物質界の狭間で力を展開する形だ。
世界の狭間に霊体を構成し、物質界を別次元から覗き見る視覚を作り出す。
これなら光体の力を消費する事なく、空高くまで霊体を飛翔させて、高い場所から世界を眺められるはずだ。
こうした技術の基本はすでに存在している。
『秘術師の晩餐』にある魔魂体に関する理論。それを光体に応用し──言わば、幽世から物質界を覗く「覗き窓」を作り出すのだ。
光体を利用する理由は自身の防護の為と、その視覚の能力にある。霊的な視覚では拡大して見るには限度があるが、光体はそれ以上の視野を広げる事が可能だからだ。光体の精度のよるだろうが、通常の肉体の視覚とは比較にならない遠い所まで見渡せるようになる。
幽世に入り込むにしろ、霊的な領域に存在するにしても、光体との連携が取れればいざという時にいつでも身(霊的存在)を守れるのだ。
霊体に光体の連結を組み込むと、視覚に重点をおいて作った魔魂体のような物を生成した。
もちろん簡易的なもので、あくまで視覚を飛ばす為だけの霊体だ。──簡単に言えば「眼球」だけを飛ばすようなものだ。
俺の本質的な霊的総体は肉体側にあり、霊的経路を使えば瞬時に肉体に戻れるようになっている。
「よし、やってみよう」
馬上で揺られている体は無意識に任せ、俺の意識と視覚が体から遊離する。
ふわりと上空に視点が浮き上がり、体から離れたそれが、自分の意志で自由に浮き上がる事を確認した。──だが、すいすいと動けるものではなかった。
(まだ上手く操れないな……)
それでも視点の方向を変えたり、横へ移動したりする事はできる。なんと言うか、自力で浮く事のできる綿にでもなったみたいだ。
素早く動くのは不可能でも、体がぐんぐんと離れて行き、俺は暗くなり始めていた空に向かってどんどん上って行った。
(これはいい。肉体的な感覚はないが、世界をこんな風に見渡せるなんて、なかなかできない体験だ)
くるりと反転して地上の方を振り向くと、自分が遥か上空まで来ている事に気づいた。遠くを眺めると、大陸の暗さと海の暗さに違いがあるのに気づく。
月の明かりを浴びた海は波打ち、静かに揺れる藍色の稲穂が揺れているかのようだ。
自分の姿(肉体)を遥か上空から見下ろすと、それは恐ろしいほど高い場所から眺める事になり、俺は回転するのを止めてずっと地上に視線を向け続けた。
自分と馬の姿が豆粒くらいの大きさになる頃に、周囲の地形に注意を向けた。
暗くなってきた地上のそこかしこに人工的な明かりが点けられ、街や村のある場所が闇の中に浮かび上がる。
遠く、海の彼方に落ちて行った日の光が遠くの空を焼き、夕日の面影を薄暗い海の底へと沈めるみたいに空の一部を紅く照らしていた。
(この星もやはり丸いんだな──)
地平線の緩やかな湾曲が、地上の形がどのような物であるかを理解させてくれる。それは星の海に浮かぶ月と他の星々と同様に、丸い形をしているのだ。
(もっと、もっと高く飛べば……)
俺は自分の気持ちに急かされるように、ますます高く、高く飛翔した。
馬と自分の体がほとんど見えなくなる高さまで来ると、不意に視界が曇ってきた。──雲の中に入ったのだ。
雲の上の世界に到達すると、地上を照らす太陽はすでに姿が見えなくなっていた。
残照が遠くの海と空をわずかに照らし出している。
その反対側には夜の帳が降りていて、真っ暗な世界の中にぽつんと突き出した、丸いテーブルのような物が置かれていた。それが大陸の臍、ブルボルヒナ山の頂だと理解するのにわずかばかりの時間を必要とした。
あの山よりも遥かに高く来たという事か……
そんな感慨に耽っていた時──それが起きた。
どんっ、と──なにかにぶつかった。
(なッ……⁉)
上空の──星の海へ近づこうという、まさにその瞬間の事だ。
そろそろ地上に視線を落とすのを止めて、星の海がある暗い世界に目を向けようと考えた矢先。
雲のある場所よりも高い領域で、それ以上外側に出られないようにする障壁が張られているようだ。
その見えざる壁は、物質界ではない霊的な領域に張られた障壁らしい。
障壁を解析しようとすると突然、霊体を通じて嫌な感覚に襲われた。
まるで無数の目が開いて、一斉にこちらを見つめてきたような──異様な視線。
だがその視線は、俺の位置を正確に捉える事はできなかったようだ。
俺が光体の力を使い、姿を隠匿するあらゆる手段を講じておいたからだ。
俺はすぐさまその場から霊体の視覚を引き上げさせた。──戻る時は一瞬だった。
霊的経路を辿って瞬く間に肉体へ帰還した俺。
「走れッ!」
俺はそう叫ぶと馬の腹を蹴り、すっかり暗くなってしまった街道を駆けさせた。
──しかしすぐにそれが意味のない事だと理解し、冷静に頭を働かせながら、魔術的な思考を使って自身の守りを固める行動に入った。
まだ見つかってはいない。それは分かる。
だが同時に、奴らが──それが何者であるかも分からないが──まだ索敵を続けているのを感じるのだ。
なぜ馬を走らせるのを止めたか。
それは先ほどの視線が、物質的な領域のものではなかったからだ。
あの視線が捜していたのは霊的な領域。
物質界と重なる霊的な世界を追跡していたのだ。
あの一瞬でなにが起きたのかを正確に把握するのは困難だった。
何者かの視線を感じた一瞬で、俺はその場から撤退する判断をした。予め危険を感じたら逃げ出すよう意識していたのだ。
だからこそあの正体不明の視線も、こちらを捉える事はできなかった。
霊的領域。
精神世界。
魔術領域。
その他いくつもの領域世界から離れ、姿をくらました。
完全に気配の痕跡すら残さずに、むしろ最初から誰も居なかったかのように、跡形もなく。
──────が、追跡する者がまだ居るようだ。
それは物質界の近くで探りを入れているらしい。
まるで猟犬に追われた小動物にでもなった気分だった。
そいつはこちらを追跡しているようだったが、やはりこちらを認識する事はできなかったようで、追跡者の気配は消え去り、俺は胸を撫で下ろした。
馬の白い鬣を撫でてやり、いきなり腹部を蹴った事を謝罪しておく。
上空は一気に夜へと移り変わっていた。薄雲が流れて行ったあとの夜空に星が輝き始めている。
それを見ながら先ほどの上空からの景色と、そのあとに起きた出来事を思い返す。
危険な存在に追い駆けられた記憶。それはまるで、夢の中に現れた正体不明の怪物に追われているような、そんな感覚だった。
肉体のない領域での追跡者。
それが何者だったかを想像する。
そしてあの「壁」を──
いったいなぜ上空で別次元の壁にぶつかったのか。──そうだ、それは確かに「壁」を思わせた。
霊的な体の遊離を阻止するかのような障壁の存在。
ではなぜ、そこに障壁が張られていたのか?
俺を狙って張った障壁でないのは明らかだった。──もっと広範囲の、下層と上層を分けるような、そんな障壁だった。個人を狙ったものではなく、むしろそれは物質界に存在するものに対する、霊的な世界との障壁のように思われた。
では誰が、なんの為に張ったものなのか?
それを推測していると、魔神ラウヴァレアシュの言葉を想起した。
あの魔神が神々の事を呼称する際に「天蓋の守護者」と言った事があった。
天蓋とはこの世界と上位世界を分ける、象徴的なものを指す言葉だと思っていたが、実際に奴らは霊的な世界を封じ込めているのではないかと思えてきた。
そうだとすれば精神世界にある、古代との断絶も納得がいく。
天上に存在は人間という意識を、この世界に押し留めておきたいのだ。この──我々が「ゼネス」や「ゼヌファス」などと呼ぶ星。その大地と繋がる者として。肉体を持つ霊的存在として。
「いったいなぜ」
そんな言葉が口から漏れ出る。
それを理解するのは神々だけだろう。
人間が知る由もない。
いずれにしても俺は、謎の追跡者から逃れる事ができたのだ。今はそれで良しとしよう。
古代世界の断片的な記録に、ゼヌファスについて書かれた言葉がある。
「この世界は指輪に付いた丸い宝石の様な物。指輪が回転し、この星もまた巡る。回転する軌跡、それが世界の形なのだ」
その古代世界には別の世界観もあったようで、それが現在の魔術の根底にも存在している。
この地上世界を取り巻く星の海と呼称される闇の世界も含め、すべては多層的な構造を持っているとする考えで、それによるといくつもの物質や元素などの媒体や力が世界を取り巻き、その外周に当たる部分を「天蓋」と呼んでいたらしいのだ。
世界は本質的世界(形成世界)、結果的世界(物質界)、元素的世界(精霊界?)、世界精神などが組み合わさって成立している、とする世界観。
──ただしこの記録を残した魔術師は、古代から続く実践的な魔術を受け継いだとする、謎の人物が残した断片的な紙片に書かれた言葉であり、それが古代世界の思想一般でないのは明らかで、一部の魔術師の観念的なものに過ぎなかった可能性も否定できない。
個人的にはこの古代世界の世界観には、明確に欠けているものがあると考えている。
それは形成世界と物質界の間にあるものであり、循環的世界構造に関する生命と死に関する領域の事だ。──もちろん元素的世界もその一部に関わっているだろう。ただし、ここで言う元素的世界が精霊界を指し示しているかは分からない──
生と死が繰り返し起こる世界の理。
それがこの世界観からまったく無視されているのは、ただ単にその部分が紙片から欠けて失われてしまった可能性もあり得る。
いずれにしても古代人は、この世界が丸い事を知っていたのだ。──それは俺がさっき体験したような、自身の視覚で確認したものではなかったかもしれないが。
「ゼヌファス」が古代語。「ゼネス」が現代語。といった認識で。




