浮浪となった親子との接触
レギが見せる優しさ。
この「優しさ」は実は魔術師の活動の一環に過ぎない。自らが属する環境を整えるのは彼らにとっては自然な事。その環境の整え方はさまざまで、人を助ける事もあれば──殺害する事もある。
徐々に駆け足をさせて馬を走らせる。
馬は荷物の重さにこれ以上は速く走れない、といった感じで轡を引く。
「わかったわかった。ではあの木のそばまで我慢してくれ。そこで荷物を軽くしてやろう」
手綱を引いて街道の片隅に生えている老木のそばに行くと、俺は馬から下り、二つの金貨袋を取ってやって、それを影の中へとしまい込んだ。
あの重い袋から解放された馬の背に跨がると、今度は意気揚々と街道を進み始め、かなりの駆け足で西へと向かう道を駆け抜けた。
エブラハ領とペルゼダン領の近くにあるカパード領に入った時、ぱらぱらと雪が降ってきた。
街道をまっすぐに進んでも良かったのだが、南西に向かう道なき道を進んで近道をしようとしていた時だった。
森の近くを通る踏み固められた畦道の横を小川が流れ、二股に分かれた道の先へ向かって曲がっている。
その小川の先には畑と小さな町があるようだ。
「ビスケフの町──だったか? ここを通過すればエブラハ領はすぐだな」
なんとなく町の様子が気になって、わずかな通行税を支払って町の壁を越える事にした。特にそこにはなにも無いと分かっているのだが、もしかするとなんらかの変化が起きているかもしれない。そんな期待を抱いて町に入って行く。
ここに来たのは十年も前の事だろう。町の様子が変わっていたとしても、どこがどう変わったか分かるはずもなかった。
ただここは、まだまだ練度の低い冒険者が集まって来て、小鬼などを狩り出す拠点としていた町だったのを覚えている。
タゥバレンの町の南東に位置する、町というよりも村に近い規模の町。薄暗い空の下では町の様子はさらに暗く、寒々として見えた。
この領地の寂れた町は、朧気な記憶にある町の様子とまったく変わっていないように思えた。
街道から続く乾いた道に雪が降り、積もる事もなく固い地面にシミを作り出す。
大きな道を外れ、わざわざ遠回りをして町の裏通りなどの様子も確認したが。この町は発展をせずに昔のまま、置き去りにされたかのように存在しているようだ。
何人かの町人とすれ違ったが、地味な布の外套などを肩からかけ、みすぼらしい格好をした者も居るくらいだった。
「見るべき物はないか」
エブラハ領と隣接する領地がまだこのような状態なのは、やはり中央の問題だろう。ベグレザとの交易路が完成すれば、きっとこの町にもなんらかの恩恵が訪れる──可能性はあるはずだ。
その為には町を管理する者や領主が、人流を招くだけの対策を取れるかどうかにかかっているが。
「これがピアネスの現状なのだろう」
中央にばかり金が舞い込み、そこで消費されるばかりで、外側にある領土に還元されないのだ。
アゼルのような男が今後は政策にも絡んでくれば、こうした状況が変わるかもしれない。──その一手が、エブラハ領とベグレザ国との交易路の建設になればいいのだが。
町の中央を横切る大きな道に戻ると、いくつか店が建ち並ぶ場所で、場違いな少年が店の軒下に座り込んでいた。
黒い革の外套にそれなりの身なり。──ベギルナの城下街に居ても違和感のない格好の少年だが、どこか薄汚れた感じだ。よく見るとズボンや靴が汚れており、長い道のりを旅して来たようだ。
「どうした少年」俺は馬を止め声をかけた。
十歳くらいの少年は少し痩せているようだ。こちらを見上げた表情には、少年らしい活動的な部分も、あるいは未来に対する無垢な希望も宿っていない。
──俺はこうした表情をよく知っていた。
身なりだけ見るとそれなりに裕福な生活をしていた市民のようだが、少年の目には光がない。その目はエブラハ領に居た多くの市民と同じ、毎日の食事にも困窮するような生活を送ってきた人の目をしていた。
「……おかあさんを待ってます」
母親? 少年が座っていた軒下のある店はすでに閉店しているようだ。
彼の視線の先にある物を見ると、そこには様相の異なる店がある。開放可能な両開きの扉と窓枠の多さから、そこが料理屋か酒場だと推測できた。
「しかし、そんな所に座り込んでいては寒いだろう。雪も降ってきた。君はこの町の人ではないのか?」
家があるならそこで母親を待っているはずだ。
俺はなぜか気になって、その少年の素性を聞きだそうと会話を続ける。
「ぼくとおかあさんは、東の領地──ベンセーグから来ました」
「なに? ベンセーグ領……」
そこはピアネスの東の端にある領土であり、ディブライエ国と領土を接する場所だ。そして──
「スタルム家の治めていた領地か」
俺が呟くと、少年はこちらに興味を持ったみたいで、顔を上げて馬上の俺を見た。
「そうです。おにいさん、くわしいんですね。ぼくのおかあさんは、その領主様のところで料理人として働いていました」
「ほう」
スタルム家で料理を作っていた──。それは大変な苦労をしてきた事だろう。スタルム家の内情などまったく知らないが、アボッツの家族が暮らす屋敷で働き続けるなど、精神的な重圧は半端なかったと思われる。
少なくとも誰もが働きたいと望むような職場でない事は容易に想像がつく。
「しかしまた、えらく遠くからこの町まで来たものだな。馬車でも三日はかかるだろう」
「うん。ぼくとおかあさんは、ベギルナに住んでいる親戚に会いに来たんですが、……そこでは泊めてもらえなくて」
ぽつりぽつりと話し始めた少年。
子供の言葉からすべてを窺い知るのは難しいが、スタルム家の没落によって職を失った母親と共に、夜逃げするような格好で親戚の居るベギルナに逃げ込んだのだろう。
ところが当てにしていた親戚から門前払いを食らい、当てもなく西へと移動して来てしまったらしい。
つまりこの子供とその母は、帰る家もない状況なのだ。
「それは大変だろう。母親はどうすると言っていた? 雪も降り出した。冬も近い──」
そこまで口にして、それを子供に聞いてなんになるというのか、という想いがよぎる。
彼らに必要なのは問題の洗いだしではない。ただちに身を守るなんらかの方策が必要なのだ。
俺は少年が黙してしまったのを見て、馬の白い鬣を撫でながら一瞬考え、一番手っ取り早い結論を実行に移す事に決めた。
その時、少年が見ていた店から女が出て来た。
──というか、ほとんど追い出されるような状態だった。
「すまないが、うちにはあんたを雇う余裕はないんだ。帰ってくれ。冬になれば客足は遠のくし、へたをすれば店は開店休業状態になるんでね」
店の主人らしい男はそう言って女を追い返した。少しばかりの憐れみを見せる顔をして。
女はしばらく立ち尽くし、とぼとぼと子供の居る場所まで戻ろうとして、馬上に居る俺に気づいた様子だ。
彼女は四十代くらいの平凡な容姿の女だった。
薄暗い表情は、希望の見えない現実に直面したからだけでなく、スタルム家での厳しい労働からくる疲労の蓄積もあるのではないかと思わせた。
「おかあさん」
子供が立ち上がり母親に駆け寄る。
母親は子供を抱き止めたが、その表情は虚ろで、頬は痩せこけていた。──おそらく子供に与える食事を優先し、自分は少ない食事で我慢してきたのだろう。
「働き口を探しているのか」
俺はそう馬上から母親に問いかけた。母親は無言で頷き、もはや為す術がないとでも言うみたいに、こちらを見ようともしない。
「分かった」
俺は馬の背から下りると、閉まった店の先に二人を呼び込み、馬の陰で話をする事にした。
「ここから西にあるエブラハ領に行けば、たぶん料理人としての仕事は得られると思う。なにしろこれから西の山間に道を通す為の大がかりな工事がおこなわれるからな。とは言え、西の端まで行かなければならないかもしれないが」
そう話していると、母親はやっとこちらを見た。表情からやや強張りが取れたのを見ると、こちらの話に少しばかりの希望を見いだしたようだった。
「まずはエブラハ領のブラモンドまで行き、領主代行にでも取り次いでもらえ。クーゼ・ドゥアマという商人を訪ねるといい」
そう言いながら革帯に下げた小さな皮袋を取り外す。
「そこまでの旅費と、しばらくの食事代がわりだ」
皮袋を女に差し出すと、彼女はその皮袋を受け取ろうと手を伸ばし、その手を止めた。
「なぜ、私たちにそのような事を?」
女は俺の目を見つめ、なんの目的があるのかと疑うような視線を向けてくる。
「──そうだな。まずさっき言ったように、エブラハ領では人材を募集しているはずだ、という事が一つ。それとスタルム家で働いていたような人材なら、たぶん苦労には慣れているだろうと考えたからだ」
母親はスタルム家の名前を聞くと、ぎゅっと子供を抱き寄せた。もしかすると俺の事を、スタルム家の関係者かと疑ったのかもしれない。
「そしてこんな話を持ちかけた理由の大部分は──、俺の友人の影響だろう」
俺は差し出した皮袋を子供に手渡してやった。
「その友人はピアネスで暮らす人の為に活動している。困難な状況にあってもなお自分の足で立ち上がろうとする者を、あいつなら見捨てたりしない。──そう思っただけだ」
子供は皮袋を開け、その中身を母親に見せる。
「おかあさん、銀貨だよ」
「まずはその金で今日はこの町の宿屋に泊まり、温かい食事を口にしろ。母親が倒れては子供も困るだろう。──そして明日、馬車を使ってブラモンドに行くといい」
「こんなに……!」
皮袋の中身を見た母親が驚いて声をあげた。
「いくらなんでも多すぎます」
「万が一の為だ。それだけあればなんとか冬場を越すだけの事はできるはずだ」
そう言うと母親は震える声で、何度も「ありがとうございます」と口にして頭を下げる。
俺が馬に跨がると、子供もこちらを見上げて「おにいさん、ありがとう!」と、嬉しそうに礼を口にした。
「強くなれ少年。どんなに苦しい時でも自分を信じられるように。強く、そして賢く。でなければ大切な人を守る事もできないぞ」
雪がぱらぱらと降る中、俺は親子に別れを告げ、馬の腹を蹴って進めと合図を送る。
別れ際の少年の目は希望に満ちたものに変わっていた。
まだ子供だ──少年の身では、まだなにかを成す事など到底できない。
彼が大きく成長する間に、今回の事に恩義を感じてくれるのなら、たぶん彼は母を助け、そして自分の住む地域を担うだけの労力を使うだろう。
きっと──そう、きっと。
少年は良き友人に出会い。そして自分たちを悲観せずに生活し、未来への展望を胸に生きていくはずだ。
「人から奪われた者は憎しみに駆られるが、
人から与えられた者は感謝を抱くものだ」
そんな言葉を残した思想家も居た。
社会はそうあるように人々が作り上げなければならない。
もし自分の周囲を平穏で、争いのない世界にしたいのなら。
まずは己が矛を収め。無自覚な敵意を自覚し、己の弱さと向き合う必然性が生まれるものだ。
争い続けた王たちの世界の下で思想家たちは、互いの国の批判を捨てて、未来への希望を繋ごうとした。
「市民は小さな幸福で満足する。
狭い土地の小さな家で。
戦で得た戦果で浴びるように酒を求め、
略奪した戦利品で腹を満たす奸賊。
恥ずべき支配者の悦楽。
彼らの喜びは、
飢えに苦しむ時に与えられた一片のパンほどの価値もない。
私は清貧を尊ぶ者と生き、
ささやかな喜びを分かち合う。
市民の生活の中にこそ、
神々の恩寵が与えられるのだ」
最後のは思想家の言葉。
「市民の生活の中にこそ、神々の恩寵が与えられる」
つまり本当の幸福とは、身近なところにあるものに気づく事から始まる、といった意味。
気づかない者は神から最も遠い、といった言葉。




