過去の思い出の中の魔神
ルディナスと再会したその日は遅くまでアゼルゼストと俺の三人で、思い出話と今後について話をした。
アゼルの婚約者セーラメルクリスの話で盛り上がったり、現在の領地経営のあり方について真剣な議論を交わしたり。危険な魔物の出現について話し合ったりもした。
そうして夜を迎えると、魔導具の明かりを消して応接室を出る事になった。
「それにしても、各部屋に魔導具の灯明装置があるとは」
「ああ、ユフレスクの行商人から魔力結晶が定期的に購入できる算段がついたんだ。それでルシュタールから魔導具の技師を呼んで取り付けた」
俺たちの前を歩く侍女の手には角灯型の灯明装置が握られ、行く手を照らし出している。
そうした一つ一つの魔導具に魔力結晶が使われているのだ。
裕福な貴族であっても応接室や食堂など、一部の大きな部屋にしか利用できないはずだが。ライエス家の財力を示すにはいい手法だと考えたのだろうか。
もちろん他の貴族を招いた時に、そうした物が象徴的な意味を持って、ライエス家の優位性を周囲の貴族に知らしめるのである。
「権威は財力と知性から起こる」
そう言った学者も居た。
アゼルはそうした権威を利用しようとしているのだ。目的の為に。
級友は権威や権力というものを「道具」だと理解していた。
道具で自分を飾り立てても自身の価値が上がる訳ではない、と理解しているのだ。
「自らの行動で自らの立身にゆだねる」
彼は生れついたから貴族であるのではない。
自らの意志で貴族になると決めたのだ。
だからこそ、その貴族的立場というものを高めようと振る舞う。
領民から慕われ、愛され。──時に恐れられるような領主として振る舞えるよう注力している。
そんな友人を誇らしく思うと共に、自身の家族への嫌悪は募った。
尊敬すべき対象を知ると、それとは反対のものを軽蔑せずにはいられない。そんな感情。──思えば俺も未熟だったものだ──
だが今ではそれも無くなった。
そいつらが死んだからではない。
ただ魔術の高みに上り詰める者の意識から、俗物の性悪への感情が薄れていったのだ。
そういうものだ、という諦めとも違う。諦観を得たのだ。
魂が練磨され、高みへと昇華されるけその過程で得たもの。
それは神への接近か。それとも超越的自我による非人間的な感覚的世界への決別か……
* * * * *
エインシュナーク魔導技術学校の中は薄暗かった。まるで灰色の霧に包まれているかのように。
石の壁に大きな円柱が組み込まれた無機質な柱とは対照的に、天井に近い壁には流紋模様の装飾が施されている。
ピアネスの代表的な意匠に混じって、魔術的な防衛を意図したいくつかの防衛魔術の呪印が彫られている壁。
そうした壁の装飾を眺めながら、くすんだ石床の薄板を踏みながら歩いて行くと、木製のドアが開いているのが見えてきた。
そこは中央教室の入り口だ。
中央教室は校舎の中央部にある大きめの教室で、円形状に四つの教室がある。
それらの教室には教壇を見下ろす形で階段状になった段差の上に座席が扇状に並び、三人から四人が並んで使う一枚の机が四つずつ、四段の構造で席が並んでいる。
実際はそこまでの人数が一堂に会して授業を受ける事はなかったが。
気になって開け放たれたドアから教室の中を覗くと──誰も居ない。
俺は教壇に近づき、大きな黒板と教壇の間に立った。
黒板の方を見ると、黒い板の下に取り付けられた粉受けに白い蝋石が数本、長い物も短くなった物も置かれていた。
短くなった蝋石を手にしようとした時、後方で誰かが席に着く音が聞こえて振り向いた。
するとそこには、学生服ではない黒い上着を着た男が座っていたのだ。
奇妙な事に俺は、それが教員でも生徒でもなく、まったくの部外者だと気づいていたが、特に咎める気もなく、ただ黙ってその男を見つめていた。
「ここがお前の学び舎か」
男はあまり興味なさそうな声で言う。
その男の顔は真っ白で、まるで今さっき手にしようとしていた蝋石から作られているような肌の色をしている。
「厄介な事になりそうだ」
男はこちらを金色に燃える目で見てくる。
その男の発する声は冷たく、聞いていると耳の中が凍りつきそうな感覚に陥り、俺を怯えさせた。
「注意するのだ。レギよ」
そう呼びかけられ、俺は初めてここが夢の中なのだと気がついた。呼びかけられた事によって俺の意識が、自身の意識の主導権を無意識から取り戻したのだ。
「あんたはラウヴァレアシュか」
「そうだ」
人の姿をした魔神は簡潔に言った。
金色だった瞳が柘榴石を思わせる朱色に輝き出し、まるで教室に満ちていた薄暗い霧が晴れ、彼を中心に炎があふれ出したみたいに光が広がっていく。
すると魔神はそっと目を閉じた。
「私はしばらく物質界に手出しができん」
そう言ってまるで、猛獣がうなり声を発したような音を喉から響かせる。
「天上の者共が我らに攻撃を仕掛ける気でいるのだ。それに対し抵抗しなければならない。残念だがお前が危機に陥っても、私からの援助は得られないものと思え」
そう言いながら左目だけを開け、机をじっと見つめている。
「そしてお前に頼みたい事があるのだが……、それは使いの者を出し、その者からお前に説明させよう」
そんな呟きを残して、魔神は俺の夢の中から消え去っていく。──黒い服を着た白子の男の体から黒い霧があふれ出し、俺の視界を黒い闇の中へと誘っていった……
* * * * *
目覚めた俺は夢の中で得た魔神からの警告をはっきりと記憶していた。
その中で俺に「頼みがある」とも言っていた。
どうも上位世界で、神々によるなんらかの闘争が起き始めているのは間違いなさそうだ。魔神ツェルエルヴァールム配下の魔女が語っていたように、神々は五大魔神を標的に動いているらしい。
魔女は、俺を狙って上位存在が何者かを送り込んで来る可能性についても警告していた。
ベルニエゥロも神々との戦いに備えて、異形の城塞に兵力を集めていたようだった。
しかし、神々が何者を送り込んで来ると言うのだろうか。物質界に直接介入してくる事はないはずだが……
それに上位世界で混乱が起きるなら、わざわざ下位領域にまで手を伸ばしてくるだろうか?
こちらも上位領域に光体を作り、存在領域を拡張させつつあるが、まだまだ上位の世界に参入したばかりの赤子のようなものである。
なるべくなら天上の敵など接触したくはない。
だが────
もし神の使いが現れ、俺の命を奪いに来るとしたら。逃げるというのが最善の手かもしれない。
しかし俺には、「陽炎の翼もつ眼」を倒した経験がある。
天上の存在を倒して手に入る力は相当なものだ。もしまた勝利し、その力を簒奪できたなら……そう考えてしまう。
危険な賭けをして勝利を求めるか。
それとも安全を求めて逃亡するか。
状況しだいだが、俺は前者を選びそうな気がする。もちろん相手によるが。
俺は寝台から起き上がり、軽い運動をしながらいくつかの問題について頭を悩ませつつ、今は級友と別れる前の時間を大切にしようと考えた。
* * * * *
朝食にも蒸し焼きにした子羊肉や、貝と蟹を使った汁物などが出され、貴族的な優雅な一日の始まりを演出するアゼルゼスト。
「にしても贅沢に過ぎないか。この貝や蟹は北の海から運んで来たものだろう」
「ん? ああ、夏と違って運搬で物が傷んだりしないからな」
アディゼートの街は海までそれほど距離が離れている場所でにある訳ではないが、それでも荷車で半日はかかる距離だ。北に向かう道には隆起した土地が多いので、曲がりくねった道を進む必要があるのだ。
「内海に近いピアネスの冬場は蟹漁の最盛期だ。噂ではどんなに下手な漁師でも、網を落とせばすぐに蟹が穫れるそうだ」
「そりゃまた極端な」
北の海が凍りつき多くの生き物が南下して来るのだ。海水の温度はそれほど変わらないはずだが、冬が始まる頃になると海の漁は活気づくとされる。
俺も噂で聞いた程度だが、冬の海での漁は危険で、毎年死者が出るらしい。
それでも漁に出るのは、この季節の海から得られる釣果の魅力だろう。上手くいけば一月で一年分の稼ぎを得られると聞いた。
「私の国には海がないので羨ましいです」
そう言いながら匙を使って汁物を飲む。
シャルディムとシンの二つの国は内陸にあり、海に面した土地を持たない国だ。
「暖まりますね」
「最近冷え込んできたからな。レギの言うとおり、そろそろ雪が降るかもしれないな」
温かい食事に満足しながら朝食を食べ終えた。
アゼルは俺が急いでエブラハ領に戻ろうとしていると思って気を利かせてくれたらしく、大きめの棒状のパンに加工肉や野菜を挟んだ物を用意してくれた。
布に巻かれたパンと、真新しい水袋を料理人から受け取った。俺は礼を言って部屋に戻ると、それを背嚢にしまう。
「すぐに白銀城に向かうって言ってたからな。今から出ればベギルナには昼前には着くだろうか」
今回は以前ベギルナに行った時とは違い早朝から移動する。しかも質の良い、貴族の乗る馬車を使って行くのだ。──護衛の騎馬を複数連れて。もしかすると、予定するよりも早く着くかもしれない。
館の外へ出ると街の方から朝を告げる鐘の音が鳴った。
門が開放され、畑仕事へ向かう人々が家を出る合図にもなっている鐘。
空は曇り空だった。
ところどころ霞んだ薄雲の隙間から青い空が覗いている。
外の空気は冷たく、厩舎の扉を開くと、中から暖かい空気が流れてきた。
馬は元気にしており、よく眠れた様子だ。
葦毛の馬は黒い目を動かして、今にもどこかへ行きたそうにしている。
すでに館の前には馬車が用意してあり、アゼルゼストとルディナスが乗り込むのを待っている。俺はそこに馬を乗りつけるのだ。
旅用の服の上に革鎧と籠手を身に着け、護衛の一人に見えるようにする。
馬の背に鞍を乗せて準備していると、まるで戦いに赴こうとする意気込みを見せる灰色の馬。
元々が傭兵のケディン団長から譲ってもらった馬だけあって、戦いには慣らされているのだ。俺の見立てでは、いくども小鬼狩りなどに参加させられたに違いない。
ぎょろりと俺を睨み、「早く行こう」とでも言うみたいに首を振る。
「別に戦いに行く訳じゃないからな」
俺はそう言って白い鬣を撫でてやり、その背に跨がった。
厩舎を出ると石畳の通路を通って玄関に向かう。こつっ、こつっと蹄が音を立て、ゆっくりと進む馬。
馬車が待っている場所には他にも、軽装鎧に身を包んだ護衛の騎馬が十数騎、守るべき主君の訪れを待っていた。
俺だけが冒険者の身なりをしており、金属の胸当てや板金鎧を身に着けた、煌びやかな装いの護衛とは比較にならない。──だが俺の馬は臆する事なく彼らの横に近づいて行くと、堂々とその列に加わった。
しばらく待つと、館からアゼルゼストとルディナスが現れ、馬車に向かって歩いてくる。
二人は華美な装いではなく、あくまで貴族の旅行者といった格好をしていた。
「ベギルナまでの護衛、よろしく頼む」
アゼルは護衛の私兵と俺の顔を見て言った。
俺は黙って頷き、目で「任せろ」と告げた。
「過去に魔神と会っていた?」と思わせるようなタイトルでミスリードを誘う。
いきなり場面が変わり、なんだ? と思ってもらえれば。




