アゼルゼストとの再会とピアネスの宗教観
またややこしい宗教についてなど。
レギの学生時代の友人の思い出とともに。
北西側からヴェンティル領に入った。
簡単な石造りの砦──関所には、数人の兵士が控えていて通行税を取られたが、十ピラルで済んだ。
この辺りは人の流入が多いらしく、街道を歩いている旅人や、市民の姿も多く見られた。
彼らは一様に身なりがよく、余所で見るような、薄汚れた服装をしている者はほぼ見当たらない。
道はしだいに石畳で舗装された大きな通りに繋がり、そこではさらに荷車や馬車の通行も増加した。
物質運搬の荷車の数を見るだけで、この領地がいかに豊かであるかが分かる。
ゆっくりと歩かせていた馬の横を薄着の男が駆け抜けて行った。──運び屋だ。
背負った袋の中に荷物が入っているのだろう。
どのような荷物を運んでいるかは知らないが、馬を使わずに徒歩で運ばせるとは。
健脚の運び屋はあっと言う間に道の先へと消えて行く。
こちらは焦らずに、夕暮れ前にアディゼートに着けばいい、くらいの速度で街道を進み続けた。
この領は視界に入る物の多くが人工的な、規則性を持っている物が多かった。街道沿いに立ち並ぶ木や、今は細々とした芝だけの緑地も、おそらく春には色とりどりの花を咲かせるのだろう。
街道脇にある花壇や水路。水車小屋に畑もある。石造りの砦も要所要所に設置され、兵士の巡回も相変わらず多い。
そろそろアディゼートに近くなってきたか。そう思い始めた頃、どこからか夕方を告げる鐘が鳴った。
遠くから聞こえる鐘の音はどこか優しく、空っ風の吹きつけそうな寒い午後に、小さな活力を与えてくれるような感じがした。
丘と樹林を回り込むようにして緩やかに曲がる街道。その先に街の壁が見えてきた。歩いていた数人の男たちが「あれがアディゼートの街だ」と声を上げる。
すれ違った騎馬兵士が俺に敬礼した。
俺は頷くだけの挨拶を返したが、相手の顔は逆光で見えなかった。──おそらくアゼルのそばに居た兵士だったのだろう。
街の入り口には多くの人や荷車が並び、通行税を払って街の中へ入る許可を待っている。
俺の番が来ると馬の上から赤鉄の階級印章を差し出す。
「これは──ライエス様のご友人レギスヴァーティ様。どうぞお通りください」
番兵の手にする目録に俺の名前が加えられていたようだ。
俺はここでも頷くと、街の中へと馬を進めた。
アディゼートは活気があり、市民や旅行者だけでなく、冒険者の姿もちらほらと見受けられた。
開かれた大きな門から風が強く吹き込み、音を立てて大通りを通過して行った。──びゅうびゅうと耳元で音を響かせ、長い髪をした女が慌てて髪に手を当てる。
乾いた風に背中を押され、俺は街の中心部から離れて、目的の区画へと向かう。
貴族たちの住む区画は門がいくつもあり、その度に階級印章を見せるはめになるかと思ったが、最初の門で俺は青い羽根飾りを渡され、それを襟元に付けさせられた。
それでこの辺りの通過を認められるのだと言う。
馬は蹄を鳴らしながら、まるで高貴な人物を背負っているんだぞ、とでも言いたげに、軽快な歩調を響かせている。
「残念だがお前が背に乗せているのは、一介の冒険者に過ぎないぞ」
そう声をかけつつ首を撫でてやる。
馬は分かっているのかいないのか、首を振って歩き続けた。
舗装された道を進み、目的地に着いた俺。
門を守る兵士たちに声をかけると、すぐに門を開放し中へと通された。
「厩舎までご案内します」
兵士のあとを追って建物の裏手に回った。
そこに厩舎の入り口があり、そこに馬を預ける。
その後に兵士に付き添われながら館へ向かった。
扉を開けて館の中へと通された。
玄関は変わらず広く、二階へ続く階段や、毛皮の絨毯などがある。
玄関先で待っていた召し使いに案内され、応接室で待つように言われた俺は、長椅子に座って領主のアゼルが来るのを待つ。
すぐに部屋のドアを叩いたのはアゼルではなく侍女だった。
彼女は温かい葡萄酒に香辛料を加えた飲み物を持って来てくれたのだ。
「ありがとう」
俺は礼を口にし角杯を受け取った。
金と銀の装飾で縁取られた豪華な角杯。
そこから放たれる甘く華やかな香気が鼻孔をくすぐる。
甘い香辛料が薫る葡萄酒を口にすると、しばらくして体内から温かくなってきたと感じる。生姜の絞り汁の効果だろう。その他にも香り付けに使われた柑橘類の匂いも感じられた。
こうした香辛料入りの温かい葡萄酒は、北海に位置する国々に多いと聞く。
ピアネスも北側に海と繋がる海岸線を持つ国だが、葡萄酒を温める文化はあまりない。
それに北側には、海を挟んでウーラ国の領土が海に向かって迫り出しており、内海とまではいかないが、ピアネスの海岸には海流の加減で流氷が流れてくるような事はほとんどない。
北からの冷たい風を浴びるのに変わりがないが、葡萄の品質の所為か、葡萄酒は常温か冷たいものばかりが提供されるのが普通だ。
侍女は酒のあてとして、胡桃や棒状の堅焼きパンを置いていた。
堅焼きのパンは保存食にもなる物で、中には蓬や薬草が練り込んである。
(なぜ干し肉が無いんだ……)
そんな事を思いつつ、懐かしい堅焼きパンを葡萄酒に浸し、柔らかくしてから食べるのだった。
「待たせたな」
しばらくしてアゼルゼストが応接室に入って来た。
「突然すまないな」
「いや、構わない。それよりなにかあったのか?」
「そういう訳ではないんだが。近くを通ったので寄ってみたんだ」
「ほう?」
そんな感じで会話が始まった。
アゼルはすぐに侍女を呼び紅茶を運ばせると、長椅子に腰かけた。
「景気が良さそうだな」
「なに?」
「フィエジアの方から来たんだが、街道の様子を見てそう感じたのさ。荷車の多さや人の流入の様子からな」
「ああ、そういう事か」
アゼルはそう言い、現在のヴェンティル領の発展ぶりをこう評した。
「冬に入る前の書き入れ時といったところか。各家庭で保存食を用意したり、小麦粉などの原料も買い入れが増えている」
「それ以外も理由がありそうだが」
俺がさらに探ろうとすると、級友は笑顔を見せる。
「そう細かい事はさすがに分からんさ。ただ確かに今年は作物も豊作で、羊毛などもかなりの量が手に入った。そこから衣服や靴などの生産にも力を注いだ工場を造ったし。そこで働く技術者の育成にも以前から取り組んでいたからな」
「なるほど、以前から投資していた分野が実を結んだ結果という訳か」
「そういう事だ」
それよりもそちらの方はどうだ、アゼルはそう尋ねてくる。
それにしてもさすがは大貴族の一人。巷に氾濫している言葉遣いの代表例とも言える、疑問を意味する「シファ」ではなく「シファーツ」と正確に発音するとは……
俺は皮肉な考えを脇へ追いやり、簡潔にベグレザとの交易路の建設について話が纏まった件について説明した。
「まああくまで順調にいけば、の話だが」
「うん。なによりも隣国との調整がうまくいったのは良かった。これで文官にも新たな指示を与え、中央に西側の国境に大きな可能性がある。と話ができる」
「そうだな」
俺がそう言って角杯を呷ると、他人事みたいに言うなとアゼルがたしなめる。
「まあ、文官たちに口利きしておいてくれ」
「それは任せておけ」
「それにしても、いい時に来てくれた」
「……なにかあるのか」
また小鬼や夜に徘徊する者などの討伐に協力しろ、と言われるのかと思ったが、そうではなかった。
「ちょうど明日。ルディナスがここに来る予定なんだ」
「へえ」
新たに級友の名を出され、ぼんやりとそれ以外の、もう一人の人物の記憶も呼び起こされた。
「ルディナス・テシス・スピアグラーニか。懐かしい。──それともう一人、俺たちには決まった仲間が居たじゃぁないか」
「もちろん覚えているとも。──おいおい、まさか名前を忘れたって言うんじゃないだろうな」
「いや、名前は覚えているんだが。どうにも顔が思い出せなくてな」
その女の名は「ゼアラ・ベラジェ」
エインシュナーク魔導技術学校で出会った女の一人。
彼女はピアネスに古くから伝わる宗教的観念の巫女に選ばれた少女だった。
「宗教的観念の」という言い回しをするのは、名前が固定された一つの宗教がある訳ではないからだ。ピアネスという国家の特殊さは、こうした面にも表れているのかもしれない。
複雑化した多神教的な自然信仰。とでも呼べるのか。ピアネスの宗教観を体系化した学者も居ない。──というか、学者の存在自体がピアネスには少なかった。
研究するという考えよりも、実践して学ぶ習慣が強かった為か、あまり多彩な学識の発展は望めない環境にあったのかもしれない。
唯一エインシュナーク魔導技術学校だけは、ピアネスに大きな変化を齎した。
ユフレスクの優秀な魔導師が協力して建設された、魔法と魔術を学べる学校。
この学校に在籍した魔導師の一人がピアネスの自然信仰について論文を残したが、そこには「ミルガン神の宗教」といった言葉を書いていた。しかしそれがピアネスに浸透する事はなかった。
そもそも貴族の間にも、論文を読むような習慣も存在していないのだから。
「ミルガン」とはピアネスを守る守護神的な存在だと書かれていた。
そのミルガンの巫女の一人がゼアラだった。
大陸中央にある「ブルボルヒナ山」へと続く大森林。そこへ通ずる道が繋がる小さな町の出身だ。──はっきり言って僻地の際に置かれたような、足を運んだ者がほとんどない、俺もそれまで耳にした事のなかった町だった。
彼女はその町から遠く離れ、山に続く道無き道の最果てにある、小さな寺院で洗礼を受けたと言っていた。
温和しく、か弱い印象の少女だったゼアラ。
ただし彼女には才能があった。
傷を癒す魔法にかけては、彼女の資質がもっとも高かったのだ。
それは小さな寺院で受けた洗礼が影響しているのか、それとも彼女の生まれながらの素質なのか。
その寺院でもミルガンが祀られていたと彼女から聞いた。──ただ発音が若干違っていて、「ミルグム」と呼ばれていたらしいが。
各地でこれに似た発音の神名が伝えられているが、いまだにこの信仰を発端とするような宗教は生まれていない。
ピアネスの人々の思想は「空に神あり、地に神あり。山と森にも神住まい、川にその遣いあり」と言う、無名の詩人が残した詩で表されるかもしれない。
自然の中にある神は多くの独自性から成り、それぞれが一つの根源へと還元される。──つまり、各地に語られる神聖にして神秘的な逸話のすべては、共通する神霊を説明づける。と考えているのだ。
例え姿形が違っていてもそれらは本質的に同じ神霊の、異なる化身。──そんな漠然とした思想があるのだ。
それは樹木を例えとして説明されるのが共通する形式であり、人間の魂もまた、その神の元へと還って行くと考えられている。
そこで善人は木の幹から天上に向かう枝葉に飛翔し、悪人や罪人は木の根を通って地下へと落ち込み、暗い地下世界に封じられる。そんな風に説明されているものが多い。




