魔神ベルニエゥロの領域
雲が去ったあと、月明かりが森の近くを照らし出す。それほど強い月明かりではないが、周辺を見回すには十分な明かりが降り注いだ。
縄を解かれた葦毛の馬はのろのろと森の外へ出て、警戒の視線を周囲に向け、落ち着きなく首を振っている。
俺は半人半蛇の遣いから受け取った目隠しを馬に付ける事にした。
馬は最初それを嫌がったが、「落ち着け」と声をかけると観念した様子でなすがままになり、黙って目隠しを付けられた。
そうして次に小さな皮袋から黒い結晶を取り出すと、それなりの精神統一をしてから結晶を月に向かってかかげた。
心の中で魔神ベルニエゥロの名を呼び、召喚に応じると訴え続ける。
馬の手綱を握りながら夜空を見上げていると、月の周囲の光が二重に見えた。
まるで月が分裂するみたいに、重なり合っていた物が分かれるみたいに。半月の月が左右に分かれ、白色と赤色の二つの月が再び一つに交わると、周辺から風も音も消え去った。
見上げていた夜空も薄暗い闇に覆われ、きらきらと瞬いていた星々の姿が見えなくなった。
まるで急に空が遠く離れてしまったかのように。
そうと気づいた時には、自分が立っている場所が今まで居た場所とは違うのだ、と理解したのだった。
「ここは……幽世か?」
空は無く、どこまでもこの世界は闇に閉ざされているようだった。
目隠しをされた馬はじっと、俺の横で息を潜めている。
周囲を見回すと、そこは土の地面が広がる不毛の地が広がっていた。
土と岩ばかりの空虚な異界。
魔素と淀んだ空気の混じる──不健全な世界。
「魔神の姿がないな」
それどころかなんの気配も無い場所だ。
闇に包まれた場所は視界が悪く、数十メートル先になにがあるかも見通せない。
が、しばらくすると、上空に真っ赤な月が顔を出し、世界はようやく照らし出されたのだった。
闇の渦巻く空から淡い光が差し込むと、視線の先に大きな建造物が見えてきた。──どうやら壁に囲まれた城のようだ。
黒っぽい建材で建てられた壁が歪な光を反射し、壁の中に溶け込んでいる魂の断末魔を響かせるみたいに、ゆらゆらと蠢いている。
それはまさに魑魅魍魎の住処に相応しい異形の城塞。
人間が立ち寄るようなものではない。──明らかに異質な気配に満たされた。人外の魔境そのものの具現。
そんな事を考えていると──壁の一部がぐにゃぐにゃとひしゃげ、ゆっくりとその口を開け放つ。ぐにゃりと曲げられた門扉が開くと、そこから巨大な犬に似た生き物が現れた。
ぞっとするような青白い光を放ち、口と鼻から青い火炎を噴き出す巨大な獣。そいつは大きな鋼鉄の轅と鎖に繋がれ、ゆっくりとした動きで巨大な馬車を引いて来る。
その馬車の車高は二階建ての建物ほどあり、仮にその中に人が乗っているとすれば、巨人が乗っているに違いない。
馬車の後方に蛇の下半身をした妖人や、鳥の足と頭を持った妖人などが歩いており、それぞれが奇妙な防具や武器を身に着け、多くの異形の兵隊を連れ立ってこちらに近づいて来た。
かなり威圧的な出迎えだが、相手に戦う意志は感じられない。──当然あの馬車には魔神ベルニエゥロが乗っているのだろう。
それは少し遠回りをして、ごろごろと大きな車輪の音を響かせながら近づいて来る。
金属の甲冑に身を包んだ兵士らしい怪物や、ずるずると蛇腹を地面にこすりつけていた妖人が行進を止め、離れた位置で立ち止まった。
だが馬車はこちらにゆっくりと近づいて来て、巨大な青い犬──四つの眼を持った、群青色の毛皮から青白い火の粉を噴き上げる犬──が俺の横を通り過ぎた所で立ち止まる。
目の前に止まった馬車はなんとも悪趣味な色彩に彩られており、車輪や土台部分には謎めいた合金らしい金属を使用し。
客車を囲む華美な装飾には白金や黄金、銀や宝石がふんだんに使われ、馬車の上部にある飾りを見ると、金の上に錆びた鉄でところどころ腐食された飾りが付けられていた。
「待たせたなァ」
大きな馬車の中から、人の内臓を握り締めるような不気味な声が聞こえてきて、俺の内臓は震え上がった。
巨大な牛や馬がしゃべったらそのような声になるのではないか。そんな風に思える異質な声。
ゆっくりと馬車の扉が開き、中から大きな影がのっそりと顔を出した。
──それは巨大な馬の頭部。
以前に見た蟇蛙と馬の合成した様な姿ではなく、下顎や牙などが蜥蜴か鰐を思わせる、奇怪な生き物の姿をしていた。
……少なくとも草食を止めた馬なのだろう。馬の鼻先を持っているが、眼球は前方についており、額にある三つ目の眼球がこちらを見下ろしていた。鰐の様に裂けた口を開き、がちんっ、と牙を打ち合わせると、馬車の後方に居た妖人たちがこちらに近づいて来た。
二人の妖人は一人の囚人を引きずっているようだ。──それはどうやら人間であるらしい。
「レギよ。まずはその男を殺すのだ」
馬車から頭だけを突き出して、ベルニエゥロが口にした。
「なに?」
「そやつは魔法使いでな。あれこれと儂の周囲を彷徨いていたのよ。魔女や魔術師を殺害したり、さらには妖人も手にかけ、その力を奪っていたらしいのじゃ」
殺して奪う……それは魂魄学習のような、死の魔術に類する技術を持っているという事だろう。
「それで──なぜ、この男を俺に殺せと?」
「そやつの記憶を見れば判る」
どうやら死導者の力を使って記憶を探るのを期待しているらしい。
男はかろうじて生きていたが、もはや虫の息だった。放っておいてもいずれ死ぬだろう。
体中に裂傷があり、全身に黒くなった血がこびり付いていた。
体の傷よりも──魂を直接支配し、攻撃する手段を持つであろう魔神に捕らえられたのだ。拷問などというものより数段上の、徹底した攻撃が精神に加えられたのは言うまでもない。
俺は魔剣を鞘から引き抜くと、馬の手綱を鞍の上に置き、男に近づいて行く。
男の腕を抱えた妖人たちは金属の鎧や籠手などを身に着け、蛇の眼をぎょろつかせたり、長い舌を伸ばしている。
「ケケッ、外すなよ?」
蛇の頭部を持った妖人が嘲笑うように言う。
男のだらんと伸ばした腕に力は無く、魔法使いだという男には抗う気力は残されていない様子だ。
俺は剣の柄を持ち替えると、男の首筋から下に向けて剣を突き刺し、冷たい刃を心臓にまで届かせた。
そうして男の「死」からすべてを奪い去り、男の持っていた魔法と記憶を回収する。
魔法使いとしてそこそこの力を持っていたようだ。目新しい魔法を持っていた訳ではなかったが、いくつかの魔法を獲得する事ができた。
それに──こいつがなにに関わっていたのかも、それとなく理解できた。
「判ったか?」
「どうやら俺をつけ狙っている魔術師の一味『明星の燭台』の関係者だったらしい」
そして、こいつは以前。俺がアゼルゼストと共にピアネスの王都ベギルナへ向かっている途中で、人間の女に化けた「夜に徘徊する者」を使って攻撃を仕掛けてきた奴だと知った。
あの時に魔法で俺を攻撃してきた奴だったのだ。
「だが、こいつはもうあの魔術師の一団からは縁を切っているようだが」
「おいおい、それだけかァ? もっと他に気になる部分があるはずじゃろう」
鰐の口に馬面の皮が乗ったような怪物は、馬車から頭だけを突き出して馬首を振る。
俺は死体となった男の体から離れ、死導者の力に取り込んだ男の記憶を深く探ろうとした。──すると、ある一部の記憶が覗けないのが分かった。
なによりこいつが魔女や妖人を殺害し、その力を奪っていた方法を考えれば、明らかにこいつは冥府に関わる禁断の力を得ている人物だった、というのが分かる。
「こいつに力を与えたのは、冥府の──死導者や、それに準ずる冥府の存在だという事か」
「うむ」
「しかし、それならかなりの術者が相手側についている事になる──」
冥界に潜った魔術師がなんらかの死の力を得て、現世の理に反する力を振るうつもりなのだろうか。
実際には死の危険を冒して忍び込もうとする奴など、ほとんど居ないだろうが。──俺もディナカペラの協力がなければ、冥界に飛び込もうなどとは考えもしなかっただろう。
それほどまでに死の向こう側に行くのは危険なのだ。──戻ってこられる保障もないのだから。
「冥界との関わりがある危険な魔術師の集団。だがお前も、死導者の魂を奪った力がある。危険な連中には違いないが、お前なら恐らく大丈夫じゃろう」
魔神は馬車の中に頭を戻すと、暗い客車の中からぬぅっと青白い手を出して来て、白い指先で妖人らに魔法使いの死体を片すよう指示を出す。
妖人らは魂の無くなった肉の塊を、興味なさそうにずるずると引きずって行く。
まるでゴミを扱うみたいに。
「さて、それではもう一つの要件に移ろうかのぉ」
馬車の中から魔神が言うと、馬車を引いていた巨獣が地べたに座り込んだ。
巨体がどっしりと腹這いになった衝撃が足に伝わる。
「要件?」
「そうじゃ。──以前に言ったじゃろう。力を与えると」
「『魔晶盾』ならもらった」
「それは大したものではない。五大魔神の贈り物がそのようなつまらぬものでは、お前もがっかりであろうが」
個人的には頼りになる強力な盾を手に入れた、という感想だったが──
魔神は大きな白い手を出し、その指で俺に手を出せと訴えてくる。
馬車の中に居るそれは、全体像がまったく見えない。きっと、巨大な化け物の姿には違いないが。よくよく考えると馬車の大きさと、馬に似た頭や白い腕の比率がおかしい。どうにも馬車の大きさと噛み合わないのだ。──馬車の中は異次元にでもなっているかのように。
そこから出てくる頭や腕の大きさから考えると、客車よりも遥かに大きな物がその中に収まっているはずだった。予想では馬車の大きさより三倍近い巨大な物が、狭い客車の中に詰め込まれている事になる。
「受け取るがいい」
そんな俺の考えを余所に、魔神は真っ白な親指と人差し指を突き出した。その指の間になにかを持っているのだ。
俺が手を差し出すと、その掌に魔神は一粒の滴を落とした。
濃い紫色の石。
宝石の原石のような小さな塊。
「それを飲め」
……また以前と同じ手法で力を与えると言うのか。
俺は疑い、結晶体の性質を解析に掛ける。
「疑り深い奴。──それにはお前の肉体にも霊体にも影響を与えたりはしない。魔力体に新たな力を付与するだけじゃ」
まあよい、まあよい──魔神は馬車の中から、馬がお産で苦しんでいるような笑い声を響かせる。
「二つの魔法……? 見た事のない形式の、干渉系の魔法か」
「ほう、それから術式を読み取るか。さすがと言っておこう。
一つは『罪業の烙印』──漆黒の鉄鎚、などと呼ぶ者もあるが。その魔法は黒い鎚を創り出し、それで殴りつけた相手の魂を拘束するという武器になるものじゃ。──まあ、大抵の者はその一撃を喰らえば、絶命してもおかしくないがな」
その言葉には、上位存在や高位の魔物に使用しろ、といった響きが込められているようだった。
天使などが相手の場合、あの光体防壁に阻まれる可能性が高そうだが。
「もう一つ……『堕落の邪視』は、儂の創った魔法生物を喚び出す魔法じゃな。魔法の為の存在じゃから意思などを持たぬが。この魔法は妖人となった者が創作した魔法じゃ。なかなかにあくどい魔法ゆえ、レファ……なんとか宗教家の前では使うなよ?」
堕落の邪視で喚び出される目玉の魔物に睨まれると、霊的な混乱を引き起こし、様々な異常を引き起こすらしい。
魔法使いにしろ戦士にしろ、こいつに睨まれると、よほど精神的に強靭でない限り、禍々しい呪縛に捕われてしまうようだ。
「なるほど、どちらも危険な魔法であるのは変わらないようだ」
「安全な魔法などになんの価値があろう」
力の権化である魔神が冷たく言い放つ。
数々の実験で失われた命など物の数ではない。そんな意図を感じさせる発言だった。
ベルニエゥロ自身がおこなった魔法実験ではなく、その配下が起こした実験で失われた人の命。それについての言及でもあるのだろう。
なんとなくだがこの魔神が、人間を妖人などに変えて魔法に取り組ませている理由が分かった気がした。
この魔神は神の創り出した人間も、その人間が生み出す秩序も、どちらも破壊して喜んでいるのではないだろうか。
馬車の中の魔神がどんな姿かは見えない状態になってます。暗闇の中から首の長い馬の頭部や、死人のような手が伸びてくる……
ベルニエゥロはさまざまな容姿で登場します(他の魔神もそうですが)。




