ライカの素性
高級娼婦ライカの過去に関係する魔女セルシャナ。
手紙でその魔女に呼び出されたレギだが──
しばらく紅茶を飲みながら、ゆったりとした時間を過ごした。
ライカは相変わらず高級娼婦としてのらりくらりと、この歓楽街で生活していたようだ。
「そろそろこの仕事からの引退を考えているところよ」
「なら、故郷のモンディエに帰るのか」
そう言うと彼女は「う──ん」と、返事を渋った。
「別に、あの街に帰りたいという気持ちは無いの。故郷にはもう家族も居ないし」
「そうか」
彼女の記憶には、故郷に関する楽しい思い出などほとんど無い様子だ。きっと厳しい幼少期を送っていたのだろう。
不遇の子供時代を経験した反動か、この街で得られた富のほとんどを商業ギルドに預け、彼女は独自の商会を運営していると語った。
「へえ、やるじゃないか」
「まあ──それほど大きなものじゃないけれどね。十数人の行商人を集めて、各地に移動させて利益を回収する、そうした運用をしている商会よ」
「なら、ぜひうちの領地にも行商人を送ってほしい。さっき話したが、山間道を切り開いて新たな交易路を建設するからな。うまくその流れに乗れば、いい場所に住居や商会の拠点を構えられるかもしれないぞ」
「あら」
彼女はにっこりと微笑む。
「あなたの故郷に招いてくれるという事かしら。領主様のご子息の紹介があれば、事がうまく進められそうね」
「だから俺は……」
ご子息などというようなもんじゃない、そう断りを入れたあとで、彼女がピアネスの辺境に興味があるなら、紹介文でも用意しよう、という結論になった。
「私の現在の拠点はここベグレザだけれど、将来的にはどこか、商業ギルドとの連携をおこなえる場所で生活しようと思っているわ。できれば都市部でゆとりのある生活を愉しみたいの」
「ぁあ……ならピアネスは駄目だな。やめておいた方がいい」
「あらあら、自分の故郷をずいぶん悪し様に言うのね」
「ピアネスの中央は割と腐っているからな。短期的にはおすすめの物件だが、土台となる土地がぐらついていては、長い期間の安寧は期待できん。
その点ベグレザは腐った頭(王)が世代交代したばかり。それでも後陣が有能で、王位を簒奪したというのに治世が安定している。比べるべくもない」
そう言った俺の言葉に頷きながら、彼女は真剣な表情を見せる。
「確かにね……けれど、中央から離れている辺境なら、たぶんある程度は政権から自由なんじゃないかしら。それに、ベグレザとの交易が順調に続いていけばその田舎は発展して、きっと豊かになると思うけど?」
「ああ。それを期待してベグレザとの会談をおこなったんだからな。商業ギルドとの関わりを強めたいのなら、この話をブラモンドにあるギルドに持って行って、ベグレザとの交易に関する取り引きに口出ししたらどうだ」
「それもいいかもしれないわね。私は当分ベグレザに住んで生活するつもりだけれど、あなたの故郷が発展する可能性があるのなら、そこに拠点を構えてもいいかもしれない」
彼女は前向きな考えを持っているようだ。
エブラハ領の発展に貢献してもいい、彼女はそう言っているのだ。
「ともかくピアネス国との交易に、ベグレザから行商人を送る事には参画させてもらうわ。交易路が完成するのはまだ先なのでしょう? じっくり考えて、私の商会とベグレザとピアネス。それぞれの利益になるよう動いてみましょう」
「それは故郷にとってありがたい申し出だ」
ライカの商会がどれほどの働きをしてくれるかは分からないが、人が移動すれば必然的に消費活動が起こるようになる。
それがエブラハ領の景気を下支えしてくれるだろう。
俺は彼女から紙──上等な羊皮紙──をもらうと、簡単な紹介文を書いてやる事にした。戦士ギルドの印章を使って押印し、自分の名前も書いていると──
「そういえば、ライカの名前は」
本名ではないだろう。こういう商売ならではの呼び名であるはずだ。
「名前? ……ライカではまずいかしら?」
「商会でもその名前を使っているなら構わないが……」
「それもそうね」
彼女はにっこりと笑ったが、わざと名前を言わずにはぐらかすような態度を取って、俺の反応を楽しもうとしていたようだ。
「ラプサラ・サゥラートよ」
「本名だろうな?」
そう言うと彼女は商業ギルドの登録票を見せてくれた。
それは鋼で作られた小さな金属板で、彼女の名前や商会の名前が刻印されていた。金属の表面に特殊な塗料が塗られ、錆び付き防止の効果があるようだ。
俺は彼女の名前と商会の名「サゥラート商会」を手紙に記し、エブラハ領での商業の許可を認めるよう推薦する文章を書く。
「たぶん平気だと思うが、これを商業ギルドに通す前に俺の友、クーゼ・ドゥアマに見せた方が早い。そちらの方が確実だ。
商業ギルドはブラモンドにあるし、クーゼもブラモンドの商店で接触できる」
「わかったわ。ありがとう」
彼女は紹介状を棚の中にしまいながら、もうすでに商会をどのようにエブラハ領で運営するか考えている様子を見せる。
高級娼婦という面を捨てた彼女の顔には、思慮深い知性が垣間見える。彼女にはきっと商人としての才能があるのだろう。
室内にある小さな机の上には何冊かの本が置かれており、普段は目にする機会のない商業ギルドが発行する本などもあった。
その後も俺と彼女は互いの近況や、今後について話し合った。
昼食に簡単な料理と酒を提供してもらい、互いの過去の話もした。──それは良い思い出ばかりではなく、つらい過去の記憶でもあった。
ライカ──ラプサラは、アントワ生まれの父と、ベグレザ生まれの母の間に生まれた子供だ。彼女の一風変わった美貌は、そうした両親の影響を受けたものだったのだ。
行商人だった父によって読み書きの重要性を諭され、旅芸人の一座に居た母によって、女の魅力を上げる手段について叩き込まれた彼女は、十五の時には近隣でも評判の美女としての地位を築いていたという。
だがその美貌は、彼女にいくつかの試練を与える結果になったようだ。
評判を聞きつけた領主が彼女を召し抱えると言ってきたり、時には人攫いの被害にもあったのだとか。
そんな時に彼女はセルシャナから教わった、茸から取った毒の粉末や、虫から取った毒を塗った針を使って危機を脱出したという。
「殺してはいないわ。刺された男の体は力が入らなくなって、しばらく動けなくなるの」
なによりの危機は、領主同士の争いが激化して戦争状態になった時だった。
互いの私兵をぶつけ合い、ラプサラの居る領地に兵士たちが押し入って来て、彼女の両親は殺害され、彼女自身も凌辱されるところだったという。
「よく無事だったな」
「常に毒を持ち歩いていたからね。私と両親はいち早くモンディエを脱出していたから、兵士の大群に追いつかれる前に離れられたのが大きかった。──そういえば」
彼女はなにか思い出したようにしゃべり始める。
「少数の兵士に追いつかれた私と両親は、なんとか逃げようとしたわ。森の中を移動し、隠れながらね。
けれど最後は見つかって、両親は殺されてしまったわ。……私は毒を使って数人の目をつぶし、逃げようとしたのだけれど、毒の粉を浴びなかった男に捕まってしまった」
毒針を使って倒そうとしたが、腕をつかまれた彼女は二人の男に組み敷かれてしまった。そこを銀色に光る狼に助けられたのだという。
「神秘的な青白い光を放つ狼で、体全体がまるで銀月の様に光って……」
彼女は朧気な記憶を辿るみたいに語っていた。
不思議な事に狼は二人の兵士を噛み殺すと、じっとラプサラの目を見つめていたらしい。
「まるで『逃げろ』と言っているみたいに、ただ私を見ていたの」
──彼女はその狼は森に生息している獣だと思っているらしいが、俺にはそれが、ラプサラを守るよう魔女セルシャナが送り込んで来た霊獣だと感じた。
そうして両親の死を目の当たりにした直後にもかかわらず、彼女は必死の思いで故郷の町から逃げ出したのだ。
彼女の強さの根源は彼女の生い立ちと、両親から受けた教育にもあったようだ。
「いつも母から言われていたの。世界は非情で、人の心も移ろいやすく、信頼できるものなどほとんどない。だから強く心を持ちなさい、ってね」
異国から嫁いで来た母の、率直な気持ちの表明だったのだろう。きっと彼女の母も異国の地で、数々の危険や、人の冷たさに触れる機会が何度もあったのだ。
だからこそ甘えを捨て、厳しい世の中に立ち向かえるように、ラプサラを育てるよう厳しく躾たのだ。
でなければ彼女はたった独りで、しかも両親を殺されたあとすぐに、行動を起こす事はできなかっただろう──生きる為の行動を。
彼女の母は優しく、子供に母の愛を注いだようだが、それと同じくらい厳しい母だったようだ。
ただ甘やかすだけが愛情ならば、水が無くなった途端に萎びてしまう草花のごとく、見た目だけは美しいが、厳しい環境には一日だって耐えられないという有様に終わっていただろう。
精神の軸となるものが柔では、恐怖や絶望に立ち向かう事はできぬ。
ラプサラもまた、戦士の様に逞しい魂を備えた傑物と言えるかもしれない。──少なくとも俺は、彼女の高貴な魂と知性に対し、敬意を持っているのは間違いない。
その魂の在り方は魔術師と近いものがあると感じていた。
「そろそろ出るか」
窓から硝子を通して夕日が滲み、絨毯を色づかせている。
「──そう。本当に忙しいようね」
「ああ、そうだ。これも渡しておこう」
俺はそう言いながら革財布を取り出し、その中から一枚の金貨を取り出す。
「金貨──? 見た事のない金貨だわ」
「それは、ここベグレザにあった古代帝国で使われていた金貨だよ」
「イヤだ。突然どうしたの? こんな物……かなりの値がつくでしょう」
「サゥラート商会が傾きそうになったり、ライカ──ラプサラ自身を守る為に金が必要になったら、それを売って足しにするといい。俺はしばらく会えなくなるかもしれないから……まあ、杞憂かもしれないが」
「どういう事? あなた、変よ」
俺は返事をせず肩を竦めて見せる。
「まあ……いろいろあるのさ」
俺はそう言って荷物を手にして立ち上がった。
魔術師や上位存在に目を付けられている以上、あまり人里でのんびりしてはいられない。
それに……なにやら、嫌な予感につけ狙われているかのような感覚がある。
窓の外を見ると、そろそろ日が傾き始める時間になっていた。空が夕刻から夜の帳を用意し始めた頃合いに、名状しがたい不快なものが腹の辺りに溜まったかのように、突然重くなった気がした。
じわじわと、ふつふつと沸き立つ、意味の分からぬその感覚。
その答えを知るのはこの肉体ではないらしい。
それは俺のもう一つの躯。
霊的本質が俺に警告を発している合図だった。




