ライカの故郷とその友人
前半部にかなり難解な魔術に関する説明があります。
簡潔に言うと、肉体を超えた霊的な体によって、肉体的欲求を制御できる。といった話です。
本質的な、本当の自己。そういったものが人間の肉体を超えた霊的な世界にはある。それを「取り戻す」事で、人間は神の敷いた軛から自由になれる。という思想。
煉獄の蒼い館にある怪しげな紅い扉を開けて中へと入る。
そこには明るい色の絨毯が敷かれていた。以前来た時には剥き出しの板敷きがあるのみだったが。この娼館も相当に羽振りが良くなり、内装を豪華な物に変えているのだろう。
しかし館の中には相変わらず美しい見た目の美女や美少女ばかりが集まっていた。
その女たちを物色する男たちも、心なしかそわそわと周囲を見回しながら、好色な眼差しを女に向けている。
俺は人の波を避けて二階へ続く階段を上がって行く。
この淫らな想念が渦巻く空間の中に居て俺は、自分の変化に気づき始めた。──自分の霊的な支配力(精神的な制御力)が強固になった為、食欲や睡眠欲だけでなく、性欲も上位の霊的総体の制御下に置かれていたのだ。
意識的に操作したものでなく、無秩序な欲動によって意識を惑わせないよう、精神的な制御が自然となされているのだ。──おそらくこれは、精神に干渉する魔術や魔法などの効力に対しても抵抗する力となるだろう──
だから今後の俺は、性的な欲求に溺れたい時などは、自分でそれを求めるよう肉体に指示を出し、積極的に衝動を発生させなくてはならない。
(そうか、動物的な欲望に惑わされぬよう、肉体的な制御を魔術領域が支配しているんだな)
もはや俺は魔術師という単純な技術者ではなく、魔術という枠を超えた所から、魔術を支配・制御する、霊的な存在になったという事だ。
技術者は外部にあるものを自らの肉体を使って操り、創造したりするが。
この魔術を超えた領域に達した者は、精神の枠の外から精神を制御して、あらゆる事象をその精神を通じ、精神のみならず肉体にも変化を齎す事ができるのだ。
それは魔術の支配者であり、自分自身の支配者でもある。
魔術は今まで自己の外にあるように感じていたが、今は自分の中に溶け込んでいるように感じている。
魔術は常にその個人の内なる源泉にあるというのに、術として発動する時に、いつも外部の力の根源に呼びかけたり、指示するものだからだ。
だがそのような場合でも、いつでも魔術は精神の制御を術者に求める。
外部にあるものに自己の内的なものも影響され、その逆もまた然り。
世界と繋がるのは霊的な自己。肉体的な、動物的な霊ではない。
上位世界の霊的な力に触れ、存在の有り様を変容させた俺。
俺の魂は錆び付く事のない鋼。
剣のように鋭く、石のように硬い。
生々流転の中にありながら、その構造上の枠から逸脱した魂。
魔術の深奥にある奥底より、光り輝く宝物を持ち帰るがごとく。自己の霊的本質を奪還する事に成功した。
何者かの計らいを逃れ、自らを取り戻したのだ。
自由であるとは、自らの中に世界を持つ(取り戻す)事に他ならない。
世界に自分が投げ入れられたままではいけない。
自分の中に世界がなければならぬ。
魔導の神秘主義いわく、神は己の中にあるのだ。
ライカの部屋の前に来ると、ドアを叩く。──返事はない。部屋の中に人の気配も無い。
少し間を置くか……そんな考えを抱いた時、横から声がかかる。
「あら、懐かしい。もう私の事など忘れていると思っていたのに」
声のする方を見ると、そこにはライカが立っていた。外出していたらしく、絹の上着の上から外套を着込んでいる。
褐色の肌を露わにする事なく、顔以外は衣服に守られていた。──南方の出身である彼女は寒さが苦手なのだろう。
「うん、まあ……近くに来たので、様子を見にな」
そう言うと彼女は穏やかに微笑し、部屋に入るよう言いながら鍵を取り出して、俺に鍵を放った。
彼女の手には皮の手提げ袋が下げられていたが、両手が塞がっている訳じゃない。
「やれやれ」
俺は鍵を手にして素直に部屋の鍵を開けたのだった。
部屋の中は暖かかった。
壁の中に空洞があり、暖炉で暖めた空気が館内を循環する造りになっているのと、この部屋に置かれた薪暖房器具のお陰だ。
彼女は手にした皮袋を椅子に置き、くるりとこちらを振り返ると、こんな言葉を発した。
「まさか、本当にやって来るなんてね。驚いたわ」
「どういう意味だ?」
彼女の反応がおかしかったので、相手の真意を探るべく率直にぶつかっていく。
「お話をしましょう。──その前に、お茶の用意をするわね。それともお酒の方が?」
「いや、お茶で構わない」
「ええ」
大陸南方にあるアントワ人が使う、肯定の意を表す返事をするライカ。
彼女の肌の色は褐色だが薄く、顔立ちは南側と北側のかけ合わせといった感じで、どこか浮き世離れしたような印象がある。──アントワの王侯貴族の出だと言われたら、そうなのかと受け入れてしまう者も出るだろう。
「私? 私はアントワのクァハバーグという領の出身よ。その領地のモンディエという街から出て来たの」
彼女に出身を尋ねると、あっさりと答えてくれた。……なんとなく返答をはぐらかされるのでは、という気がしていたが、そんな事はなかった。
お湯を沸かす為に銅の薬缶に水を注ぎながら「あなたは」と言ってくる。
「俺は山の向こうにあるピアネスの出身だよ。ピアネスの最西端にある僻地、エブラハ領の領主の子供だったが、最近領主の代わりに仕事をしていてね。それを終えたら、領主の座を義母に代わってもらう予定」
「あら、まさか領主の地位にあるなんて知らなかった」
「俺が今日ここに来たのも、その仕事のついででね。実はピアネスとベグレザを繋ぐ街道を、山を越えて作る事になってな。それをこちら側の領主と話し合ってきたんだ。
来年か再来年には、二つの国を結ぶ交易路が開通して、交流が増える事になるはずだ」
「そうなの。……けどあなたは、領主にはならないの?」
「領主にはなりたくないな。俺は冒険者でいる方が気楽でいい」
そう答えると彼女は「あなたらしい」と言いながら、毛皮の外套を脱いで長椅子の背もたれにかける。
青い絹の上着に黄緑色の長いスカートを履いた姿になると、薬缶を持って暖房器具の上にそれを置いた。
「沸くまで時間がかかるけれど、その間にお話ししましょう? ええと、まず──なぜあなたが来ると予想していたかについて、がいいかしら?」
「ああ」
彼女は長椅子に俺を座らせ、その前の長椅子に腰かけた。壁際にある低い戸棚から茶瓶や茶碗を準備する。
「あなたが来ると知らせてくれた人が居るの」
その言葉を耳にした時、またしても巫術師の預言者が現れたのかと訝かしんだ。
「それは私の故郷の友人で、ずいぶん久しぶりに再会したのだけれど、こんなふうに言っていたわ。『レギという男を知っているでしょう? その男が近くあなたの元を訪れるはず。その時にこの手紙を渡してくれない?』そして、これを手渡してきたの」
そう言いながら戸棚の中から小さな封筒を取り出す。封筒は一部が膨らみ、なにか小さな物が入れられているようだ。
「はい」ライカはそう言って封筒を差し出してきた。
俺はそれを受け取り、小さな封筒の封蝋を確認した。──小さな灰色の封蝋。それは粗末な封蝋という訳ではなく、わざと灰色に染料した封蝋だった。
封蝋には奇妙な印が捺され、簡単な呪術が仕込まれているのを感じた。──だが、危険な呪術が掛かっているのではなく、おそらく手渡したい相手にのみ安全に開封される仕組みになっているのだ。
(つまり、中身を第三者に見られたくないという事か)
封筒を開いて中の紙切れと、一つの指輪を取り出した。
紙には簡単な地図が描かれ、目的の場所とおおよその時間が書かれていた。──その他にはなにも書かれておらず、差出人の名も、なぜ俺を呼ぶのかといった理由すら書かれていない。
だが、指輪を見れば相手が何者かは判った。
その指輪は紅玉、紫水晶、青玉の三つの石が付けられた指輪。──そう、魔女王ディナカペラの盟友である証。「三宝飾の指輪」だったのだ。
つまり俺を呼び出しているライカの友人というのは、魔女王の庇護下にある魔女という事になる。
「その指輪は……?」
ライカは不思議そうに尋ねてくる。
「ああ、いや──簡単な身元証明のような物だ。これからこの指輪の持ち主の元に行って、指輪を返さなくちゃならない」
「いますぐに?」
「いや、今日の夕方に街を出れば間に合うだろう。幸い馬があるからな」
地図は街からさらに北に行った森の中に、目的地があると示していた。──時間は夜中を指定している──
「変わった友人を持っているようだな」
「そうね。私の住んでいた街を定期的に訪れる行商人の一人だったけれど。普通の行商と違って色々な事を知っている人だったわ。私がモンディエを出るきっかけを作った人と言えるかしら」
どうやら彼女は、その友人が魔女であるとは知らないらしい。
「名前? セルシャナと言っていたわ。──アントワでは珍しい名前ね」
おそらく行商のふりをして薬などを売りに来ていたのだ。普段は森や山などで生活していた魔女なのだろう。もしくは別の国から流れて来た可能性もありそうだ。
「それにしてもなぜ彼女は、あなたが来る事を知っていたのかしら」
不思議ね。そんな言葉を口にしながら、じっと俺を見つめるライカ。
「そうだな。その友人には知り合いに、優れた占い師でも居たんだろう」
俺にはその魔女が先回りしてきた理由について心当たりがあった。明らかに今回の誘いは、魔神ツェルエルヴァールムとその配下、魔女王ディナカペラからなんらかの報せがあるのだ。
そしてそれはおそらく、危険に対する警告を含んでいる。俺の直感がこの手紙からそうしたものを感じている。
「冒険者は本当に忙しないわね」
ライカは少し寂しそうな声を出すと立ち上がり、暖房器具のそばに寄ると薬缶を手にして、茶葉を入れた茶瓶にお湯を注ぎ入れた。
「そういえば、今度あなたに会ったら、言っておこうと思っていた事があるの」
彼女は思わせ振りに間を空ける。
「あなたが以前レインスノークに来た時に、街中で騒がれていた殺人鬼……、その正体はガーフィド(夜に徘徊する者)だったのだけれど」
「ああ、覚えている」
「あなたが倒して行ったあれ、その後に戦士ギルドで調査されたのだけれど、金属の不思議な円盤を持っていたそうよ」
なんでもその円盤には、なんらかの魔法の力が宿っていて、夜に徘徊する者にしか使えないようになっていたらしい。
「奴らにはそれほど高度な魔法技術がある訳じゃないと思っていたが」
認識を改める必要があるか──それとも、別の何者かが奴らに与えた力なのか。
「その円盤にはどんな力が宿っていたのかは分かったのか」
「いいえ、そこまでは分からなかったそうよ」
俺は少し考えを整理してみた。──巧みに人間に化けて街中で生息していたガーフィド。つまり……
「そうか、円盤の力を使って人間に化けていたんだな」
「ええ、ギルドのお偉方 もそう考えたみたいね」
その言葉に肩を竦める俺。
どうやら戦士ギルドのお偉方も彼女を求めてやって来るらしい。
それにしても、夜を徘徊する者にそのような力を与えた奴は、なにが目的だったのか。それを突き止める事は難しいだろう。
あれ以来、人喰いに繋がるような殺人は起きていないと言う。
「まあ、殺人はたまに起こるけれどね」
この華やかな歓楽街にもまた、人間の欲望や憎悪が渦巻いているようだった。
次話の更新はいつになるかわかりません。




