古代の至聖所
山の中腹部にある庭園に日の光が差し込む。
樹木の陰になっていて分からなかったが庭園の奥には、灰色の石で造られた精霊獣の石像が台座の上に鎮座していた。
そのそばにはいくつかの石碑が立ち並んでいる。
壁画から離れた場所がやけに広々としているのが目につき、そちらを見ると──平地のそばにあった斜面の一部が崩落していた。まるで巨大な爪に削り取られたみたいに山の一部が引き裂かれ、その近くにあったであろう樹木や人工物も、崩落に巻き込まれてしまったのだと考えられた。
麓に流れ着いた精霊獣の石像は、ここから土石流に持ち去られてしまったらしい。
深い亀裂が入ったみたいな崩落場所のそばに、人の身長ほどの石碑が立っており、やはり読めない文字と図形が彫り込まれていた。
精霊獣の石像にも、麓で見たのと同じような紋様が見て取れる。
その場を離れ、崖の壁画を見に行く途中──一つの石碑に目が止まった。そこに彫り込まれた文字は、俺にも読む事ができたのだ。
腰くらいの高さの石碑は黒っぽい色の流紋岩であり、表面が平らに磨き上げられ、無造作に地面に突き立っていた。
そこに彫り込まれていた小さな文字は古代語であり、俺にも読む事ができたのである。──そこにはこう書かれている。
{大地の力が弱くなり作物が育たなくなってきた。我々は作物の生長を助ける神の力を頼り、祈祷師に神の恩寵を賜るように願い出た。
我々の祈りに応えて現れた神は、青銅の足と鉄の足をした梟を肩に乗せ、白い法衣を着た年寄りの姿で現れた。
その神は我々の願いを聞き入れて、大地に活力を甦らせた。
木杖を持つ白い法衣の神は、梟を空に飛ばすと雨を降らせ、杖で大地を突けばたちどころに大地を黒々とした息吹で満たした。
神の恵みで、我々は飢えずに冬を越せるであろう。
遠い所からやって来た神をもてなし、我々は風と大地に感謝する。
白き法衣の神は山の中腹に精霊を奉る社を建てるよう言った。
我々は彼の神の言葉に従い、精霊を奉る為にこの場所を開拓し、大地との結びを縁に刻み込んだ。}
この文言を読んだ時、俺の中で閃くものがあった。
ここに登場する白い法衣の老神。その神が連れた梟とはアーブラゥムではないかと。いや、もしかすると、この老神こそがアーブラゥムという可能性もある。
……俺の魔術師としての直感は、後者の方を真実として感じていた。あの神が自らの使いだった者の姿を取って俺の前に現れたとしても、なんの不思議もない。
かつての神としての姿を捨てたあの魔神は、今では使い魔のような存在であった梟を模した姿をし、俺の前に現れた──そんな確信がある。
碑文の内容を目にした時、古い時代に起きた事柄について書かれた碑文を思い出した。ピアネスが国として成るより前、古代にあった国の人の手によって作られた石碑に刻まれていた言葉。
それは古い時代の終わりを告げるような、国の滅びを歌うような内容が刻まれた碑文。
{我々は雲に覆われた空を見上げる。
赤や紫に光る天空の支配者。
金鎚で岩を砕く音が響く。
苛烈なる神の御業の下で、
我々は三日三晩をふるえて過ごす。
嵐を纏って怒れる支配者が、
我々の不信心を裁きにきたのだ。}
こで「神」と訳した言葉が、本当に碑文を刻んだ者たちにとって「神」という概念だったか、それは定かではない。「上位存在」といったものだったのは間違いなさそうだが。──もしかすると邪悪な存在であった可能性もある──
「苛烈なる神の」それが危険な神を指す言葉だったのか、それともなんらかの表現、修飾語だったのか……それは俺にも分からない。──天災について書かれた言葉と受け取る学者も居たようだ──
ピアネス建国前の文明についてはやはり、詳しい事は分からないのである。
この庭園らしい場所と壁画のある山の中腹には、なんらかの神と交信する役割があったのではないか。そんな風に考えた。
そしてもしかすると、国の亡びを歌ったかのような碑文を刻んだ者と、この精霊を奉る社らしい場所を作った者たちは、同じ時代の人間であるかもしれない。
「奇妙な連関を感じるな」
背の低い石碑から離れ、壁になっている崖の前まで向かうと、左手にある精霊獣の石像の横で立ち止まり、離れた場所から壁画を壁画を観察する。
壁画には浮き彫りにされた図像が青や緑や赤といった色が塗られ、中央に位置する二本の柱の間から金色の光が広がっており、それが人々の住む家や畑などを照らしている。──そんなものが描かれていた。
……ただこの壁画は、この場所を聖域たらしめている物とは違うらしい。
この壁画が意味しているのはあくまで、古代に起きた事柄を告げるだけの意味しか持たないだろう。
この場所を清浄な空気で包んでいる力は別の場所にありそうだ。
霊域としての効力を発揮している中心。それは庭園のあるこの場所よりも山の上部に位置する場所にありそうだ。いわばこの場所は、その至聖所への入り口にあたるはずだ。
「上へ続く道を探そう」
壁画から離れて左右に視線を送る。
壁画の左側は岩の壁があり進める場所はない。
右側は崖崩れを起こした場所があり、そちらを確認してみると、崩落した場所の先に続く道が見えた。
「おいおい、道があった場所が崩落したのか」
削り取られた場所を通って道の先に行くしかなさそうだ。
崩落した場所はこの少し上の部分から始まっているらしく、広範囲が削れている訳ではない。しかし、深い溝の傾斜は簡単に降りられそうにない。なにか尖った物を地面に突き刺しながら歩いて行く方が安全だろう。
俺は影の中から鉄の槍と柄の短い槍を取り出すと、左手に短槍を持ち、右手に槍を持ち。さてどうするかと思案する。
「下る時はいっそ駆け抜けて行くか」
向こうの上り斜面もこちら側の下りも、かなり急斜面になっている。
駆け降りた勢いを利用して、向こうの斜面を駆け上がって行こうと考えた。
崩れた地面は若干やわらかい質感をしているようだが、踏みしめられる固さがある。槍の石突きで斜面の地質を確認した俺は、槍を手にして険しい斜面をどのように攻略するかを考え、覚悟を決めると上体が前のめりになる格好で、えぐれた斜面を駆け下りた。
大股で急斜面を弾むように駆け下り、崩落した地面の一番下まで来ると、今度は上りの急斜面に向かって足を踏み出し、坂道を跳ぶように駆け上がる。
崖下へ向かって落ちそうになる上体を、手にした槍を地面に突き刺しながら腕力と脚力で引き上げ、柔らかい土を爪先で踏んで体を上に向かって押し上げながら、手にした二本の槍を交互に突き刺し、急斜面を強引に上って行った。
崩落した道の反対側になんとか辿り着くと、影の倉庫に槍をしまい、上に向かう道を探す。
「お、階段だ」
崖横の道を進んだ先に、斜め上に向かって続く階段を見つけた。
黄土色の階段は固い岩を削って作られた物だ。
その階段が導く先に視線を送ると、そこには先ほどよりも多くの木々と、灰色の石柱が立っているのが見えた。
下から見上げたその柱は遠目からでも、かなり大きな物であると感じた。
「おお……」
階段を上がって行くごとにその大きさに驚かされる。
誰がこのような物を山の上にまで運んで来たのだろうか。いったい、どうやって? そんな疑問が脳裏をよぎる。
「いや、人間にはこれを運ぶ事も、ここに柱を立てる事も不可能だろう」
階段を上りきった時、俺は自然とそう呟いた。
至聖所として造られた空間には六本の巨大な柱が立っていたのだ。
四本は灰色の石から作られ、奥にある二本の柱は白色の石と黒い石で作られた物のようだ。
柱の高さはそれほどでもないが、なによりその太さが尋常じゃない。三人の大人が手を取り合っても、その柱を囲む事はできないほどの太さがある。
灰色の石柱にはそれぞれ異なる装飾が彫り込まれており、柱ひとつひとつに意味があるようだった。
「こんな巨大な物を山の中腹に運んで来るなど、北方に住むという巨人族ですら無理なんじゃないか?」
辺りには自然の中にあるとは思えぬほど独特の空気感があり、この場所には強力な結界が張られているように感じたが──
「いや、結界じゃないのか?」
この場所そのものがまるで異界とでも言えるような、そんな雰囲気すら感じていた。
「……まさか、ここは異界への入り口か?」
周囲を警戒し、魔力探知を掛けた瞬間。その視界に奇妙な揺らぎが発生し、俺は後ろに飛び退いてしまう。
身構えてその魔法の視覚に捉えられたものを調べていると、それがこの至聖所に蓄えられた霊気とでも言える物だと分かった。
「やはりここには別の領域への入り口がありそうだ」
いったい何者がこのような場所を山の中腹に建造したのか。
俺は柱に刻まれた象徴的な紋様を探りながら、柱の間を通過する。──危険な罠がないか慎重に調べながら。
至聖所にある柱には確かに精霊に関係する象徴が刻まれていた。それぞれの柱に地、水、火、風に関する紋様と、俺には理解できない図像と文字らしき物。
たとえ読めなくとも、ここにある象徴が四大属性に関係している事は朧気に理解できる。
「では、この奥の二つの柱が意味するものは……」
俺はそう呟きながら、奥にある二本の石柱に近づいて行った。
そこには大理石で作られた柱がある。
艶やかな白い柱にもなにかが彫り込まれているが、今まで見たのと違った紋様が刻まれている事だけは分かった。──黒い大理石の柱にも似たような紋様が彫られている。
しかし、その意味するものがなんなのかは分からない。
「魔法に関する象徴──であるようだが……」
精霊の力に関する柱四本と、二本の色の異なる柱。
それが意味するものについて考えていたが、単純な光と闇を表す象徴ではなさそうだ。
この白と黒の柱はどちらかというと、世界の均衡を意味しているように思われた。
柱の周りをぐるりと回りながら調べたが、白と黒の柱には同じ紋様が彫り込まれているのだ。この柱が対立する光と闇を表すとしたら、まったく同じ紋様が彫り込まれているというのは不自然だろう。
この六本の柱からは特別な力が放たれている訳ではないが、周囲に特殊な力場を形成する役割を負っているのは明らかで、それがこの至聖所を清浄な空気で包んでいるに違いなかった。……にもかかわらず、やはりこの柱自体には、魔力も精霊と関わりのある力も感じる事はなかった。
「結界とは違うものが張られているようだが」
辺り一帯を支配する空気は、山の頂きに近いような澄み切った、汚れのないもののように感じる。
俺は柱を調べながら、それと同調しているらしい至聖所の保護幕のような力に気づいた。
それは魔力で制御されているのではなく、精霊の──あるいはそれよりももっと身近な、自然世界にある不可思議な、霊的力に干渉するものだと思われた。
あまりに繊細で、まったく知覚する事のできないものでありながら、それを感じ取る事はできるという、不思議な力に包まれているのだ。
「この力の源はいったい……」
さらに周囲の力場を調べようとしたとき、不穏な気配がその領域の中に侵入して来たのが俺にも伝わった。
俺が歩いて来た方向とは逆の方向から、そいつは至聖所に侵入して来たのだ。
「苛烈なる(レイン)」この言葉がのちにも出てくる予定ですが──おそらくそこにいく前に、レギの冒険は一つの幕引きを迎えるでしょう。
柱に不思議な力があるのは確かで、読めない文字紋様と古代語二種類が存在するのにも理由があります。




