冥界からの脱出
部屋の中にはいくつかの祭壇が建っていて、二階建ての建物くらいの高さの場所に、それぞれ形の異なる石像が置かれていた。
石像の足下に置かれた物や、手に持った物からは、特徴の異なる魔力が感じられ、その一つ一つが途轍もない力を持ったものであると分かり、恐怖に近いものが腹の底から沸き起こってくる。
ここは冥府にある「神々の牢獄」であるのかと、畏怖に近いものをその場に感じた。何故、これらの力あるものが封印されているのか。──しかも冥府に。どうやらこの世界には、自分がまだ理解できぬ神々の理が根差しているらしい。
大きな宮殿の中の一室と考えると、この部屋自体は、さしたる広さの部屋ではないだろう。しかし自分にとっては大きな部屋だ。祭壇に上がるだけでも一苦労だ。
魔眼が目的の魔力を捉えている。──その祭壇の近くまで行くと、下から石像を見上げる。見慣れない装飾を施された人型の石像だ、四本の腕を持つ、異国の鬼神を思わせる像であり、それぞれの腕に剣や槍、鎌に小さな棒の様な武器を握り締めている。
その像は下を向いて、何やら考え込んでいる様子で目を閉じ、片膝を折って屈み込んでいる。籠手や具足を身に付け、胸当てに似た防具を着込んでいる石像の足下に魔力の反応があった。
そこまで登って行くには、祭壇の装飾を指や手で掴んで上まで上がるしかなさそうだ。ほんの少し傾斜がある為に、祭壇を上がるのはそれほど苦労はしないだろうが、どうも嫌な予感がする。
祭壇の上に配置されている、それぞれの石像は何を意味しているのか、あれだけ大きな石像が襲い掛かって来たら逃げるしかない。
だが、十中八九動き出すだろうという確信がある。むしろここまで何事もなく入り込めたのが不思議なくらいだ、俺は出口までの距離や祭壇の高さなどを考えて、いざという時の対応を考えておく。
覚悟を決めると祭壇に手を掛けて、石像の側面から慎重に上がり始める。
出っ張りの部分に指を掛けて身体を引き上げると、足の指先で身体を支える──大丈夫だ。おそらくは高い所から落ちても、足から着地すれば大した事はないだろう、冥府の法則がどんなものかは知らないが、外部から侵入して来た俺に適用される法則は曖昧なものである──そんな気がするのだ。
祭壇に刻まれた装飾に指を掛け、どんどん上がって行く。早く上って魔神を封印した結晶を持ち帰るのだ。そして一刻も早くここを脱出しよう、そう考えて素早く行動し、ついに祭壇の上に手を掛けて登り切った。
祭壇の上に立つとかなりの高さに感じるが、いつでも飛び降りる覚悟を決めて、鬼神像の前の方へ移動する。慎重に、慎重にだ。
左膝を折って屈んだ格好をしている石像の右側から上がって来た俺は、右足の陰から、その鬼神像の前に置かれた金色に輝く結晶を見つけた。
ふう、と一息吐くと、おもむろに結晶へ近づいて結晶に手を伸ばした。かなりの大きさの結晶だ、人の頭よりも少し大きい程度の、多面体の結晶に手を伸ばすと──それは突然、光を発し、金色の結晶にひびが入ると、そのひびから銀色の光が溢れ出す。それは俺の伸ばした右腕に、銀色の塊となって絡み付いた。
冷たい! 右腕が氷の蛇にでも巻き付かれたみたいな冷たさと、痛みを感じた。銀色の光はしだいに金属質の籠手と、肩当ての様になり、俺の腕にぴったりと張り付いた。
『下へ飛べ』
頭の中に女性的な声が鳴り響いた。……ディナカペラの声ではない。
『早くしろ、死にたいのか』
上を見ると、鬼神像が赤い目を見開いて、手にした武器を構えようとしているところだ。俺は石像の横に向かって飛び、襲い掛かってきた槍の一撃をなんとか躱して床に着地した。──痛みはない。
銀色の籠手──いや、俺の腕に変化した魔神は、続けて喋り掛けてきた。
『右腕に集中しろ──お前に、この石像を打ち砕く力を与えてやる』
言われた通り右腕に集中すると、腕から掌に向かって力が集まって行くのを感じる。それは凍気の如く冷たい魔力で、掌を床に降り立った鬼神像に向けながら、ゆっくりと後退する。
『撃て』
頭の中に心象が沸き上がりその通りに俺は、石像に向かって銀色の光を撃ち出した。魔力の波動が耳障りな音を響かせて放たれると、石像の胴体を撃ち抜き、鬼神像はがらがらと音を立てて崩れ去り、重々しい音を響かせて床に崩れ落ちた。
「ばたん」と、後方から大きな音が聞こえて振り返ると、そこには「番人」が居た、百足の脚を持った奴だ。
扉の前に居た鼠はこちらへ駆け寄って来ると、俺の影の中に滑り込んで消えた。
胴体部分の蜘蛛か、甲虫を思わせる所から生え出た手足をばたつかせ、背中から生えた無数の蚯蚓が大きく口を開き、牙だらけの丸い口腔を覗かせる。
ああ、なんて気色悪い怪物なんだと怖気を震うのは止めにして、何とか奴を倒すか逃げ出そうと考えていると、再び頭の中で声がした。
『凍気の波動で凍らせる、その間に駆け抜けて一階へ飛び降りろ』
その声が言うや否や、右腕から掌に向かって魔力が流れ出す──俺は咄嗟に掌を「番人」に向けて広げ、手から猛烈な凍気を放出して、部屋に入り込んで来た「番人」を氷漬けにした。
凄まじい冷気に溢れた部屋を駆け抜け、凍った床を滑るように部屋を出た。廊下に来ると、階段のある広間に向かって通路を走り抜ける。どこかから、床板を踏みつけて近づいて来る、大きな存在の足音を感じながら。
「本当に飛び降りて平気なんだろうな!」
声に出して言うと、頭の中で魔神の声が響く。
『無論だ』
その言葉を信じるしかない、後ろからは蜘蛛の下半身を持つ「番人」が、こちらに迫りつつあるのだ。
左右に階段のある場所まで、暗い通路を突っ切って出ると、その勢いのまま一階に向かって飛び降りた──すると、開いた扉から白い何かが飛んで来るのが見えた。大きな鳥だ──いや、それは禿鷲だ。
小さな禿鷲は今や、巨大な姿になって落下する俺の下まで飛んで来ると、背中で俺を受け止めた。ぼさぼさの羽毛で受け止められて、少し痛みを感じたが、死なずに済んだらしい。冥府で死ぬのかどうかは分からないが。
禿鷲は、ぐるりと方向転換すると、ばたばたと羽を羽撃かせながら駆け出して、扉の所で上手い具合に翼を折り畳んで通過すると、柱の間を抜けて空へと飛び上がった。
庭に居た黒い番犬たちも、飛ぶ鳥に追い縋ろうと迫ったが、宮殿の門を禿鷲が抜け出ると、彼らはそれ以上は追って来なかった。
「助かったぞ、ハゲ」
俺が禿鷲の背中を叩くと、禿鷲は大きな鳴き声で「グワァ──ッ」と一声上げ、そのまま上空にある噴煙の如く、もうもうと広がる暗雲の中へと突っ込んで行った。