暗殺者オルダーナ
オーグベルムの町。そこにある貴族の館で目が覚めた。
殺意にも似た感情を多くの領民から向けられた所為か、目覚めは苦々しい感覚を伴った。まるで獣の檻の中で目覚めたような不快な感覚。
不条理な怒りや憎しみの感情が体にまとわりつき、不快な感情が心に淀みを齎したかのように。
領民のすべてがあのような愚か者たちでない事を祈りながら上体を起こす。
起きて窓の外を見ると──空はどんよりと曇っていた。
灰色の空が不気味に流れてゆく。
上空の風は強く吹いているらしい。暗雲がどろどろと空を流れ、垂れ込めた灰色の雲から、ざ──っと音を立てて白い雫を降り注がせた。
常緑樹の葉っぱ、建物の屋根を静かに濡らしていった雨はすぐに去って行った。薄幕を垂らしたような早朝の雨は、町にほんのりと霧という置き土産を残して行った。
魔剣を腰に帯びると部屋を出て、広間のある方に歩いて行く。
気の重い一日になりそうだ。
これからブラモンドの街に向かい、愚兄スキアスの支配から街を解放しなければならない。なるべく穏便にスキアスに己が犯した罪を告白させ、文官のベゼルマンにそれを聞かせてから捕らえたい──
仮に正面から武力でぶつかると言うのなら、それでも構わないのだが。
どうせ相手の戦力なんてたかが知れている。──もちろんその場合、市民に犠牲者が出るだろう──
愚兄の始末をこの手でつけるのにも躊躇う気はない。
できれば兄弟同士で争い、領地を奪還したなどという「不名誉な功績」を残したくはないが。
領地の管理は俺以外の人間に任せるつもりだが、領民からしても、領主の子息たちが争い合った結果、その勝利者が領地を支配しているなどと考えたくはないはずだ。
そんな形で領主になった者を誇らしく思い、頼りにできるだろうか? 多くの民から恐れられる結果に終わるだろう。──それではそのあとの統治にも問題が出てしまう。
クーゼたちにも領地の管理を任せるのだ。あまり問題のある方法で領地を奪還する訳にもいかないのである。
「おはよう」とアルマが声をかけてきた。
「ああ、おはよう」
眠れた? という問いに俺は首を竦めた。──今朝の目覚めの重さは、最近味わった事のない感覚だった。大勢の他人が向ける不愉快な感情によって、ここまで心にしこりを残すとは思わなかったのだ。
(昨晩の上位領域への冒険の余韻が台なしだ)
「朝食は?」
俺は話題を変えようと思った。
「眠れなかったみたいね」
俺は曖昧な笑顔で答え、幼なじみ連れられて食堂へ向かう。
「簡単な朝食しか用意してないからね」
「それでいい」
食堂に来るとそこには誰も居なかった。
どうやら皆、疲れて寝過ごしているようだ。
俺が固い黒パンと、トマトを豊富に使ったどろりとした汁物を食べ終えると、のろのろとクーゼと文官と、その護衛が現れた。
挨拶もそこそこにして、朝食を食べながら文官は馬車の用意をしたら、すぐにブラモンドへ向かいましょうと言う。
「そうだな」
「向こうにはぼくたちに手を貸してくれる人が待っている。その人の家に案内するよ」
クーゼはそう言うと、真剣な表情でもちらを見た。
親友も商人の代表としてスキアスと対話をするつもりなのだ。話すだけ無駄だと思うのだが、お茶を出されても口にするなとは言っておく。
こうして朝食を食べ終え、俺たちは支度をすると馬車に乗り込み、アルマに見送られながら、二時間と離れていないエブラハ領最大の街ブラモンドへと向かったのである。
その道すがらで改めて今回の領主の地位を奪還する作戦について、「自分が行動するので手を出すな」と説明しておいた。
「本当に大丈夫なのか」
「毒の事か? 問題ない。毒についての知識なら俺に一日の長があるからな。ともかくお前と文官殿は、スキアスのおこなった事を確認すればいい」
「それについてもですが、相手は傭兵を雇い入れているのでしょう? そちらはどうするつもりですか」
文官は必要とあらば護衛たちの力を使うつもりだろうが、あくまで自分の身を守る事を優先させるだろう。
「ああ、それについても考えてある。大丈夫だ」
相手の傭兵がどれほどの実力者かは知らないが、ここエブラハ領くんだりまで来るような暇な連中だ。そんな手合いなど、魔導師である俺にはいくらでも無力化する手段があるのだから。
馬車の外には見覚えのある景色が目に入るようになってきた。それは懐かしさを感じさせると同時に、いよいよ過去の呪わしい記憶とも対峙するのだという気持ちにさせる。
もう数年も合っていない愚兄の顔が脳裏に浮かぶ。
ジウトーアの間の抜けた顔。相手の嫌がる事をしている時のあの嫌らしい笑み。まるで知性のかけらもない小鬼が、自らの勝利を確信しているかのような愉悦に満ちた気味の悪い笑み。──あの愚か者がすでに死んだという。
調べるまでもなく、長男スキアスによって毒殺されたのは目に見えている。
間抜けな次男坊は間抜けなままくたばったのだ。
欠伸が出るほど退屈な事実だった。
それを報された時の俺の心境は、そんなものをいちいち知らせてくれるなんて、まるで靴の汚れに気づいた人が、その汚れを丁寧に拭いてくれたような気分だ。
「あなたがそんな事をする必要はないのですよ」
そんな風に言ってやりたい。──まあ、その一報をくれたのは親友だったのだが。
まさか近所の道ばたに虫が死んでいたからといって、それをわざわざ見せに来るような暇人は居ないだろう。居たとしてもよほど暇な子供だけだ。
エブラハ領でも珍しい、瑠璃色玉虫の死骸なら話題にもなるが、道ばたの油虫の死骸など誰も見向きもしない。
現に、こうしてエブラハ領に戻って来た俺に対して、兄のジウトーアの死を嘆く者など一人として会っていない。
鏡に映る奴だって、そんな奴の事をすっかり忘れていたくらいだったろう。
民衆たちには「さっさとスキアスも死ねばいいのに」と、陰でそんな風に言われているに違いない。──まったく同感だが(口さがない彼らの口からは俺の名前も挙がっているだろう──)。
俺が二人の兄に心の中で悪態を吐いていると、そろそろ街を囲む灰色の壁が見えて来た。
薄雲の上に正午の日の光が昇っているのが見えた。
街の門へと続く道の先に、二人の門番らしい男たちが立っているのが見える。
「傭兵か?」
「いえ、以前から街を守っている自警団の者たちです」
御者は怪しまれないように、オーグベルムに居た商人に任せていた。街の門を抜けるのは彼ら街の人間に任せた方がいい。
さらにこの粗末な馬車の後方からは、商人の使う荷車に乗った数人の市民(民兵)が居る。──彼らは昨日、集会所で俺に協力し、スキアスの傭兵と事を構える覚悟があると名乗り出た連中だ。
彼らの荷車には武器が隠され、街中に入って俺たちとは異なる場所で待機するように指示してある。
馬を操りながら門まで進むと、御者席から門を守っていた男たちに話しかけ、すんなりと街の中へと入る事ができたのだ。──まるで無警戒なのが、スキアスに対する信用の低さを表しているようだ。
粗末な金属の胸当てと、穂先がくすんだ色をした槍を手にした警備の男たち。
いつ彼らが裏切ってスキアスを捕縛するか──傭兵さえ居なければ、すでに解決していた話かもしれない。そういう意味では、スキアスが傭兵を雇って身を守るという手段は功を奏したと言える。
街の中を進む馬車。──街は寂れ、人の姿はまるで見当たらない。記憶の中にあるこの街は、いつも人の往来の絶えない活気のある場所だったが。
「それでは裏通りを進みます」
御者はそう言って手助けをしてくれる人物のところに向かい、その家の近くで馬車を降りた。
どの道も人通りはない。
大通りの奥にある酒場と宿が傭兵たちの拠点となっているらしいが、スキアスが占領しているエーデンドレイクの邸宅は、この街に用意された俺の家系の者がこの街に寄った際に泊まる、中くらいの屋敷だ。──本邸はここよりも奥まった場所に位置する、山に近い小さな町の中にあるのだ。
手を貸してくれるという人物というのは、クーゼと同じくこの街で商売をしていた人物だった。商人たちは数人この街に残っているが、街を出て退避してしまった者も居るらしい。
「なにしろスキアスの所為で、商売すらまともにさせてはもらえんです……」
そうした愚痴もこぼれるというものだ。
俺は別邸の周辺を警戒している傭兵の居場所を聞くと。しばらくしたら俺とクーゼ、ベゼルマンと護衛の一人を連れて別邸に向かおうと切り出す。
「正面から入るのか?」
「ああ、だがその前に──ちょっと用を片づけてくる。それが終わったらスキアスの所へ向かおう」
俺は「少し庭に出る」と言って立ち上がり、一人で民家を出た。
庭に出た俺は影の中から幽鬼兵を呼び出す。
革鎧の女戦士「オルダーナ」は、暗殺などの隠密行動も得意だからだ。
「これからこの場所に向かい、中に居る傭兵たちを行動不能にしろ」
頭の中に思い描いた心象を受け、目隠しを付けた女が頷く。
「難しいかもしれないが、極力殺すな。やむを得ない場合は殺害して構わない。あと、スキアスの周辺に隠れている護衛は無視しても構わない。──あとで対処するよう指示を出す。……では行け」
そう命令を発すると、彼女は音も立てずに家を囲む壁を飛び越え、目的を果たしに行く。
その身のこなしを見ただけで、彼女がどれだけの仕事に従事してきたかが窺われた。あれだけの動きをしながら物音一つ立てない技量。
屋敷に侵入し、敵を制圧するまでどれくらいかかるか。彼女との無意識領域──死者である彼女にあるのは「疑似的な無意識領域」であるが──を繋げたまま、その動向を見守る事にした。
屋敷まで素早い動きで接近すると、人の見張っていない場所をすぐに探り当て、壁を一瞬で飛び越えて庭へと侵入する。
そのまま身を低くして建物の影に溶け込み、開いていた窓の小さな隙間からするりと建物内へ侵入を果たした。
(うえっ……、あの隙間を……!)
ぼんやりと彼女の視界(目で見ているのではない)に数人の反応が映る。──魔法の目を持っているようだ。
まるで壁を透過するみたいに人影が見える。
生命探知の視覚と似ているが、壁や周辺にある物体もはっきりと認識できるのだった。
侍女らしい姿も確認できるので、彼女らに手を出さないよう念を送る。
オルダーナは一人で居る護衛に近づくと、その部屋の中へ入って行く。まるでドアが勝手に彼女を迎え入れるみたいに音もなく開き、影の一部となったかのように傭兵の背後から近づくと、首の付け根を狙って一撃を打ち込む。
男を気絶させると、彼女は腕と足を紐で縛り始める。──どこから出したかは知らないが、細い頑丈そうな紐で、あっと言う間に拘束する。
そうして次の目標の下へと向かって行った。
「どうした? なにを立ち尽くしてる?」
不意に声がかけられた。──どうやらクーゼが心配になって庭まで出て来たらしい。
「ああ、いや……」
俺は女戦士との繋がりを弱め、彼女が何人の傭兵を無力化したかを把握できるだけの繋がりを残しておく。
「そろそろ愚兄のもとへ向かおうか。たぶん大丈夫なはずだ」
「……? そうか、わかった」
クーゼは腑に落ちないものを感じながらも、俺の態度の中にはっきりとした「仕掛け」のようなものに気づいたのだろう。大人しく引き下がっていく。
俺が庭から室内に戻る頃には、エーデンドレイク別邸の中に居る傭兵たちのほとんどが無力化されていた。
俺は女戦士オルダーナに建物の中に隠れているよう指示を出す。
もはやあの邸宅で行動できる者は二人の傭兵とスキアスだけだった。それを残したのはスキアスに疑われない為だ。
俺はクーゼと文官を従えて別邸に向かった。
文官は別邸の周辺に護衛を数名配置し、いつでも制圧行動に移れるよう待機させている。……まあその必要もないだろうが。
もう奴に逃げ場はない。
あとはあいつが華麗に馬脚を露わすところを文官に見届けさせるだけだ。
そして奴の犯した過去の悪行についても白日の下に暴き出してやる。
いよいよスキアスとの対峙する場面ですか……この章もそろそろ終幕かな。




