神の領域に触れるという事
今回の内容はかなり曖昧かつ複雑で、宗教学や神秘学の内容を含みます。
理解できなくても仕方ない内容です。斜め読みしてくださって構いません。
しかしある程度は複雑な物事を簡略化して、こうした神秘学的な内容に関するイメージを理解できるようにもしたつもりです。興味のある方は想像力を鍛えるつもりでお読みください。
精神の世界と、神々の存在に関わる創造的な文章を目指しましたが、まだまだ詰めが甘いかもしれません。
「なぜだ」
やはり光体で完全な「肉体」を形成しなければならないのか?
高次元の理を理解する為に光体を調べはしたが、上位世界の方法論がなんなのかは光体の研究だけでは分からないのだ。
光体の中に意識を移行──投射──すれば、例の「精神の断絶」には引っかからないのに、なぜ霊的上位者の領域に踏み込めないのか。
上位世界には下位世界の不純物を弾く障壁があるらしい。
しかし──魔導師となった俺の精神でも弾かれるというのなら、それは完全に「上位存在」の精神を手に入れた者しか入れないではないか。
そんな焦躁を感じながら思案する。
「むっ、そうだ」
魔導書の一節を思い出す。
「神なる叡智は男女であり、命にして光である。火と霊気から成る神々は感覚で把握される世界を星辰界で包んでいて、その支配は運命と呼ばれている。
運命と摂理によって人間は身体のゆえに死ぬべき者であり、本質的人間のゆえに不死なる者である」
それは人間が世界の摂理によって死ぬ存在であると説きながら、その霊的本質は不死であると説いている。──重要なのは、その不死なる部分についての思索だ。
その魔導書では続いてこうも説く。
「世界は神性より成れり。世界のうちにあるものは世界によってある。世界は秩序と呼ばれるに相応しい。なぜならそれが万物を、生成の多様性、命の連続性、作用の持続性、天体の運行、元素の結合、生成物の配列とによって秩序づけているからである」
世界の秩序に従って肉体は滅びるが、その神性より発生した本質的人間は滅びない。ただしそれは、その本質について理解した者だけであるとも説く。
「自己を知解した者は神に還る」
と説明する。
この「神への再生」こそ、上位領域へ昇華する事を意味しているのだろう。動物的、人間的、物質的束縛から解放され、「新たなる認識(叡智)」の下に神の領域へと還る。
新たなる認識を得るには、今までの身体ではなく完全に別の身体──神の躯が必要だという事だ。
「身体と知性──それらを以てしても駄目ならば……」
認識というのは理解する事、知覚する事だ。
知性を確実なものとする理性は、認識する力を拡充させ、より広く深い領域へ自分を持って行く。
もちろんこの魔導書に書かれている事は、当時の──かなり古い時代の──宗教的な思想から生まれたものだというのを差し引いたとしても、かなり魔術的に深遠な意味を持った言葉が書かれている。
霊的な世界に切り込む知性の刃が神秘の面紗を切り裂いて、その奥にある真理を引き出す。
魔術の奥義はあらゆる認知と理解。
理論を自らの内に取り込み、それを実践する活動力を示す。
上位の霊的な躯を造るだけでは不十分なのだ。
その領域で知覚する能力を持ち、そこでの活動をおこなえる霊的存在にならなければ。
「器」に手足を生やすような真似では駄目だ。
器に叡智を注ぎ、霊的存在として成り立たなければ上位界に入れたとしても、たちまち自らを消失し、露と消えるだろう。──まるで、火しか存在を許されない場所に落ちた水滴のごとく。
ならばその上位世界の理を陽炎のように写し取り、自らの霊質に纏わせて障壁を越えればいいのだ。──それは冥界に降りた時に「死の衣」を着たのと同じ。
そう──自らの意識領域を、上位の神的領域とでも言うべき高次世界に適合させなければならなかったのだ。
それはただの偽装ではなく、魔術師の意識を昇華させ──上位の領域に向けてそれを投射する。
上位世界への扉を開く鍵。それは自らの魂を、霊質を変化させて形作る事で手に入れられるのだ。
神々の領域へ意識を押し進め、そこで自らの意識を保護する為の新たな躯(霊体)。それを構築するのに時間がかかった。
なぜならそこへ到達するまでに、いくつもの障壁とも言える領域を越えなければならなかったからだ。──それに合わせ、霊的な質を変容させねばならない──
自己の魂魄に集中し、段階的に高次の領域へと己を引き上げる作業。
それは長らく俺が取り組んできた魔術的作業でもあり、新たなる地平──高次領域へと続く道を切り開く大いなる作業であった。
だが──そこには危険もある。
高次領域には低次元存在の侵入を拒む力が働くのだ。それは世界の理──断絶として現れているかのようだ。高次世界までに立ち塞がるいくつもの壁。あるいは断層が、下位存在を捕らえようとしてくるみたいに。
(この分だと高次の領域はおそらく、人間の自我を容赦なく取り込み、広大無辺の精神領域に飲み込もうとするだろう)
俺は警戒しながら領域を上昇し、高次世界で新たな躯の生成を始めた。
魔神ネブロムが俺に託してくれた力を使い、光体からなる新たな躯を手に入れた。これがあれば、さらなる魔導の極みへと迫り、さらには神々の力の根源にも迫れるかもしれない。
俺はわくわくと、そして心臓がざわざわと怖気を震うような感覚に襲われる。
その感覚は恐怖に似ていたが、興奮や恍惚とした感情にも似ていた。
自分が何者であったかを初めて理解したような、そんな気持ちに包まれた。
「まさか、学生時代に感じたあの──魔術領域を開いた時よりも、ずっと心躍る瞬間がやってこようとは!」
魔術領域や神霊領域を手に入れた時よりも激しい達成感。
あるいは法悦とでも言うべきものを俺は感じていた。──自身が目的としていたものに、はっきりと手がかかったのだ。
高次の体を手に入れて俺は改めて気がついた。
思考は脳の奴隷であり、欲望は肉体の奴隷であると。
低次領域の……つまり肉の体に閉じ込められた魂は、法の名の下に意思をがんじがらめにされ、秩序の名の下に隷属を余儀なくされる。
思考は脳に制限され、感覚によって低次世界に囚われる。
己の意思を高次領域に投射し、自らを狭い領域に閉じ込めようとする力に抵抗する。──でなければ克己は成されない。
魂を檻に閉じ込めようとするあらゆる誘惑や環境を退け、世界より己を解き放たなければならないのだ。
「魔術は確かに意識の高次化を促した。……しかしそれだけで満足してはいけなかったのだ。さらなる高次領域への飛翔。己の意識体を昇華するほどの研鑽。──それは個の消滅と再生。俺は新たな俺を発見し、生まれ変わった!」
神域の中で俺は吼えた。
だがこの感覚は危険なものでもあった。高次領域には無限の霊的清浄──または、その正反対の混沌が世界を二分しているかのようだ。
それは光と影であると同時に、渦巻く一つの混沌。純然たる合一の霊的支配。
そこには破壊と生成があり、混乱と秩序がある。──秩序と混沌──それらは異質なもの同士であり、この領域を満たす共通する力の一端なのである。
この領域を「見回せば」、そこには永遠に続く闇と、数々の光輝く力に満ちていた。
遠くに見えるものは──まるで白光する大きな星の様に、深淵を照らし出すまばゆい神性の光のごとく、燃え盛る天上の知性がいくつもの光の柱を闇に迸らせていた。
かと思えば膨大な闇が広がる場所には、蠢き轟く暗黒の領域に七色の暗色が淀みを作り出し、あらゆる悪と欲望を孕んで蠢き、狂瀾の中から新たな邪悪を生み出さんとするかのごとく、歪みの中から低い音を響かせている。
ここには光と闇が絡み合い、それらが対立したり、合一したりしながら──悪夢のような光景を生み出しつつ。なにか決定的な破滅を避けようとするみたいに逃げたり、攻撃し合ったりしているようである。
この領域には光であれ闇であれ、あるいは神的であれ、その反対にあるものであれ、それらは対立と合一を繰り返すくらいには似通ったものであるのだ。
もしこの神的な力の介入を自己の意識にあふれさせ続ければ、俺の意識領域は飽和し、人間としての意識を消滅させ、俺は──神々のような霊的事象の一部として消え去ってしまったかもしれない。
それでは困るのだ。
俺はあくまで人間の──人類の一部であり続け、さらにその人間的意識領域からも脱却するという、曖昧かつ複合的な存在にならなければならないのだから。
下級の霊的存在としてでなく、高位の──より高次の霊的存在になるべく、俺は劣等な肉体的、感覚的、感情的な「個」としても存在し続ける。
簡単に人間を捨てて、ただ高次の意識体に交わって消滅するかのように同一化される訳にはいかない。
それこそ人間的な「自我」であり、それは低級でありながらも、たった一つの小さな存在からあらゆる価値を知り、憧憬と挑戦心をもって、大いなる作業に従事する存在としての「個我(自己)」なのだ。
それを簡単に手放す訳にはいかない。小さき者には小さき者なりの誇りがある。
それが神々には臆病者の戯言としか理解できずとも。俺の魂の秤にかけて、徒や疎かにはできない。簡単にその想いを譲りはしない。
俺は光体を定めるとその高次領域に居場所を確定し、まずは身を守り、己の霊的所在をはっきりとさせる為に神霊領域に戻ってきた。
高次領域での作業で多くの力の根源について学び取れ、新たな発見をした。魔神から得た力を礎に光体を手に入れた事によって、俺は魔神ファギウベテスの力も取り込む事ができるようになっていた。
ただそれは上位領域の光体に取り込まれた力であって、その力を下位次元である物質界で振るえるかというと、決してそう簡単にはいかない。
上位の領域にある力をそのまま下位世界で実行できる訳ではないのだ。
物質界で光体を使おうとすると、次元の異なる領域で行動させる為に、どんどん力を失っていくだろう。──魔力の消費だけで済むならいいが、おそらく光体も弱体化したり、あるいは消滅する可能性もある。
魔神などが物質界で活動する時、半物質的な躯を形成しているのは、光体と繋がる物質的な肉体を形作っているからだ(幽体や魔魂体に近いものだろう)。
光体としての「本体」は高次元に存在し、半物質的な躯は物質や魔力(魔素)と融和した光体の一部に過ぎない。
だから物質界に現れた魔神を倒しても、その本体である高次元領域の光体を破壊できなければ、何度でも力を取り戻し、再び物質界に顕現できるのだ。
それと同じで、光体に俺の魂を移しておけば、物質的な俺の肉体が消滅しても、光体の躯で復活できるはずだ。──だが、そう簡単にはいきそうにない。
「……やはりここにも『断絶の力』が効力を発揮するようだ」
やはりこの力は外部にあるのではなく、人間の魂に結びつけられたものなのだ。
光体に俺の意識を移しても、それは一時的にしか無理なのだ。つまり俺の意識を光体に移し、そこから肉体に繋がった意識体(別の自我)を分ける事はできないのだ。
今の俺には光体と肉体、その両方に意識体を置く事は不可能。
俺の意識を分裂させて上位領域と下位領域の二つに──同時に存在する事はできない。
やはり魔神などの神々の在り様と、人間の存在では霊的な性質からして違うのだ。
──それでもなんとかして、光体に自分の精神や力の復元をおこなえる状態を確立しておきたい。それが叶えば転生よりも確実な「存在の維持」の方法を手に入れた事になる。
上位存在の根源的な在り様は、人間との歴然とした違いを思い知らされた。
上位存在の意識は、分裂可能な自己増殖型とでも言えるものなのかもしれない。
彼らは複数の場所に同時に存在する事も可能であり、その力が大きければ大きいほど、無限に存在する事が可能なのだ。時間的にも、空間的にも。
意識体が複数あっても矛盾しない統一性と秩序。──霊的合一性。
個であり全てを包含する者。
一にして全なる者。
まさに神とは絶対的な存在なのであろう。
ただしそれは一つの人格を有するものではなく、無限の中にある一つの「在る」ものとして合一化された超然たる全体存在。
小さな個人の意識しか持たない人間など、彼らの意識に交わった瞬間──たちまち神的合一の中に溶け込んでしまうだろう。その完全な神的合一の中に交わってしまえば、人間個人の存在など、強大な霊的存在の影に埋もれ、あってもなくても変わらないものとなってしまう。
──だからこそそこには人々を引き込む無限の喜びと、遍く恐怖が混在しているのだ──
通常の人の死は、その個性の消失に他ならない。
死によって再生されるのはあくまで肉体に宿る有機的な生産物としての物理現象に過ぎず、魂は再生産されるとしても、それは世界霊的な大いなる構造的枠組みの中に飲み込まれ、記録され、消失し、新たな魂として再利用されるのだ。
ところが死を通じて再生される新たな命とは違い、高次元の霊的合一とは、霊域の究極的な昇華に入り込む。そこでは神と一体となり、個としての我は、大海に落ちた水滴のように溶け込んでしまう。
それは個我を失うという意味とは違うかもしれない。なぜなら神となる(神的合一)ということを意味するからだ。
永遠の一者になるという事ならば、ある種の魔導師が望む願いの極致には合致する。
個人的な存在から、全体的な霊的存在へと統合される──、それもまた魂の昇華といったものであろう。
精霊のような、世界の秩序機構としての力を司る存在へと変貌するのだろうか。
光体を必要とする高次領域。その第一層に踏み込んだばかりだが、そこには神の力に類する混沌があるばかりだった。
この領域は俺にとっては危険な世界だ──個人としての存在が奪われてしまう。これからは慎重にこの領域での作業を進めなければ。
高次領域に取り込まれてしまわぬように、慎重に──
魔導書の一文は『ヘルメス文書』の内容の一部を変更して書いたものになっています。
興味のある方は古代グノーシス主義などを調べてみてください。




