アーシェンから魔法の鏡について聞く
魔女アーシェンが住むという建物のドアを叩く。二階建ての──屋根裏部屋もありそうな、比較的大きな建物には、呼び鈴らしい物は付けられていない。
なかなかドアが開かないので俺は強めにドアを叩いた。
すると中から足音らしいものが聞こえてきた。
「はいはい──どなた?」
ドアがほんの少し開き、中から女の声が聞こえてくる。
「レギスヴァーティだ。俺を覚えているか」
そう言うとドアは大きく開けられ、中から赤い衣服を着たアーシェンが姿を見せた。彼女は冥府にあるからといって、死人のような姿はしておらず、肌の色は白かったが、表情は生気に満ちていた。
「あら、お久しぶりね。もちろん覚えているわ。──どうぞ、中に入って」
彼女の招きに応じて室内に入る。そこは生活感にあふれた居間になっていて、暖炉まで設置されていた。
皮張りの長椅子や揺り椅子などもあり、床の一部に敷かれた丸形の絨毯の下は古びた床板が見えている。絨毯の上には丸テーブルと三つの椅子が置かれ、彼女はそこに座るように言う。
「ここを訪ねて来たという事は、私になにか手伝える事があるのね?」
「ああ、実は、影の魔術について聞きたいんだ」
幽影領域を作り、そこに入り込む事まではできたのだが、影の中に入ると外界の様子が見えなくなるし、影を移動させる事もできないのだと説明する。
「ああ──そういう事。……けれど、私もそんなに影の操作がうまくできた訳じゃないわ。邪神の力によって生み出されたあの化け物は、私の力を取り込んでそれを自在に操っていたようだけど、私は影の中に入って、外の世界を視認するくらいしかできていなかったから」
そうだったのかと俺は頷き、なら影の中から外を確認する方法について聞き出そうとした。
「それは『魔法の鏡』を持って入るだけよ。──魔法の鏡は、持ち主の思い描いた場所を鏡の中に映し出す魔導具で、高位の魔女や錬金術師なら造れる物よ」
その鏡を幽影領域の中に取り込んで影の一部を鏡面化し、そこから外の様子を見えるようにするのだと彼女は言う。
「なるほど、理解した──が、その魔法の鏡とやらの作り方が分からない」
「それなら素材については知っているわ。ただ──魔法の鏡を作るには、複雑な術式を構成する魔法陣と、それを制御する技術がいるの」
彼女が説明してくれた魔術の術式は断片的で、誤りも含まれているものだと感じた。
(優れた魔術師は直感的に正否を判断できるものだ)
俺の持つ錬金術の知識と併せて、彼女の示した魔法の鏡の生成方法に修正を加える。
「使用する素材を考慮すると、君の提示した術式は錬金術の下級技術を応用したもので、それよりも中級錬金術の方法で試した方がいいだろう。手順は簡略化される反面、難易度は高くなってしまうが、こちらの方が結局は成功率が高くなるはず」
アーシェンは「なるほど……」と感心した様子で頷く。
正しい魔法の鏡の生成手順を導き出し、それを紙に書き写すアーシェン。
「助かるわ。──まあ、今の私は、転生の秘術についての研究をすべきなんでしょうけど」
「転生か──」
それについていくらかの知識を持っているが、それを安易に話す訳にはいかない。独力で追求する作業は必要だ。死の峡谷を越えて存在する意志を示さなければ、いくら技術や知識があったとしても、その願いは己のものになりはしない。
霊的希求が弱ければ、魂は死の波に飲まれて消滅する。逆らいようのない滅びの囁きを回避するには、己の自我を完全なまでに磨き上げ、独自の個我として作り上げなければならない。
薄っぺらい日和見主義者が、困難な暴風と荒波を越えて生き残れるだろうか? ──そんなものは否である。
物体の影にしかなれない連中は、その存在の欠片すら世界に留まる事を赦されず、幻の様に消えてゆくのが関の山だ。
転生の秘術とは、自身の存在の根幹を把握し、己の魂の有り様を決定づけ、己の知性をいかに真理と結びつけられるか。
世界の理解と己の理解を一つの真実の光で照らし出す。転生とはそのような、高度な領域でおこなわれることなのだ。知性のない者や無思慮なる者の入り込む余地などない。
研ぎ澄まされた魂の保持者。そうした存在だけが、死の消滅を免れる機会を得られるのだ。
力もなく、意思も弱い者が転生したところで、いったいなんの意味があるというのだ? また以前のように、無為な人生を繰り返すだけだろう。
「魔法の鏡は──たぶんこれで、生成が可能なはず」
アーシェンがそう言って紙に書いた物を見せてくる。
「なるほど、──うん。その術式を見て確信した。おそらく鏡を作らなくとも、影自体に同じ構成要素の術式を書き込めば──。影の中から外の様子を確認する力を発動させる事ができるだろう」
彼女は首を傾げ、自分の書き記したものを見る。
まだ彼女にはその呪術的な力の儀式的な意味合いについて理解するには、多くの知識と経験が必要なようだ。……俺は多くの死者の経験と知識を取り込み、すでに彼女よりも数歩先へと進んだ魔術師となっていたのだ。
ただ、彼女の持つ魔女としての知識は、通常の魔術師とは異なる分野に対する理解が秀でているらしい。影の魔術を自在に操る魔術は、並の魔術師には触れられない力でもある。
魔術の一形式でありながら、その出自を異にする形態。魔女の行使する魔術は古い形式の、呪術や巫術に由来する部分が多いらしい。
「ともかく助かった。影の魔術に関しては、なかなか不明瞭な術式が多く困っていたんだ」
それなら良かった。彼女がそう口にした時、外からなにやら騒がしい足音が聞こえてきた。
「──なにかな」
「空にかかる雲が晴れ始めたのでしょう。それで走っているんだわ」
ばたばたばたっ──その足音からは、慌てている人の足音と言うよりも、理性を失って錯乱している山羊かなにかが地面をのた打ち回っているような想像をさせた。
──ばたぁんっ
ドアの向こうから、乱暴に閉じられた別のドアの音が聞こえてきた。
し──んと静まり返る冥府の街。
ここには禍以外の来訪者が居るのだろうかと、ふと考える。
死んだあとでも不幸が襲いかかるのが、冥府にある街の現実。この街には研究者である魔術師ばかりが存在するはず。
いわば魂の自由な研究者たちだ。
多くの人間は感覚的な快楽の方が、感情的な愉悦の方が、魂の自由などよりも重要だと考えるだろうが、魔術師であるならば、己の研究対象に対する奉仕の方が大切であろう。
それはまさに宗教者が神に仕えるのと同様に──いや、それ以上に崇高で、価値のある法悦を得られるのだ。
ただ力を取り入れるだけが魔術師ではない。
知識欲の究極も魔術であるし、それと同じく自らの魂の探求も、大いなる作業の一つに他ならない。
真実の中にこそ己の信実が宿る。
偽り事の中に埋もれた魂に信実は宿らない。
死後の世界に意識を繋ぐ理由が、ただ快楽や愉悦を求めるだけだと言うのなら、そいつの魂は獣となんら変わらない。人間として転生する必要などどこにあると言うのか。食欲や性欲を求めるだけなら、犬や豚にでも生まれ変わればいいだろう。
転生を可能にする秘術を獲得する為に、己の魂を鍛え、磨き、あらゆる知性に通じる知力を獲得し、魔術の奥義に触れる訓練に励むなど、軟弱な精神に取り組める作業ではない。
霊的存在としての昇華。
それなくして人間精神の完全なる獲得は不可能だ。
しかし多くの人間は、たやすく肉体的な欲望と精神的な望みを混同する。
精神的支柱を失えば、人はもはや人である道を踏み外し、己の芯からも──神からも遠ざかるのだ。
パーサッシャのような常軌を逸した踏み外し方は希だが、霊的な有り様を見失った者は、なんらかの執着や妄執に取り憑かれ、自分自身の中心から遠ざかってゆくものだ。
魂の中心を見失えば、それはもはや亡霊のようなもの。幽鬼と変わりはない。
この冥府の街ソルムスに居る死者たちは幽鬼とならずに、存在の有り様としては幽鬼に近いはずでありながら、その自我を消失せず、人間であった頃と変わらずに活動を続けているのだ。
それは彼らの魂が肉体の滅びによって砕かれて失われる事なく、精神の持ち得る技術によって、個の霊的存在が維持されているから。──精神の技術とはすなわち魔術なのである。
しばらく彼女と会話し、こちらでの「死」に関する魔術について話を聞いた。──もちろん俺の中の死導者の力については黙っておく。
アーシェンは物質界での影が死を象徴していた事に気づいており、そこから再び現世へと帰還する方法を探っていると説明した。
「なるほど、逆算的に物質的な肉体を再生──または作り出そうという考えか」
「ええ。現世と冥界の理を超えて個人の復活ができないのなら、その隙間に入り込んで、理を誤魔化すようにして現世に帰還する術を考えていたのだけれど」
「仮にその方法が上手くいくとしても、冥界からだけでは不可能では? 現世で予め、帰還の為の術式を用意していたなら──可能性はありそうに思えるが」
それでも複雑な術の構築と、準備に忙殺されそうだが。──けれど着眼点はおもしろい。
肉体(物質)が光を浴びて影が落ちる。
肉体は生を司り、影は死を意味する。
影を生み、そこから肉体を発生させるという逆転の発想。
古式ゆかしい魔術の王道的発想だが。現世と冥界の間でなんらかの呪術的な結びつきを用意していたとしても、それはかなりの難題だ。
現世に存在する秩序規定を破る魔術──それは、神の目を盗んで世界の秩序を乱そうと企む技術となる。
神々がそれを赦すとは思えないが──もしかすると、そうした抜け穴を発見できるかもしれない。
「まあ私は、しばらくの間はこちらに居るつもりだけど」
彼女は魔女として、転生よりも研究したい分野があるらしい。その内容については聞き出せなかったが、現世と冥界の理から、なにか彼女の知りたい事柄に通ずる智が得られると踏んでいるようだった。
「では、俺は行くよ」
窓の外を見ると、空は曇っている様子だ。
「そう──あの城に戻るのでしょう? それまで気をつけなさい」
そう忠告してくれるアーシェン。ここは冥府──どのような危険があるか、俺はまだ理解していないのだ。
ドアを開けて通りに出ると、彼女は家の中から手を振っていた。俺は頷き、来た道を戻ろうと細い道を歩いて行く。
飛び越えられそうな段差の階段を上り下りし、大通りの手前まで来た時に、敵対的な視線を感じた。
俺は立ち止まり、周囲を警戒する──
すると前へと続く道に一人、背後に一人の男が立った。
後方に現れた男は先ほど見かけた肌の青白い魔術師の男で、その手には赤い光を反射させる奇妙な短刀が握られている。
前に立っている男は頭巾付きの外套を羽織り、顔は見えなかったが、手には細長い曲刀を持って俺の前に立ち塞がっていた。
死に関する魔術についての語らい。
転生する意義について語るレギの厳しい視点。




