冥府の街ソルムスを歩く
その思いつきを果たす為、俺は神霊領域での作業を終えて現世に戻ると──今度は精神領域の門を開いて、魔術の庭へと意識を投射する。
ここでやらねばならない作業もいくつかあったが、まずは「水鏡」を使って冥府へと向かった。
いつもの薄暗い通路を歩き、冥府の双子か彼女らの召使いである侍女の姿を探す。
いつも二人の少女と会っていた客間のドアを叩く。すると部屋の中から双子の揃った声が聞こえてきた。
ドアを開けると部屋にはグラーシャとラポラースが、青銅の箱を置いたテーブルを挟んで長椅子に座っている。
「来たわね、レギ。いろいろと大変だったみたいね」とラポラースが口にする。その顔は笑っており、にこにこと笑顔のまま手招きしている。
俺は彼女らのそばに近寄ると、いきなり俺の手を引いたラポラースの隣に座る事となった。
彼女は俺の腕にしがみつき、まるで久し振りに再会した恋人にするみたいに甘えてくる。
「ちょっと、ラポラース。くっつきすぎ」
「あら、いいでしょ。わたしとレギの仲なんだし」
俺は曖昧に笑いながら、手にした魔導書の写本をラポラースに返す。
「あら、それは『死の魔導書』ね……って、あなたに貸していたの。──まあ写本だし、平気よね、レギなら」
いくぶん非難の目をしながらラポラースを睨むグラーシャ。彼女はラポラース手から写本を奪い取る。
「『誓約の書』の写本か……あっ」
写本を手にしたグラーシャが呟き──一瞬、周囲の空気が固まったみたいに静まり返る。
誓約の書? そんな文言は写本には書かれていなかった。
「『誓約の書』とは? 写本の元となった表題かなにかなのか」
「あ──、それはねぇ……」
グラーシャは躊躇ったが、代わりにラポラースが声を上げる。
「『死の魔導書』には『誓約の書』、『沈黙の書』、『滅びの書』そして──」
「ラポラース!」
と、黒い髪のグラーシャがまるで悲鳴のような声を上げた。
「それは冥界の理に触れる! 生者に教える事ではないわ!」
「大丈夫よ本の名前くらい。──だってレギはすでに二体の死導者の力を取り込んでいるのでしょう? 冥界の理に対してまったくの無防備ではないはずだわ」
「しかし────」
双子はなにやら言い合いを始めたが、ぐっと無言で睨み合うとラポラースは溜め息を吐いて見せる。
「……わかったわ。四つ目の名前は教えるなって事ね。了解」
白い髪の少女は折れた。彼女の言おうとした書物の名前が冥界の理を表す事柄だったとしても、そこに大きな意味があるようには思えないが……。冥府の隠された力、そうした根源にある理に関するものが含まれているのだろうか。
そんな風に考え込んでいると、ラポラースが腕を軽くつねる。
「やめておきなさい、グラーシャを心配させないようにね。いつか──いつか、あなたが死の領域に関する支配力を得た時にまた、この話をしましょう」
俺は彼女に「分かった」と答え、俺のもう一つの用件を口にした。
「この前は死導者の軍勢から守ってくれた事に感謝する。──グラーシャ。そしてもう一つ頼みがあるんだが」
そう切り出し、かつて俺がその魂を救うのに力を貸した魔女アーシェン会わせてほしいと訴えた。
「あら、まさか浮気? 私たちが居るというのに、この冥府で浮気をしようだなんて」
などとラポラースは笑顔で語る。
「彼女から影の魔術に関する技術を教えてもらいたいのさ」
頼むよ。そう願い出るとグラーシャが立ち上がり、広縁に出るように言う。
部屋の奥にある小さなドアから縁側に出ると、街が一望できる場所からだいたいの場所を指し示す。
「あの緑色の屋根。あそこに住んでいるわ。朱色の屋根の前にある──そう、あの建物よ」
それは小さな二階建ての家だったが、一人で住むには充分な大きさの建物だろう。
「館の出口まで侍女に案内させるわ」
この建物の中でも迷うからね。そんな事を口にし室内に戻ると、グラーシャは小さな銀色の鈴を鳴らした。
しばらくして客間に入って来たのは、白子の侍女ラゥディリアだった。いつもと変わらず目を閉じている。
「お呼びでしょうか」
「レギを館の出口まで案内して。外に見送るだけでいい」
かしこまりました、と口にする彼女について行くよう言われ、俺は双子に別れの挨拶を言ってすぐにラゥディリアと共に部屋を出た。
一階への階段まで歩いていると、すれ違った小さな侍女に挨拶された。廊下に飾られた調度品の掃除などをしているらしい。
先を歩く白子の侍女の尻を追いながら挨拶を返し、階段までやって来た。
階段にも絨毯が貼られ、柔らかい絨毯を踏みながら下へと下りて行く。前を進む侍女は無言で俺を案内する気のようだ。
「久し振りだなラゥディリア。いつ以来だったか?」
「なんのことでしょうか。──久しぶり、という感覚がわかりません」
などと言う。
真っ白な肌の彼女はこちらを見もせず階段を下り、階段の先にある玄関まで連れて来てくれた。
玄関の前は広間になっていて、円形の高い天井には──奇妙な事に、白い羽を広げた鳥の絵などが描かれていた。
「冥府の建物に生き物の装飾か」
金箔を使った装飾が円蓋状になったところに貼られている。青い塗料の中に浮かぶ黄金色に輝く太陽。──その円蓋の半分は夜を表しているらしく、紺色の夜空には銀の月と金銀に煌めく星々が飾られていた。
ラゥディリアは広間をさっさと通り過ぎて行き、大きな扉の前に立って俺が来るのを待っている。
広間から一階の通路を見回して見ると、二階と造りは変わらないが、赤い色の絨毯には細かな装飾が施され、象徴的な紋様が象られていた。
廊下の先は薄暗く──目を細めて見ていると、遠くの暗闇の中に白い影がぼんやりと蠢いているのが見えた。まるで亡霊が暗闇に潜んでいるかのようだ。
「レギ様」
咎めるようなラゥディリアの声。
俺ははっと意識を引き戻された気がした。──まさかあの白い影は幻霊であったのだろうか。見つめる者の魂を奪い去るという、死霊の上位種。
生者にとって存在そのものが危険な悪霊。
それが冥府にある「逆さ城」に居ても不思議はない。館を守る守衛のように通路を彷徨いているみたいだ。
俺は意識をはっきりとさせようと頭を振り、玄関口まで歩く。ラゥディリアは静かに扉を開け、どんよりとした雲の下に広がる街を俺に見せる。
そこで部屋を出て行く時にグラーシャが言った言葉を思い出す。
「いい? 前にも警告したけれど、上空に注意なさい。雲が晴れたら屋根のある家の中に入るように。家の中も危険な場合があるけれど、上空に落下して冥府の大地に落ちるよりはましでしょう」
彼女の警告のあとにラポラースはこう言っていたが。
「仮にあなたが冥府の招きによって死国に落ちる事になったとしても、私たちが助けに行くけれどね。……ただ、あなたはそこで死んで、二度と現世には戻れなくなるかもしれないけれど」
……なんとなく嬉しそうな感じで言っていたのは、俺の勘違いだと思いたい。
二人の冷たい愛情表現については一考すべきだが、俺の身を案じてくれたのは間違いない。せいぜい慎重に行動すべきだろう。……ここは冥界なのだから。
「では、街に行ってくるよ」
館の中で見送るラゥディリアを振り返ると、無表情な彼女が目をうっすらと開き、黙って頷きながら──静かに大きな扉を閉める。
館の敷地は広く、黒い石が敷き詰められた道を歩いて門へと向かう。
鉄の格子門は開かれていた。そこから先は緩やかな下り坂になっている。
門のある場所から振り返ると、城に似た大きな館の全貌が見え、それは双子の住む屋敷としては相当に巨大な建物であるのははっきりとした。灰色の建材によって組み上げられた堅牢な館には──不気味な雰囲気がつき纏っており、先ほど見た幻霊の巣窟としても存在しているのだと感じさせた。
俺は館から逃げ出すみたいに坂道を下り、反転する街ソルムスに足を踏み入れた。
坂道には灰色の石畳が敷かれ、左右には建物が並んでいる。道は細く入り組んでいて、ある場所からは段差が目立ち始めた。建物の入り口の高さがまちまちで不揃いなのだ。
一軒家が多いが、大きめの建物は集合住宅のような形をとっているのかもしれない。
曲がりくねった道を進み、坂道から脇道に逸れ、小さな階段を上って煉瓦造りの建物が多い場所を抜けて、朱色の屋根と緑色の屋根が見える場所まで歩き続ける。
空は曇っており晴れそうにない。
細い路地裏を歩いていると、前方から頭巾つきの灰色の法衣を着込んだ奴がこちらに向かって歩いて来た。
(やばいか……?)
この街の住人の中には相手が生者だと知れば、襲いかかってくるような奴も居ると脅されたのだ。
法衣を身に着けた奴は男か女かも分からない風貌をしている。
──それもそのはずだ。
そいつの頭巾の中身は真っ黒な虚でしかないのだから。
(幻霊か──⁉)
だがそいつを見ていても、魂を奪われるような異変は感じない。それに──そいつは道を歩いている。幻霊ならば宙を浮いて移動するだろう。
あまりじろじろと観察する気にはなれないが、幻霊ではなさそうだ。
たぶん肉体を失くした魔術師の成れの果てなのだ。
そいつは俺の横を横切る時にぶつぶつと呪文を唱えるみたいに何事かを呟きながら、足音もなく通り過ぎて行った。
俺は一息ついて気持ちを落ち着かせると、再び目的の建物を目指して歩き出す。
だいたいの方向は分かっているが、建物が密集し入り組んだ道を歩いているので、確かな場所は分からないのだ。
少し大きめの路地が見えそこに向かうと、左右に円形に延びる道があり、道を渡った先に朱色と緑色の屋根が見えてきた。
大きな通りだが人影はない。そう思って先に見える細い路地に向かうと、その道の先から人が歩いて来るのが見えた。……今度の奴は青白い肌をした痩せ細った男で、虚ろな表情をしてこちらを見ると、怯えたみたいに目を伏せ、俺の横を通り過ぎる。
その男は明らかに死人だった。
目は落ち窪み、目の回りに影が潜んでいるみたいな表情のない貌。
生気のない魔術師の男は薬物中毒者みたいなよろよろとした動きで、足早に歩き去って行く。
俺は不気味な気配を漂わせる小路を通って行き、目的の建物に近づいた。
でこぼことした路地裏の石畳が続き、建物と建物の間には段差や階段などが多くある──乱雑に作られた道や建物。
時には数段の階段を上った先は一軒の建物の入り口があるだけで、すぐに階段を下りて行くような、奇妙な高低差のある構造をしている。
見慣れぬ異郷の街並みに戸惑いながら、俺は目的の緑色の屋根がすぐそばに見える場所まで辿り着いた。
魔女アーシェンに会うだけのはずが……
行きはよいよい帰りは……?




