オーグベルムの手前、タゥバレンの町へ
またしても魔術師についての話を盛り込んでしまった……
なにしろ、人間精神の物語なので。
翌朝──朝食を食べ終えると、すぐに旅の支度を始めた。王都ベギルナから西へ──ずっと西へ向けて移動する。
この帰郷への旅には、文官とその護衛たちも連れて行くので、馬車で移動する事になっている。
「大丈夫か? 後ろに倒れ込むなよ」
背嚢を重そうに背負った俺に声をかける級友。
本当は金貨袋一つ分の重さだが、さも三つの袋を持っているように、よろけながら立ち上がって見せた。
「大丈夫だ。世話になったな」
「いや、お前に婚約者殿を引き合わせる事ができてよかった。彼女もお前には、だいぶ親近感を覚えたようだった」
珍しい事だぞと語るアゼルゼスト。
王宮でもかなり変わった公爵令嬢として扱われてきたのだ。それについては想像するまでもない。
魔術師は貴族の女とは違う世界に生きているものだ。淑女としての嗜みよりも、世界のあらゆる事象に興味を持つセーラ嬢が、大抵の男よりも優れた知性や見識を持ち、彼らを煙に巻いたのは必定だ。
貴族の利権などよりも、己の興味がある事に時間を使いたいと望む彼女に、多くの貴族の男子は手を焼いた事だろう。
彼女の持つ「王家の血筋」という力。それに群がる男どもを払い除けてきたのだ。評判が良くなるはずもない。
彼女は孤高の王女を気取っていた訳ではなく。ただ単純に、その気質が魔術師だったのだ。
世事について頭を悩ますよりも、精神の深奥に隠された、魔術の深淵を覗く事に熱心だった。それゆえに多くの貴族たちの振る舞いが、権力争いを主体にした、馬鹿げた遊技にしか見えなかったのだろう。
セーラメルクリスには、他に取り組むべき事柄があったのだ。それは本人以外には分からぬ、秘められた密儀への扉を求める旅にも似て、彼女の表情はしだいに暗い影が差すようになっていった。
彼女は王族の女の身に生まれていなければ、俺と同じように世界各地を旅するか。あるいは王宮や世界の果てに閉じ籠もり、魔術の研究に没頭していただろう。
アゼルはセーラ嬢が俺に「親近感を覚えた」と言っていたが、それは彼女には手に入らない、彼岸に立つ魔術師の姿を目にするような、憧れにも似た感情があるのだと思われた。
セーラ嬢にはティエルアネスのような、己の地位を撥ね退けるくらいの剛胆さはなかったという事だ。
本心では自らの境遇を捨て去って魔術の研究に、世界の探究に没頭したいはずなのだ。──まあ、それだけの熱意があったとしても、多くの魔術師志願者は現実の社会的要請や、己の欲求に従って行動する事を希求して、現実的な判断という縮こまった意識の中に取り込まれてしまう。
だがそれこそ人間というものだ。
それでこそ人間というものだ。
なんの憂いもなく生きている者など、偽りの安寧を受け入れたに過ぎない。
それはいつかは朽ちて失われる可能性があるのに、その現実を無視し、妥協して生きているだけなのだ。
信念を持ち、その想いに従って生きるというのは、己ひとりに責任を強いた意志強き者か、盲目な狂信に取り憑かれた者だろう。
むしろ様々な柵に翻弄されて生きるのが人間らしい。
貴族に生まれ、その身分から自ら離れようと考える者など、魔術師以外にあり得ない。
人間社会の柵に囲まれていた方が、個人の脆弱な意識を担保するのには都合がよく。そしてそれゆえに、個人の存在は社会(集団)の中で希薄なものになるのである。
どこまで行ってもたった独りなのが人間の本質であるのに、社会的な生活という中に埋没し、個人の意識を他人との共存の中で希薄にさせてしまう。
魔術師は個人としての存在を確立しなくては、その深淵に臨む事はできない。
だがそれでも、社会性を失う理由にはならない。
個人と他者とは表裏一体。
夢と現は片方だけで存在し得るものではない。
相互は補完し合う関係にある。
たった一つの(閉ざされた)世界で己を完全に存立させるとしても、その他の世界で無力であるとするならば、それは不完全で不充分なのだ。
しかしそれは人間であるならば当然であるとも言える。──完全無欠の人間など存在しない。
だからこそ多くの人間は個人としてでなく、社会の一部として生きるのだ。
それを自覚しようとしまいと、個人が人間の有り様について熟考しなければ、自然と自我は社会の枠組みに飲み込まれる。
魔術師であるならば社会の中にあっても自覚的に存在し、個人としての在り方と、社会的自己を区別しているもの。
いくつもの自我を形成し、それを自在に操れる者が魔術師だ。
多くの行動、言動、人格を知り、あらゆる他者になる観察と行動力。
人間の理の世界で生きる力と技術を身につけ、まずは自身の肉体と精神を活かすのだ。
人間世界のさらに上位の領域、そうした境界を越えて行ける魂は、己の有り様について熟知し、そして他者と世界の事についても同様に理解している。
セーラ嬢は二つの世界の狭間にあって、両方の世界を同時に生きているのだ。
それは俺とても同じ事。
人間世界と魔術領域。さらには神霊領域にも足を踏み入れ、そこからさらに別の高次領域へと手を伸ばそうとしているのだ。
いくつもの世界の力と知識を組み合わせ、己の真なる存在を強化し、神々に科せられた鎖を引きちぎる為に。
「またいつか」
俺はそう言ってアゼルゼストと固い握手を交わす。
「いつでも訪ねて来てくれ。セーラ嬢もきっと楽しみにしているだろう」
「分かった」
俺は曖昧に笑顔を作り、馬車に乗り込む。
旧友と簡単な別れの挨拶をした俺は、西へ向けて移動を始めた。──装飾のない一般的な旅客を乗せる馬車に乗って。
これでエブラハ領に向かう。華美な王宮ご用達の馬車で辺境に向かえば、スキアスにこちらの手の内を知らせる事になる。それは避けなければならない。
いくら頭の悪い愚兄とはいえ、王家の紋章が描かれた馬車から降りた者を前に、無計画に振る舞ったりはしないだろう。こちらとしてはせいぜい油断して馬脚を露してほしいのだから。
(あの馬鹿兄貴にはぜひ自分が、世界という演劇の中に居る、三流の大根役者である事を証明してほしいものだ)
その滑稽な様を見て笑う観客など居ないだろうが。
領民は下手をすると、あの愚兄の弟という事で、俺を敵視するかもしれない。──たぶんそうした反感には、我が友クーゼが対応してくれるはず。
ともかく俺は一刻も早く愚兄の圧政から領民を解放し、故郷の自由を取り戻さなくてはならない。
……まるで、どこかの三文芝居の主人公になった気分だ。
(──はっ、笑える……)
魔導の極致へと手を伸ばし、不可能なその偉業に迫っている身でありながら、いまだに世俗の呪縛に囚われているとは。
「人間の苦悩とは、まさに人間として世界に生まれた事にあるのだ」
そんな言葉を思い出しながら、俺は誰の言葉だったかなど気にせず目を閉じ、魔術領域に己の意識を向かわせた。
馬車に揺られながら移動を続け、同じ馬車に乗り込んでいた若い文官──ベゼルマンに声をかけられるまで、魔術的な作業に没頭していた。
「……なにか?」
「いえ、外が暗くなり始めています。今はタゥバレンの町に向かっているところです」
それでよろしいですか? という風に尋ねてくる。
タゥバレン──結構な距離を移動して来たものだ。「半日でこれほどの距離を移動するとは」そう口にすると、ベゼルマンはこう言った。
「三年前に王都から西と東に向かって中央道が建設されました。それでかなりの距離を一直線に移動できたのです」
そうだったのか。故郷でそんな大きな国策道路が造られているとは知らなかった。
これなら明日の夜にはエブラハ領に入れるだろう。──エブラハ領の手前にある道は、舗装されていない悪路が続くだろうが、オーグベルムの町になら明日には到着できるかもしれない。
「ではタゥバレンの宿屋で泊まる事にしましょう」
俺の言葉に頷く文官。
馬車の外は暗くなってきていた。
遠くに沈む夕日が空を橙色に染めている。
間もなく空に星が浮き、夜がやってくるだろう。
茜色染まった雲と、暗い空の彼方に沈みゆく日の周囲で、群青色の帳が落ち始めていた。
馬車は舗装された大きな街道から脇道にそれ、南東へ向かう道をゆっくりと走って行く。
しばらくすると門の前で止まった馬車が、門番とのやり取りを経て、タゥバレンの町に入って行った。
タゥバレンはピアネスの西側に位置する町。
この辺りは平野が多く、農地の多い地域でもある。
町の近くには湖もあり、農作物を育てるにはちょうど良い環境と言えた。……ただ、作物を荒らす害獣が多い事でも知られていた。
それゆえに、この町に居る冒険者数は、地方に位置しながら──かなりの数が常駐していたのだ。……その多くは骨や石などの下位階級だが。
彼らは夜中から早朝にかけて田畑を守る役割を負っており、作物が収穫される時期までは毎日の巡回をおこない、昼間に活動する冒険者たちは、近くの森林に入って害獣を駆除する取り組みをしている。
タゥバレンのあるペルゼダン領の領主は、そうした事業に対して積極的に投資し、──領民の生活を守ると同時に──農作物の確保をおこなっていた。
このペルゼダン領は、俺が子供の頃に父親と共に何度か訪れた子爵が治める領地だ。
もしかすると子爵に今回の件について話せば、なんらかの助力は得られるかもしれない。──愚かな父の事を、それなりに慕っているらしかったから。
だがまあ──止めておこう。
もし愚兄の用意した傭兵たちの数が多く、武力で挑むしかならなくなった場合には、子爵の持つ私兵を借りるくらいはお願いする事になるだろう。──まあその必要はないと思うが。
それに子爵が住む街はタゥバレンではない。
そこに寄り道するよりも先に、クーゼが待っているオーグベルムに向かうべきだ。タゥバレンからなら、おそらく馬車で三時間とかかるまい。
「もうすぐだな」
俺は馬車を降り、宿屋の中へ文官らと共に入って行き、俺は一人で小さな部屋を借りて寝泊まりする事にした。
食事や風呂を簡単に済ませ、部屋に籠もると言って文官らを遠ざける。
部屋に入ると次元転移魔法を使って神霊領域に侵入した。
ここならではの作業をしておこうと考え、様々な作業に取り組んだ。
影の倉庫から物を取り出して、こちらに保管しておこうと思っていると、影の倉庫の領域が数倍以上に拡張している事に気づいた。
「取り込んだ魔神の力の影響か」
魔力の総量が増え、影の中に作り出せる次元領域も増大したのだ。これなら大きな物も影の中に取り込めるだろう。
「こちらに建物を建てる建材でも集めてみるか」
そんな事を想像しながら、影の魔術について新たな発見はないかと調べていると、この力の魔術的な性質を理解した。
影の魔術は本質的に「死」の領域と関わる魔術なのだ。
肉体が生命であり、その影は死であるとする。──魔術的な象徴について考えれば、それは必然とも言える結論だった。
影の倉庫とは、世界の狭間にある異質な空間であり、それは冥府的な領域を影の中に作り出す魔術なのだ。
空間を制御する魔法は本来とても高度で、生半な術者には制御できないもの。それを簡易的に使用可能にしたのがこの「影の倉庫」であるように思われる。
ラウヴァレアシュ配下のエンファマーユがやっていたように、影の中に己を入り込ませるというのは、相当な技術がいると同時に、それを成すには端的に言って「死」を経験する事が必要なはずだ(エンファマーユは死の呪いを掛けられ、死導者とも接触していた)。
──ツェルエルヴァールム配下の魔女王ディナカペラが、俺を冥府に送り込む時もそうだった。あのとき俺は、疑似的な死を与えられ、初めて冥府に降り立つ事ができたのだ。
影の領域に入り込むというのは、いわば肉体を持ちながら冥府に入り込むのと同じ。
「なら──今の俺なら、影の中に入り込むのも可能なはず」
死を経験し、さらには死導者の霊核すら手に入れているのだ。冥府の領域と深い繋がりを持っている俺にできないはずがない。
俺はさっそく影の領域について新たな取り組みを始め、影の倉庫とは別の、自身の身体を取り込める「幽影領域」を獲得した。
──だが、この影の中に入り込む事はできても、影を移動させるのは難しいのだ。
影の中に入ると、外界(現世)の様子を見る事ができなくなる。──影の中は真っ暗だった。
それに影の倉庫がそうであるように、この影の領域の中は時間が停止してしまう──現世と隔絶してしまう──。影の領域は冥府の領域に近く、外界との接点が遠くなってしまうのだ。
外界を視認する方法を模索する中で、幽影領域の影自体を変化させる事が必要になった。入り込むだけの影では駄目だと結論づけた。
影の中から周囲を見る事ができるような影として作らなければならない。
そうした技術的革新について考えていると、シン国のウーマ風穴に出現した「未知の魔物」──それはレファルタ教が邪神の妖卵を使って、魔女アーシェンを魔物化したものだった──の事を思い出した。
そいつはアーシェンの技術を取り込んでおり、影の中に隠れて移動する手段を使用してきた。あの技術の核心に触れる事ができれば……
影は「死」を象徴する──物質世界では、光によって物の陰に落ちる。それは象徴的には命と死を意味します。




