セーラ嬢とアゼルの関係
「お待たせいたしました」
談話室に戻ったセーラメルクリスは侍女を連れ、銀製の盆に茶器を乗せ運ばせていた。
令嬢が長椅子に座っているアゼルゼストの隣に腰かけたので、俺は絵画の前から離れると、彼女の前にある長椅子に腰かける。
侍女がお茶を注ぐのを横に見ながら、俺の視線はセーラメルクリス嬢が手にする一冊の帳面に集中した。
いかんいかん。あまりに熱心に見つめては、彼女にいいようにされてしまう。まさか婚約者の前であからさまな取り引きを持ちかけたりはしないだろうが、他人に弱みとなる部分を見せてはならない。
しかし、彼女が学生時代に噂に上っていた卒業生だとは。俺やアゼルが入学する一つ前の学生だったというセーラ。
年齢的にはそれほど離れてはいない。──それに、彼女が魔術や魔法に対する教育を受けていたのは、おそらくエインシュナーク魔導技術学校に入学する前からだと思われた。
彼女が通常よりも若い年齢で入学した可能性もあるが。
「ところでレギスヴァーティ様は──お噂では、魔法技術に定評のあるユフレスクの宮廷に推薦されるほど、教師から目をかけられていたそうですわね」
にっこりと笑う令嬢から目をそらし、隣に座る級友を見る。
男は茶碗を手にすると、何事もなかったかのようにそれを口にした。
「ええ、確かに。……二年生の半ば頃だったでしょうか。──ま、その後の俺の成績が振るわなかったので、その推薦は立ち消えになりましたが」
「あら」
セーラは俺の言葉に口元を隠してくすくすと笑う。
「それもわざとでらしたんでしょう? 私の婚約者はあなたが試験の度に手を抜いているのを見抜いて、詰め寄った事があると聞きました」
もう一度アゼルを睨むと、今度ははっきりと目をそらす級友。
「ええ、まあ……閉鎖的な貴族主義の世界で溺れ死ぬよりも、各地を旅する事の方が希望を持てそうな気がしましたので。ま、気楽な一人旅を続けています」
「その判断は正しかったかもしれませんわね。ユフレスクは以前から、ピアネスよりもディブライエに近い王宮でしたから。──最近知ったのですが、あの国は完全にディブライエの属国として取り込まれてしまったそうですわ」
ずっと昔はディブライエ国と領土を巡って争っていたユフレスク。そうした過去を持ちながら最近は、多くの穀物や食料を輸入する間柄となっていた。──しかしついにユフレスクは、国家としての自治を失ったらしい。
ユフレスクはピアネスの東にあるディブライエと領地を接し、二つの大きな国の北側にある海へと張り出した、おできの様な国だ(おできにしてはでか過ぎるが)。
ユフレスクは魔法教育を国が指導する形で取り入れた、最初の国だと言われている。
魔法技術に明るい国ではあったが、慢性的な食料危機に瀕していた国で、ピアネスからも小麦粉の輸入などをしていたはずだ。
この国は食料の他に、貴金属の産出も少なく、貨幣を流通させるのも苦労している。ユフレスクには独自の貨幣があったはずだが、国内の商業の多くでは、他国の貨幣を実用貨幣として流通させているのだ。
ユフレスクは漁業が盛んであり、遠洋に大きな漁船を走らせて「マブルカン」という、大きな角を持った海獣を捕獲するのが主な収入源とされていた。
マブルカンは鋭い角で船すらも沈めてしまう大きな海獣だが、ユフレスクの漁業には魔法使いも乗船し、船に特殊な装備と魔法を掛けて、この危険な海獣を狩っているらしい(噂では八メートルから十メートルもの大きさがあるとか)。
この海獣の皮や脂などはディブライエでもピアネスでも求められ、庶民には手が届かないが、良質な灯明用油として利用され、その皮製品は防寒性に優れる為に、靴や手袋などに使用されている。
魔力結晶が生み出される霊山も有しており、この魔力結晶とマブルカンなどの海産物が、この国の生命線だった。
この国は強力な魔法使いを軍事に取り入れ、他国から攻め込まれた時には、躊躇なく敵を排除すると公言していた。それゆえに戦士ギルドやレファルタ教からは白眼視される事もあるのだとか……
しかし彼の王国は、優れた王による統治で弱小国をなんとか維持してきたはずだが。とうとう大国に吸収される形になってしまったか。
ピアネス国とも不仲とはならなかったはずだが、国境を接する領地の領主同士は互いを目の敵にし、たびたび争っていると聞いた。──その所為か、国交を結んでいるはずなのに、互いの人流が極端に少なかったのだ。
もしかするとユフレスクの貴族の中にも、ディブライエに吸収されるくらいなら、ピアネスに吸収合併される方がましだと考える者も居たのではないか。
それを阻んでいたのが領地を接する互いの貴族たちであったなら、彼らは互いの国の不利益を、個人の感情によって招いた事になる。
ディブライエの属国になったユフレスクからは今後、互いの魔法使い希望の学生などを交流させたり、留学させたりする機会が奪われるだろう。
「そうでしたか。──もっとピアネスの方から外交的に関わりをもっていくべきでしたね。ディブライエに吸収されたとなれば、もう魔導学校との関係も断たれてしまうでしょう」
そう言った俺の言葉に考え込んだのはセーラ嬢ではなく、アゼルの方だった。
「確かに……今までファイデン領と向こうの領主がたびたび小競り合いし、国家同士の対話があそこで止められていたのもあったかもしれない」
俺も自分の領地に戻ったら山を切り開いて、ベグレザ国との流通を可能にする道を作るつもりでいるから、こうした険悪な関係にならないといいのだが。
交流を深め、交易を以て互いに利益を得られれば、険悪な関係にならずに済むのではないか。そんな風に考えている。
「おっと、それよりも。その帳面が例の?」
「ええ、ですが──それほど多くの事を書き残した訳ではありませんのよ?」
あまり過度な期待はするな、という意味だろう。彼女は思っていたのとは違い、あっさりと帳面を渡してくれた。
「一度、この内容を婚約者の殿方にもお見せしたのですが。残念な事にその方は──あまりこうした上位世界の事柄に対し、興味を持っていただけなかったようです」
「でしょうね」
俺は帳面を受け取りながら即答する。
良くも悪くもこの男は現実的な貴族であり、そして理想を体現しようとする領主の息子なのだ。
神々の領域の事など、魔法を習っていた頃から彼にとっては、ちんぷんかんぷんだったに違いない。
興味を持っていたとしても、高度な術式を操り、霊的に高い位階の事柄を扱う魔術となると──複雑かつ、様々な照応を見抜く観想と、集中力が必要になる。
(……もっとも、それだけではないのだが)
すっかり蚊帳の外に置かれた級友を無視して、俺は帳面に書かれた十頁近くの内容に目を通した。
細かい素描などが書かれ、幻視に現れた古代言語を細かく書き写しているのが見て取れた。脳裏に(肉体の脳とは違う領域の記憶だったのだろう)刻まれた幻視をここまで緻密に、細部まで書き切ったのは僥倖だ。
予め近くに筆記用具などを用意していたのだろうか。
俺はしばし無言で帳面の内容を改めながら、この内容と同時に、この幻視を見せたという上位存在について考えた。
もしここに書かれているとおりに、この上位存在が天上の神々を起源とする存在ならば、何故あの精神に広がる断絶を越えて、人間にこれらの幻視を見せるに至ったのだろうか。
神々が禁止しているはずの、上位存在が持ち合わせる知識。
この帳面に書かれた図式や文字には、霊的存在の肉体、上位存在の光体に関する秘密。そして生命の生と死に関わる謎を解き明かす──鍵が含まれている。
「なるほど。それではこの内容から、あなたは別の霊的な──幽体と言うような、新たな力を手に入れられましたか?」
俺の問いかけにセーラメルクリスは、ほんの少しだけ肩を竦める。
「いいえ、残念ですが。それほど明確なものは手に入れておりません。……何故ならこの高度な技術は、私たち人間には基本的に手の届かない次元のものだと思いますわ」
……その言葉は嘘に感じた。
彼女は完全な、新たなる霊体は入手してはいないかもしれないが。それに辿り着く為の力の一部を獲得していると思われたのだ。
確かに彼女が見た幻視は魔導技術の基礎や応用の一部を学んだ学生程度では、まったく手に負えるような内容ではない。
しかし、若くして才気ある魔術師候補だった彼女が、上位存在との接見を果たし──その後まったくなにも、この魅惑的な魔術の深遠に手を伸ばさなかった。──などという事があり得るだろうか。
「ところで、あの断絶をどうやって越えたと考えますか?」
俺は敢えて率直に尋ねた。
「断絶──ですか。精神の領域にある、虚無の空白の事ですわね?」
やはり彼女はこちら側の魔術師だ。
己の魔術領域を持ち、他の有象無象の魔術師や魔法使いとは違う、魔導の道を歩む者なのだ。俺はそう確信した。
「そうですわね、特別にお見せしますわ」
セーラはそう言うと立ち上がり、少々お待ちくださいなと残して談話室を出て行く。
「おい、今のはなんだ? 断絶? 精神の、虚無の空白……? さっぱり分からんぞ」
「うむ。それを素人のお前に説明するのは骨が折れるし、理解できん可能性もある。セーラ嬢もそうした魔術の理に関する事で、お前の頭を悩ましたくはないのだろう。だから話さないのでは?」
「むぅ……いちいちムカつく言い方だ」
などと口にして、殴る真似をするアゼル。
俺は魔術領域の事については一切話さず、セーラが並の魔術師よりも高度な、位階の高い魔術への傾倒をもった魔術師であると説明した。
「彼女が優れた魔術師であるのは私も認めるところだ」
「それが婚約の理由の一つだったり?」
俺がからかうように言うと、アゼルは「まさか」とだけ口にした。
「なら、王位に興味が出たのか?」
「おいおい」
俺の言葉に苦笑いで答える級友。
学生時代から野心というものにまったく縁のなかった男だ。あれから数年経ち、領地を治める立場になり、心境の変化があったかと考えたのだが。
「私が公爵の地位に加わろうなんて意図で、セーラ嬢と婚約した。なんて言うんじゃないだろうな? だいたい彼女は──」
「王座にもっとも縁遠い王女?」
俺が先に口にすると──また苦笑いを浮かべ、肩を竦めて「そうだ」と口にする。
「セーラ嬢が言ったのか? 対面して最初に話すような内容じゃないな」
「なら──なんでまた、あの女性と婚約を?」
いずれにしてもこの男にとって、セーラメルクリスという第六王女が、自分の妻に相応しいと考えた理由は他にあったのだ。
見た目の美醜でも、知性でも、魔法や魔術に関する技術でも──そして、王位でもないとすれば……
「こう見えても私はな、社交界に出ればそれなりに女性に言い寄られるんだぞ」
「うん、それは知ってる。──自慢はいいから」
学生の頃からアゼルゼストは学校に入学していた貴族から、様々な秋波が送られているのを見てきた。
同級生は疎か、上級生からも下級生からも、男女問わず近づいて来たものだ。明らかに大貴族の権威という光に集まって来た、羽虫のごとき連中が。
「セーラ嬢との婚約は……彼女からの提案だった」
「提案? 求愛の間違いでは?」
そう言うとアゼルは「ははは……」と、複雑な笑顔を作る。
「普通ならそうだな。──まあ、彼女と会う機会があって、そこでお互いがエインシュナークの卒業生であるのを知り、さらにはあの噂の女生徒だというので、親しくなった訳だが……」
その時の事を思い出したのだろう。「ふふっ」と失笑しながら言葉を紡ぐ。
「ある日、彼女はこう申し出た。『あなたも私も、そろそろ結婚相手の事で家族や周囲の者から、見合い話やなにやらを持ちかけられ困っているでしょう。そこで、もしよろしければ、私を婚約者としませんか? 私は日陰者ではありますが、一応は王族にある者。その私と婚約となれば、あなたの家督にも箔が付きますし、私も行き遅れの烙印を押されずに済みます』──こうだぞ?」
笑いながら言うアゼル。だがその口調からは、彼女に対する親愛の情を感じた。
「まあ私も実際に、貴族や豪商の娘に引き合わされたりするのは煩わしかったからな。渡りに船というところか」
こんな言葉を口にしていたが、完全に政略的な意味で婚約した訳ではなさそうだ。──もちろん、様々な権謀術数を躱す理由もあるだろうが。
二人の打算的な、それでいてどこか愛嬌のあるやりとりを聞きながら紅茶を口にする。
それは茶葉の中に爽やかな香りのする花弁の入った、飲んだあとに胸がすっとするような──甘く、華やかな後味の残る紅茶であった。
セーラメルクリスとアゼルゼストの関係は貴族的な部分のやりとりと、同じ学校を卒業した者同士の先輩後輩のような微妙な関係が重なり合っている。外から見ればセーラの方が立場は上だが、二人の間には上下の別は先輩後輩という感じ。




