邪悪なる竜
ずるりと傷口から青黒いなにかが飛び出した。
それは瘴気を放ちながら、周囲に毒々しい重い気体を撒き散らす。
引き裂かれた肉の塊から現れたものは、青黒い皮膚をした怪獣。
ごぼごぼと血の泡を吹きながら傷口を押し広げ、青黒い肉の塊が膨れ上がり、周囲の魔素を取り込みながら、どんどん大きく成長する。──それは巨大な爬虫類の様な姿形をとって、俺たちの前に現れた。
裂けた巨大な口には残酷そうな牙が並び、頭部は鼻先の短い鰐のよう。上半身の筋肉は隆々と盛り上がっており、固そうな皮と鱗がぬらぬらと青黒い光を反射し、肩や腕から角や棘が生え、太い腕は筋肉の筋が浮き上がり、指先には尖った黒銀色の爪が伸びている。
全体的に鰐に似ていたが胴が長く、蛇と鰐を合わせたみたいな姿の化け物。
その姿はまるで竜だ。
頭部から背中にかけて、ぼこぼこした背骨のような関節が突き出ており、体のあちこちから棘が生えている。
短く太い足は、龍の下半身を思わせる強靭な筋肉と鱗に覆われ、棘の付いた長い尻尾が伸びて、奴の背後で床をガリガリと引っ掻いていた。
「ゴアァアァァアァッ‼」
完全な爬虫類じみた化け物に変形したパーサッシャ=アピポスは、全身に紫色の紋様を浮かび上がらせた。それは体中を流れる血液と魔力の流動であり、脈打ちながらぼんやりとした光を発している。
「撤退するぞ! シュバールトよ、援護しろ!」
神霊の光を纏った少年勇者は首を横に振った。
「ダメだ! ここでこいつを倒さなくちゃ!」
巨大化した化け物の所為で床や天井が崩れ、乱暴に振られた尻尾の一撃で柱が崩れた。放っておけば、この異界の建物は崩れ去るかもしれない。
「いい加減にしろ! おまえ一人の力でなんにでも打ち勝てる訳ではないのだぞ! 通路を抜けて元の場所に戻るのだ!」
そう叫びながらアトモシスは炎の攻撃魔法を立て続けに放ち、邪神の周辺を火の海へと変化させた。
凄まじい炎の中から火炎旋風が渦を巻き、ごうごうと音を響かせて怪獣に襲いかかる。
「ギュワアアァァアァッ!」
悲鳴らしきものが化け物の口から漏れ、バルサスは少年の腕を掴むと、彼を引きずるみたいにして強引に広間を脱出する。
老魔法使いの攻撃魔法の威力も相当なものであると同時に、複数の魔法を連続して放つという驚異的な力を見せつけた。
俺たちは通路を駆け抜けながら、元の貴族の館へ戻ろうと逃走する。
その時だった。
後方の通路からもの凄い音が聞こえてきたのだ。
巨大な鰐蛇の怪獣となった邪神パーサッシャ=アピポスが、広間と通路の間にある壁を破壊し、通路に踊り出たのだ。
まるで怒り狂った竜が突き進んでくるみたいに、壁や天井を破壊しながらこちらに向かって来ていた。
「化け物め!」
バルサスは振り返りながら悪態を吐く。
「おのれ、パーサッシャ! 魂までも邪神と化したものよ。そのような姿で生き続けるくらいなら──私の手で引導を渡してやろう!」
走りながら老人は杖をかかげ、通路の天井に向かって魔法を解き放つ。
「グエゥラ、アヴェルド、ザフ、アルブ、地脈を伝う大地の霊精、我が言霊に従え『岩砕破』!」
ごうんっ、という音が天井から聞こえた。続けて天井が後方に向かって崩落を始める。
ガラガラ、ズドン、ズシン、そのような音が重なり合い、凄まじい騒音を巻き起こしながら、建物が崩落していく。
俺たちは通路を駆け抜けて、この異界の入り口となっていた場所から、領主の館へと戻って来る事ができた。
その広場まで無事に辿り着くと、俺たちは武器を構えて振り返る。建物の崩落に巻き込まれたくらいでは奴は倒せない。
異界の入り口は暗く、瘴気を思わせる暗闇がゆらゆらと揺れ動いている。
今までは普通の通路が見えていたが、異界の建物が崩落した砂埃が上がり、それと接触した異界への入り口がたわんでいるようだ。
その境界とも言える空間の歪みにひびが入り始める。
ミシミシッ、ギシギシッ──
小さな空間の外にまで広がる亀裂。
その中から爬虫類の親玉と化した邪神、パーサッシャ=アピポスが傷だらけの状態で這い出て来たのである。
「不死身か、こやつは!」
息を切らせながら憤怒の思いで老魔法使いが叫ぶ。
「ゼェアァァアァッ‼」
再び緑色に光る神気を纏ったシュバールトが、裂帛の気合いと共に邪神に躍りかかり、振り上げた剣から邪悪を断ち切る斬撃を打ち放つ。
まるで巨木を一撃で粉砕する落雷が放たれたかのようだった。
広間に響き渡る爆音。離れた場所に居た俺にまで、衝撃波で体が震えるほどの威力。
それをまともに喰らった怪物だったが、固い表皮を引き裂かれ、骨まで砕かれてなお、大きな前腕を振り払って少年を弾き飛ばす。
「ウワァッ!」
大きな手の甲で打ち払われたシュバールトが、石床に叩きつけられて転がった。
だが邪神はかなり致命的な損害を受けているようだ。上半身は少年勇者の攻撃で引き裂かれ、下腹部を引きずりながら広間に下半身を現すと、後ろ足の一本は折れ曲がり、背中には大きな尖った石材の塊が突き刺さっている。
「全員さがれっ」
老魔法使いはそう呼びかけながら、呪文を唱え始める。
全員に再び防御魔法を掛け、続いて武器に威力を増す魔法を掛けて仲間に戦いを促す。
「さてさて、どうしたものか」
俺は魔剣を構えながら、先ほどの勇者の──神霊力を有した──攻撃すら耐えきった怪物を前に、どのように攻めるか、その方策に頭を悩ませた。
なまなかな攻撃では倒すまでに時間がかかるだろう。邪神の構築した異界から現世に姿を現した事で、奴の異常な回復力は失われたようだが、本性を顕した化け物は、硬い皮膚や筋肉で守られている。
それを貫く攻撃手段がない訳ではないが──
鋭い鉤爪を振りかぶって攻撃してきたのを躱しながら、素早く反撃して奴の前足と脇腹を斬り裂いてやった。
「グァガガァアァッ!」
やはり傷は修復しない、これならなんとか対処できそうだ。
長い尻尾を振って、側面に回り込んだ俺を薙ぎ払おうとする邪神。その攻撃を下がりながら跳んで躱し、柱の陰に回り込む。
「アウデュルグフス、アウデュマガゥイ、風の神殿より運び、彼方より来たりて、刃の旋風を巻き起こせ、嵐を司る風の霊王『嵐の刃』!」
柱の陰から飛び出し、剣を突き出して魔法を放つ。
傷ついた脇腹を狙って刃の旋風が切りつける。
無数の風の刃が次々に邪神を引き裂き、傷を作り出すと同時に、辺りに青い血液を飛び散らせる。
「グブゥアァアァァッ!」
ガリガリガリッという音を立て、強靭な皮や肉を引き裂いていく風の刃。
それは広間に暴風を巻き起こし、邪神の巨体を横倒しにするほどの威力を発揮した。
(想定していたよりも威力が……!)
「うおぉぉおぉっ⁉」
しまった……うっかりしていたが、魔神の力を取り込んだ事で、魔法の威力が高まったようだ。ニルヤリスが魔法障壁を展開して仲間を守っている。普段、一人で行動している弊害か、味方が巻き込まれる事態を失念していた。
どすん、と横倒しになった体を戻しながら、こちらを睨みつけて前足で殴りかかってくる化け物。
それをひらりと躱しつつ、柱の間を縫って移動する。
「ばっ、ばっかもん! 儂らを殺す気か!」
「すまない。しかし、どうする? このままでは──!」
ぐばっ、という不気味な音が邪神の口から漏れた。まさか──、そう思う間もなく奴の大きく開かれた口から、毒々しい瘴気の息吹が放出された。
まるで消化液を放つ生き物のような攻撃。
俺が老魔法使いのそばに合流したところへ、凄まじい勢いで邪悪な息吹が放たれたのだ。
「ちぃぃっ!」
俺も魔法障壁を張り、なんとか三人の力でその攻撃を防ぎきったが、離れた場所に居たバルサスは、横薙ぎにされた息吹の一部を喰らって床に倒れ込んでいる。
「まずいのぉ」
「勇者の力は、まだ頼りにできるのか?」
俺は魔法使いたちの張る障壁の内側で尋ねた。
「だい……じょうぶです」
少年は立ち上がり、よろよろと後方からこちらへ歩いて来る。
「……わかった、信じよう。では──」
覚悟を秘めた少年の瞳を見ながら頷き、俺は少年や二人の魔法使いに作戦を聞かせた。
「やれるのか?」
「そちらこそ」
俺を心配する老人に言ってやると、ただちに前線へと飛び出す。
囮となった俺を狙い、巨大な口で噛みつこうとする化け物の攻撃を躱し、側面へ回り込んで注意を引きつける。奴の頭がこちらへ向いた瞬間が合図だ。
「ゴアァアァッ!」
広間の天井すれすれに上体を起こし、両腕を叩きつけるみたいに振り下ろす蛇竜。
醜い頭部──その巨大な顎が石床を粉砕する。
真っ赤にした眼でこちらを捉え、立て続けに奮われた爪の攻撃を躱しながら横に回り込み、長い胴体が勇者の少年の正面にくるよう誘導する。
(いまだっ)
俺は準備していた魔法を解き放つ、──それは魔神ネブロムから獲得した上位存在の奮う力。
「十字破光!」
食らいつこうとしたその頭部に叩きつける、光り輝く十字型の斬撃と衝撃。
頭上から打ち込まれた力に押さえつけられるみたいに、床に叩き伏せられる邪神。
「グギュァアァァッ⁉」
輝くまばゆい衝撃波が奴の頭部の甲殻を削り取り、さらに邪神の弱点となる光の力で奴の肉体は融解し、蒸発を始めている。肉も血も飛び散る事なく、硬い鱗状の外皮すらも削っていく。
じたばたと手足をばたつかせている化け物に飛びかかるシュバールト。
剣に纏わせた神霊の光。
「ハアアァアッ‼」
勇者の一撃が振り下ろされる。
俺はすぐに回り込み、少年の攻撃に巻き込まれるのを避けた。
振り下ろされた剣から放たれる攻撃、それは「業魔斬」とはまったく逆の力でおこなわれる、神気による「神威斬」とでもいうべき攻撃。
爆発的な力が邪神の躯を打ち砕く。
「ギョアゥォアォオォォッッ‼」
バキバキバキッ、メキメキメキッ、ジュワワァァ──、そんな音が重なり合う奇妙な破壊音。
邪神の上半身から頭部が黒い灰となって崩れ落ちる。それは黒いキラキラとした輝きを発しながら消えていく。その黒い灰の中からいくつかの結晶が残された。
まるで蒸発するみたいに、灰となって崩れた箇所が──黒い煌めきを残して消滅する。
それが断ち斬られた腹部や下半身に回り、ふと、一ヶ所だけ灰の塊が残された。
ぼろぼろと崩れ落ちる灰の塊の中から現れたのは、一人の小太りの男。
「パーサッシャ‼」
アトモシスの驚愕した声が広間に響く。
黒い灰の中から現れた小太りの中年男──それは、パーサッシャだという。
灰まみれで床に膝を突き、生気のない瞳で床を見つめている。
「ぁ、ぁ、ぁぁ……」
老魔法使いを見上げた男は真っ青に近い肌の色をし、もはや死んでいるも同然の状態に見えた。
「アトゥモ……シすゥ……」
その声は幻聴だったのかと疑うくらい、奇怪な響きで呟かれた。ぼろぼろと崩れ去る白い灰の塊。その肉体だったものが、ただの灰となって床に崩れて散らばった。
もはやパーサッシャは人の形も欠片もなく、この世から消え去ったのである……
「パーサッシャ……」
残った灰の塊を前にして彼は呟く。
邪神と化した旧友の滅び。その最期の瞬間に、彼は人としての心を取り戻したように見えた。邪神となって人を喰らう化け物となっていたが、人間だった頃の友人の顔を見て呼びかけたのだ。
もしかすると、勇者の攻撃によって邪神としての肉体を破壊される時に、神的な力が働いて──人としての意識が戻ったのだろうか。
邪神に成り果てた者が、ああして人間の肉体のような姿に戻るなど、あり得ないのではないか。
勇者の中に降ろされた神霊の力とは、確かに上位存在の──しかも神聖な力を司るという、神の力を行使したように感じられた。
ルシュタールの宮廷魔導師が、いかなる存在を少年に宿らせたのか興味があるが、それをやすやすと悟らせはしないだろう。そんな技術を他国に知られては厄介事を招くと考えるはずだ。
神秘的な魔導の奥義を持っているルシュタール……いや、待て──
その技術を残したのは、魔神ベルニエゥロの配下であるティエルアネスのはずだ。であるならば、彼女からその知識について聞き出す方が、国家の秘密を探ろうとするよりは手っ取り早いのではないか。
俺は勇者託宣という儀式の正体に興味を持つと同時に、この儀式が明らかに通常の儀式魔術とは違う、上位存在の力を直接行使するものだと理解したのだった。
ここで章終わりとすると切りがいいのですが、もう少し続きます。
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❇アトモシスの唱える呪文にある「霊精」とはいわゆるマナに近いものを意味してます。魔法を行使する為の呪文は、日常と同じ言葉を用いていても、意味合いが異なるものもあったりします。
❇最後に現れたパーサッシャの体、別に彼が生きていたという事ではなく、記憶の断片が様々な偶然で具象化され、幻のように立ち現れた、というくらいのものです。通常の人間の精神では、高次存在の霊的な力の前には無力で、融合などすれば魂が崩壊します。




