邪悪な化け物にして貴族
「これは調理しがいがある」
奴はおぞましい赤い瞳をこちらに向けて、涎を垂らしながら「ぐへ、ぐへぇぇ」と息を荒くする。
「気味の悪い化け物め」
バルサスが吐き捨てながら剣を構えた。
老魔法使いは醜い化け物の顔を見上げて震えている。──まるで、そこに悪夢が顕現したかのような表情をして。
「なんだとぉ? ベレトゥアリ家に生まれた高貴なる貴族にして、希代の美食家パーサッシャ……」
「なんてことだ!」
グルティマ・ベレトゥアリ。という名前を化け物が口にする前に、老魔法使いアトモシスが叫んだ。
俺も「ベレトゥアリ」という家名には覚えがあった。
「パーサッシャ! おぬしなのか! おお、なんという……! そのような姿に──あぁ、神様!」
それは老人の、苦悶に満ちた絶望の叫びだった。
「なんだぁ? 騒々しい……このパーサッシャ・グルティマ・アピポスに恐れをなしたか?」
老人の慟哭が木霊する広間。
グルティマとは「美食家」の意味で、パーサッシャが自身の中間名に使用した言葉であり、アピポスというのは──古いルシュタールの言葉で、確か「暗闇の虚」とか「暗闇の渦」とかいった意味を持つ、神話上の蛇だか竜だかの名だ。
邪神へと変わる時に名を変える必要があったのか、しかし彼は自らの姓は変えたが、家名や家柄には執着があったらしい。貴族としての矜持を持ちながらも、個人として追求した美食の道の重さゆえの変更なのか。──まあ正直、どうでもいい
パーサッシャ。
彼の変人──あるいは狂人となった美食家、あのパーサッシャか。
この醜い化け物は腕に巨大な刃物を持っており、どうやらこれで犠牲者を解体し、「調理」と称して人間も動物も──そして魔物すらも、その腹の中に収めてきたのだろう。
こいつは取り込んだ犠牲者を自分の力に変え、強大な力を手に入れてきたのだ。
膨らんだ腹部に浮かぶ紋様が怪しく光り、腹の中にある魔力の中枢が不気味に蠢いた。
(なんだ……こいつ、腹の中になにか──別の力を感じる)
ちらりと老魔法使いを見るが、彼は床に膝を突き、まるで神に祈るような格好をしている。
どうやらアトモシスとパーサッシャは旧知の間柄であったらしい。彼らの交友関係がどのようなものであったか、それは推測の域を出ないが、老人の嘆き哀しみから察するに、かなり親しい関係にあったのだろう。
その縁ある者が──まさか、おぞましい化け物となって現れるとは。
だがいまさら神に祈るよりも、やるべき事があるだろう。
「ご老体、いまは嘆いている場合ではないだろう。パーサッシャといえば悪魔に魂を売った、などと言われるほど不可解な死に様をした貴族。その名を名乗るこの化け物が本当にパーサッシャならば、俺たちの手で討ち取るか、この異界を脱出するかしなければ」
俺は老人に呼びかけ、魔剣を構えながら前に進み出た。
邪神の真っ赤に輝く眼は、まるで新鮮な血を結晶化したかのように、気違いじみた色を湛えてこちらを睨み、威圧してくる。
「ぶわっはっはぁ! ほざきよるわ。──だいたいそこで泣き喚いている老いぼれはなんだ? 食い甲斐のない貧相な体のじじいなどに用はない、とっとと失せるがいい」
はっ、ふざけた豚野郎だ。そんな言葉がバルサスの口からもれる。
邪神の力がどの程度のものなのか知っての発言ならいいのだが、この邪神は中級位階の力は秘めていると思われた。貪欲な邪神と成り果てた、ただの食通ならば──なにも恐れる事もない。しかしこの相手は、かなり危険な力を秘めていると感じるのだ。
醜い邪神に挑もうと、勇者の少年が剣と小盾を構えながら、じりっじりっと間合いを詰める。
邪神の注意が少年に向いた瞬間に、バルサスが一気に間合いを詰め、白いぶよぶよの腹部に大剣の刃を叩きつけた。
「うぉっ⁉」
その刃は分厚い皮と肉に阻まれ、押し返されてしまう。
「カッハァ──ッ!」
ぶうん、と振り回された巨大な刃。
包丁の刃先を戦士は避け、今度は縦に斬りつけて腕に攻撃した。彼の攻撃は肘に当たり、小さな傷を付けただけで終わった。
「じいさん! 剣に魔法を!」
そう叫ぶバルサス。シュバールトは側面に回り込みながら魔物の腹部に剣を突き立てたが、それも皮を貫く事はできず、ぶよんと分厚い贅肉に押し戻されてしまう。
「ふんヌゥッ!」
ガギンッと、石床に食い込む大きな出刃包丁。
叩きつけられた勢いが強く、石が真っ二つに断ち斬られている。
こちらは奴の障壁を解析し、あわよくば奴の張る「光体波動」を破り、魔法による攻撃も通用するようにしたい。
物質に近い肉体を持っているとはいえ、上位存在の根源は霊的な部分にあるのだ。それがこちらの魔法に抵抗する力場を生んでいるのは明らかだった。
「アトモシス! 打ちひしがれてる場合じゃない!」
老魔法使いの弟子はいきり立ち、攻撃魔法を放った。
魔力の弾丸を複数放つ攻撃だったが、ぶよぶよの肉に当たった魔法の弾丸はその皮膚を傷つける事はなく、数発が力場によって無力化されてしまう。
「ちっ」
魔法抵抗が高く、しかも頑丈な肉体をしている邪神。
「ならばッ!」
杖をかざしながら彼女は呪文の詠唱を開始する。
前線では俺も参戦し、パーサッシャ=アピポスを足止めする為に奮戦する。三人の戦士による攻撃を受けて白い皮膚に傷が付いていくが、青色の肉が見えたかと思うと、その傷口は瞬く間に塞がっていくのだ。
「なんだっ、こいつの体は!」
バルサスが毒づく声が白い肉塊の向こうから聞こえた。
「ベルァ、グネフ、ダ、アゥザールブラ、終局を告げる火と雷、噴煙を齎す龍の息吹を解き放て、破滅の坩堝が汝の穢れし魂を打ち砕かん!『滅龍の焔雷』!」
ニルヤリスが呪文の詠唱を終える。
「離れろッ」──そんな誰かの声が聞こえた。
俺は素早く後ろに三歩ほど跳び退りながら、邪神から距離をとる。
一瞬、白い巨漢が縮んだみたいに見えた。
次に広間に爆音が響き渡り、醜悪な化け物の足下が崩れ、凄まじい火柱と雷が迸しる。
天井をも焼き焦がし、爆雷と膨大な熱量で天井を崩落させた。
「グガアァァアァァッ⁉」
噴き上がる炎は溶岩を生み出し、床を融解させて巨大な魔物を飲み込んだ。周囲は凄まじい熱気に包まれ、異界に満ちていた、不愉快な感情を抱かせる淀んだ空気を焼き払い、その代わりに焦げ臭く、危険なほどの熱さを広間に現出させたのである。
「凄まじいな……!」
俺は感嘆した。
自分以外の魔法使いが、これほど強力な魔法を行使するところを見るのは、初めてかもしれない。
ぶすぶすと燻る煙が天井に空いた穴に吸い込まれるみたいに、床から立ち上るのが見える。──そしてその中心に居る化け物の姿も。
そいつは倒れ込み、白い肌を真っ黒に焦がしていたが──
「これなら……!」
シュバールト少年が声を発した。
少年の攻撃も鋭く、奴の皮膚に傷をつけていたが、致命傷を与えるにはほど遠いと感じていただろう。それは俺も同じだった。剣などの物理攻撃では埒が明かない。
──ところがである。「びたんっ」という音がして、白い指先にある黒い爪が「がりがりがりっ」と石床を引っ掻いたのだ。
「こいつ、あれを喰らって生きてるのか⁉」
バルサスの驚愕の声が聞こえた瞬間、少年が突っ込んでいき、立ち上がろうとする化け物の脳天に渾身の力で刃を振り下ろした。
俺も奴の首を刎ねようと、火口に近づくような熱気を感じながら邪神に迫った。
「グハアァアァァッ‼」
突如、両腕を広げて俺と少年を吹き飛ばす。
重い一撃を受けて弾き飛ばされ、壁や柱に激突する。
「ぐはっ……!」
革鎧が衝撃を和らげたが、奴の拳の中にある固い骨が当たるのを感じた。それは俺の肋骨にヒビを入れたかもしれない──一瞬、息が止まり、その場に崩れ落ちる。
(こいつはまずいぞ)
そう思っていると白い怪物はゆっくりと立ち上がり、下半身や腹を黒く炭化させながら前に進み出て来た。
「おのれぇえぇェ……ゆるさん、赦さんぞォ! 高貴なる邪神の貴族である私に、このような不逞を働いてェ、無事に帰れるなどと思うなよォ!」
奴の言っている事は目茶苦茶だ。人間の頃の記憶と、邪神としての意識が混在でもしているのだろうか。
ぶすぶすと煙を立ち上らせながら喚き散らす醜い邪神。
視界の隅で老魔法使いが立ち上がるのが見えた。
「この……たわけ者めが……」
よろよろと立ち上がったアトモシス。彼は杖を構えると、各人に対し防御魔法と攻撃強化魔法を掛けて戦いに備える。
「ニルヤリス、彼の回復を」
そう弟子に声をかけると彼女は俺に近づき、傷を癒してくれた。肋の痛みは消えたが、パーサッシャ=アピポスもその損害を修復しているらしく、ぼろぼろと炭化した皮膚が崩れていくと、その下から気味の悪いほど真っ白な皮膚が現れた。
「そうか、この領域では──傷をすぐに修復してしまうのかもしれん」
老魔法使い呟く声が聞こえた。
確かに上位存在の作り出した異界の多くは、自身に有利な状況を生み出しているはずだ。あの異常なまでの回復力は、この異界の特性だという推測は正しいかもしれない。
「シュバールト、ここは退くぞ!」
バルサスが老人の言葉を聞いて、速やかに撤退を口にする。
「でも! ここで倒さなくちゃ!」
「にがすかあぁぁァ!」
ばしんと、重い叩きつけるような音が響き渡る。それは大きな掌で床を叩いた音だった。
少年は小盾で防御したが、振り回した腕の一撃を受けて吹き飛ばされた。
邪神の手にしていた大きな包丁は溶け、武器としては使い物にならなくなったらしい。
鋭く尖った歯が並ぶ口を開くと、化け物は瘴気の息吹を周囲に吐きかけた。まるで重い気体をのしかからせたみたいに、その瘴気が体を覆い、体の動きを鈍らせる。
「くそがぁっ」
バルサスは前に踏み出すと、豪快な縦斬りをみまったが、太い腕に阻まれ、逆に振り上げた拳で後方にまで殴り飛ばされてしまう。
離れた場所で少年はなんとか立ち上がり、それでもまだ戦おうとしている様子を見せる。
(ちっ、ばかが……)
この場で戦うのならそれなりの攻撃をしなければ、致命傷を与えるのは不可能だろう。なぜそれが分からないのか。俺がそう考えていると、それは起こった。
少年の体を覆う瘴気を吹き飛ばし、淡い光が包み込んだ。めらめらと燃え上がる闘気のようなものが体から噴き上がっている。
「なにッ⁉」
それを捉えた魔眼が、少年を上位存在だと認識したようだ。
少年は剣に光を纏わせつつ、軽やかに踏み込むと、白い腕の攻撃を躱し、果敢に立ち向かったのである。
「オォオォォッ‼」
振り下ろされた剣から斬撃と共に光の爆発が起こる。──それは少年の体を包み込んだ緑色の光よりも濃い、強い光の柱となって白い肉体を持つ化け物を捉えた。
「ズズゥゥン」と建物が崩壊するような音が辺りに響く。
強力な攻撃が天井や床を打ち砕き、ニルヤリスが放った魔法よりも甚大な被害を周囲に齎す結果になった。
爆発に巻き込まれた化け物は後ろに激しく吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたのだった。
その白い皮膚は引き裂かれ、頭部から胸や腹にまで深い傷を与え、青い血を吹き出させている。
なるほどと俺は理解した。
勇者を作り出す魔法の儀式とは、少年の体の中になんらかの神霊を封入する力なのだ。彼の奮った力は神々の力、つまり光体の力であり、上位存在の肉体に対する直接的な破壊を与える、切り札となり得るものだ。
「グバアァァアァッ」
傷口が燃え広がるみたいにじりじりと広がっていき、このまま奴の肉体は崩壊するのだと思った。
しかし奴はその本性を顕す事で、その損壊した部分を切り捨て、別の姿へと変身を果たしたのである。
邪神と化したパーサッシャ=アピポスの混乱した精神。人間だった時の記憶と、化け物となった精神の歪んだ結合からくる、異常な状態にあります。
パーサッシャの肉体自体は、現世で死亡しています。




