女王ティエルアネスの話と、不穏な気配への導き
ニルヤリスが宿屋の中から一人の老人を連れて現れた。それは図書館で見た魔法使いの爺さんだ。
先の尖った暗い色合いの青い帽子を目深に被り、老人はじろりと俺を睨んだが──それは一瞬の事で、彼は濁った緑色の瞳で見つめると、にやりと口元に笑みを浮かべた。
「ほうほう、この男が我々の旅に同行する者か。ああ、いやいや、途中まで同道する者だったな。それにしても、ただの冒険者には見えないのぉ。魔法に対する思慮がなければ、そうした目はしておらんだろう」
俺は一瞬ぎくりとしたが、この老魔法使いが言ったのは、「知性を秘めた目」といった意味合いで使った言葉らしい。
(焦らせやがって、魔眼を見抜かれたのかと思ったじゃないか)
魔眼の偽装を簡単に見抜く事はできないはずだ、中には特殊な能力で見破る者も居るようだが──レファルタ教「秩序団」の女神官のような──そうした手合いなど、そうそう居る訳じゃない。
「ご老体、あなたは先の図書館でなにを調べていたのかな」
そう言うと老人は「ほっほっほぉっ」と笑い、せっかく大きな都市の図書館に来たのでちょっと覗いただけだ、という返答が返ってきた。
「魔法や魔術に関する本ももちろん多かったが、市井にあふれているような書物ばかりだったぞ。ルシュタールに伝わる古い魔術の文献などはいくつか目にしたが、新たな魔法を獲得できるような書物は、おそらくあそこにはないだろう」
首を横に振り、期待はずれだったと語る。
「ただあの図書館の秘蔵書庫には、ルシュタールに魔導を深く浸透させるに至った一人の女王。ハイレンシア・ティエルアネス・ベスターギュントが持っていた蔵書の一部が保管されているのでね、それに興味を持ったのだが。──どうやら、魔法書などは宮廷の方に保管されていた物だけのようだな」
……ティエルアネス──? その名前は魔神ベルニエゥロの僕だという妖人……いや、魔神の女が名乗った名前だ。彼女は女王をしていたとも言っていたが、まさか……
「ティエルアネス? うむ。その名は女王ハイレンシアが、自ら記した魔法に関する書物に挙げた名前でな。いわゆる魔法使いとしての通り名として、彼女が自分に付けた名前だ」
なんと、あの魔神はルシュタールの女王だったのだろうか。その女王について尋ねると、アトモシスという名の老魔法使いは、楽しそうに語ってくれた。
「彼女はルシュタール国の六代目の女王でな、美しく、聡明な女王であったという。彼女は魔法に関する知識や技術においても卓越しており、数多くの魔法や魔術を編み出したともされている。だが──」
と、老人は会話を止め、次の言葉を思案してから口を開いた。
「ハイレンシア女王の魔導の技術は、当時の宮廷魔導師を凌ぐ力を持ち、強大な上位存在をも使役していたと言われている。──まあ、いくぶん誇張を含んでいるだろうが──ともかく彼女は、その強大な力を持っている事を国内の貴族の一部から、そして周辺国からも怖れられていた」
厩舎から三頭の馬に引かれた馬車が出てくると、俺たちの前で停車した。ぶるるるるっと鼻を鳴らす馬や、蹄で固い地面を蹴りつける馬も居る。蹄鉄の音だろうか、金属質の固い響きを立てている。
「女王はまだ独身での、隣国から彼女に取り入ろうとする王族貴族が、ひっきりなしにやって来たという。それを快く思わなかった者が国内外に居たのだろう、彼女は護衛に護られていたにもかかわらず、暗殺されてしまったのだ」
老魔法使いは弟子の手を借りて馬車の後ろから乗り込み、俺は勇者の少年のあとについて行く格好で馬車に乗り込んだ。
バルサスは御者席の方に座り、護衛としての役割を果たすようだ。馬車の中には空席もあるが、荷物もいくつか置かれている。
「さてさて、どこまで話したかな……そうそう、ハイレンシア女王が暗殺され、その主犯格として捕らえられたのが、ベルシャーティ国──現在のウルド国の領土にあった国──と内通していた地方貴族の豪商だった。まあ、この類の話にありがちな事だが、この豪商は体のいい身代わりとして使われたんだろうなぁ」
女王ティエルアネスは三十代前半で、その命を落としたのだという。
また別の話では、彼女は死の間際に盟約を交わした上位存在との契約により、恐るべき魔物へと変わってルシュタールの地に呪いを掛けた、などと言われているらしい。
「はてさて、いったいなにが真実やら。ともかく彼女の死後からルシュタール領内は内乱が起こり、また魔物や亜人の襲撃が増加したなどと言われていたらしいな。今から百年以上前の話だが、現在の状況と重なるものを感じる」
彼女の残した魔導の力が、現在のルシュタールを支えているのは事実らしい。勇者託宣という儀式も、大元の技術はティエルアネスが残した儀式魔術であり、宮廷魔導師が勇者に力を与える儀式として完成させた、という噂があるのだとか。
そんな話をしてくれたアトモシスとはすぐに打ち解けた。彼は若くて才能のある魔術師や魔法使いと積極的に友好関係を結ぶような、珍しい類型の魔法使いで、魔法の発展についていつも思い巡らせているらしい。
「弟子のニルヤリスは攻撃魔法ばかり習得するような奴でな、それよりも邪神や魔神などという危険な存在に対抗する封印や、結界について考えよと言っているのだが」
どうやらこの老人も、上位存在の魔法抵抗力に危機感を抱いているようだ。何度かそうした危険な上位存在と戦った事があるらしい。
「中級の魔神となら」と老人は言った。
魔法の威力を弱める障壁のような力の前に苦戦した、苦い経験があるのだと語る。
「やつらの強力な力は魔法に対する抵抗力だけではない。その強靭な肉体を傷つけるのは至難の業よ。戦士の武器に『霊呪の銀印』のような、霊的存在に対する補助魔法を掛けるのも有効だが、それ以上の攻撃手段を手に入れる必要がある。それは儂ら魔法使いの急務なのだ」
老魔法使いの弟子だというニルヤリスは、師匠の言葉に反論した。
「霊呪の銀印が魔神種に効果があるなんて望み薄でしょう。攻撃が偶然、少し、有効打になっただけではないですか?」
もちろんだと、老魔法使いは頷く。
「それでもあの魔法が一定の効果を出したのは事実。そこから奴ら魔神種に有効な攻撃手段を手に入れるべく、さまざまな実験に取り組み、答えを導かなければならない」
光体の防壁は魔法を必ず打ち消すようにはなっていない。場合によっては、その威力を弱めるだけの効果しか発揮できない場合もある。
多くの魔法使いは、上位存在の「光体」という、非物質的な躯の性質を理解していないのだ。
ニルヤリスが強力な攻撃魔法を習得し、それで上位存在に対抗しようと考えているのも、強力な魔法で上位存在が展開する障壁を突破し、損害を与えられると考えている所為だった。
馬車の中で師弟の論争が展開された。勇者の少年はうんざりした様子で二人を見て、俺にぼそりとこんな事を呟く。
「アトモシス様がこんなに簡単に見知らぬ人と話すなんて、はじめて見ましたよ。魔法の事ばかり考えているようなおじいさんなので」
「こら、シュバールトよ! 儂に様を付けたり、老人よばわりするんじゃない!」
いや、老人には違いないがな、そう言って快活に笑う老魔法使い。
弟子と言い争いをしていながら、よく聞き取れたものだと肩をすくめる少年。
なんというか見た目は老人だが、元気な爺さんである。
アトモシスによると、ルシュタール国の魔導師などの間では、上位存在の出現が増えている現状に、かなり強い危機感をもって、これに対抗する手段を模索しているらしい。そのうちの一つが「勇者」という特殊な力を持った存在の選出だった訳だ。
俺はアトモシスに、勇者が与えられるという「神の力」について尋ねた。
「それは──魔法の儀式によって選ばれた少年に力を授けるという、特別な魔法による祝福を与えるものだ」
何人もの魔導師による儀式なので、事の本質は分からない、と言うのだった。
このティエルアネスが残した魔導の力が、シュバールト少年にどういった変化を与えたのかは、彼が力を発揮する場面を見なければなんとも言えない。
彼がどれだけ活躍しているかは知らないが、少なくともルシュタールの中ではかなりの功績を上げているのではないだろうか。
少年からはそれほど強いなにかを感じるという事はないが、この年齢の冒険者としては別格の気配を宿している。戦う者が放つ気配としてはなかなかのものだ。
だが──それ以外のなにか、少年の中に潜む力があるようにも感じられる。
魔眼を使って確認したいところだが、そうすれば俺が魔眼持ちである事がばれてしまうかもしれない。興味本位で探りを入れ、魔眼の事を知られるなんていう危険は犯したくない。
ルシュタール国はレファルタ教の広まりが抑制されているはずだが、魔眼などの魔導や呪術に対し否定的な感情を持っている者も居るはず。──魔眼というものを知らない者も多いだろうが。
カルナックの町に行く前に立ち寄ったアンソワースの町で、少年の実力を確かめる機会を得た。
それは戦士ギルド前に集まっていた冒険者や市民の姿を見た彼が、馬車を降りて彼らから話を聞きに行った事から始まる。
「やれやれ……また面倒事に首を突っ込むつもりか」
馬車に残っていたアトモシスが少年の行動を見て呟く、以前にもこうした事があったのだ。正義感の強いシュバールト少年の事だ、仲間の事など二の次で、自らの信念に従って行動したがるのだろう。
俺は気になって馬車から降り、そばに居た冒険者に声をかけた。
「ここから西には『ペンティス狩猟場』と言う、貴族の治める領地があるんだが、そこの狩猟場の拠点に魔物が住みついたとして、冒険者の一団が討伐に向かったんだが、一人も帰って来ないらしい」
古くからある領主の為の禁猟区で起こった問題に、階級の低い多くの冒険者たちは、この問題を無視しようと考えているようだ。ペンティス狩猟場を治めている領主の評判がよろしくないのは、彼らとの会話の中でなんとなくだが感じられた。
「外の連中はなんと?」
馬車に戻った俺にアトモシスはすぐに尋ねてきた。少年が首を突っ込む案件かどうか知りたいのだろう。
「ペンティス狩猟場という場所で魔物が出現し、それを討伐に行った冒険者が未帰還になっているらしい。おそらく戦士ギルドから別の一団が送り込まれるでしょう」
そう答えるとアトモシスは深い溜め息を吐き、その弟子のニルヤリスがこんな事を言ってきた。
「それで、あなたはどうしますか? 一緒に私たちに付き合う義理はないと思いますが」
「ん? それはどういう……」
意味か、と聞こうとした時、馬車の後部から勇者の少年が声をかけてくる。
「皆さん、冒険先から帰還できていない冒険者の救助に向かいましょう!」
なるほどと納得した。勇者の一行として加わり、冒険者の救出に参加するかどうか、という事をニルヤリスは尋ねたのだ。
「あ、でもレギさんとは、ここでお別れになりますね……」
自分たちは西へ向かわなければならないので、と少年は言った。それはもう決まった事であるかのように。
「そうか。──いや、良ければ俺も一緒に行こう。冒険者の救出をするというのに、それを断るのも気が引ける」
俺の返事に少年は「本当ですか!」と喜んだ。
「だが、危険だとなったら退く事も考えるように、なにが待ち構えているか分からんのだから」
「しかしそれでは、残された冒険者の人たちが……」と少年は反論する。
「冒険者なら覚悟の上だろう。それに、無理をして俺たちが未帰還になったら、誰かが代わりに救出に来なくてはならなくなる。その時になにがあったかを伝えておけば対処がしやすくなる。そうした事も考えておかなければ」
少年はその考えに一理あると思ったようだが、困っている人を見捨てたくはないと、はっきりと口にした。なかなかに強情な子供である。
「やれやれ、ともかくその貴族の狩猟場に向かうとしよう」
アトモシスは御者と、その隣に座るバルサスに声をかけ、西に向かって馬車を進めるよう指示を出した。




