魔神の罠
それは突然の申し出だった。
今まで罪人とはいえ、多くの人間を捕らえ、支配してきた魔神が、自らの滅びを求めるとは。
「いったいどういう心変わりか」
玉座に腰かけたまま、魔神は語り始めた。
「私は滅びを知った」
仮面を付けた顔の半分に悲哀が浮かぶ。
「人間を管理する上で私は、人間をより深く知りたいと望み、彼らの生と死を考えるようになっていったのだ。──すると、彼らの恐怖や悲しみ、喜びや苦悩が私の中に膨れ上がった。人間とは死を恐れ、生を希求し、そしてやはり定めによって滅びる存在なのだと知った」
それがネブロムが失墜した理由の一つであると思われた。彼の人間という存在に対する執着心が、あるいは愛が──彼の存在に、迷いやなにかを生み出してしまったらしい。
「私は失墜し、独力で地上に顕現できる力も無く、幻夢界に逃げ込むしかなかった。だがそこでも、私は緩やかな滅びに向かっているのを知った。人間が滅びを恐れる理由がその時、初めて理解できたように思う」
「滅びを恐れるようになったのか」
「そうだ」と、もと神の使いは言った。
「私は恐怖したのだ、自らの滅びを。それと同時に、私が今まで記憶してきた、彼らの記憶が消失する事を──何より恐れたのだ」
ネブロムが人間を愛していたのは間違いなさそうだ。──と同時に、彼は悪事を働く人間に対し、怒り以上のものを感じていた様子である。
「多くの無実の人間がそうであるように、私も多くの悪人を憎むようになった。彼らの魂を糧として存在し続ける事を私は躊躇わなかったが、彼らの淀み、穢れた魂の影響は、私の力を徐々に蝕み、やがて本来もっていた、多くの力を失ってしまったのだ」
「事情は分かったが、なぜ滅びを求めるのか。率直に言うが、俺はむやみに魔神を滅ぼそうなどと思っていない。魔神を倒し、その力を奪い、取り込むというのは、魔導師としては一級の大望だと言えるが、同時に──神殺しによる呪いを受けるという危険があるからな」
すると魔神は力なく笑った。それは嘲笑というよりは自虐的な笑いで、今まさに死に逝く父親が、なに一つ財産を残せない子供に対するように、まるで──申し訳なさそうに笑うのだ。
「ははは……それは杞憂というものだろう。もはや私には、誰かを呪う力などない。だが私から引き継げる力があるやもしれぬ。それをお前に託したい」
「俺は弱った者を殺すような真似はしない主義なのだが、……それであなたの苦痛や苦悩が取り除けるというのなら、望みどおりにしよう」
私がお前に自らの滅びを託そうと思ったのはそういうところだ、そうネブロムは言った。
俺は魔神の力を取り込むあ決意をすると同時に、ある存在に対する罠を仕掛ける準備を始める。少し前から感じていた、違和感の正体に対して罠を張り、待ち構える。
その作業は──こそこそと隠れながら、俺の足下にこぼれ落ちる食料を盗んで行こうとする、鼠を捕らえるような作業だ。
この罠は単純なものだ、そして相手に悟らせる隙を与えない。かすめ取ろうとした餌を、俺はしっかりと握って手放さない──それだけの罠だ。
俺は玉座の前に立ち、剣を構えると、刃に新和波長を乗せ、魔神の胸元に開いた傷口に剣を突き刺した。青い炎がばちばちと爆ぜ、傷口から広がる青い炎。
それは亀裂となって体中に広がっていき、ネブロムの光体を瞬く間に砕いた。
『さらばだ……お前の旅路に、さち……あれ──────』
頭の中に響くネブロムの言葉。
彼の滅びと共に、周囲の空間が崩れ始めた。
ぼろぼろ、がらがらと崩れていく世界。
俺は身体を包む光の中に没入し、やがて意識が浮上する感覚を感じた──
同時に、違和感が周囲を包む。
(やはり、きたか……!)
それは思ったとおり、餌に食いついてきた。
ネブロムの維持していた異界から、そいつの作り出す異界へと引きずり込もうとする力を感じる。
以前の俺であれば、相手の罠にかかり、異界へと引きずり込まれていただろう。……しかし、今回はそうはならなかった。
そいつならそうするだろうと、読んでいたからだ。
身構えていれば、こんな単純な策略に引っかかりはしない。
俺は奴の力で作り上げようとした異界を拒絶し、ネブロムの力と共に俺の肉体へと引き込んで、二つの異なる魔神の力を取り込んだ状態で、神霊領域へと次元転移する。
弱っているとはいえ、二つの魔神の力を抱えたまま、肉体へと戻った反動は大きかった。だが、死導者の霊核を持ち、魔人ディオダルキスの憤怒の思念にも耐え抜いた俺は、それらの力の流入で魂が消滅するほど弱くはない。
神霊領域へとそいつを引きずり込むと、今度は俺の中から弾き出し、神聖な力に満ちた空間に奴の光体を解放する。
『グギィイィァアァアアッ⁉』
さらに「光輝の封陣」を張って、その中にそいつを閉じ込めた。
『バァっ、バカなぁアァッ⁉』
そいつは小さな赤紫色の炎。
中心に真紅の目玉を持った濃い紫色の焔。
「やっと姿を見せたと思ったら、ずいぶんと小さくなったものだな。魔人ディオダルキスの元主人よ」
完全に封陣の中に閉じ込められた焔が、バチバチと音を立てながら、結界を破ろうとする。
「やめておけ、ここで結界を解いても、どのみちあんたは消滅する。この領域では魔神の力は、否定されるべきものだからな」
『なぜだッ、なぜこのような場所が……』
「それはあんたには関係ない」
ティエルアネスが警告したとおり、魔神ファギウベテスが俺の力を奪いに現れた。──というか、こいつは以前から、俺の無意識領域から離れた場所からじっと、俺が傷つき倒れたり、精神力が弱まる瞬間を狙っていたのだ(もちろん四六時中狙っていた訳ではない。この魔神は幽世の狭間などに遊離しながらも、ディオダルキスの消滅から俺に標的を変え、時期を狙っていた)。
「魔神ネブロムの力や光体を狙って、現れると思っていた」
魔神ファギウベテスは完全に、こちらの術中にはまったのだ。
『おのれ、おのれぇエェぇッ!』
以前ディオダルキスの記憶で見た存在と同じとは思えぬほど小さく、そして冷静さもない。
力の大半は魔神ベルニエゥロに奪われたはずだ。自身の持つ光体の一部を残し、なんとか存在しているのだろうが、魔神ファギウベテスの正体とは、本当はこのような小さなものだったのかもしれない。
バチバチと火花を散らして抵抗を試みる赤黒い焔。しかしその力は弱く、光体をもってしても、人間の張った結界を破る事すらできない様子だ。
「もういいだろう。──あんたは復讐の神などと名乗っていたようだが、その実体がこれか。神に復讐するにしても、ディオダルキスの力を利用するくらいの手段しか持ち合わせぬあんたには、元から神への復讐など無理なのだ」
『だまれッ! だまれぇえぇェッ!』
凄まじい咆哮を轟かせたつもりだろうが、この領域に、しかも光輝の封陣に囚われた状態では、その声は大した威力を秘めてはいない。
もはや魔神としての威圧、そうしたものすらも奮えないのだ。
俺は大急ぎで自分の魔術領域に、その精神の根幹に──魔神ネブロムの力の領域を構成した。それは生半可な事ではなかったが、この神霊領域でなら、神々に属する力も、ある程度だが制御する事が可能だった。
今の俺は、魔神の力の一部を有した魔導師。
それは神の階に、初めて一歩を踏み出した証。
この力を以て、魔神ファギウベテスを討伐し、その力を自分のものとする!
「我、力を希求する者。至上の山を踏破し、渇望と探究を以て、荒寥たる野を越え、狂瀾とどろく海を支配し、暗翳ひそみし峡谷を進みたり。
いま霊位の柱を前に希望の盃を満たしたもう。その言霊に神威の理を以て刻め、我が真なる名の下に滅びを下し、その力を我が手中に収めん!」
神霊領域でその力を借り受け、魔神ファギウベテスに対し、神雷の一撃を振り下ろす。
光輝の封陣の中に発生した輝く力の一撃。
『グギュアァアァァアアァ────ッ‼』
雷に似た一撃が赤い焔を打ち砕く。
そこから発生した力の波を吸収し、「復讐者の魔神」の力を奪う事に成功した。
ジリジリジリッ、そんな音を立てて放電に似た金色の火花や電流が飛び散り、神雷が消え去る。
神雷は「陽炎の翼もつ眼」の結晶体を利用して使った力だ。
まだこの領域でしか使用できないが、奴も俺との戦いで、危機に陥った時は使うはずだったのだろう。──奴が使用する前に倒せたのは幸いだった。
なにしろ魔法ではなく、神霊の、その力の行使そのものなので、天使の霊核が無ければ使えなかったのだ。
俺はすぐにまた、自分の魔術領域に集中し、魔神ネブロムの力と、たったいま奪った魔神ファギウベテスの力の領域を設定し、それを安定させる事に注力する。
暴走など起こし、自身の魔術領域や精神、肉体にまで影響を及ぼす災いを招きたくない。
……幸い、魔神ファギウベテスの呪いは受けずに済んだ。ネブロムの力で守られるというのもあるが、神雷の攻撃で浄化されたのが大きかったのかもしれない。
いずれにせよ、この領域に引きずり込むという罠が成功し、想像以上に簡単に、俺をつけ狙う魔神を討滅する事に成功したのである。
しかも弱っていたとはいえ、二柱の魔神の力を自らの支配下に置く事ができたのだ。
こんな僥倖があるだろうか。
我ながら自分自身の権謀術策に感心する。
「ふははハハッ! やったぞ! ついに……魔導師の究極の希望、その一つを成し遂げた!」
弱り果てた相手だったとはいえ、危険な上位存在の力を手に入れたのだ。それも二柱の魔神の力を同時に。
魔術領域に構築した新たな領域。それが俺の精神世界に、新たな領域を広げる力となる。
だが魔術の庭とは、広さは重要ではない。その領域でできる作業を増やし、設備を充実させ、その精神世界を守る防衛能力を上げる事の方が、遥かに重要なのだ。
魔神の力を具現化する領域を創り出し、そこから力を引き出す魔法陣を用意したが、まだその制御を完璧にはできないだろう。
建物の中央部に位置する、魔術の研究と訓練をおこなう部屋。ここに魔法陣を設置して、魔神の力について研究を進める準備を整えた。
二柱に魔神から得た力や知識、そしてその光体の欠片。これらがあれば、俺の霊的な体も、さらに上位の躯、光体を作り上げる事ができるようになるかもしれない。
「ぞくぞくするな……!」
鼓動を早める興奮を抑えながら、冷静になって呼吸を整える。──焦りはしない。
まずはネブロムの結晶を研究し、朝までずっと魔術領域で作業を続けるのだった。
第八章「失墜した者ども」終幕です。
次話は次の日曜日に投稿。
第九章のタイトルは「勇者一行と美食家」
おかしなタイトルですが、ドラ○エみたいな勇者とはまったく違うので安心してください(笑)
ダークファンタジーですから。




