死の魔導書とティエルアネスの警告
「死」を扱う魔術の難解さを表現したく、このような煩雑な内容に……興味のある方はじっくりと読んで、想像していただければ。(これでもかなり簡易的になってしまった)
冥界神の娘ラポラースと別れた俺は、自分の魔術領域に戻って来た。手には少女から貸し与えられた『死の魔導書』を持って。
水鏡のドアを潜ると、自分の霊的体が清浄化された感覚を覚えた。この水面のように波打つ姿見に掛けられた魔法は、二つの領域を行き来する入り口であると同時に、二つのどうしようもなく結びつかない領域を遠ざける、絶対的な境界でもあるのだ。
俺は自らの領域に戻ると研究室に向かい、そこに腰を据えて死の魔導書を読む事にした。
その書物を開く前に、ラポラースから言われた言葉を思い出す。
「この本に書かれた文字は冥府と関わりのある言葉。解読するには魔術の基礎的な呪文構成を使用すれば問題ないはず。ただし異質な力を持つ魔導書の中でも、呪術的な力を持つ『死の魔導書』を読む時は注意するように。その力に囚われれば、その魂は魔導書の養分として取り込まれてしまうでしょう」
などと言っていた。
人の魂を喰らう書物だというのだろうか、恐ろしい魔導書には違いない。
本を開き頁をめくると、見た事のない黒い文字が並んでいた。開いた時に、一瞬の奇妙な既視感や、紙に触れた時の感覚に懐かしさを感じた……
俺は冷静にその感じを確認すると、落ち着いて本を閉じる。
初めて手にした本だ、懐かしさや既視感を感じるはずがない。その感覚は誰のものだろうか? 奇妙な体験を前に、自らの内部にある様々な魔術師たちの記憶を探ってみた。
彼らの記憶から呼び起こされたものだと考えたのだが、どうやらその線はないらしい。
「ではいったい、なんの感覚だ……?」
確かに感じた既視感。それはまやかしや錯覚ではない、俺は確かにその本を手にしたのを思い出していた。
気味の悪い本だ……それは間違いない。
本を手に取ると先ほどの違和感が甦る。
心を覗き込まれているような錯覚すら覚える。
この魔導書は確かに異質な法則の下に存在しているようだ、先ほどの既視感は──死が与える幻覚なのだろうと思う事にした。
(引きずり込まれるな……)
死の魔導書がどんな手を使って、読み手を死の罠に捕らえようとしてくるのか、それについて思い当たる言葉を思い出す。
「死は、時を超えて顕在する」
「死は、あなたの過去も未来をも、手中に収めている」
それは冥界神の娘と呼ばれる双子の発した言葉。
死が捕らえるものとは、生きている者の命の終わりだけではない、その終着へ至る「生」のすべてを掌握しているというのか。
「厄介な相手だな、死という奴は」
この本から感じる既視感とは、俺自身の生命が──その死を本質的に予期している事にあるのか。この魔導書から感じる「死」が、俺の結末をも告げているような、そんな気配すら感じ始めていた。
「上等だ。こっちは実質、二回は死んでいるんだ。いまさら死の顕在くらいで恐れをなし、逃げ出すとでも思っているのか」
俺は挑みかかるような気迫をもって、その魔導書に手をかけた。
死の魔導書を解読していると、ここに記されている文字はラポラースの言ったとおり、魔術に使われる呪文と似たような構成要素を持っていた。その仕組みさえ理解できれば、それほど難しい作業ではない。
数十頁に渡って文字や文章を解読し、また最初から読み直そうとした時に、疲労が全身に襲いかかってきた。──肉体にではない、精神にのしかかる圧倒的な重圧。
まるで魔導書が読まれる事を拒んでいるみたいに、異質な圧力を放ち始めた──ように感じた。
「ふん、知っているぞ」
こうした抵抗をするのは、抵抗しなければならない理由があるからだ。つまり、正しい目をもって読まれると感じた魔導書──に掛けられた魔法──が、読み手を退けようともがき始めたのだ。
「それはつまり──追い詰められた者がする、最後の抵抗というやつだ」
「正しい目」とは、魔術書にありがちな曖昧な表現や抽象的な書き方などで、読み手を呪的な意識操作によって迷わせる、そうした技術を見抜き、正しい解法を導き出せる意識の事だ。
高度な魔術書や魔導書には、こうした防衛が施されているものだが、死の魔導書にはいくつもの罠が仕掛けられ、それを一つ一つ躱しながら読み進める苦労があった。
頁をめくるたびに呪的抵抗が感じられたが、それはしだいに消えていった。いや、その魔法に対する抵抗力を会得したのだ。
それは同時に死の魔術や、呪術に対する親和性を得たという事。
死の本質を理解し、死導者の霊核を取り込むという目的に近づいている証だ。
死の魔導書にはいくつかの技法について記されていた。
一つは「死の操作」
一つは「死の回避」
一つは「死を与える力」
などの範疇に分類されている。
そこからいくつもの技術に分かれて、多くの複雑な体系が枝葉のごとく広がっているようだ。──だが、この写本に記されているものはごく一部であるらしい。
死霊の操作に関する一部の技術については霊核や、そこに記録された魔術師などの記憶から獲得していたものがある。
それは対象と関わりのある「死の記憶」を引き出し、相手に幻影として見せたりする事ができる力。他にも死霊を操ったりするような技術に関係し、死霊術や退霊術などの力もこの枠組みの中にあった。
複雑な体系を持つ死の魔導に関する技術は、どれもこれもが関連しあっている、そしてそれらは曖昧で歪で、そうした死の本質が、この死の魔導書に張り巡らされた罠を作り出している。
正解だと思った答えは誤りで、認識した真理は虚像である。──そうした罠を退けねば、魔導書の力に飲み込まれ、死に囚われてしまう。
死の深遠なる力の理について、この写本に書かれている内容は一部に過ぎないものだが、ここにある技術を使って得た魔術や魔法を行使するのは危険で、一つ間違えば──不死者の魔神ヴァルギルディムトのように、ただの異形の怪物になってしまうだろう。
不死を望む者に応えた力が、不死の化け物としての存在として作り替えてしまうのだ。危険な力を制御するのは、一つの間違いも許されない綱渡りのようなもの。
ヴァルギルディムトの失敗は、二つの異なる魂を一つにし、永遠の命を望むという──無茶な願いを抱いた事だったのだろう。奴の野望を叶えるには、「死の操作」と「死の回避」に関する二つの技術を使って、初めて可能になる技術のはず。
だが焦ったあの下級魔神は、死の回避による「不死化」の力のみを発動させてしまった。それは二つの魂を持つ体に反応し、破滅を齎した。
死は絶望であり、破滅であると同時に──それは救いにもなる力だ。あらゆる矛盾の終着地、安息の地。あらゆるものから解放され、還り着く場所。
死の力は大きく、そして広い。
どんなに永く続く歴史でさえも、死に包含された歴史の数に比べれば、それは小さな点でしかない。
「死」は魔導の中でも、人間である魔術師にとって最も重い現実的な力であり、それでいながら──まったく手の付けようのない、不可解な謎として存在し続ける根源的な課題である。
これを自在に扱えるとしたら、それは人であるよりも上位存在に近いか、あるいは人から外れたなにかであろう。
それこそ魔導の目的の一つと言えるものだが、焦りは禁物である。それは危険な力であり、術者を誘い出し、取り引きし、巧みに死へ導こうとするかのごとく、自在に形を変えて立ち現れる悪夢のようなもの。
死は本質的に悪ではないが、その海域に沈んだ魂が持ち運んできたものは、死という名の海を汚し、穢れを沈殿させてしまったのだ。
その多くは私欲を持った人間の魂であり、死の魔導書はそうした魂を引きずり込む罠に満ちあふれていた。
死の奥義に触れるには、そうした私欲や悪意を捨てた者しか辿り着けないのだ。──あるいはその魂を極限まで悪に染め、あらゆる罪や苦悩をも飲み干す、揺らぎのない邪悪。そうした魂にしか、死の根源に触れて、生きて存在する事ができないのではないだろうか。
死の魔導書。その写本から得られた知識は、俺の中にある死導者の霊核から力を引き出すのに役立ちそうな、いくつもの視点を与えてくれた。
さっそく霊核の力を取り込めるかを確認したが、それはまだ無理なようだ。
だが、この魔導書から得た知識は、上位存在の光体に関する知識と合わせて考えると、「死」と「光体」という──二つの、まったく異なると思われたものに共通する、ある法則に気づく事ができた。
この得たばかりの知識を使って、霊核に収められた死導者の力を使えないかと調べていると、死導者の持つ力の一部を使用できる事が分かった。
「やったぞ! ついに死導者の力を──⁉」
そうして覗き込んだ力の中に、不死者を引き寄せる力があるのを知った。
「こいつか、こいつの所為か!」
どうやら「死魂の誘因」という能力が解放されており、不死者や亡霊との接点を持たされていたようだ。この力を封じたので、たぶん今までのように死霊たちが引き寄せられる事はなくなるはずだ。
死導者はこの力を展開させて、死に近づいている者の魂を判別し、その運命の訪れを見守って魂を冥府へと誘っていたらしい。
「これで死霊どもに襲われる危険も減らせるな」
さらに死導者の力には、多くの呪術に対してその効果を反射したりする、強力な呪法があると知った。これを無意識領域に設定しておけば、不意の呪術的攻撃にも対応できるだろう。
もともと魔術的防衛には積極的に取り組んできたが、この強力な呪術反射が加われば、魔術師程度の使う呪術なら問題なく対抗できる。
死の魔導書から学べる事は、まだまだありそうだが、集中して取り組み過ぎるのは危険だと判断した。精神力が弱くなり、集中力を欠いた状態でこの書物を開いていると、魂を抜き出されてしまう危険がある。──そんな印象があるのだ。
見えない触手がずるずると俺を絡め取り、魂だけを抜き取って本の中に吸収してしまうのだ。
「考え過ぎかもしれないが」
俺は本を閉じ、しっかりと表紙を閉じる封をかけた。
二体の幽鬼について調べると、金属鎧を着た大男はガゼルバローク、革鎧を着た女戦士はオルダーナという名だと知った。
彼らも元は優れた戦士であった。──とはいえ、この二体に人格はない。あくまで神器によって「造られた存在」なのだ。
彼らの持つ記憶は戦闘に関するものばかりで、個人の記憶は断片的なものしかなかった。
俺は訓練場に行くと、そこでディオダルキスの力を取り入れた対戦相手──虚兵との戦闘訓練を始めた。
俺が喰らった心臓を潰す体術を学んだり、無手での戦闘──格闘術を学び、関節を折られるような体験をしながら、素手での対人戦闘の奥深さを学ぶ事ができた。
すると肉体がなにかに反応し、目覚めるよう訴えてきた。
すぐに現世に意識を戻し、暗闇に注意を向ける。まだ朝早く──外は薄暗い。
窓の方になにかが居る。
「誰だ」
魔眼を使って調べると、それは霊的な鳥──霊鳥という使役獣だった。
見た事のない容姿の鳥で、明かりをつけると、暗闇の中で水色の羽をついばみ始める。
『レギ、少し話しておきたい事があるの』
その鳥から声が発せられた──念話だ。
「ティエルアネスか?」
『ええ』
魔神の配下である彼女は簡潔に、何故わざわざ使役獣を飛ばして話をしにきたか、その要点だけを説明してくれた。
『────という訳よ。気をつけなさい』
「ああ、そういう事か。やはりな」
俺は思い当たる事があったので、そう口にする。
『あとはあなたしだいよ。──それではおやすみなさい』
彼女はそれだけ言うと、霊鳥を闇の中に消し去り、この部屋から去って行った。
俺は彼女から警告された事柄について対策を練りながら、ゆっくりと睡眠に落ちていった。
ブックマークが250超え……嬉しい。こんなに読んでくれる人が居るなんて。
これからもご愛顧のほどを~




