ティエルアネスの出現
謎の女の登場──レギはどこかで見覚えがあると気づくが……?
その響きは女性的な拍手の音。
軽やかで──どこか、期待どおりの演劇を見終えたあとの拍手みたいな響きがある。
動き出した心臓の違和感に胸を叩きながら振り返る。どんどんどん、強めに胸を打ちながら。
「誰だ」
拍手が聞こえてきた方向にある、大岩に向かって声をかける。
するとその大きな岩の陰から、一人の女が姿を現した。青紫色の衣服に長いスカート、胴体には弓士が身にするような革の胸当てを着け、腰の革帯に美しい外装が成された短剣と、黒っぽい革の鞭を輪っかにして下げていた。
「お見事でした」
その女は、やや高慢な態度を覗かせてそう口にした。それはまるで、演劇を仕切っていた演出家がするみたいな態度に思えた。「まあ及第点です」という言葉を付け加えたとしても、なんの違和感もない態度である。
「あんたは何者だ?」
美しい水色の輝きを放つ印象的な瞳。
それはどこかで見た覚えがある。
するとその美女は口元に手を当て、声を抑えて笑う。
強い力を感じる──その女の瞳。
その女から感じる気配は魔神のものに似ている。冷たい死の予感、破滅が歩み寄る足音、圧倒的な死の気配を感じる。
「あなたが私を知らないのは仕方がありませんよ、一度だけ目が合っただけですからね」
その言葉を聞いて、俺には思い当たった事があった。あの水色の瞳の力、あれは魔眼ではないか?
「そうか、水晶の──『虚ろの塔』に居た、妖人の女王か」
そう言うと女は目を大きく見開いて驚きの表情をする。超然としていた態度の中に、初めて人間的な感情を見た。そうだった、妖人はもともと人間であるはずなのだ。
「女王? 私が、妖人の?」
ふふふふふっ、と声を上げて品よく笑う。
「いえ、あなたの発言は──ある意味で正解とも言えますが、違います。妖人には女王など居ませんよ。私を含めた妖人にとっての支配者は、魔神ベルニエゥロ様のみですから」
彼女はそう言って微笑む。
優しげな笑みだったが、俺は剣を構えながら一歩後退する。その様子を見た美女の容姿をした妖人は、一瞬真顔になり、肩を竦める仕草をした。
「あらあら待って、私はあなたを守る為に来たのよ」
彼女はそう言うと手を軽く上げて、なにか言葉を口にした。──すると周囲の景色が変化していく、異界化が解けていくのだ。つまりこの異界を創り出し、異なる勢力の間に戦いを生み出したのは、この妖人が仕組んだ事だったのだ。
「私はベルニエゥロ様から頼まれて、あなたの警護をするよう言われて来たの。そうしたらちょうど、二つの上位存在から敵を送り込まれているみたいだから、少し策を練ったの。──けれど、あなたの力だけでも切り抜けられたかもしれないわね、まさか古代魔法を使うなんて想定外だった」
異界が解け、不快な色に包まれた世界から、現世へと戻って来た。広野の中にある岩場、そこに俺と妖人の美女が向き合う。
「それと私を『女王』と言っていたけれど、それは半分正解。私は妖人になる前は女王をしていた事もあったからね」
嘲るみたいに嗤う女。その水色の瞳に狂気に似た光が浮かぶ。
「今の私は魔神ベルニエゥロ様に仕える僕、妖人であり魔神でもある者。ティエルアネスって言うの、よろしくねレギスヴァーティ」
魔神ティエルアネスはそう名乗ると、懐から黒い水晶の玉を取り出した。
「あなたが私を警戒するのはもっともだわ。だから魔神ベルニエゥロ様も、これをあなたに渡すよう言ったのでしょう」
そう言うと離れた場所から水晶の玉を投げてくる。親指より少し大きいくらいの黒水晶の玉だ。
「その中には強力な魔法の盾が入っているわ。『魔晶盾』という瞬間的に物理防御を発動する魔法の盾よ。うまく使えれば先ほどのような、相打ちにならなくても済むのではないかしら」
クスクスと笑いながら「それにしても心臓を潰されて、よく生き返ったわね。蘇生の魔法でも掛けていたのかしら?」などと言う。
「あのまま死んでいたら、あんたはベルニエゥロに大目玉を食らったんじゃないか?」
すると彼女は笑い声を一度止め、俺の目を覗き込むみたいにじっと見つめると──再び笑い出す。
「そうね、その時は私が復活させてあげたわよ。心臓を復活させるくらいなら、なんとかなるでしょう」
などと簡単に言うのだ。この女がどれほどの力を持っているかは分からないが、相当の魔術の使い手だろうし、おそらく魔眼を持っているはずだ。敵対関係にはなりたくないものである。
「まあ正直に言って、あなたとあの戦士の戦いに見入ってしまったのよ。剣と魔法を駆使しての一騎討ち、実に見事でした。まさか最後の最後で相打ちになるとは思わなかったものだから、少し焦ってしまったけど」
とにもかくにも危機を脱し、あの面倒な二つの勢力をぶつけ合う事で戦力を減らし、俺の勝率を上げてくれたこの魔神には、感謝しなければならないだろう。
俺が礼を言うと、彼女は今までの笑顔とは違い、にっこりと優しげに微笑んで見せる。
「どういたしまして」
「ところであいつらは魔神と、邪神の手下という事でいいんだな? それも魔神の方は、あんたの同胞ではないのか?」
ティエルアネスは頷き、確かに魔神ベルニエゥロ配下の魔神が送り込んだ虚兵だと認めた。
「今頃、魔神ベルニエゥロ様によって罰を受けているはずよ。ああ、もちろん罰で赦される訳ではなく、存在も力も奪われているでしょう。あなたに手を出すという事は、魔神ラウヴァレアシュに敵対するのと同じ意味を持つのだから。私だってあなたを殺したり、支配しようなどとは思っていないわよ?」
そう言っているが、その瞳にはなにやら危険な光が宿っている。隙があれば支配しようと目論んでいるのかもしれない。魔術の奥義に触れているであろうこの魔神に、気を許すのは危険だ。
「あとは邪神ね、こっちはまだ刺客を送り込んでくるでしょう。──それと天使にも気をつける事」
それはまるで、姉が弟の身を案じるみたいな言い方だった。
俺は「了解した」と返事をしながら、黒水晶に封入されている魔法を読み取る。それはかなり強力な物理障壁を張れる上に、術式が簡略化された、扱いやすい魔法だった。これがあれば俺の「反射魔法」と「魔晶盾」の二つで、かなり防御面が充実するだろう。
「これはいい魔法をもらえたな。魔神ベルニエゥロに礼を言ってくれ、これで以前の依頼報酬はいただいたと、そう伝えてほしい」
すると彼女は「わかった」と返答し、空間に──奇妙な光に包まれた、黒い空間を作り出す。
「それではレギスヴァーティ、また会いましょう。くれぐれも気をつけなさい、邪神や天使なんかにやられないようにね」
そう言いながら背を向け、黒い空間の中に姿を消したのだった。
広野に残された俺は、認識を狂わす魔法領域に注意しながら、南東に向かって移動を再開する。
晴れた空、少し肌寒い風。
岩場の間を抜けてくる風は乾燥し、植物の匂いも、生命の匂いも感じない。
たまに強く吹きつける風に背中を押されるように、広野を進み続けた。
長い長い旅だった。
魔法の領域の無い場所に来るまで歩き続け、日が沈んでしまった。
暗闇の中に鹿や馬の群れがあり、そこから離れた場所に大きな岩と小川を見つけると、そこで野宿をする事に決めた。岩の近くに灌木があったので、それに布をかけ、簡単な雨除けを作ってその下に寝袋を敷いておく。
周囲には獣除けの結界も張り、食事と就寝の準備を済ませると、岩に寄りかかって空を見上げる。
また魔神から力を手に入れた俺は、それを自分のものとし、魔術の庭でそれを使った訓練を数回試してみた。感覚的には反射魔法と変わりはない。相手の攻撃に魔法の盾を作り出し、攻撃を受け流したり、受け止める事が可能になったのだ。
それに剣士の記憶も最重要のものとして取り扱う。
数々の魔術師の記憶も重要だが、この剣士の記憶には──剣技や、魔法の技術的価値よりも、その戦いの歴史──積み重ねられた戦士としての戦歴こそ意味があった。
この戦士の名は「ディオダルキス」──なんと、設立時期が怪しげな、レファルタ教が始まる頃の騎士だったらしい。今から二百年近く前のレファルタ教が抱える騎士団の団長だったようだ。
彼はかなりレファルタ教の教義に心酔した騎士だった。神の教えに従う従順な戦士であり、信徒だったのだ。
そんな彼が何故、魔神の配下となってしまったのか? そこには彼が死ぬ間際の、凄絶な最期が関係していた。
それは彼が信じる神に、教会に、裏切られた時の記憶。
またまた次話は水曜日に投稿します。
次話はディオダルキスの過去の話になります。
かなり暗鬱とした内容になっているので、覚悟して読んでください。




