ジキタリス
第一章 金環日食
一
二〇一二年五月二十一日、月曜。
待ちに待った金環日食の日である。昨夜の天気予報は、「晴れ。朝のうちは雲が多いだろう」で、観測できるかどうか危ぶまれていた。
善三が六時に雨戸を開けた時、荒々しい積雲が空を埋め尽くしていた。でも、雲の流れが速かった。そして、乱れた白雲のほつれた隙間から、光の束が何本か射していて、
「よし、なんとかなる」とうなづいた。
青いジャージで包んだ一六五センチ、六十五キロの身体。七十二歳である。老いた一人暮らしはふしだらな生活にならぬよう、寝間着姿では食事を摂らないことにしている。
善三はすぐに朝食の用意にかかり、洗濯機を回す。
七時、日食が始まるにはまだ早いが、善三は庭に出た。
白い雲の層はだいぶ薄くなっていた。
急に頭上の雲間から太陽を浴び、無精ひげの顔がほころびる。シミの出た面長の顔、油気の抜けた薄い白髪頭。
善三は手にした日食観測メガネで太陽を見上げたが、
「まだだ」と首を振った。
すぐに、雲が閉じた。
善三は太い丸太の門柱に近づき、新聞受けから朝刊を取った。
その時、五寸釘で止めた木製表札の、「権田善三」の文字がかすれていることに気づいた。
(ここへ越して来て、もう五年経つ……)
感慨深かった。
門柱の陰で、ジキタリスの花茎が四十センチほどの高さに伸び、先端のつぼみがピンクに色づいていた。この花は、雑草の中で広い葉を茂らせたと思ったら、すぐに茎が伸びエキゾチックなカウベル(牛飼いの鈴)の形の花列をつける。
(もう、ジキタリスが咲く……)
放ったらかしだが、ひとりでに種が飛び、あちこちで咲く。
毎年この時期になると、善三はこの花の旺盛な生命力に力をもらっている気分になる。
この屋敷は、前にリンゴ園をやっていた頃の門構えのままである。善三が移って来た時は、二本の古い丸太の門柱の間に麻ロープを張っていたが、今は門の仕切りは何もない。
家の前の幅四メートルの道路は百メートルほど先で県道と交差しているので、けっこう車が通る。待避所がないので大型車とのすれ違いに窮した対向車が、広い間口の屋敷内に突っ込んできて避けることもあるが、それはそれでいいと思っている。
また、日が射しだした。
(この調子なら、日食を堪能できる!)
ひとまず家に入ろうとした時、ペタペタと駆け足で近づいて来た靴音が急に止まったのに気づき振り返ると、一人の詰襟の中学生が赤いレンゲツツジの老いて破れかけた生垣の前で立ち止まっていた。
そして、カバンの中からなにやら取り出した。
(日食眼鏡だ!)
(急に日が射したので、部分日食が始まったか確かめようとしている。自分と同類……)と善三は眺めていた。
少年が片目を瞑り手にした黒いガラス板を顔面にかざし、上向いたので、善三は思わず、
「待て」と、怒鳴っていた。
驚いて、辺りを見回す少年。
見知らぬ老人が自分を呼び止めたと分かって、けげんそうな顔。善三と変わらない背丈だが、小さな顔の狼狽した目にあどけなさが残る。
善三は、二、三歩、道路に近づきながら話しかけた。
「君、それはガラスだろう。そんなので太陽を見たら、目をやられる」
少年は、口を尖らせかけたが、
「道ばたじゃなんだから、こっちへ来なさい」
善三の声の勢いに呑まれ、首をすくめるようにして屋敷に入ってきた。
善三は手にしていた、紙製の簡素な日食観測眼鏡を少年に見せた。
「日食眼鏡は、とっくに売り切れ、だろう?」
小年はうなずく。
「君たちは、そんな、ガラスにロウソクの煤を付けたものを作っているのか?
これは危ないから禁じられている。先生に注意されてるだろう」
「いや、ぼくだけです。おばあちゃんが子供の頃、これで日食を見たと言うので、ぼくも作ってみました」
「昔は、そういう乱暴なことをした。私もそうだった。
でも、今は、その危険性がわかって、天文学会の団体とか眼科医学会とかが警告している。
蛍光灯を見て、透かして見えるのは、ダメだ。太陽光は強烈だから、そんな透過性のある眼鏡で見つめたら危ない。太陽で傷ついた目は治らない」
少年は、うなずいた。
素直な少年だと、善三は好感を持った。
善三は、一瞬、少年のつぶらな目の顔立ちを、見たことのある面影だと思った。
昔の友人、知己の子供かも知れない、と思い起こそうとしたが、いや、孫の世代だ、と諦めた。
そして、善三は日食眼鏡を少年の目の前に突き出した。
「これをあげる」
「えっ?」と、驚く少年。
善三は構わず少年の手に渡そうとする。
「でも、悪いです」
「私は、別な方法で見る。ピンホールもおもしろいぞ」
「ええ、今から学校で皆で観測するのですが、ピンホールを用意してる人もいます」
「遠慮するな。持って行け。
雲が多いが、何とか見られるだろう」
初めはためらっていたが、うなずいた少年は手を伸ばした。そして、すぐにその眼鏡をかざし、太陽を探した。
すぐ顔面が定まった。
「どうだ、まだ始まってないだろう?」
「まだです」と、少年の顔がほころんでいる。
「さあ、行きな。皆、集まっているのだろう」
うなずいて、「すみません」と頭を下げた少年は、その日食眼鏡を握り、駆け出した。運動靴の音はすぐに遠ざかった。
この日のためにと、ひと月ほど前に本屋で求めていた日食眼鏡だったけど、若いやつのために役立てば、それでいい、と諦めは早い。
善三はすぐに段ボール箱を裂き、ピンホールの作成にかかった。洗面器に水を張り、小さな孔を透過した太陽を映すのである。丸い穴をどのようにして開けるか悩んだ。そして、洗面器の上にピンホールを固定する台を針金で組み、その高さが調整出来るよう準備した。あわただしく過ごした。
今年は、天体観測の当たり年である。
二週間後の六月四日に、部分月食がある。
そして、六月六日の水曜に、金星が太陽面を通過する。
二
権田善三は、化学の技術者で、横浜で暮らしていた。
もう六年半になるが、二才年下の妻を乳ガンで失った。
妻を亡くしたあと、ぼんやり過ごしていた。半年ほどの看護で、最後は、別れの気持ちを整理したつもりだったが、葬儀の後は、心の中にぽっかり穴が開いてしまった。
家で一人居ると、ふと妻の声がしたようで、姿を見せるような気がして、待っている。
やがて我に返って、立ち上がって台所を覗く。
「いい加減に現実を受け入れろ!」と、自分に気合を入れ、家事にかかる。
妻が生きている時は、ライフワークと決めた「星形成論」に毎日打ち込んでいたが、手につかなくなってしまった。
そんな気持ちのまま善三は、六年前の五月に、故郷の生家を訪れた。ちょうど高校のクラス会を近くの温泉でやるというので、その前に立ち寄ったのだ。善三は、父母の墓参りをしたかった。
そして、その頃、善三は、妻の墓をどうしようか、思案していた。
母の法事以来、久しぶりに姿を見せた善三に、長兄は、三人の子供たちにはリンゴ園を継ぐ者はおらず、どうしようかと悩んできたが、いよいよ廃業し、この土地を売却した金を持って自分たちは長男の家に行くつもりでいる、と語った。その長男はJRで三十分ほどかかる県庁所在地で市職員をしている。
善三の気持が動いた、
(この家を譲ってもらって、移り住もう!)
東京で霊園墓地を購入するよりも、故郷で父母の墓を守ったほうがいい。
妻にはあまりなじみのない土地だが、自分といっしょの墓に入るということで納得してくれよう、と自問した。
あとは土地の値段である。
それとなく聞いてみると、坪三万円で売れれば、と言う。全部で五百坪ある敷地だが、住居と庭だけなら四半分もあればいい。リンゴの樹も何本か取り込める。
善三は、住まいのある部分を自分に売ってくれと申し出た。
兄夫婦は喜んだ。
善三には、退職後に始めた天文学の勉強という打ち込むものがあるが、妻の思い出が詰まった団地の家で一人暮らすのは耐え難い。どうせ妻の居ない老後なら、その影に囚われない、懐かしい故郷で過ごそうと考えたのだ。
善三の中学、高校時代はこのリンゴ園の手伝いで明け暮れた。中学時代はクラブ活動で軟式テニスをやったが、それ以外の時間はほとんどリンゴ園と牛の餌の草刈りの手伝だった。高校時代はまっすぐ家に帰ってリンゴ園の仕事をした。それが大学に行かしてもらう条件だった。それでも善三は苦学して大学を出た。
初めて彼女を連れて帰郷した五十年近い前のことを思い出していた。
あの頃、妻は服飾デザイナーを目指していた。
妻は、白い花びらの芯に、ほのかな紅がさしたリンゴの花を、可憐な花、と気に入ったようだった。
でも、都会育ちの彼女には田舎暮らしは無理だろうと善三は感じた。
しかし、まさか、こうやって自分ひとりが戻ってくることになろうとは想像もしなかった。
善三はリンゴの樹を三本残してもらうことにして、百二十坪を線引きした。建屋は取り壊し費用が浮くということで只だった。しかし、納屋は不要なので別途お金を支払って取り壊しを依頼した。
兄は三百八十坪のリンゴ園を更地にして不動産会社に売却した。
善三が六年前に帰った時、リンゴ園の片隅に、小ぶりなジキタリスが何株か咲き始めていて、懐かしく思ったものだった。
花好きの母はいろいろな花を植えていた。ジキタリスが増え、庭の一画を占めていた時期があった。それが六十年経っても敷地の隅に残っていたのだ。善三は、そのジキタリスの種を義姉に頼んで採っておいてもらった。けしの実のような細かな種だった。それを庭の一画に蒔いた。
善三は五年前に引っ越してきた。
二人の息子は東京と大阪にいて、それぞれに二人の孫がいる。
善三が住んでいた横浜の家に、長男が移ってきた。長男はいずれ善三の老後を看るようなことを口にしたが、善三は子供たちの世話になる気持ちはない。
(この田舎家で、孤独死に甘んじる……)
(自分が亡くなった後のこの田舎家は、今は大阪にいて転勤の多い次男が、自由にすればいいだろう……)
(仕事の後継者をどうするかで悩んでいる人が多いが、自分は跡継ぎを考えるような仕事でなくてよかった……)
また、心身にハンディのある子供を抱えて苦悩している人もいるが、息子二人は元気でそれぞれ自ら選んだ道を進んでいる。子供たちに思い残すことがなくて自分は幸せだ、と善三は思う。
孫たちは、妻が元気だった頃は何やかやと面倒を見たし、とてもいとおしく思っているが、大きくなった彼らは、ほとんど祖父に寄り付かない。ときどき小遣いを送って繋がっている。
故郷といっても、出てから半世紀以上経つので、今は親しく親戚付合いする家はない。
中学、高校時代の級友たちが、それぞれ歓迎会を開いてくれて、五名と六名が集ってくれた。
「俺は、ライフワークの星形成論をやるために、帰ってきた。
星の生まれ方について、いくつか思いついたことがある。俺、独自の考えだ。何としても考え抜いて、きちんとした論文にまとめたい。終わるまでは、やめない。
俺は独力で生きる。たとえ病んでも誰の世話にもならない。俺は孤独死する」と、級友たちの前で善三は意気込んだ。
善三は寝込んだらいけないと節制している。そして、気弱になってはいけないと、風邪気味でも家事の手は抜かない。葛根湯を飲んで早めに寝る。
古い農家なので、最初の冬は寒くて震え上がった。
翌年、居間、台所と風呂場を改造した。
十二畳の居間にベッド、パソコンと机を置いて、ともかく暖かくして欲しいと工務店に頼んで、壁と天井に断熱材を張り床暖房にした。障子をアルミサッシに換えた。
それでも寒い。
妻が入院していた半年の間、自力で家事をやったので、掃除、洗濯は苦にならない。
善三は、自堕落な生活になることを戒めた。
フロを沸かすのが面倒で肌着の着替えがついおろそかになるが、冬場でも毎日着替えることにしている。
そして、夜昼同じ肌着で厚着したままでいると自律神経がおかしくなるようなので、毎朝フトンから出たら、裸になって乾布摩擦をする。
善三は、ひと頃は肥満体だったけど、六十の時に大腸ガン手術し、二十日間の入院で肥満は解消した。65キロの体重を維持している。
手術後、半分失った大腸のぐあいがなかなか定まらず、便秘と下痢の繰り返しだった。それで、繊維質の多い食事を摂るべく、食生活には気をつけている。血圧は、高い時もあるが、薬を飲むまでもない。脳梗塞が怖いから毎日納豆を食べるし、寝る前に白湯を飲む。
少し気になるのは、視力の衰えとオシッコの出が悪くなったことで、そのうち医者に行こうと思っている。
自動車は手放した。買物でもどこへでも、自転車で行く。そして、雪や雨で自転車がかなわない時は、歩く。
歩いて十五分ぐらいの県道沿いにスーパーマーケットがあるので助かっている。
ひとり暮らしで困ったのは話し相手だ。
リンゴ園の跡には、五軒、家が建ったが、移り住んだのは若い世代の人たちだった。
近所の人とはあいさつを交わすぐらいで、話しこむことは、まずない。一日中誰ともしゃべらずにいると、喉がかすれてむずかゆい。努めて大声で唄を歌うし、自分の論文草稿を声に出して読む。でも、読むに堪えない箇所を見つけると、それどころではなくなる。
思い余って、高校時代の友人がやってる詩吟の会に週一回通いだした。楽しくて、家でも吟じている。
善三が何度か苦悩したのがパソコンのトラブルであった。自力で解決しようと、解説書を三冊も揃えているが、ままならないことがある。それで、友人に紹介された若い人に、何かあれば一時間二千円で来てもらうことにしている。
善三はここに移ってきて、畑の世話をするうちに、だんだん作物が愛おしくなり、種を蒔いたり、草をむしったり、耕したりすることが喜びになった。
畑仕事をすると気分転換になるし、体調がいい。草むしりなどでけっこう時間をとられるが、それはそれで、後の能率が上がるように思う。
畑の作物は自給自足とまではいかなくとも、手軽においしいものが食べられ、息子たちに季節の野菜を送ってやれる喜びがある。
また、三種類のリンゴをあちこちに配っている。その中には今では珍しくなった酸味の強い紅玉がある。摘果や施肥の手を抜いてリンゴは小ぶりになったが、完熟したのはおいしい。
まさに善三の日々は晴耕雨読で、晴れの日でも半日は机に向っている。そして、毎日一、二時間散歩する。
第二章 天文学は想像の世界
一
善三は、六十才でリタイヤして、前から好きだった宇宙の本を読み漁るうちに、はまってしまった。
少し前の天文学の解説書を読むと、「あれ、おかしなことを言っている」と思うところがある。 日々新しい発見のある宇宙だから、古い考えが打ち消されていくのは当然だが、そのような奇異に感じる記述は、たぶんに著者の想像で書かれたものである。
善三がショックを受けたのは、ひところは、どの入門書にも書いてあった「彗星の核は、汚れた雪ダルマのようである」という説明が、「小惑星キロン」の突然の変身で、覆されたことである。
最初、カイパーベルトに居た時は「小惑星」だと見なされていたキロン(直径180キロメートル)が、土星のあたりまで太陽に近づいて、とつじょ薄い「コマ」を形成したので、彗星だと分かったのだ。カイパーベルトからくる彗星のキロンはこれ以上太陽に近づかない。
コマとは、太陽から噴出したエネルギーの高い紫外線などの「太陽風」を浴びて、「彗星の核」の氷が昇華し、水素が飛散し、微粒子が散乱した、巨大な丸い包みのことである。
彗星とは、太陽に近づいてコマが出来て、二本の尾をなびかせた天体であるが、太陽に近づく前の姿を彗星の核と呼ぶ。
キロンの変身の事実は、彗星の核は、外観が小惑星と見分けがつかない、岩塊だということである。
他の人はどう受け止めたか知らないが、善三は、
(なんだ。もっともらしい説明は、想像だったのか……)と、憮然とする思いだった。
そして、善三は、小さな彗星の核の写真をいくつか見る機会があった。
これらは小さいので、オールトの雲から来たものだと思われるが、どれも焼けただれた岩塊のような姿だった。そして、その表皮のあちこちからぶつぶつガスが噴出している様子だった。その皮は表面のダスト(宇宙塵)が太陽風を浴びて熔けたものか、あるいは軽い成分が揮発して重い黒い物質が残ったのだろう。ともかく、そんな皮だけで姿を維持できるわけがないから、骨組みがあるはずだ。 彗星の核には大きな岩塊が含まれている、と善三は確信した。
大勢の人が鵜呑みにしていた「彗星の核は、汚れた雪ダルマのようである」という説は、ある権威者の想像に過ぎなかった。彗星の核は、大きな岩塊を含んでいるのだ。
さらに、善三が感じたことがある。
今から6500万年前に、この地球に巨大隕石が衝突して恐竜が全滅した。
ある本では、小惑星が衝突し、その衝突跡は、ユカタン半島にあるクレーターだと書いてある。
でも、別な本では、彗星がぶつかったと書いてあって、最初、善三は奇異に感じた。しかし、その背景を理解した。
ユカタン半島の大きなクレーターの他に、地球儀の直線上に3カ所、同時期のクレーターが並んでいることを指摘する人は、彗星がばらけてぶつかったと言うのだ。彗星が四つの小惑星(巨大な岩塊)に分かれたのだ。
そう思わない人は小惑星と言うのだ。善三は彗星がばらけたものだと思う。
また、宇宙の入門書を読んでいて、善三が技術屋の頭で考えて、そうじゃないだろう、そう決め付けるのは視野が狭かろう、と思うことがある。
例えば、「星間物質」というのは、星の爆発で吹き寄せられたものだ、と説明されていたが、何の仕切りもない宇宙空間で、どうして吹き寄せられるのだ?
宇宙空間には、やはり「転向力」が働いていて、星の爆発で吹き飛ばされた物質は逆回転の弧を描くのだ、と善三は考えた。
でも、どういう仕組みで「転向力」が働くのだろう? と善三は考え続ける。
また、「水素分子雲」は、二つ、四つと分裂していくものだと言う説明があった。
でも、分子雲がひとりでに、細胞分裂のような分裂をする必然性がないだろうと首を傾げた。でも、善三はこのことを何年も考え続けた。
そして、善三は、水素分子雲の「内部分裂」という考えに到達した。
それとともに分子雲の「伸張分裂」ということも考えた。これは、空間膨張に晒された分子雲に、構造的に密度低下した部分が出来ると、その凝集力が空間膨張に負け空隙が出来、「分離面」になって、分裂していくというものである。
もう一つの内部分裂の仕組みを語るのは大変だ。詳しくは後で触れよう。
ともかく、「分子雲が分裂する」という先人の洞察は、その通りである。
また、「星団」は恒星の集まりだと声高に語る人が居るが、そんな人には、寿命の尽きた星はどうなるのだ? と、野次りたくなる。
質量の大きな星ほど寿命が短い。だから、「球状星団」の中心部はブラックホールなど星の死骸だらけのはずだ。それらを取り囲んで、質量の小さな、寿命の長い星が、まだ赤く輝いているのだろう。さらに、星の死骸同士が衝突して、傾いて、再び輝き出すのがある。
また、「散開星団」は、「暗黒星雲」が「子円盤」に被さって、活性領域を形成しているのだ。その中には古い大きな星の死骸が埋もれていよう。
半世紀ほど前に、星雲を大きな望遠鏡で観測すると星の集まりだということがわかって、赤い星団、青い星団と称したということだ。その頃は星の死骸のことなど誰も頭になかっただろう。現代、これだけ知識が増えたのに、星の死骸がどうなっているかも考えずに、星団とは恒星の集まりだと信じ込んでいる人は頭が固すぎる。
そんな善三は、先人たちの業績にも厳しい。
半世紀前のガモフは、深い洞察力で、見事にビッグバン宇宙を提唱した。彼の書はいまだに読み応えがある。
ハップルは、たくさんの銀河を観測して、それらが遠ざかる速度を割り出し、宇宙の膨張速度を算出した。後に、ハップルたちの変光星の観測の誤りが明らかになって膨張速度の値は大きく修正されたが、その功績を称えられ,ハップル宇宙望遠鏡に名を残した。
そんな彼の描いた銀河の分類図(音叉図)が、あちこちの参考書に紹介されている。しかし、善三は、自分の考えがまとまるにつれ、ハップルには宇宙の進化に対する洞察力がなかったと思う。そして、半世紀も経つのに、権威者が成したということで、その「銀河分類図」を信奉して,今なお入門書に載せる人たちの保守性、権威主義に首を振る。
そんなことがいろいろあって、善三は、天文学というのはたぶんにイマジネーションの世界だと、思うようになった。
二
善三は、解説書に疑問を抱くつど、自分ならどう考えるか、まとめようとした。
最初は向こう見ずな挑戦だと思ったが、いわゆる定説の内容が、飛躍しているように思える時は、意を強く持ち、頭から否定した。そうやって根拠のあいまいな説を無視した。そして、自分独自の考えをまとめた。そうやっていくうちに、断片的な思い付きがだんだん結びついて、体系立ってきた。
善三は、新しい用語をたくさん造った。決して奇をてらったわけではない。誰も言わなかったことを記述しようとすると、新しい術語を用意せねばならない。大それたことをやっていると思いながら励んだ。
これだけ発展した天文学で、誰も考えなかった星形成論を、自分の考えだけで体系立てられるのは、現代天文学に根本的な盲点があるからだ、と善三は考える。
現代天文学は、量子力学の密度分布の揺らぎで銀河が形成されたとしている。銀河は星たちの集まりである。銀河が出来るより、星が出来る方が先だ。
最初に銀河が出来てしまったとしては、個々の星の進化の理論が立てられない。
星の材料は水素である。どうやって水素分子が集まって、凝縮して星になるかが星形成論のポイントだろう。水素分子がカギを握っている。
そして、善三が感じることは、水素分子は写真に写らないものだから、その存在が無視されがちなことである。例えば、惑星が出来る時には、ダストが周りを取り巻いていると観測されるが、そのダストは水素分子に胞子状に包まれているのだ。
そして、現代天文学は、宇宙の根本の構造に目をつむっている。
「宇宙の重なり合う泡構造」は、とても大き「超空洞」の周りに張り付くように「銀河団」が分布している。そのような泡構造がたくさん重なった宇宙が、どのようにして出来たのかを説明していない。
「宇宙論」では、さまざまな、奇抜な、宇宙の成り立ちが語られているが、この宇宙の基本構造が形成される必然性についてはまったく触れられてない。
さらに、「銀河形成の密度分布の揺らぎ説」には根本的な問題があって、「循環の保全の法則」が満たされてない、銀河の回転は謎である、との指摘があることを知った。
三
宇宙空間には、見かけの力、「コリオリの力」は働かないとされている。
しかし、善三は思いついた。
凧揚げをしている時、凧が回転することがある。特に、凧を降ろそうと凧糸を引き寄せる時など、凧糸が緊張した時に、凧が回転することが多い。最後は地面に激突する。これは凧に、横風が当たって、安定を失うのだ。横風成分という「転向力」が働いた、と善三は解釈する。
これと同じように、宇宙空間でも、引力で引きあっている二つの天体には、「転向力」が働くのではないかと考えた。その理由は、四方八方に膨張する宇宙空間の各点における空間膨張のベクトルの違いである。
善三は大発見だと思った。
生まれたばかりの、二つの巨大分子雲が互いに引き合って、その方向の空間膨張に抗していると、二つの巨大分子雲には他の動きが現れ、最後は互いの周りを回り出す。そうやって、これらの分子雲たちは連星運動をする。
このように、引き合った二つの分子雲には、「膨張する宇宙空間に働く転向力」が働く。
すると、次にそれらの分子雲の内部では、「回転運動する分子雲内部に働く転向力」が働くのである。
巨大分子雲の内部で分裂した分子雲は、さらに内部分裂して分子雲を生み、分子雲は重層構造になる。それらの分子雲に「転向力」が働くのである。
このように、宇宙空間は「転向力」が働く場であるから、星の自転、公転、そして銀河の回転運動が生じる。
また、宇宙空間に「転向力」が働くと、星の爆発で吹き飛ばされたものには「逆向きの転向力」が働いて、逆回転の弧を描きだすことになる。宇宙塵の星間物質が、どこまでも飛んでいかないことが説明出来る。
四
宇宙の現象は、相対性理論、量子論で説かれることもあるが、ほとんどの現象は古典力学で説明されている。
善三はビッグバン後、最初の物質、「水素元素」が現われてからのことを、そして銀河の始りも、自分の古典物理学の知識で辿ってみようとした。
化学を修めた善三は、宇宙空間の分子雲とか水素ガスとかは、地上の気体の水素ガスとはまったく異質なものであると認識している。
絶対零度近くまで冷え切った宇宙空間の「水素分子」はたぶん液体の相であるが、個々の分子は独立しているので、分子雲を形成している。
水素分子は互いの引力で引き合って凝集するが、電荷のない分子は近づき過ぎると分子同士が反発するという特性があるから一体になれないのだ。
「凝結核」があれば水素分子はそれに飛びついて一体化する。しかし、初期の宇宙には水素分子だけだから、凝結核になる物質は存在しない。
水素分子が、どのようにして一体化して塊になるのか? 善三は悩んだ。
そして、ずいぶん試行錯誤したが、「分子雲の進化」の考えに到達した。
水素分子雲の輪郭が整うと、内部の水素分子はどう動く?
水素分子は質量が大きい中心部に向かおう。中心に向って水素分子が凝集すると、中心の水素分子は動きようがない。そのような不動点で、密集して圧力がかかる。すると、分子同士は、もともと液体の相であるから、相手に押し付けられたらくっついて液状を呈す。圧力が高まれば、固体水素、金属水素になる。
そうやって、中心塊、星の卵が生まれる。
(分子雲の中心で、星が生まれる!)
大発見であった。
「分子雲に星一つ、それは中心星である」が、善三の基本的な考えである。
そして、善三は、「渦巻銀河」の「渦状腕」は、どういうものか、と考えた。
そうやって得た結論、「分子雲の進化」を端折って記すと、次のとおりである。
分子雲の中心に星の卵が生まれると、中心部の周りに水素分子のない「空洞」が出来る。その壁面で、分子雲は「内部分裂」をし、「ちぎれ分子雲」が中心に引き込まれる。
そして、ちぎれ分子雲は「分子雲ベルト」を形成する。
やがて、そのベルトは、転向力を受けて渦巻くようになる。そうすると、ベルトは、もう中心に引き込まれなくなる。
渦巻銀河の渦状腕とは、渦巻いた分子雲ベルトのことである。
そして、ベルトを構成する各分子雲は星を生み、さらに内部分裂して、次世代のちぎれ分子雲を生む。
また、分子雲は、再編する。
それを繰り返し、星々が重層構造となる。そして、銀河が形成される。
五
水素分子雲がどうやってまとまったのか?
これは、大問題である。
散在する微細な水素分子が互いの引力で、宇宙空間の膨張に抗し、引き寄せ合うことなんかできない。
でも、分子雲のまとまリは、現に存在する。
そして、善三の考えは「最初の分子雲」に行き着いた。
(宇宙の創生期に、水素分子が分子雲にまとまる機会が一度だけあった!)
138億年前、ビッグバンから37万年経って、その熱気がおさまると、エネルギーが転換して、最初の物質、水素元素が姿を現した。
膨張を続ける宇宙空間の、まだ狭い空間にすべての物質が水素分子の姿で充満したから、それはすごく濃い密度であった。高温下の気体の相の水素分子は活発な分子運動をした。
しかし、空間が断熱膨張して温度降下していく。
やがて空間温度がマイナス260度近くまで下がり、水素分子の沸点を下回ると、分子運動は急に静まる。
そのままの濃い密度でまとまって、「最初の分子雲」となる。
まとまるということは、全体の凝集力で、分子雲の形、密度を維持することである。
空間の冷却速度にばらつきがあって、冷え切ったところからまとまった。そして、空間膨張に抗する現象だから、無数の最初の分子雲が出来た。いずれも巨大である、
「最初の分子雲たち」は、すぐに分子雲の進化をした。
すなわち、それぞれの中心に、「ファーストスター」が出来、すぐに進化してとても巨大なブラックホールとなった。
その爆発で出来た水素分子のない「空洞」の壁面で、内部分裂して、ちぎれ分子雲が中心に引き込まれた。
「最初の分子雲」の内部は、中心の3超巨大ブラックホールとその周りの空洞、そしてそれを取り巻く「外層」になった。
次に、「ダイナミックな外層の再編」があって、「銀河」が出来て、「ボイド(超空洞)」を取り囲むのだ。
「膨張する宇宙空間の転向力」により、「最初の分子雲たち」が連星運動をはじめた。
密集していたので、その過程で互いに接触した。引き伸ばされた外層が絡み合って、この宇宙が一体になった。各3超巨大ブッラックホールが放り出されるように独立し、やがて、連星運動の動きは止む。そして、各所の空白部が空間膨張を吸収して広がり、ボイドとなる。
引き伸ばされた外層が、ボイドを取巻く「ボイド外縁」となり、それが「伸張分裂」し、銀河の母体分子雲となったのだ。
この奇想天外ともいえる考えは、最近思いついたもので、善三自身が未だに半信半疑である。でも、それしか考えられない。
無数のボイドの中心に、3超巨大ブッラックホールが潜んでいる。そして、ボイドは、その後の空間膨張を吸収して大きく広がり、その周りに薄く銀河団が張り付いている。それが、「宇宙の重なり合う泡構造」である。
なお、「最初の分子雲たち」が互いに絡み合って複雑な連星運動をした間、彼らは一体になっていたので、宇宙の膨張は、その周りの何もないところ「取り巻き宇宙」が担っていた。そして、連星運動が崩れると、泡構造のボイドが空間膨張を担うようになった。
現在、ボイドと取巻き宇宙が膨張している。
六
善三には量子論とか相対性理論などの高度な知識はない。せいぜい高校の物理学程度である。また天文学の門外漢だったから、細かい知識に欠けている。そんな身でありながら、自分の考える星形成論をなんとかまとめようとしている。
本質は何か? と追求している。
天文学の常識に逆らう自分はドンキホーテかも知れないと思うこともあったが、考えに考えた。何度も立ちはだかった思考の壁を乗り越えた。
そうやって善三の星形成論の対象は、「銀河」から、「銀河系」、「太陽系」、そして「月と地球」のことにまで広がった。
ともかく大体の理屈は考え抜いた。断片的な考えがだんだん結びついて体系立っていく。細かいことで分からないことはたくさんあるが、本質は押さえたと思っている。
自分のやっていることは、量子力学の密度分布の揺らぎで銀河が出来たという説を棚上げして、素朴な古典力学で、水素分子の挙動に着目した星形成論を樹立する試みである。そして、一つの理論体系を打ち立てたと思っている。
最終的には、きちんとした論文に仕上げたい。英文にしたいが、これは手に余る。
自分はこれをまとめてしまうまではくたばらないと思って、日々集中している。そうやって打ち込めるものがあることが最高の幸せだと考える。
そして、善三は、妻のことを忘れることが出来た。
まったく一人でやっていることだから、もし、途中で倒れたら、それまでである。
善三は、かねてから、「分子雲の中に星一つ」の原則を外れる星の出来方が、暗黒星雲のわし座星雲M16や、オリオン座馬頭星雲にあることが気になっていた。「分子雲の進化」以外にも星の出来方があるとすれば、自分の考えは視野が狭いのか? と自信が揺らぎそうだった。
前途遼遠、果たしてやり遂げられるだろうかと弱気になって、「私が倒れたら、机の上のやりかけのものは棺桶に入れて下さい」と書いて、机の横に貼ったこともあった。
しかし、その事態は、打開した。
宇宙進化の後半の段階で、暗黒星雲に「星の赤ちゃん」が生まれる必然性があることがわかった。
そうやって、壁にぶつかって乗り越えるたびに理論が固まって行く。
論文の題は「分子雲の進化論」にしようと決めた。
第三章 月食と日食
一
六月四日の月曜。曇っていて、部分月食は観測出来なかった。
その翌日、夕方、善三がナスの苗に水遣りしていると、学校帰りの、あの少年がためらいがちに奥の畑に現われた。
「こんにちわ」
「よう、このあいだの日食坊主だな」
少年は日に焼けた顔をニコニコさせ、頭を下げた。
「先日は、日食グラスをありがとうございました。
学校で理科の土屋先生にそのことを話したら、『よかった。お前は目を傷つけるところだった』と、喜んでくれました。
先生は、煤ガラスは危険だって話したんだが、ぼくが聞いてなかったようです」
と、少年は頭をかいた。
そのあと、少年はカバンからその眼鏡を取り出し、しっかりした口調で言った。
「この眼鏡ですが、権田さんは、明日、金星が太陽面を通過するのを観測されるでしょう。
そう思って、持って来ました。
ぼくは、学校で友達のを借りますから、だいじょうぶです。ありがとうございました」
「そうか、それなら返してもらおうか。
私も太陽のほくろのような金星を見たい。
ありがとう」
善三の顔がほころんだ。
(少年の気持がうれしかった……)
「昨日の月食は、曇っていて、残念だったな。
私はテレビで見たけど、実際に月に映る地球の影を見たかった」
と、善三が言うと、少年が、
「月に地球の影が映るのは、満月の時だけなんですね。
その前後の、十四夜、十六夜の月はほぼ満月に近い形ですが、月蝕は起きないのですね」と、無邪気な顔で言った。
一瞬、善三は、
(何を、トンチンカン、言っているのだ?)
と、少年の顔を見つめる。
「そりゃそうだよ。月は、27.32日かけて地球の周りを一周しているから、一日違えば、ずい分動いてしまって、月は、地球の真後ろから外れる」
そう言った善三に、少年は一瞬うろたえた目をしたが、すぐに別な反応をした。
「月食は、満月の時に起きるのですね。
では、満月の時に、必ずしも月食が起きないのは、どうしてですか?」
いい質問だと、善三は思った。
(この子は、月食の本当のことを分かってない……)
(でも、この子は、発想を転換して、今度は本質を問うている……)
鋭い勘だと思いながら、説明した。
まずは、少年の基礎知識を確かめる。
「星の公転運動というのは、万有引力と、回転運動の遠心力が釣り合った状態である。これは、いいな?」
大きくうなずく整った顔。
「太陽と地球と月が平面上で一直線に並んだ時に、満月になる。
そうすると、満月の瞬間は、地球の影が月を覆ってしまうから、月を見られないはずだ。
ところが、毎月のように満月が見られて、月食はめったにしか起こらない」
少年の顏が、そういうことです、とうなずく。
「これは、月の位置が、上か下に少しずれているからである」
理解出来ずに、落ち着かない少年の顔。
「地球が太陽の周りを回っている面を『黄道』という。そして、月が地球の周りを回っている面を『白道』という。
黄道に対し、白道は5度傾いている。これはいいな」
少年はうなずく。
「ということは、地球から見たら、月は、自分の回りを一周する間に、プラス5度からマイナス5度の間を波打っている」
少年の目は善三の顔に食らいついている。
「平面上で、太陽と地球と月が一直線に並んでいても、たいがい、月が上か下にずれているので、満月が見られる。
めったにないことだが、白道の傾きが0度になる瞬間に一直線に並んだ時に、月食になる」
「そうか。ふだんの満月は、月が、上か下にずれているのですか」と、少年は納得。
善三の顔もほころぶ。
すると、少年が目を輝かした。
「それじゃ、新月の時に日食が起きるとは限らないのは、やはり、月が上か下にずれているのですね」
善三は大きくうなずく。
「満月と新月では、月と地球の位置が入れ替わっているだけだから、同じことだ」
善三はひとり言のように言った。
「月食現象は、鵜呑みにしていると、頭がこんがらがる。
月食で欠けるのは、満月に、地球の影が映った部分が欠けるのだ。
それに対して、三日月とか半月とかいうのは、月自身の陰だ。お日様が当たってない、月自身の陰の部分が、欠けて見えるのだ。
だから、月食と三日月では、影の輪郭線が微妙に違うと言う人がいる。そして月食で欠けた部分は赤みがあるらしい。
昨日の月食で、そんなことを、私は自分の目で確かめたかった」
少年が善三の言葉を反芻するように考え込んでいた。
善三は、もう少しうんちくを傾けたかった。
「ところで、新月をじっくり眺めたことがあるか?」
少年は目を瞬いた。
「新月ですか?
月自身の陰ですね。だから、真っ暗で見えないはず……。
でも、白い月を見たことがあると思います」
「新月は、薄く白っぽく見える。
『地球照』と言って、地球が太陽光を照り返して月に当てているのだ。
三日月でも陰の部分がうっすら見える。
しかし、半月になると、月が明るいから、もう地球照は分からない」
少年の顔が輝いている。
善三が締めくくる。
「昼間のお月さんが、新月のように白いのは、地上が明るいから、お月さんの輝きが薄れるのだ」
善三が部屋に上がって、その日食眼鏡を机の上に置くと、少年が縁側から覗きこんで、壁際の本棚にびっしりある宇宙関連の本を眺めていたようだ。
「宇宙の本はたくさんある。読みたいのがあったら、貸してあげる」
「ええ」
それで、善三は、再び、この利発そうな少年を試していた。
「ところで、日食には、『皆既日食』と、『金環日食』があるが、その違いは、判るか?」
このことは、善三自身が不思議に思って、前に考えたことである。
「ええ、月の大きさというか位置の違いで、月の影がすっぽり太陽を蓋ってしまうか、太陽が少しはみ出て金冠になるかの違いです」
うなずいた善三が続ける。
「地球から眺めて、遠くに居る大きな太陽と、近くの小さな月がほぼ同じ大きさに見えるのは、偶然の位置関係だ。
月がもう少し近くに居たら皆既日食ばかりで、月がもう少し遠くに居たら金冠日食ばかり起る。
そこで、金冠日食になったり、皆既日食になったりするのが、おもしろい」
「どうして、月は地球から離れたり近づいたりするのですか?」
善三は思わず、その無邪気な言葉を放った少年の輝いた顔を見つめた。
(そんな言い方は、ごく幼稚な質問か? それとも、私の問いの意図を汲んだ疑問か?)
(この子は、月食の本質を分かってなかった。
月が地球のまわりを公転する間にその公転半径が変化することを知らないのかもしれない……)
それで、幼稚な方の質問に答えることにした。
「月は地球の周りを回っているが、月は太陽にも引っ張られているから、地球に近づいたり、離れたりする」
少年の意外そうな目つき。
「満月の時は、太陽、地球、月の順で並んでいる。そして、地球の外側に居る月を、地球の背後から、太陽も引力で引っ張っている。両方して同じ方向に引っ張るので、月は地球に近づいている。
新月の時は、月は太陽と地球の間に居て、両方が引っ張り合うから、月は地球から離れている」
少年は頭の中に、太陽の周りを回る地球と月の公転図を描いたようで、大きくうなずいた。
「満月が大きく見えるのは、黄色い色彩効果だけではない。実際、満月は地球に近づいているのだ。
地球と月のあいだは、短い時で約36万㎞、離れている時で約41万㎞だから一割強、距離が違う」
少年は、この説明がとても新鮮に聞こえたようで、目を見張っていた。
善三は本論を言う。
「日食は新月の時に起きるものだが、新月の時は太陽と地球で月を引張り合っているので、いつも距離は同じ筈だろう。
でも、新月の距離が、どうして、その時々でわずかに変わって金冠日食と皆既日食となるのかと、私はこのあいだ気づいて、ふしぎだった」
少年は善三の意図を飲み込めたようで、その目は懸命に理解しようとしている。
「地球の公転軌道というのは、正確な円ではなくて楕円軌道だからじゃないかと考えついた。調べたら、やはりそうだった。惑星の引力が働いて、地球の軌道は微妙に変化しているようだ。
太陽と地球の距離が一定でないから、その間に入った月の影の大きさが、その時々でわずかに変わるのだ」
善三は、気づいて
「おい、何か冷たいのを飲むか?
そう言ってもジュースはないな。水でいいか」
「ええ、水を下さい」
屋敷の縁側に戻って、善三はグラスに氷水を入れてきた。
「三年生か?」
「ええ」
「クラブ活動は何してる?」
「軟式テニスです」
「そうか」と、善三がほほえむ。そして、遠くを見るような表情をした。
「夏の大会があるだろう?」
「ええ、七月の大会で最後ですから、猛練習しています。
今日は練習が早く終わりました」
「私も中学時代は軟式テニスをした。六十年前のことだ」
「大先輩ですか」
そして、少年は改まって言った。
「ぼくは、青井祐二といいます」
少年の名を聞いて、一瞬、はっとして、その顔を見つめた善三だった。
「今度、月のことを書いた本を貸してください」
善三は上の空でうなずいたが、一人の目のつぶらな少女の顔が脳裏をよぎり、複雑な甘酸っぱい思いが胸中に湧いた。
「私は権田善三だ」
帰り際、少年は門柱の一画を指差した。
「あの花はなんというのですか?」
背の高い妖艶な、紅色の、釣鐘状の花がびっしりと下向いて咲いている。
「ジキタリス」
「ぼくが小さい頃、家にありました。あの筒状に丸まった花をちぎって、小川に流しました。上向いて、きれいに浮きます」
「ほう。なるほど、きれいに浮きそうだな。
あの花は、FOX GLOVE、狐の手袋という名もある。ヨーロッパ原産だ」
「そうですか。GLOVEですか。
あの袋の内側には紫の点々があって、何か妖しげな感じがしますね。それで、FOX、狐ですか」
そう言い残して、少年は帰って行った。
善三は、懐かしいこの花を眺めていて、近頃さらに思い入れることがある。
七十を過ぎてからの善三は、冬の寒さがことさらに厳しく感じるようになった。そして、心待ちにしていた春を向かえても、それから、色とりどりに咲き誇った庭の花々が散り出しても、まだ晩など寒くてバッチをはくことある。
そうやって寒さをしのいだと思ったら、急に日差しが強まって、今度は夏の暑さに耐えねばならない。
(身体の適応力が衰えている……)
五月末のそういう時期に、敢然と暑さに向ってジキタリスが咲き続ける。次々に蕾をつけて背を伸ばす、花期の長い、たくましい花だ。
このごろの善三は、ジキタリスを眺めるたびに、生きる元気をもらっていると思う。
二
その晩、善三は夢を見た。
小高い丘の上に私はいた。
枯れた草原の端に立ち、眼下の県道を見下ろしている。
まっすぐな一本道。
私は一人だった。
春浅い季節。
丘のふもとのバス停に、小さな待合室のスレート屋根が見える。山あいの小さな川沿いに開けた田畑。ところどころに農家がある。
初めて見る風景だった。
バス停に十人ぐらいの人が集まった。誰かは見分けがつかない。
やがて、バスが来て、何人かの乗客が乗り込み、バスは出て行った。
残った五、六人の見送りの人たちが、三々五々別れて行った。
私は、「さよなら」と、小さくなったバスに呟いた。
あのバスに乗った少女を、私はひそかに丘の上から見送ったのだ。
丘を降りた。
県道に出て、バス停の手前で右に折れた。たぶん、私は家に帰ろうとしていた。
すると、後ろから駆けてくる靴音がして、振り向いた。
あの少女がセーラー服に小さな旅行カバンを提げて、右手を挙げているではないか。
「どうした?」
「バスをひとつ遅らせました」
そう言った少女の顔が歪み、涙が光った。
私は、思わず駆け寄った。
初めて、私たちは二人だけになった。
今日、少女が東京の学校へ転校し、旅立つと聞き、私は丘の上から見送ったのだ。
涙に溢れたおさげの少女の顔。
忘れもしない人だった。
でも、私たちは二人だけで親しく語り合ったこともなかった。
一つ下の少女は、春休みに私の知らないうちに転校して行った。
あの丘もバス停も、知らないところだ。どうして夢の中に出てきたのだろう?
いつの間にか、夢の中の少女の泣き顔が妻の顔になっていた。
私は、セーラー服姿の妻の姿を知らない。可憐な少女だったろう。
結婚して、妻があのように涙を一杯ためて私を見たことがあったろうか。
知り合って、とんとん拍子になんの障害もなしに、いっしょになったから、あのように切なく別れ、涙した光景はない。最後の闘病の時も、妻の顔に涙はなかった。
でも二人で潜った試練の輪はいくつもあった。妻の顔に涙の跡を見たことは何度もある。
皆、遠い思い出になった。
ふしぎな夢だった。こんなにもはっきり覚えている。
第四章 月と地球の関係
一
その週の土曜の夕方、善三は庭続きの畑でグリーンピースを穫っていた。
「こんにちは」と、遠くから少年の声。
Tシャツ姿だが、やや張り詰めた顔をした祐二が、ぶら下げてきた紙袋を差出した。
「これは、祖母からです。
孫の目を助けていただいてありがとうございました、と言ってました」
不意打ちを食った善三は、手渡されたケーキ店の紙袋を見つめたまま、ある想いに囚われ、突っ立っていた。
すると、少年は、善三の顔を見つめながら、おもむろに話しだした。
「祖母は、権田さんを知っているようでした。
祖母が、その家は? と聞きますので、
前にリンゴ園をやっていたところ、と言いましたら、
その人は、権田さん? 八十近い人じゃない?
そんなに年取ってない。六十代だと思う、と言うと、
ひょっとしたら……、その方は善三さん? って驚いていました。
権田さんは、祖母をご存知ですか?」
「そうだ、私は権田善三、七十二才だ。
そんなはずはないと思うが、ひょっとして、君のおばあさんは……」
と、善三はこのあいだの夢を思い出していた。
「祖母は、柏木幸子、旧姓、青井幸子です」
すぐに落ち着きを取り戻した善三は、意識して目を丸くしていた。
「そりゃ、奇遇だ。
幸子さんは、お元気なんだね。
小学校からいっしょで一級下の人だった。中学時代は軟式テニス部でいっしょだった。
隣町にお嫁に行ったと聞いていたが、実家に戻られたのか」
「祖母は、隣町で一人で暮らしています。祖父が亡くなったのは五年ほど前です。
ときどき、お墓参りに帰って来ます。
ぼくの父が、祖母の実家を継いで、ぼくもこの町で生まれました」
「そうだったのか、君が幸子さんのお孫さんだとはな、こりゃ、愉快だ。
君が青井祐二と名乗った時、ひょっとしたら幸子さんの親戚の人? と思った。
そうだったのか。
私は高校を出てこの町を離れたが、五年前に、兄夫婦がリンゴ園を畳むというので故郷に戻ってきた。
妻を亡くし、二人の息子たちは横浜と大阪にいる」
少年を促し、家に戻り、縁側に腰掛けた。
「なつかしいな。小学生の頃だった。皆既日食があって、放課後、皆で見た。
あの頃は、ガラスをロウソクの煤でいぶしたもの、墨で黒く塗ったものなど、思い思いの道具を造ったものだ。
今思えば危ないことをしていた」
善三は、オカッパ頭の、目が輝く、かわいらしい顔を思い浮かべていた。
あの時、ガラスの破片を集めてきて、ヤスリで角をとり、皆に配ったのが自分だった。小学校の校庭の隅でロウソクであぶって煤をつけた。
どうして、年下の彼女が自分といっしょに居たのか分からないが、あの時、彼女は居た。
彼女は、そのことを覚えていたのだ、と善三の胸にこみ上げるものがあった。
包みを開けた。
駅前のケーキ屋のシュークリームだった。
「これは、ありがとう。
そうか、幸子さんが持たせてくれたのか。
よろしく言ってくれ」
善三は思い出していた。
リンゴ園が台風で痛めつけられた時、落下したリンゴを片付ける手伝いに、テニス部の連中が来てくれた。その中に彼女が居た。
彼女は、お見舞いと言って、シュークリームを差し入れてくれた。
とてもおいしかった。
皆がほおばるのを、彼女はうれしそうに見ていた。
彼女の家はお金持ちだと思った。
(彼女は、あの時のことを覚えていてくれたのだろうか……)
(シュークリームを持たせたのは、偶然かも知れない……)
そして、善三は目の前で自分の顔を見つめている少年に気づいた。
(ちょうど、私は、この年頃だった……)
そして、
(この少年は、私と祖母との間にある親密な感情を察したようだ……)
と、慌てた。
「待てよ。私一人じゃ、こんなに食べられない。君もいただこう。今、お茶を入れる」
お湯を沸かした。
「半分っこ、しよう。三個ずつだ。
私は、いっぺんには食べられないから、二つ冷蔵庫にしまっとく。
君は三個ぐらい、食べてしまうだろう」
久しぶりにシュークリームを食べた。
好物と言っても若い頃のこと、今ではアンコのほうがいいが、懐かしい気分だ。
ゆっくり味わった。
おいしかった。
少年は、ペロッと食べてしまった。
二
「この間、月のことを書いた本という注文だったけど、お勧めはないな。
いろいろな本に細切れに書いているのを読むしかない。どの本も素っ気なくて、おもしろくない」
少年が静かにうなずいたので、問題提起するつもりで、善三は語り出した。
「あのさ、地球から月の裏側が見られないのは不思議だろう? どうしてだ?」
「月の自転周期が約27日、そして月が地球の周りを回る公転周期も約27日と、同じだからです」
「そうだ。そういう説明で通っている。
でもさ、どうして、どちらも、27.32日なのだ?
偶然か?
偶然にしちゃ出来すぎだろう」
少年は、この老人が何を言い出すかと、その口元を見ている。
「月の自転周期と、公転周期がほぼ同じであるため、月は同じ面を地球に向けている。そう書いている本がある」
そう言って善三は、その本を持ってきて、付箋のページを開いた。
「ほら。ここだ」
赤鉛筆でアンダーラインが引いてある。
「ほぼ同じ、というのは、大間違いだ。自転と公転の周期はぴたり一致している」と、つい、大きな声になった。
「月は、地球という鉄棒の周りを、27.32日かけて大車輪しているのだ」
少年が善三の激した言い方に目を丸くしている。
「大車輪というのは、両手で鉄棒を握って頭を常に鉄棒に向けている。
大車輪している体操選手の体を連続写真に撮って、それをへそを中心に重ねると、鉄棒の周りを一回転する間に選手の体も一回転している。
それで、選手が一回転、自転したと言うのだろう。しかし、それはおかしい。
月が27.32日かけて自転している、と言うのは違う」
「大車輪の体操選手は自転なんかしてない。もし、自転して体を回そうと思ったら、鉄棒から手を離さなければならない。
月も自転なんかしてない。もし、月が少しでも自転をしていれば、潮汐作用で自転速度がわずかずつ弱まるから、いつかは裏側を見せることになる」
「最初、月は自転していた。けっこうな速度で回っていたと思うよ。
ところが、地球に引き付けられて捕まって、その周りを公転している間に、潮汐作用という内部摩擦が働いて、しだいに自転速度が遅くなっていったのだ。月は地球の1/81の質量しかないし、それに、マグマオーシャンといって表面がどろどろに熔けていた。
とうとう月の自転は止まってしまった。
でも、月は地球の周りを回っている。そんな月の姿勢の変化を横から観察すれば、自転しているように見える。それで、『月は自転している』と、大きな声で言い出した人がいたのだろう。
どうしても月の自転を言いたいなら、月は、『見かけの自転をしている』と言えばいいのだ」
「月の自転は止まってしまって、月は常に同じ面を地球に見せていた。そうやっているうちに、月の重心は少し地球側に偏心してしまった。
こうなれば、月に自転してみろと言ったって、ふらついて自転なんかできない」
「それに、月の重心は公転の進行方向に少しずれている。これは、わずかだが回転半径が短くなったために、芯の重たい部分が先に行っているのだ。
引力が強まったので、回転を速めて、遠心力が強まろうとしているのだ。
こうなれば、もし月に小惑星なんかがぶつかって月が弾かれても、月のウサギの姿勢は復元する」
少年がきょとんとした顔をして、反応がなかったので、善三は話題を変えた。
「君んとこは、グリーンピースなんかあるかね?」
祐二は、首を振った。
「畑は作ってないのか?」
「ないです」
「息子たちに送ってやろうと、収穫したんだが、少し持って行ってくれ。
時間はあるか?」
「だいじょうぶです」
「それじゃ、もう少し採ろう。手伝ってくれるか?」
二人は、畑に行って、背の高さほどのネットに絡み付いているグリーンピースを採った。片手で青いサヤのへたの付け根の細い部分をつまみ、もう片手でサヤをちぎる。
「大きく膨らんだのを採る。サヤの先が少し白っぽくなったのがいい。
若い柔らかなうちは、サヤエンドウだったが、もう時期は遅い」
葉やサヤに白い粉がついているのがあったので、善三が言う。
「これはウドンコ病だ。無農薬で消毒しないから、こうなる。
だいじょうぶ、洗えばすぐ落ちるし、食べても平気だ」
両手で山盛りすくって三杯分ほどあった。
「三等分しよう。息子二人と、君んちの分だ」
「このサヤは、食べる直前に剥くのだ。
お母さんが一人でこのサヤ剥きをやるのは大変だから、手伝えよ」
少年はほほえんだ。そして、口を開いて、切り込んできた。
「さっきの月の自転の話では、月が地球に引き付けられて捕まったというお話でしたが、『ジャイアントインパクト説』で、月は地球から飛び出したのと違うのですか?」と、輝いた目。
善三は思わず目を見張った。
でも、善三は時計を指した。
「おい、もう五時半だ。次に話そう。遅くなるから、帰れ」
「グリーンピースをいっぱい頂きましたから、おばあちゃんに電話します。明日にでも取りにくるでしょう」
「よろしく、言ってくれ」
月の成因のジャイアントインパクト説を否定して、善三独自の月の出来方を講釈するには時間が短すぎる。それより、この少年には説明の仕方を工夫しなければならないと思った。
三
次の週の月曜、六月十一日の夕方、祐二が顔を出した。
きちんと髪をとかし、晴れやかな顔をしている。
「昨日、祖母が来て、グリーンピースを少し持っていきました。とても喜んでいました。
いつか権田さんの家へ連れて行ってちょうだい、と頼まれました。
連れてきていいですか?」
「大歓迎、と言ってくれ。汚いところだけどな」
二人は縁側に腰掛けた。
それで、おととい、途中で止めた、月の成因の講釈を始めた。
「私には、月の成因の、ジャイアントインパクト説は、理解できない」
そう言った善三は、障子を明け、本箱から一冊の本を取り出した。
「ここに、ジャイアントインパクト説がある。
ほら、これが一番有力な月の成因だ、と書いているだろう。
まだ地球の表面が、マグマオーシャンといって、どろどろに熔けていた時代に、火星ぐらいの大きさの天体が斜め方向に地球にぶつかった。それではね飛ばされた熔岩が、地球から飛び出したのが、月になったというのだ」
少年は神妙な顔をして、善三を見守る。
「おい、おかしくないかい。
溶岩がひと塊りになって飛び出すかい? 散らばって飛び出すだろう。
マイナス二百六十度の冷たい宇宙空間で、溶岩はすぐに冷えて固まってしまう。そんな熔岩の塊が一つにまとまって月になるかい?
散らばった塊は、互いの引力で引き寄せるだろうが、近づいて、ぶつかって、はね返るさ。硬い物同士は、絶対にくっつきはしない。小さな塊のまま群れている。いや、そのうち次々に地球に落ちてくるさ」
善三は、別な本をめくった。
「ここでは、地球に斜めにぶつかった天体の一部の塊が跳ね返って月になった、と書いている。
熱い、柔らかい、餅みたいなものが壁にぶつかって、どうして撥ね返る?
ここで書いていることは、斜めにぶつかって、天体の一部が、その反動でちぎれて飛んで行ったということだろう。そして、地球の引力と遠心力が釣り合う半径で公転し出したと言うのが、ジャイアントインパクト説だ。.
そんな、熱い天体がぶつかってちぎれるなんて、考えにくい話だ。
衝突の位置、角度、速度、両者の自転の状況などで、たまたまそういうことが起り得るのかも知れない。
でも、このあと月はすぐにマグマオーシャンになって、斜長岩を造るんだよ。そうやって剥き出しのまま飛び出した月は、どうやって温室効果を図れるのだ? 取り巻くガスも大気もない。
私はジャイアントインパクト説に興味がない」
四
善三は、少年の横に座った。
「地球、月というものは、とても大きい。
私の考えでは、四十五億年前、太陽系が出来た時に、原始地球と原始月とは、異なる分子雲ベルトの上に居て、たくさんの水素ガスに包まれていた。
原始地球は、水素ガスに厚く包まれていて、今より何十倍も重かった。
やがて、ベルトが渦巻いて、巻き取られる段階で、原始月は原始地球の引力に捕えられ、合体しそうになった。
なあに、地球がこんな大きな惑星に成長したのは、何度も合体したのさ。惑星は合体して大きくなったのだ。
原始月が原始地球に引き寄せられて、衝突しそうだという時に、ちょうど太陽が『大規模なフレア』を噴出して、原始地球、原始月を取巻いていた大量のガスを吹き飛ばしてしまったのだ。地球は何十分の一かに軽くなって、合体せずに、月は地球の衛星になったのだ。
あのとき、もし月が合体していたら、地球の質量は1パーセント増えている」
「地球の最も古い岩石は、45億年前のものとされている。
そして、アポロ計画で月面から採取してきた石ころが、44億年±2億年前に出来たものだと分析された。
また、月の高地には、大量の斜長岩が分布するが、それが出来るには、表面までどろどろに熔けた状態でなければならない。すなわち、月にマグマオーシャンの時代があったことがはっきりした。そうすれば、地球もマグマオーシャン、熔岩の海があったはずだ。
厚い水素ガスの大気に覆われ、『星素』が次々に衝突し、その熱が、温室効果でこもって、表面が熔けたのだ。
そして、今から45億年前に、太陽の大規模なフレアで地球と月の水素ガスが吹き飛ばされて、一挙にマグマオーシャンがなくなり、一番古い岩石が出来た」
「中心温度が一千万度になって、太陽は水素の核融合に点火した。そして、内部の温度が高まって不安定になり、大規模なフレアを、それはプラズマ粒子だが、間欠的に噴出させたのだろう。
太陽ほどの大きさの変光星、『タウリ星』がある。表面温度は低いというから、それは水素の核融合反応が始ったばかりだと、私は思う。変光すると言うのは、時々不規則な大規模なフレアを噴出したということだ」
「大規模なフレアで、近くの惑星たちや月がまとっていた水素ガスを吹き飛ばした。
まとっていた水素ガスが吹き飛ばされて保温効果がなくなり、そして、もう落ちてくる隕石もなくなり、地球や月のマグマオーシャンは終わった。
また、中心部や、地球や月の近くにいた小惑星たちは『小惑星帯』まで吹き飛ばされてしまった」
感心したように善三の顔を見つめていた祐二が問うた。
「権田さんは宇宙の仕事をされてたのですか?」
「いや、引退してから宇宙に興味を持った。
宇宙は神秘で判らんことだらけだ。あれこれ想像して、私のような門外漢でも、自分の考えをまとめられる」
「天文学なんていうのは想像がまかり通る世界だ。理論で導かれた結果が観測によって裏づけられることもあるが、たいがいは観測事実があって、どうしてそうなるのか理屈を探している。
ハップル宇宙望遠鏡や、探査衛星、電波望遠鏡でいろいろなことがわかって、これまでの考えが覆されるようになった。でも、新しいことが分かれば、また次の不思議が出てくる。
私のようなアマチュアは、既成観念に縛られずに大胆に本質を考えることができる」
「私が月のことを考え始めたのは、アポロ計画で月面に置いてきた反射板で地球と月の距離を観測した結果、年間3センチほど距離が伸びていると知ってからだ。
だってさ、新生地球と新生月が出来てからも、隕石がたくさんぶつかっている。それは月にクレーターがたくさんあることが証拠だ。地球にだって、風化してしまったが隕石のクレーターはたくさんあっただろう。月も地球も、質量は、これは重さのことだが、増えているはずだ。
万有引力の式では、引力の大きさは質量に比例する。
質量が増えたのだから、月と地球は引き合って近づく傾向のはずだろう。それが、反対に、例えわずかでも離れつつあるというのが解せなかった」
「月はもっと地球の近くにいたが、地球の水素ガスが吹き飛ばされて軽くなったので離れた。その余韻というか、傾向が残っていると気づいたのさ。
さらに、月は新月の時に太陽に近づくように、太陽引力に強く引かれていることも影響していよう」
第五章 花言葉
一
いつのまにか梅雨に入った。
ジキタリスは、てっぺんの方に花がつき、残り少なく見える。
善三は、まさに晴耕雨読の生活であるが、晴天の日でも一、二時間、畑の手入れをした後は、机に向って分子雲の進化論のまとめに集中していた。
最後は、簡潔な論文に仕上げるつもりでいるが、その前に、思いつくまま、いろんな角度から書き綴っておこうとしている。
そうやって書き留めておくことは、頭脳の記憶容量を増やす効果があるし、また、考えの飛躍や思い違いを質すのに、いい機会を与えてくれる。
ただし、細かいことの新たな思いつきや、考え直すことはしょっちゅうあるので、そのたびに、前に書いた関連するところを直さねばならない。
文章を修正するのだから、微修整と言うよりガラッと書き直すことが多い。それで、理路整然としたものになっているという手ごたえがある。
(そうやって、少しずつ進んでいる……)
いずれ、誰か力のある人に読んでもらいたいと思うが、まだまだ修正に追われてまとまらない。
六月十六日、土曜の夕方、祐二から電話があった。
「明日、祖母を連れて伺いたいのですが……」
「了解。楽しみにしてますと伝えてください」
善三は、あわてて部屋の中を片付けた。
その晩、祐二から再び電話があった。
「明日、二時ごろ祖母を連れて行きます。祖母は車を運転しますから、ぼくが乗っけてもらいます」
翌、日曜。晴れ。朝からそわそわしてあちこちを掃除した。タンスの上の妻の写真に気づき、一瞬どうしようかと思ったが、そのままとした。
オレンジ色の軽自動車だった。
小柄な白い顔がほほえんだ。
白いシャツに茶の長いスカート。
短い髪が活動的だった。
はにかんだ目元の笑みに、面影があった。
「お久しぶりです。祐二がお世話になってます」
善三は、
「よくおいでになりました」
「先輩。懐かしいです。お目にかかれるとは思っても見ませんでした。お元気なようでなによりです」
「さっちゃんも、お元気で……。ご自分で運転なさって、いいですね」
彼女は、周りを見回した。
「まあ、ジキタリスだわ。残っていたのね。
あの頃と同じピンクだわ」と、さっちゃんは門の隅に向かった。
まさに、長い花茎の先端についた花だった。
善三は二人に玄関から上がってもらおうとした。
すると、祐二が、電話のところに貼ってあった、『救急車お断り』の紙をいぶかしげに眺めていた。彼なりに重大なことと受け止めたようで、気軽に口に出さなかった。
「先輩にお目にかかるのは何年ぶりかしら?
私が転校したのは高一が終わった春休みでした」
「五十四年ぶりです」と、善三。
それから、彼女は孫に向って話した。
「権田さんは中学校のテニス部の部長で、とても上手でした」
「でも、地区大会の決勝で負けました」
「それで、次の年、私たちはがんばって優勝しました」
「そうだった。応援に行った」と、善三の脳裏に、日に焼けたおさげの少女の緊張した顔が浮かんできた。そして、そのしなやかな肢体をまぶしく思ったことがよみがえる。
「私は、このリンゴ園に何回か来たことがあります。学校の行き帰りこの道を通りました。
いつだったか、台風でリンゴが落とされて、片付けの手伝いに皆で来ました」
「覚えてます。あの時は、家中の者が落胆して、何も手につかなかったのですが、応援に来ていただいてうれしかったです」
「あの時、皆、傷んだリンゴを山ほど頂いて、家でジャムにしました。手伝いに行ったのやら、リンゴをもらいに行ったのやら、分かりませんでした」
そう言って、さっちゃんは笑った。
「あの時、あなたにシュークリームを差し入れてもらいました。覚えてます。
このあいだのシュークリーム、久しぶりで食べました。おいしかったです。ごちそうさまでした」
「私は、声楽をやりたかったので、勧めてくれる親戚が東京に居て、上京しました」
「そうだった。高校では、音楽部だったね」
善三は忘れてはいない。さっちゃんが転校するらしいという噂を耳にして、直接、話をして確かめようと一年生の教室の廊下をうろうろしたことがあった。でも、叶わなかった。
「私は、東京の私立高校に転入し、個人レッスンを受け、念願の音楽大学に入りました。そして、歌劇団に入りました」
二人は、互いの人生行路をポツン、ポツンと語り合った。
宇宙の本を見ながら聞き耳を立てている若者が側に居るので、互いに胸の想いを隠したそっけないものだった。
帰りに、祐二が、『救急車お断り』の紙を指さして、何やら言いたそうだったので、善三は、にやっと笑った。
「もし私が倒れたら、それは脳溢血か脳梗塞だろうから、それまでにして欲しい。
半身不随で、生かしてもらいたくない」
さっちゃんが笑っていた。でも、祐二はきょとんとしてその顔を眺めていた。
(少年には思い及ばないことだろう……)
と、善三は思った。
「そうだ、よかったらジャガイモを持って行きませんか。
畑から掘ってきます」
善三は長靴を履いて、ダンシャクの株を引き抜いた。みずみずしい黄色の芋が転がり出た。
さっちゃんが、
「まあ、おいしそう。新ジャガは、ジャガバタよ」
祐二が、
「ジャガバタって?」と、首をかしげたので、
「ふかして、バターをつけていただくの。あなたも、やってみなさい。
あら、まだ、いただいてないのに……」
そして、笑った。
夕食のとき、まだ興奮の残る善三は、土産の粕漬けの漬物を食べながら、さっちゃんはよく笑う人だ、と思った。
二
次の日曜の昼過ぎ、祐二がなにやら入れた紙袋を提げてきた。
「母からです。鯖の開きですが、お口に合うかしら、と言ってました」
「好物だ。ありがとう」
「テニスは?」
「午前中に練習は終わりました。大会はひと月後です」
「学校で、権田さんの考えを、理科の土屋先生に話したら、ジャイアントインパクト説を否定するなら、権田さんは、月がどうやって出来たと考えているのだろう、と言われました。
地球と月は合体しそうになったが、それを免れ、衛星になったと話しましたが、詳しく言えませんでした」
(世の中の天文愛好家は、権威者の説に盲目的に従う。
その説を理解しているわけじゃない。知識として、表面を聞きかじっているだけだ……)
「よし、それなら、月の成因を説明してやろう」
「お願いします」
「月も地球も同じようにして出来た」
そう言った善三は、次の言葉に窮した。
(素人相手に、どう話せばいいのだ……)
この少年が理解できなくてもいいから、持論をぶつけることだ。
そう気持を切り替えて、次のことを話し出した。
「太陽系の属するこの『銀河系宇宙』は、129億年前に誕生したとされる。
そして、おそらく100億年前には銀河円盤が出来ていたと、私は考える。
その円盤の上で、それを構成する渦巻いた分子雲たちは、内部分裂と外層の再編をくり返し、無数の星を生み出した。
「120度傾いた巨大分子雲が」誕生し、その『子円盤』の『外層ベルト』が、46億年前に伸張分裂して、太陽の母体の『太陽系分子雲』となった。
この頃になると、星が進化して撒き散らした、重い元素や固形成分がたくさんあった」
「太陽系も銀河系も、分子雲の規模が違うだけで、分子雲の進化をすることは同じだ。
太陽系分子雲という、直径2光年のオールトの雲までの球殻の、小さな再編分子雲が独立した。
すぐに、中心に原始太陽が生まれた。その周りから内部分裂した、ちぎれ分子雲が連なって、分子雲ベルトを形成して中心の太陽に引き込まれた。
やがて、ベルトが渦巻き出して、その遠心力が中心の引力に釣り合うようになって、中心に引きこまれなくなった。
その頃にベルトに加わったのが、今ある惑星たちの母体の分子雲だ」
「45億年前、異なるベルトの上の子渦の核として、原始地球と原始月は成長した。地球がこんなに大きくなったのは、それまでに何度も子渦の核同士で合体しているのだ。
ベルトが渦巻いて巻き取られ、地球と月は近づいた。そして月は地球の引力に捕えられた。
その頃、太陽がタウリ段階の『大規模なフレア』を噴出して、地球の水素ガスを吹き飛ばした。そして、月は地球との合体を免れ、衛星になった」
「太陽も地球も月も、同じ時期の分子雲ベルトの上で出来たから、ほぼ同じ材料である。
水素ガスの塊のように見える太陽も、地球の成分と同じ各種元素を含んでいる。
原始地球も、原始月も、分子雲ベルト上の子渦の核だったから、大量の水素ガスに包まれていた。その水素ガスはマグマオーシャンの時代に気化して、ずいぶん散逸しただろうが、最終的に太陽の大規模なフレアですべて吹き飛ばされた」
この前に話したことの蒸し返しの部分もあったが、相手の反応はない、
三
目の前にぽかんとした顔がある。
善三は、我に返った。
「いきなり太陽系の出来方を講釈しても、無理だ。
そうだな、まず最初に、星が、水素からいろいろな元素を造ったってことを知っているかい?」
小さく首を振る少年。
「物質の基本元素は水素だ。いいな。
138億年前に、宇宙が誕生したビッグバンのあと、火の玉空間が広がって、断熱膨張だから温度が下がって、エネルギーが物質に変換した。陽子と電子が結合して、最初の元素、水素が生まれた。
はじめ、この宇宙には水素しかなかった。水素分子が集って星の卵になった。巨大な塊になって、内部の温度が高まって一千万度になると、水素の核融合反応を起こし、輝く恒星になる。
さらに内部温度が上がって、星の核融合反応が進む。水素がヘリウム、炭素、酸素と進化する。
太陽は酸素まで造るし、もっと大きな星は鉄まで造る。
そして、太陽より8倍大きな星は、鉄を造ったあと、鉄原子が中性子に縮んで、超新星爆発する。その爆発で吹き飛ばされる時に、鉄元素に中性子などが付加して重い元素が生まれる。金もウランもそうやって出来た。
そうやって、いろいろな元素が宇宙空間に振り撒かれた。
46億年前に太陽が出来る頃には、いろいろな物質があった」
と、語りながら善三は、少年にはこのような説明は無理だと思った。
それまでにした。
その晩、善三は自分の論文の草稿の「月と地球の関係」の項を読み直した。少年に託して土屋先生に届けようと思ったのだ。
でも、文章の拙さにがくぜんとした。論旨に飛躍があるのは思いこみが強いのだ。そして重複した記述が多いのは、まだこなれてないのだ。
(これでは、誰も読んでくれない……)
四
暑い日の夕方、さっちゃんから電話があった。
「明日、お伺いしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
六月二十六日、火曜。曇った日だった。二時に、オレンジ色の車が着いた。
「お墓参りをしてきました」
「この花も終わりですね」
と、さっちゃんはジキタリスを指さした。
花は長く伸びた茎の先っぽだけで、茎の中ほどから下は、花芯の緑色の周りに行儀よく四角い敷物に埋まった丸い実が並んでいる。
「私は、あなたのお母さんにお願いして、ジキタリスの種を採らせてもらいました。ずいぶん小さな種でびっくりしたことを覚えています。そして家で蒔きました」
善三の記憶にはないことだった。
「その次の春に私は上京しましたので、しばらく知らなかったのですが、ひとりでに種が飛んでずい分増えていました。
もう、絶えてしまいました」
「この花は、いつの間にか消えてしまいますね」と、善三がいうと、
「この花は、最初の年に芽を出して、次の年に花をつけ枯れてしまいます。
あなたのお母さんからそう聞きました」
「多年草じゃないのですか?」
「いいえ、二年草です。
ジキタリスの花言葉を知ってますか?」と、白い顔
善三は、笑みを浮かべながら、わざと首をかしげた。
善三は、造成する前のリンゴ園の隅のジキタリスを見つけた後、ネットでこの花のことを調べた。多年草であること、別名が狐の手袋であること、強心利尿剤となるが誤った使い方をすると死に至らしめると知った。そして花言葉が、胸の想い、健康的、熱愛、隠された恋、誠心誠意、不誠実、と多様にあることを面白いと思った。
そして、二年草だと言い張る彼女が、どの言葉を言うか、見ていたのだ。
「私は、あの頃、知りました。まだ覚えています。胸の想いです」
「さっちゃんが転校すると聞いて、あなたと話をしたかった」
「私も、先輩に相談したくて、お会いしたいと願っていました。
そして、手紙を書きました。でも、投函しませんでした。あなたは、家の仕事と勉強とで一生懸命のようでしたから……」
「私は、いつもあなたの家の前を通る時は、ひょっとして、あなたの姿が見えないかと、リンゴ園を覗いていました」
「私も、リンゴの枝を剪定したり、摘果したり、袋掛けしたりしながら、そろそろ、さっちゃんが通る頃だと、表を見てました」
善三は、東京の大学で夜間の学部に通ったことを話した。
「じゃあ、東京ですれ違ったかも知れませんね」
「私は、二十五の時に結核を患って、家に帰ってきました」
戦後、働き盛りの人で肺結核にかかる人が多かった。それでその子供たちもその菌を保有していた。
(夢破れたさっちゃんが、かわいそうだった……)
善三はその白い顔を見つめていた。
善三は六十になる頃、血便が出て痔だろうと思ったが、妻に強く勧められ、念のためと思ってガン検診を受け、大腸ガンが見つかった。あの時、妻は、「あなた一人の体ではありません。今度という今度は検査してください」と懇願した。
善三は命拾いした。そして、仕事の第一線から退いた。早すぎるリタイヤだったが、二十日間の入院と、その後のリハビリ生活では、責任ある立場から退かなければならなかった。
そして、善三は、自分はガンが見つかって助かったけど、手遅れだった妻がかわいそうでならない。
いっしょに検診を受けるべきだった、と悔いが残る。
「祐二は、やっと受験勉強に熱が入りだしたようです」
「しっかりした少年です。楽しみですね」
「ええ、いろいろと悩みがあるようです。好きな娘のこととかですね。
もし、何かこぼしたら、相談に乗ってやってください」
と言って、さっちゃんが笑った。
善三はほほえんだ。
「では、帰ります」
そう言って、さっちゃんは、右手を差し伸べた。
初めて握った、白い小さな手。
冷たかった。
「いつか、奥さんのお墓参りをさせてください」
第六章 分子雲の進化
一
八月末の暑い日だった。祐二が現われた。
テニスをやめた祐二は少し背が伸びたようだし、声変わりした。
しかし、今日の祐二は目元に力がない、浮かない顔だった。
(テニスの大会は団体戦も個人戦も上位に残れなったが、そのことはもう吹っ切れているだろうに……)
(こないだ、祐二が女生徒と二人で話しながら門の前を通るのを見かけた……)
と思いながら、善三は少年の顔を眺めていた。
「どうした?」
「ちょっと」
「勉強は進んでいるか?」
「ええ」
「土屋先生に言われました。
『太陽系分子雲なんて、聞いたことがない。
それに、分子雲ベルトの上で惑星が出来たというのは通説とは違う。それに分子雲ベルトとはいわない』
権田さんの理論は、まだ発表されてないんですね」
善三は祐二の熱が冷めたことを知った。
でも、行きがかり上、しゃべった。
「分子雲ベルトというのは、私の造った言葉だ。
これは、私の考えだから、誰も初めて聞く話だ。説明しよう。」
「この写真は、渦状腕と呼ばれる。
私は、銀河の渦状腕がどのような仕組みで形成されたかを考えてきた。
これは、機能的には腕ではなく、ベルトなので、私はベルトと呼ぶ。
大きな問題が三つある。
まず、その構成材料の水素分子雲の小さな塊が、どのようにして生まれるか? すなわち、どのようにして内部分裂するか? である。
次に、その分裂した分子雲がどのようにしてベルトに連なるのか?
そして、そのベルトが、なぜ渦巻くようになるのか? で、ある」
硬い表情の祐二。
「水素分子が分子雲の形にまとまると、質量の大きい中心に向かって凝集するから、中心の不動点で圧力がかかり、そうすると水素分子は、強制的にくっついて、星の卵が生まれる」
「分子雲の中心に星の卵が出来ると、引力で周りの水素分子を引き寄せる。
でも、水素分子は小さいから、成長はわずかである。
そして、次の段階でちぎれ分子雲が流れ込んできて、中心塊は急成長する」
「いいかい、分子雲の中心に塊が出来ると、その引力に引き付けられてしまって、その周りに水素分子のない隙間が出来る。
すると、隙間に面した分子は、それまで内側に向かっていた凝集作用が遮断される。
その分子にとってはマスの中心は外側に変るから、外側に向って凝集を始める。
すると、水素分子のない空洞域(空洞)が広がる。
空洞の周長が伸びるだろう、すると壁面から、水素分子雲が内部分裂するのだ。それは空間膨張の影響がある」
首を傾げる祐二。
(この内部分裂の仕組みの説明は難しい……)と、善三が首を振る。
「内部分裂した分子雲の塊を、私は、ちぎれ分子雲と呼んでいる。
銀河の渦状腕は、ちぎれ分子雲が連なったものだ。
ちぎれ分子雲は、ひとりでに剥がれたものだから、単独でも中心引力に引かれて流れ込むだけの大きさ、質量がある。
そのちぎれ分子雲は、お互いにくっつくと凝集力が働いて、もう離れない」
「空洞の凹面状の壁面で、次々にちぎれ分子雲が生まれる。
最初は、中心引力に引かれて単独で流れ込む。
そして、空洞が広がる。すると遠くから引き込まれるちぎれ分子雲は『転向力』を受け、湾曲して流れ込む。
すると中心部で『旋回渦』が生じ、中心塊は、円盤状に成長する。すると、引力の方向性が出て、回転面の引力が一番強いから、空洞はだんだん扁平に広がる。
だから、空洞の上下部分で生まれたちぎれ分子雲は、だぶついて、他のちぎれの背後に連なって、空洞壁面に沿って動くようになる。
そうすると、ちぎれ分子雲は分子雲ベルトを形成して中心に引き込まれる。
そのベルトは、先端部分は拘束されてないので「転向力」を受け湾曲するが、中心に近づくと強く引っ張られ張りつめている。
『直線状ベルト』の先端部は、旋回渦にもぎ取られ、中心塊に合体する」
「その『直線状ベルト』は、やがて、湾曲するようになる。それには、いろいろな理由が考えられる。
銀河では中心部が傾いたものが多いが、中心部に傾いた面ができることも理由の一つだ。
そのことを説明しよう」
「そのうち、中心部が高温になると、水素分子が気化し、分子雲ベルトの先端が後退する。ベルトの上の子渦の核の星たちが剥き出しで中心部に流れ込む。
そして『転向力』を受けて中心部の周りを公転運動するようになる。
もう、中心の大きなブラックホールには引き込まれずに、その周りを回転している。
そうやって、中心部が密集すると、衝突して軌道が傾くものが増え、球状に分布するようになる。すると、代表回転面が変わることがある。
そうやって、中心部の回転面が傾いて、ベルトの先端がつかえて、たるむ。
ベルトは、たるむと『転向力』を受け、湾曲する。
ベルトが湾曲すると、回転運動をはじめる。
すると、『角運動量保存の法則』で根元ほど回転速度が速くなるから、ベルトは巻き取られ、渦巻きだす」
「渦巻いたベルトは、やがて、その遠心力が中心引力に拮抗するようになる。
そうすると、もはやベルトは中心部に引き込まれない。
それが、銀河系の五本のアームだ」
「渦巻かなかったら、ベルトは、すべて中心部に引き込まれる。
ベルトが何らかの事情で、途中で繋がらなかったら、そのベルトが湾曲しても、最後は中心部に引き込まれてしまおう。
ベルトが渦巻いたからこそ、銀河が残るのだ。
それが渦巻き銀河の渦状腕だ」
「渦巻いた分子雲ベルトを構成する各ちぎれ分子雲は、その中心星を生み、さらに内部分裂してちぎれ分子雲を生む。また、再編する。
これが、分子雲の進化だが、銀河系でも、太陽系でも、このようなメカニズムで星たちが生まれる」
祐二はうつむいていた。
善三は、ジャイアントインパクト説に対する自分の考えをまとめた「月と地球の関係」というレポートを、少年に託すことをあきらめた。
「私は独学で勉強したから、既成の権威、通説に縛られず、素直に考える。
例え細かいことに無知であっても、本質は何かを追及したい。
宇宙のことは、誰も見てきたわけじゃないから、ほとんどの人が自分の想像で書いている。
その人はそう想像しただろうが、別な見方もありうる。
だから、批判的な目で読むとおもしろい」
そう言った善三は、本箱から一冊の本を持ち出した。
「ほら、ここに、『月の石』、『火星の石』という写真が載っている。
これらの隕石は、月と火星から降ってきたというのだ。
でも、どうして、そう決め付けられるんだ?
これを言い出した人は、月の引力は弱いし大気は薄い。それで、もし、月に大きな天体が衝突し、その衝撃の反動でこのくらいの大きさの石ころが撥ね飛ばされたら、月の引力脱出速度を越える可能性がある、と計算したのだろう。
だからといって、この隕石が月から来たと決めつけるには飛躍がある。月から飛び出すことと、それから地球に落ちて来ることと、二重の偶然が重なっている」
善三の語気が荒い。
「太陽系の母体分子雲がまとまったのは46億年前ぐらいだ。
この銀河系の円盤が出来て100億年ほどになろう。
この円盤上で無数の恒星、惑星が生まれた。
それらの惑星の多くは、母星の最後の爆発で砕け散る。
その破片が、46億年前にまとまった太陽系分子雲の中にたくさん散らばっていた。地球や月の躯体は、そのような古い惑星たちの破片が集まって、熔けて再結晶したものである。
月や火星と似た環境の惑星は、たくさんあっただろう。それらの破片が星素や子渦の核などを経て、またほどけて小惑星として漂っていたのが、この頃になって地球に落下してきた。その可能性の方がよっぽど高いだろう。
この隕石は、月の石と似ている、あの隕石は火星のような環境で出来た、というなら判るよ」
祐二は神妙に聞いていた。
善三は、
「君は、今は受験勉強に集中すべき時期だ。がんばれ」
と、早々に祐二を放免した。
善三は、加齢で記憶力が衰えたと思うことがある。
集中力も弱まった。持続力がなくなった。でも、やる気は、挫けない。
集中力が途切れ、疲れたと思ったら、休んで気分転換して、あるいはひと寝入りして、また続ける。
時間はたっぷりある。
どうしてか? と考え続けていると、散歩の途中とか、朝目覚めた時に、ふと、その答えを思いついている。
「快哉!」を叫んで、文章にまとめる。
そうやって、少しずつ前に進んでいる。
第七章 思い出
一
秋も深まったある日の夕方、電話があった。
「明日、デートしてください。十時頃、お迎えにあがります」
さっちゃんは、白い運動靴を履いていた。
連れて行かれた場所は、町外れの丘の上の墓地だった。
「私の思い出の場所です。
坂本よし子さん。私の親友だった人。同じテニス部でした。
白血病で亡くなりました」
善三は、思い出せないまま、墓前に手を合わせた。
「先輩がテニス部の部長としてお葬式に出てくれました。
帰り道、この丘の道を下りながら、私は先輩と初めていろいろなことを話しました」
善三の記憶は薄れていた。
「あの時から、私は先輩が好きでした」
善三は、その小さな声を、夢を見ているように、聞いていた。
そして、自分の情感は老いたと思った。
二人で丘の端に行った。
あの夢で見た情景だった。
丘の上の木立のあいだから、バス停が見下ろせた。
あれから半世紀、草原は潅木に覆われていた。
昼、蕎麦屋に入った。
そのあと、隣の市まで足を伸ばして公園を散策し、喫茶店で休んだ。
「私は、まだ元気でいるつもりですが、だんだん疲れやすくなりましたし、物忘れもします。
この暮れの運転免許証の書き換えをどうしようか迷ってましたが、更新することにします」
そう言って、さっちゃんは善三を見つめた。
善三は、うなずく。
「これで、最後でしょう。
あと何年かしたら、私は施設に入ろうと思ってます」
と、彼女が言った。
善三は、しばらくうつむいていたが、口を開いた。
「私も、年々、寒さがこたえるようになった。体の適応力が衰えていくようだ。
でも、まだ、がんばって、なんとかライフワークを完成させたい」
善三は、秋になってから前立腺肥大症のクスりを飲みだした。また、こないだ風邪を引いて医者に行ったら、高血圧のクスリも渡された。
「私は、ガンで逝くのが一番いいと思っている。一切手術は受けない。モルヒネだけ飲ませてくれ」
さっちゃんは笑った。
夕方、ファミレスで久しぶりにうなぎを食べて、さっちゃんに送ってもらって帰ってきた。
二
善三は、さっちゃんを見送ったあと、庭で星空を見上げている。
前に、自分の星形成論には抜本的な問題があると、悩んだ時期があった。
あの頃は、苦しかった。
分子雲の中心に星が生まれ、一つの分子雲に星一つというのが、善三の考えだが、それに反する事実があることに気づいたのだ。
オリオン座馬頭星雲、そして、わし座星雲M16では、オールトの雲程度の領域に、小さな「星の赤ちゃん」(趙博士による命名)がいくつも出来ている。
(分子雲の中心以外でも、星が生まれている!)
と、善三の自信が揺らいだ。
でも、善三は、解決の糸口を見出したのだ。
46億年前に独立した太陽系分子雲は、外層のオールトの雲で星素が成長して彗星の核が生まれる。大きくなると太陽に引き付けられてしまう。
しかし、銀河系では、その後も濃密化し続けた「暗黒星雲」の外層で、星素が『星の赤ちゃん』にまで成長している。
オリオン座馬頭星雲も、わし座M16星雲も、背後の星の輝きを遮る「暗黒星雲」である。「暗黒星雲」は星の光を遮るほどダストが濃密になっている。
もし、オールトの雲が「暗黒星雲」並みに濃密になっていたら、黒雲に取り囲まれた太陽系からは、系外の星々を見ることが出来なかろう。
まず、なぜ、「暗黒星雲」が出来たのか? 善三は考えた。
銀河分子雲で、分子雲ベルトの湾曲の度合いが強まると空洞の壁面が、内部の星に接触し、その星を活性化させる。ベルト自身は水素を失い、破れる。そして、内蔵した星が独立する。
そうやって星が独立したあとのベルトを「外層ベルト」と呼ぶ。「外層ベルト」は写真に写らないものだから想像するしかない。
「外層ベルト」はそのまま公転運動をするのだろう。
しかし、「外層ベルト」は細長い不規則な形をしているので、もし、周りの引力源に引かれたら、のたうちまうように公転運動しよう。
「外層ベルト」は、公転しているうちに、星や星の死骸と遭遇すると、相手を再活性化させる。そして、周りの星が爆発で振りまいたダストを吸着した。。電離水素を浴び軽水素は重水素に変化した。そうやって濃密になり凝集力を高め、また沸点温度も低下する。それが「暗黒星雲」なのだ。
「暗黒星雲」は、少々温度が上がっても消散することなくまとまっていられるのだ。
そして、「暗黒星雲」は、その形状が細長くて複雑なため、中心が定まらず中心星が生まれない。それで、そこに分布する星素が、長い時間をかけ成長したのが「星の赤ちゃん」なのだ。
そして、大きな星素は、遠くから星素を引き付けて合体する。その時、「転向力」を受ける。
このように「暗黒星雲」中で、小さな星が生まれる必然性があるのだ。
そうやって、懸案事項は解決したのだった。
善三には天文家の知己はいない。
善三はこれまで大勢の見知らぬ人に、出版社の人だったり、学者だったりだが、自分の考えを送っていた。しかし、すべてなしのつぶてだった。
そして、頭を冷やして読み返してみて、記述が支離滅裂だと善三は愧じた。
テーマを絞ってある会誌に投稿したこともあるが、拒否された。敷居の高さもあろうが、まったく定説を無視した内容で、表現が拙いため、編集者に読んでもらえなかったと思った。
ともかくわかりやすい論文に仕上げなければならない。
とうとう百三十枚になったが、縮められない。むしろ、新しい思いつきがあって増えていく。
自分の考えが、素人考えのまま埋もれてしまうのは嫌だ。
着想が面白いと、誰かの目に留まって、専門家の脚光を浴び、発展したら愉快だ。
(でも、そんなことは夢だ……)
もっと推敲する。また機会を見つけて誰かに送ろう。
でも、最近の善三は、誰も理解してくれないのではないかという気持ちになる。業績のある人ほど、拒否反応しよう。なぜなら、これまでの天文学の常識を否定する善三の論文を認めたら、その人は自分の立場を失ってしまうからだ。
そんなことはどうでもいい。
きっちりしたものに仕上げることだ。ネットで、ホームページに載せるか、電子出版しよう。
その時、ふと、
(それが終わったら、自分は何をする?)
との意識がよぎった。
(さっちゃんは、老人ホームへ入る……)
(彼女は彼女、自分は自分、ふたりの人生は異なる……)
(想い出を残して、また別れる……)
若い日の切ない想いは、胸に留める。
善三は冷静に考える。
(自分の論文は、終わることがないだろう……)
細かいことを次々と思いつき、修正している。
一か所修正すると、他に辻褄が合わない記述が出てくる。それが、次々に他に波及する。頭を冷やさねばならないので、推敲に時間がかかる。
ともかく簡潔な、読みやすい論文に仕上げなければ誰も読んでくれない。
(終生、自分はこの論文にしがみついているのだろう……)
そして、善三は、知力、意欲の衰えを認めないわけにはいかない。
(いつか、頭の働きが鈍くなって、どうでもよくなってしまう時がこよう……)
悲観的なことは考えない。
(今日、終わらなければ、明日、続きをやる。それを続けるだけだ!)
でも、善三はその先のことを考える。
孤独死を望むが、周りに迷惑をかけそうだ。
そして、家の中とか庭先で倒れて、病院へ担ぎ込まれるのが一番困る。
やるべきことを終えたと思ったら、歩けるうちに旅に出る。
雪の荒野か雪山がいい。
雪の中で酒を飲んでいい気持ちになって、寝てる間に体温が二十五℃より下ると、楽になれる。凍死だ。
とうてい高い雪山に登ることは出来まいが、死に場所は他にもあろう。
ともかく、最後の時を迎える場所に、歩いて行けるように、脚力だけは維持したい。
遺体の身元確認で迷惑をかけないように、連絡先は身につけておかねばならない。「死に場所を求める、遊行の旅人につき、親切無用」との名札をつけておく。
一人暮らしの痴呆老人の行方不明者の数が年々増しているそうだが、その中に加わるかも知れない。
息子たちが困らないよう、小さな骨壺に遺髪を用意しておこう。
そして、思い立った。
(明日、妻の墓参りに行こう……)
妻に、いろいろ報告したいと思った。
一人、星空を見上げていると、寂寥感はない。
あのきらめく輝きの多くは比較的近くにある恒星だろう。
遠方の銀河がかすかな輝きになって見えるのもあろう。
太陽の寿命が100億年だが、太陽の十倍大きな星の寿命はわずかに2600万年とされるように、大きな星ほど寿命が短い。自分の身体を構成しているもろもろの元素を造った星たちは、とっくに寿命を終え、すべてあの暗闇に埋もれている。
そして、あの輝く星たちのほとんどは、銀河の輝きを構成する星たちも含めて、45億年前に太陽が輝き出した後に生まれた星たちである。
宇宙空間の膨張で、遠方の銀河は、遠ざかっている。
しかし、身近に輝く星たちは、皆、銀河系宇宙の星たちで、これらは、互いの引力と公転運動の遠心力で結びあって、重層構造をなしている。銀河系の星たちは、宇宙の膨張に関係なく、今後とも身近に在り続ける。
三
ふと、善三の脳裏に、「膨張する宇宙空間に働く転向力」のことが浮かんできた。
膨張する宇宙空間に「転向力」が働くはずだということは、善三の考えである。
もし、このような「転向力」が働かなかったら、どういう宇宙だったろう?
生まれたばかりの「最初の分子雲」は、そのまま、離れて行く。
連星運動しないから、「最初の分子雲」の内部では「転向力」が働かない。でも、分子雲の進化はする。
3超巨大ブラックホールが生まれる。そのときの爆発で出来た空洞の壁面からちぎれを引き込む。でも、「転向力」が働かないから、ちぎれは単独で引き込まれ、分子雲ベルトは形成しない。したがって、渦巻ベルトは出来ず、銀河は形成しない。
内部分裂したちぎれがすべて、中心のブラックホールに引き込まれてしまって、それで終わりである。中心部に、今のボイド中心の3超巨大ブラックホールよりはるかに大きな、4超巨大ブラックホールが出来ていよう。
そのような暗黒の「最初の分子雲」が空間に散らばる。「転向力」の働かない宇宙は、そういう姿だ。
では、「膨張する宇宙空間に働く転向力」が働かないとすれば、それは、どういう条件下だろうか?
「最初の分子雲たち」が、同じ大きさで、等間隔で、そして揃っていちどきに現れたら、「転向力」は働くまい。
前後左右から同じ大きさの引力を受ける。互いの引力が調和していて、特定方向に強く引き合うことはない。そして、お互いの引力よりも空間膨張の方が強いから、そのまま、引き離されていく。そんな状態なら「転向力は」生じない。
そのような均質分布を否定する観測データがある。その頃の空間温度3000度で、10万分の1の温度ばらつきがあったことが、COBE、WMAP,Plankの各探査衛星で観測されている。
では、空間温度のばらつきは、どうして生じたのだろうか?
エネルギー分布のばらつきがあっただろう。水素分子の密度のばらつき、なかんづく同位体のばらつきがあるだろう。
いろいろな要素があって、ばらつく必然性があろう。
それで、冷え切ったところから分子雲にまとまった。
空間膨張に抗する現象だから、無数に分かれてまとまった。
大きさが異なる分子雲が、次々に時間を置いて生まれた。ということは、空間は膨張しているから中心間隔がばらばらに生まれたのだ。
もし、空間温度のばらつきがなかったら、「最初の分子雲」は、とても大きな一つだけだった。
このように、「膨張する宇宙空間に働く転向力」は、否定できない事実である。
善三は論文の、第七章転向力の記述を見直そうと思う。転向力の働くしみをじっくり考えたい。
今までも、こうやって、あれこれ考え抜いて解を得た。そして、揺るぎない仮説を組み立てたと自負する。
さらに推敲して簡潔な文章にしなければならない。
善三に、奮い立つ気概が湧いてくる。
了
この小説で出てくる「分子雲の進化論」は、作者のライフワークで、日々取り組んでいます。まったく独創的な内容でして、自分なりに宇宙の不思議を解明しています。でも、理解者は居ない。修正ばかりして、少しずつ良くなっていくのは分かるが、いつまで経っても終えられない。なんとか生きているうちに仕上げたいという思いを善三に語らせた。
詳細に興味をお持ちの方は、ホームページ「前岡光明の机の上」http://ippei4.my.coocan.jpを覗いてください。