虚空のコングレッシオ
『そっちにいっていい?』
浮かび上がったメッセージに、生暖かい肌合いを感じて、私は少なからずうろたえていた。
三畳間の休息スペースへと振り向く。
散らかっている……んだが。
ヨーセウムポート寄港までは誰も立ち入るわけもなかったから、私は持ち込んだ私物のコンバインドを広げて、複雑な天文航行ステップのコーディング作業に熱中していた。睡眠の必要は感じていなかった。アンプルに頼らなくても断続的に数分の休息を取りながら、四千時間の航行を遂行する生活をもう何年も続けている。
美しい星の海を滑るように航行する、半年間。
地球圏から木星軌道への貨物航路。スリット型の窓外に、星の光が流れてゆく。
悪くない生き方だ。
もともとこんな単調な航行に、生身の人間を乗せてゆく必要もない。それを行っているのは確率論的な保険の問題だけだ。
何万分の一、何億分の一の、なんらかのトラブルで航行が阻害されたとき、スタンドアローンで航路を再プログラミングして高価な宇宙貨物船を守るためには有効だ、という理由で、汎用のリビングポッドと共に私のような生体ナビゲイターが乗せられている。
コスト高? いやいや。
すでに社会的共有臓器で量産化が成功している人間さま一人の命は、部品として考えたときに、充分に費用対効果が合うということだ。もはやグラムあたりの値段は人間も鶏肉も変わらない、と冗談めかして語られることもある。
そんなナビゲイターが、この巨大な貨物船には二名、配置されている。
並列で安全維持をするため、航行中にこの二名が顔を合わせることはない。前方両舷にしつらえられた有人操縦席の間にはチューブ状の細い連絡路が設けられているが、使われることはない。
だから、この申し出に当惑したのだ。
馴れ馴れしさも感じるメッセージに返信をしないままに、私は舌打ちをして休息スペースを片付けはじめた。承諾するか、拒否をするか、少しだけ考えをまとめる必要を感じていた。
ナビゲイターのプロフィールを確認した。
マルタ・ヨノ・レーンブルグ。
顔を見たこともない相方は、まだ社歴の浅い航海士だ。軍事経歴の後、民間に降りてきたばかりで長時間航行の記録は未知数だ。冷たい宇宙を進む孤独感から人間の顔を見たくなったか? あるいは不正や横領といったなにかを共謀するために私にコンタクトを求めているのか。
使い終えたフードコンテナの片付けを終えたところまでで推測を諦め、返信メッセージを打ち込んだ。
『航行中のスタッフの接触は、慣例では緊急時以外は自粛している』
私の反応をずっと待っていたのだろう。瞬時に返信があった。
『個人的なことですが、重要な案件で。社への釈明は、わたしのほうで行いますから』
個人的で重要?
私は首をかしげた。
『メッセージで要件を伝えてくれ』
そう返信した。
しばらく、返事はなかった。
かわりに、連絡チューブにつながるハッチから、コンコンとくぐもったノックの音がした。
* * *
マルタ・ヨノ・レーンブルグが与圧ヘルメットを脱ぐと、やや申し訳なさげに上目遣いの双眸と、上気して赤らんだ頬が露わになった。
「すみません」
「……」
私は額を抑えながらその謝罪を受け取った。
相手の様子から、こちらに危害を加える可能性がある、とは思えなかった。しかし当惑と怒りが混じった内心を、どう表情に作って良いのかわからなかった。
「重要な案件と?」
スーツを脱ぐ動作に背を向け、訪ねた。狭い部屋の中で、若々しい肉体が発するぬくもりを感じた。思った以上に若い航海士だった。突然の訪問も、いかにも若々しい行動力だ。
連絡チューブは与圧されているが、淀んだ空気や温度管理の状態から、宇宙服を用いるのは当然のことだ。そして居住空間に入ったらスーツを脱ぐのもスペースマンなら当然のマナーだった。逆に宇宙服を着用したままで人に向き合うのは、例えるなら銃口を向けたまま語り合うようなものだ。同じ空気を吸う、ということは、宇宙の危険を共有している、という意思を意味する。
年齢は想像していたより低かったが、スーツを脱ぐ手際の良さは、熟練したスペースマンであることを証明していた。単純に軍務経験から動作が早いというだけではない。脱ぐときにちょっと折り込むような動作など、次の装着を円滑にするための思慮深さを示すものなのだ。
そうでなかったら闖入への苛立ちは続いていただろうが、それはもうなかった。
ありていに言えば、好感のもてる人物だと思えた。
「初めまして、だな。個人的な要件があるような関係とも思えないが」
「……」
こんどは口ごもるのは、マルタ・ヨノ・レーンブルグの番だった。しげしげと私を観察し、値踏みするような視線で頭からつま先までをたどる。
「ごめんなさい、急に、無礼なことを……」
深く頭を下げると、細い髪が、動きを追ってふわりと踊った。
「聞くから、説明してくれ」
休息スペースの床に座るように示し、壁面のフォルダを開いてドリンクパックを取り出した。好感はもったところで、やはり三畳間というのは気詰まりなほどに狭いな、と感じた。ドリンクパックを差し出す。
「ええと……」
唐突な話で申し訳ない、というニュアンスで語り始めた。
「あたしが提供した生殖細胞が受精されて、子供が産まれたんです。初めての子供なので、嬉しくて」
「なるほど、それはおめでとう」
私は率直に祝辞を述べた。
個人的なこととはそういう意味か。人口管理局への遺伝子登録は自然受胎を選択する者以外はすべて行う義務となっている。昔の人工受精のように、実際に精子や卵子を採取するわけではない。すべて管理局におまかせで、細胞から培養されて形成される。
「配偶された遺伝子の提供者は、あなたなんです」
マルタ・ヨノ・レーンブルグは嬉しい報告としてそれを語り終え、ほっとしたようにグリーンティーのストローをすすった。
* * *
私ははじめて、まじまじと眼前の同僚を見た。
東洋系のきめ細かな肌に、長い航海に伸びた髪が垂れかかっている。ほっそりとした手足は、熟練したスペースマンの特徴で、肩から胸への筋肉だけがついている。ふっくらとした頬に幼さが残り、黒い睫毛が内心の昂奮で震えるように絶えず動いている。
「あなたにも、人口管理局からのメールが来ていると思うけど」
おめでとう、という喜びに、乾杯をするようにパックを差し上げる動作。
「ああ、確認してみるよ」
驚きのまま、わたしはぎこちなくうなづいた。
人口管理局への遺伝子登録は、自然受胎を選択する者以外はすべて行う義務となっている。昔の人工受精のように、実際に精子や卵子を採取するわけではない。すべて管理局におまかせで、細胞から培養されて形成される。
そんな制度が一般化してから何世代にもなる。それでも自分の「こども」ができることは、非常に生命としての本能を揺さぶられるできごとであり、人権や心情に関わるセンシティブな問題であるので、細やかな選択肢が提示されている。
その点、私の登録設定はすこし無造作だったようだ。自分への受精通知は非通知に設定していたが、たしかの配偶相手への個人情報通知を禁止したおぼえはなかった。
「登録遺伝子数は四億数千万。遺伝リスク係数が6以上での配偶禁忌を除けば、およそ一億人に一人の相手」
マルタは上気した頬に、自分で触れながらつぶやく。
「その相手と、こうして周囲一億キロに二人っきりの木星航路でご一緒している……この偶然は、どう算出したらいいのかしら」
スリットの向こうには暗い宇宙と、瞬かない星の光。
遠い遠い星の光は、窓外を流れ去るわけではない。緩やかに流れてゆくのは、船が軽くスピンをしているためだ。
「確かに」
私は無精髭の浮いた顎をかいた。
「虚空のアダムとイブかな。まあ、なかなかない、ロマンチックなエピソードだな」
「そうね」
笑い声を上げる。
私の鼻を鳴らすような苦笑じみた笑い方と、細い腹を痙攣させるような女性の笑い方が小さな三畳間の空気をひとしきり震わせ、そして、静かになった。
そのまま、二人とも、しばらく黙ってしまった。
しばらく静かに星を見つめていた。
それでも、ちょっとした瞬間に、私のことを盗み見たり、部屋に散らばった私物を眺めたりしている様子があった。
ふうっ、と悩むように、あるいは、ふふっ、と笑うように、低く聞こえる息遣い。
なにを考えているのだろう、と思った。
私がどういう人間なのか。自分の遺伝子と配偶したとき、その子供はどのような特性を持つことになるのか。そしてどんな人生を歩むのか……。
しかし、決してその子供に出会うことはない。
子供の人生に干渉することは、遺伝親の権利のなかにはないからだ。子供は仮の幼名をつけられて養育され、教育といくつもの能力テストを繰り返して自分の興味分野と得意分野を絞り込んでゆき、やがて成人して、自らの本名を決めて社会へ旅立ってゆく。そして多くの場合、百年に満たない短い一生を過ごすのだ。
いつか、自分と似ている若い人間に出会うかもしれない。
しかし、それが子であり、親である、ということを知ることはない。
そういえば、人口管理されている現在、増減なく人間を世の中に送り出すためには、優秀な遺伝子の持ち主だろうが、そうでもない特性の持ち主だろうが、原理的に言って子供を持つ数は二名だけなわけだ。
マルタ・ヨノ・レーンブルグがこの受胎告知を大きな人生の事件として受け止めるのは、理解できる。それはこの女性の真摯さを覗かせるものであって……。
傍らに息づく、美しく、しなやかで、賢い存在。
共感が嬉しさとなり、自分とこの女性を同一視させるものとなった。であれば、二人の遺伝子を受け継いだ存在は、この共有する価値観もまた受け継ぐものとなるのであろうと、想像力が滑ってゆく感覚……。
* * *
私は首を振った。
考えすぎてはいけない。
「はじめての子供、という喜びは確かに理解できるが」
私は若い者をたしなめておく口調で告げる。
「配偶相手へのいきなりの接触は、マナー違反じゃないかな。私は充分に嬉しかったが、そういう受け取り方をする者ばかりじゃないだろう」
「そうね」
マルタ・ヨノ・レーンブルグは大真面目に、何度もうなづいた。
そう言われるのを予想していた、そして、待っていた、という様子があった。このままふたりでいても、何を語り合うというのか。お互いの存在に、触れるのか。本来、出会うはずもない関係のなかで、それは口にすべきことではない事柄だったし、為すべきではない事柄であろう。
別れがたい気分と、一緒にいてはならないという禁忌の意識。
それは、お互いさま、だったろう。
「でも、ほんと、会えてよかったわ。ありがとう」
あの、嬉しそうな表情を、また見せる。そして笑い声。
「こちらこそ」
私は目を閉じて、深く頭を下げた。
心から、そう思った。
その間に、マルタはするっと連絡ハッチに身を潜らせ、スペースマン共通の、昔ながらの『良い航海を』の別れ言葉を囁いて姿を消した。
* * *
空いたドリンクパックを片付けると、私は再びコンバインドに向き合い、演算に没入することにした。
胸のうちに湧き上がる、まあ恥ずかしながら甘酸っぱいような気分と、年甲斐のない人恋しさに向き合わないように、ことさらに熱中して。先程の出来事も、わずか百メートル先のチューブの向こうで、同じように悶々となにか考えにとらわれているであろう、もうひとりのナビゲイターのことも、考えないように努めた。
マルタ・ヨノ・レーンブルグのことは何も知らない。
なにも。
そして知ることもないだろう。
宇宙貨物船の航行は順調で、虚空を滑るように進んでいた。
メッセージボードは沈黙したままだった。
なにも変化はない。
それでも、刻み込まれてしまったこの奇妙な焦燥と孤独感は、いったいどうしたものだろうか。
<FIN>