「総」の書・リシェール=グラコウス
第2話は北大陸の中枢にある国プレゼオに住む少女、リシェールは玄武の聖神闘者として邪羅鬼と戦い、日常との狭間に揺れる。
折角の日曜日なのに、とリシェールは思った。日曜日は誰もが休むために作られた日なのに、悪者と戦う羽目になるとは……と。ペルヴェド市郊外にある列車車庫でリシェール・グラコウスは邪羅鬼と戦っていた。
列車車庫は濃い緑のガレージに線路、客車両や貨物車両が置かれている。貨物列車は灰色が多く、客車は赤や青や緑とカラフルぐらいなことだろう。
リシェールと戦っている邪羅鬼は半魚人のような外見で、毒カマスのような顔をしている。
「ここの人達の魂、返してもらうよ!」
リシェールは水行を両手に集めて、握り拳を邪羅鬼に向けた。
「冷たき邪気よ、激流の清しさに浄化され、体は無へと還れ。玄武嵐舞‼」
リシェールが叫ぶと、拳の先から水竜巻が出てきて、水竜巻は水の玄武となって邪羅鬼の体を貫いた。貨物車庫置き場から水飛沫が飛び、邪羅鬼は跡形もなく消滅し、喰われた魂は光の雨となり、元の体へと戻っていた。
「やったな、リシェール!」
左腕に巻きついている執事蛇クアンガイが声をあげる。
「倒したのはわたし。クアンガイは何もしてないじゃない」
リシェールが憎まれ口を叩くと、クアンガイはテヘッと舌を出す。
リシェールは転化を解き、黒に近い灰色の衣から白いダウンジャケットの姿に戻り、列車車庫をあとにした。
プレゼオの冬は早い。節気は十月の始まりだが、この国は山と森と川に囲まれた盆地で、
海はない。盆地のため冬はとても寒く、夏はそれほど暑くはないが、雷雨によく見回されていた。
だが、農酪業と工業が盛んで、鉱石も充分に採掘されており、近海国の海魚や海藻、真珠や珊瑚と交換して自国の家畜肉や野菜や香草、鉱石を引き渡していた。
プレゼオの中央西寄りにある町の一つ、ペルヴェドはタイルや食器などの焼物、ガラス工芸品、絹やベルベットなどの織物、金銀細工の生産が盛んな工芸都市で、多くの工芸職人を生み出してきた。
今日の天気は快晴で雲一つない。白い敷石と四階建ての白や赤のレンガ造りの家が並び、
町の人々はコートをはおり、中には元気で走り回っている子供たちもいる。
リシェールは短く切った桃金色の髪をなびかせ、小さな水色のショルダーバッグを提げながら、急ぎ足で家に向かって走っていった。
「おい、リシェール。何で急ぎ足なんだよ。こっちは揺られて落ち着かないんだよ」
リシェールのバッグからクアンガイが頭を出して毒づいたが、リシェールに頭を押し込められた。
「何すんだよ」
「ここは街中よ。街の中に蛇が出たら、大騒ぎになるから出ちゃダメ」
「あー、ハイハイ。わかりましたよ。ところで何でそんなに急いでるんだよ」
それを訊かれてリシェールは若葉色の瞳を輝かせた。
「さっきママからメールが来て、今日のおやつはチョコバナナホットケーキだって言うから、冷めないうちに帰るの!」
「何っ、チョコレートのホットケーキ!?」
それを聞くと、クアンガイは目をらんらんとさせた。
「蛇なのに、甘いの好きだねぇ」
リシェールはクアンガイの甘党に呆れかえって苦笑いした。そう言うとリシェールはフロイチェク通りにある自分の家へと走り出していった。
リシェールの家は、茶色の寄棟屋根にベージュの壁の二階建てで庭には白樺の木がある。
「ただいまー」
リシェールが家に入ると、台所から甘い匂いがしてきた。居間から大きな黒い毛長犬ブラックレトリバーのオラフが「お帰り」というように鳴いている。
「オラフ、ただいま」
リシェールはオラフの頭を撫でると、台所へと駆けていった。台所のテーブルには、チョコソースがかかりバナナを挟んだホットケーキが二皿あった。
「わーい、チョコバナナホットケーキだぁ~!」
リシェールが喜んでいると、母が後片付けをしながら言った。
「リシェール、お帰り。おやつ食べる前に手洗いとうがいが先」
「は~い」
リシェールは洗面所に行き、手洗いとうがいを済ませると、台所に戻ってホットケーキの皿を一つ持ち出した。
「リシェール、もうすぐアーシアも帰ってくるから二人で食べなさい」
母がリシェールの動きを見ていうと、リシェールは台所を出た。
「い、いいよ。ママ、わたし自分の部屋で宿題しながら食べるから」
リシェールはそう言うと、二階の自室に上がっていった。
「あの子、最近一人でおやつ食べるわねえ……」
母はリシェールの行動を不審に思ったが、考えるのやめて食器を洗った。
リシェールの部屋は二階にある五つの部屋の六畳間であった。天井は斜め屋根の裏側で、部屋にはクローゼット、本棚やベッド机は黒檀材、臙脂のオフィスチェア、窓には赤いパッチワークのカーテン、ベッドカバーや枕カバーも赤い柄のパッチワーク、部屋の中心にガラスのローテーブル、パステルカラーのクッションが四つ床に転がり、床にはクリーム色の絨毯が敷かれている。ベッドのヘッドボード側の横には白い鉄製のヒーターが置かれている。他にもユキヒョウのぬいぐるみやアライグマのぬいぐるみ、シマリスやウサギのぬいぐるみが置かれている。その部屋の端っこに黒い木のイーゼル。
ドアを閉めると、リシェールはバッグの中のクアンガイに言った。
「出ていいよ」
クアンガイはバッグから出て、体をくねくねさせながら体を伸ばす。
「っあ~、狭かった~」
「ごめんね、長いこといれちゃって。おやつ食べよう」
そう言うとリシェールはホットケーキをテーブルに置き、ダウンジャケットを脱いでクローゼットにしまい、黒いえりのセーラーシャツと黒い半ズボンの姿になる。
ホットケーキをほおばり、味わう。
「甘~い」
リシェールはクアンガイにもホットケーキを分け、クアンガイもケーキにかぶりつく。
「美味いよな、ママさんの料理は」
(クアンガイがいなけりゃ、わたし一人で全部食べれたんだけどな)
リシェールはクアンガイに分けたホットケーキを惜しみながら思ったが、クアンガイだって食べていけないことを気遣った。
リシェールが聖神闘者になったのは今から十日前。いきなりのことだった。
リシェールがいつものように通学路であるスラドフ通りを歩いていると、妙な気配を感じた。
リシェールは学校に行く時は、からし色のダッフルと茶色のマフラーを身につけ、黒いスウェードのデイパックを背負って通う。
スラドフ通りは一階が店舗になっている造りの建物がいくつも並び、灰色やレンガ色や苔色の壁に切り妻や寄せ棟などの屋根が特徴的である。道は白い石畳と茶色の石畳が五対一で敷き詰められている。
「……?」
周りを見てみると、誰もリシェールを見ていない。買い物をしている主婦も、学校帰りの学生も、商品を売っている店主たちも。
「安いよ、アンティーブは一割引。ジャガイモ一キロ三ラウン!」
「乾海で獲れたムール貝、クルマエビ、マグロを手に入れたよー。さあ、いらっしゃい!」
八百屋や魚屋の売る声だけが通りに響いた。
「気のせいか」
そう思った時だった。
「見つけた、我が意志を受ける聖神闘者よ」
聡明そうな老人の声が聞こえ、リシェールは足を止めた。
「なっ、何!?」
リシェールが声に反応した時、地面が急に水浸しになり、リシェールはその水に飲み込まれるように消えていった。
(お、溺れる……!)
リシェールは突然出てきた水場にもがき苦しんだが不思議なことに苦しいという感じはなかった。魚になったように呼吸ができるのだ。
(ど、どうして……)
リシェールはそのまま水流に流されて、黒光の床の上に放り出されて尻もちをついた。
「わあっ」
腰をさすりながら体を起こすと、壁も床も黒く輝く石でできた正六角形の部屋の中にいたのだ。部屋はリシェールの学校の体育館のように広く、天井はドーム用になっており、川魚が泳いでいたのだ。アクアリウムのようだ。部屋の八方の壁には黄色い光の筒状の灯りが燈り、黒い部屋の雰囲気を明るくしていた。リシェールは床の石を触ってみて気づいた。
「この石は、オニキス?」
それからリシェールは水の中に飲み込まれたというのに、服や体が濡れていないことにハッとした。いつの間にか乾いたのか、それとも街の中にいた時からなのか……。
「どうして……」
そう思った時、リシェールは真後ろから気配を感じた。そこのまどから一体の巨大な、ゆうに二〇メートル近くはありそうな巨大な亀が現れたのだ。亀は肌は薄い灰色で、足は草亀のような爪のついた足で、甲羅は黒く、頭には三対の黒い角が生えており、目はカーマインである。
「ようこそ、我が漆黒殿へ……」
亀は聡明そうな老人の声を発しながら、リシェールに言った。
「しゃ、喋った!」
リシェールは驚いて後ずさりした。リシェールの様子を見て、亀は「フォッフォッフォッ」と笑った。
「驚くのも無理はないか。いきなりこんな場所に招かれてはな」
「……?」
リシェールはきょとんとした。
この巨大な亀の名は玄武。北大陸を守る五聖神である。玄武はリシェールに何故、ここにいるのか話を始めた。
この世界には五つの大陸があり、各大陸に五聖神がこの世の平衡を守っている。
北は玄武、南は朱雀、東は蒼龍、西は白虎、中央は麒麟が守っている。リシェールの住むプレゼオは北大陸の一国で、玄武が守っている。
玄武は水と安楽を司る聖神で、北大陸の均衡を守っていた。だが近年、戦争や犯罪などで人間達が出す負のエネルギー、邪気が増え続け、平衡が崩れてしまい、その邪気から邪悪生命体・邪羅鬼が生まれたという。玄武は自分の住まう漆黒殿を離れられず、リシェールに邪羅鬼退治をしてほしいということで選んだのだった。
「そんなあ! わたしは普通の女の子だよぉ? 超能力とか魔法なんて使えないんだから!」
それからこう付け加えた。
「学校だってあるし、家の手伝いやクラブもあるんだから……」
すると玄武は穏やかにリシェールにこう言ったのだ。
「邪羅鬼と戦うには、魔法とか超能力なんてものは通用せん。お前さんの持つ“安”の意が強ければ邪羅鬼と戦えるのじゃ」
「安楽?」
「そうじゃ。それがお前さんじゃった」
リシェールはふさぎこんだ。
「できるのかな……。わたしにそんなことが……。邪羅鬼なんて怪物なんか……」
「リシェールよ。最初から『できない』と諦めているのなら、本当に何もできなくなる。やってみてから判断すればいい。何事にも試練じゃ」
玄武はそう言うと、灰色の光の球をリシェールに差し出した。リシェールが受け取ると、リシェールの掌ほどの黒い金属縁の黒い薄い長方形の道具が現れた。
「転化帳だ。これで邪羅鬼を探しだして戦う。使い方はいたって簡単。すぐに覚えられる」
リシェールは転化帳を見てみた。蓋の中心にグラファイトを思わせる金属のエンブレムに亀の紋が入っている。
「もし不安なら、わしの使いを渡そう。お前さんなら、できる……」
そう言うと、玄武の姿は見えなくなり、リシェールはまた水の中に落ちてゆく感覚に溺れていった。
気がつくと、リシェールはいつものスラドフ通りの中にいた。人々は何もなかったように行ったり来たりをしている。
「何だったのかな……」
リシェールはさっきの出来事が信じられずにいた。腰に手をやると、コートのポケットに何か入っているのに気づいた。取り出してみると、それは紛れもなく玄武からもらった転化帳だった。
「ど、どーなってんの!?」
リシェールは思えんばかりに叫んだ。その時、通りの人たちが振り向いてリシェールを見ていた。
その日の夕方、リシェールは自室で玄武に渡された転化帳を眺めて悩んでいた。
「何で押しつけるかなぁ。どうして普通の女の子であるわたしに……」
机の上に置いた転化帳を突っつきながら呟く。普通といってもリシェールは容姿も性格も成績も並み平凡という訳ではないが、美術と国語が得意で五、六年生並みの小柄な背丈で中の上ぐらいの器量である以外は全く普通である。
「凄い……勝手すぎる……」
せめて有名美術学校の推薦にはまったのならともかく、悪者退治しかも邪羅鬼とか何とかいう怪物なんて倒せっこないと思い、その責任を押し付けた玄武に怒鳴りたい気持ちだった。
「わたしにどーやれっていうのさ……」
リシェールが頭を抱えながら落ち込むと、後ろから声がしてきた。
「おいおい、やりもしないのに諦めているなんざ、弱虫のやることだぜ」
「!?」
若い男の声がしたのでリシェールが振り向くと、そこに小さな黒い蛇がいたのだ。長さは七十センチぐらいで、背中が黒く腹の白い蛇で頭は楕円型で、頭に三対の角が生えている。
「ひ、へ、蛇!?」
リシェールはいつの間に自分の部屋に蛇が入り込んできて驚いて椅子から落ちた。
「わ、わーんっ! れ、レスキュー隊に電話ー!」
リシェールは蛇に咬まれて毒に侵かされると思い、あわてて携帯電話に手を伸ばした。
「落ち着けっ。俺は玄武様の使いだよ!」
「へっ?」
リシェールは蛇が「玄武の使い」と言ったのを聞くと、落ち着きを取り戻した。
「俺は玄武様の執事蛇のクアンガイってんだ。勝手にそんじょそこらにいるマムシと一緒にすんなよな」
「う……」
クアンガイに説教されて、リシェールは口を噤んだ。
「俺は玄武様に言われて、お前のサポートをすることになったからな。ちゃんと俺の指示に従えよな!」
「はい……」
(ずい分、偉そうだな。神様でもないのに威張っててさ)
リシェールはクアンガイの態度を見て心の中で毒づいたが、ともかくクアンガイの言うことは聞いた方が良さそうだと思った。
その時、廊下から足音がしてきて母が部屋入ってきた。
「リシェール、どうしたの? さっき大きな音がしたけど、大丈夫?」
「うっ、うん! ちょっと転んだだけだから、平気!」
リシェールはクアンガイを母に見せないようにクッションの下に隠した。家の中に蛇が入り込んでいたのを知ったら、母は間違いなく驚くだろう。
「そーう。じゃ、おやつ後で取りに来てらっしゃい。ババロア作ったから」
「あ、ありがとうっ。ババロア好きだなあ」
そう言うと母は一階の台所に戻っていった。母が去るとリシェールはクッションに押し付けていたクアンガイを出した。
「あれがお前の母親か?」
「うん。そうだよ」
「似てねーな。お前とは目の色も髪の色も」
「……」
そう言われるとリシェールは黙りこくった。父と母と姉はプラチナブロンドと海のような群青色の瞳なのに対し、リシェールだけが桃色がかった金髪に緑眼だった。家族と外見が違うというだけで周りの人たちから本当に娘や姉妹なのか訊かれることもしばしばあったし、酷い時なんかは二年生の時の同級生の男子から「お前、もらいっ子だろう」と意地悪を言われたこともあった。もうその男子とは関わっていないが。
「わたしの髪と眼の色はおばあちゃんゆずりだって、パパが言ってた。わたしが六歳の時に死んじゃったけどね」
リシェールの父方祖母は本当にリシェールと同じ桃金髪と若葉緑の瞳を持っており、若い頃なんかはリシェールに瓜二つだったという。その祖母はリシェールが六歳の時に亡くなってしまったが、リシェールの銀髪緑眼のことを慰めてくれた人物である。
「いいじゃないの。お姉ちゃんとパパやママと似ていなくても、リシェールはかわいいんだから」
それが祖母の言ってくれた言葉だった。
「そうだったのか。失礼なこと、言っちまったな」
クアンガイはしょんぼりして詫びた。
「いいよ。そんなこと、聞きなれているからさ。それより、おやつとって来るね。待ってて」
リシェールは台所に行って、ババロアを皿に乗せて銀のスプーンを二つ持ってきた。ババロアはミントグリーンに生クリームを乗せてカラーチョコスプレーを振りかけたいかにも手作りらしい雰囲気である。
「何で、スプーン二つ?」
クアンガイが訊ねると、リシェールは無邪気に笑った。
「クアンガイもいるかな、と思って」
「ああ、そうか……」
クアンガイは尻尾を器用に使ってスプーンを持って、ババロアをすくって食べた。
「うほぉっ! うまっ!」
クアンガイは非常に美味しいババロアを食べて評した。
「ママのお菓子はすっごくおいしいんだ。ケーキもクッキーもゼリーもシューも」
「お、俺のいる漆黒殿じゃあ、甘いものなんてせいぜい果物と水まんじゅうと水ようかんぐらいなものだから、俺にとってはレアだからさ……」
「蛇なのに甘いのが好きなんて、おっかしいの」
そう言いつつリシェールもクアンガイがいい奴だと知って安心した。
事件が起きたのはその日の夜だった。居間のソファで寝転がっていたオラフが突然、呻りだしたのと、机の上の転化帳がピピピピと鳴った音でリシェールは眠りから覚めた。この時は夜中の十一時過ぎで、リシェールとクアンガイとオラフだけだった。母は突然姉がモデルの仕事中に事故に遭ったのを聞いて、飛んで病院に行ったため、リシェールは家の中にとり残されてしまった。しかし、幸いご飯もあったしオラフやクアンガイがいてくれたため、寂しくなかった。
晩御飯の時にはクアンガイと一緒に、母が作ったポトフを一緒に食べた。
「グゥゥ――」
ピピピピ……。
オラフが突然呻ったのを聞いて、眠ったばかりのリシェールは目をこすりながら居間にやって来た。(転化帳の音は目覚まし時計の音だと思い込んでいた)
「どうしたのオラフ?」
薄い紫のパジャマを着たリシェールはぺたぺたとルームシューズの音を立てながら、オラフの身に何があったのか見にきたのだった。
そして「ワン! ワン!」と吼えたのだ。オラフだけでなく、近所の犬も吠え出し猫達も呻り、草むらの中にいるコオロギやキリギリシェールも求愛の時とは違った泣き方をしているのに気づいた。
「どうしたの? 急に動物達が騒ぐなんて……」
その時、悲鳴が聞こえた。
「きゃああ――……」
「隣のブラウフェさんの家からだ!」
リシェールは立ち上がり、オラフを安心させるように頭を撫でて、家を飛び出していた。普段はいている水色のエナメルスニーカーに履き替えて家の外に出ると、フロイチェク通りの家々が灯りやテレビの電源がつきっぱなしなのに対し、住人たちの声が聞こえないのを今知った。近所の住人が邪羅鬼に魂を食われたのに目を丸くした。
「これは……!?」
リシェールが驚いていると、淡い灯りで漆黒の闇夜をともす外灯の下に化け物――イモリを人間にさせたような怪物がブラウフェ夫人の体から魂を引き抜き、魂を食べたのだ。リシェールはその場に恐れて動けなかった。夜の冷え込みのような、それよりもリシェールは震えた。
(そ、そんなの……)
「リシェール、そいつが邪羅鬼だ!」
クアンガイが外に飛び出してきて、リシェールに言った。クアンガイの声で、リシェールは恐怖から現実に戻った。
「これが邪羅鬼……」
リシェールが立ちすくんでいると、イモリの邪羅鬼がリシェールに向かってきた。邪羅鬼は舌なめずりし、リシェールに手を伸ばしてきた。
「お前の魂、喰わせろ……」
怖い、とリシェールは思った。もの凄く恐ろしい感情がリシェールの心を染めた。
「リシェールっ! 転化して戦えー!」
クアンガイがリシェールに転化帳を投げつけ、リシェールの手に入った。でもリシェールは、
「無理! 出来ない! あんなのとどうやって戦えって……」
リシェールはべそをかきだしそうな顔をクアンガイに向けた。
「リシェール! 玄武様の言っていたことを忘れたのかよ!」
クアンガイがリシェールに喝を入れた。その時、リシェールの脳内に玄武の言葉が思い浮かんだ。
「最初から『できない』と諦めているのなら、本当に何もできなくなる。やってみてから判断すればいい」
(そうか――。わたしは勝手に「できない」と決めつけてたんだ。昔から、難しそうなことはいつも「できない、やれそうにない」って思ってたんだよなぁ。「できない」と「しない」は違うんだ!!)
そう感じた時、リシェールの手の中の転化帳が薄墨色の光を放った。
「ぐおうっ」
そしてリシェールは転化帳の中に付属してあるタッチペンを持って、“転化”のパネルに触れて声を出した。
「聖神水転化!!」
水の渦がリシェールを包み、桃色の髪の前髪の二房が黒くなり、金縁に黒に近い灰色の筒型の衣をまとい、衣の下に灰色の中シャツとキュロット、肩にかけた白いスカーフにはエンブレムが光り、白い帯には三節棍が装備され、両腕に黒いアームカバー、足元は灰色のレッグカバーと黒い靴。頭部には黒い三対の角、腰には灰色の亀の尾。
「よっしゃ! 転化したな!」
クアンガイが転化したリシェールを見て叫ぶ。
「これは一体……」
リシェールは自分の転化を見て驚く。だが直ぐに邪羅鬼の存在を思い出し、立ち直った邪羅鬼を見た。邪羅鬼はいつの間にか長剣を出し、リシェールに斬りかかってきた。
「わあっ!」
リシェールは海老反りによけ、邪羅鬼の振るう剣を右に左に下によける。
「リシェール、三節棍を使え!」
クアンガイが叫び、リシェールは帯に挿してある三節棍を取り出した。ヒュオッと空を斬る音がしたかと思うと、ガキィンという音が響いた。リシェールが三節棍を棒にして受け止めたのだった。
「ううう……やっ!」
リシェールは足を出して、邪羅鬼の脛を蹴った。リシェールに蹴飛ばされて邪羅鬼は石畳の道路に倒れこんだ。邪羅鬼すぐに起き上がり、口から泡の弾をリシェールに向かって吐き出した。
「わぁっ!」
リシェールは素早くよけ、弾の当たった隣家の塀がとろりと溶けた。
「えっ!? そんな」
リシェールは溶けた塀を見て青ざめる。だが邪羅鬼は次々に溶解液の泡を吐き出し、リシェールはよけるばかりである。
「何とかしなきゃ……。何とか……」
リシェールは邪羅鬼の溶解液を何とかしようと考える。その時、少し先の未来の想像図が見えた。リースが邪羅鬼の真上にジャンプして三節棍を叩きつけようとした時、邪羅鬼は口を真上に向けて、溶解泡弾を吐きだして攻撃し、リシェールはもろに受けてしまう……。
(何とかして、奴の攻撃を防がないと……)
リシェールはこうすればいいと思いつくと、助走をつけてジャンプし、邪羅鬼の真上を跳ぶ。邪羅鬼はリシェールに向かって泡を吐き出そうとした時、リシェールは右足で邪羅鬼の頭を踏みつけた。頭を強く踏みつけられ、邪羅鬼は口をバクンと閉ざされ、口の中で溶解の泡を吐き出してしまった。
「ゲォォォ」
邪羅鬼は自分の毒でもがき苦しみ、リシェールは地面に着地した。そして精神を統一させ、体中に水行を走らせ、両手を握って水行を溜め込んだ。
「冷たき邪気よ、激流の清しさに浄化され、体は無へと還れ。玄武嵐舞‼」
リシェールの両拳から水竜巻が出て、玄武の形となり、邪羅鬼の体を貫いた。体を貫かれた邪羅鬼は消滅し、喰われた魂は光の雨となって魂を喰われた人々の中に降り注いでいった。
「やっ……た……」
リシェールは邪羅鬼を倒すと、力が抜けて座り込んだ。転化が解かれ、パジャマの姿に戻った。フロイチェク通りでは、魂を喰われた人々が次々に起き上がった。
「良かった。倒したら、元通りになるんだ」
リシェールは最後に邪羅鬼に襲われたブラウフェ婦人に話しかけた。ブラウフェ夫人は、明るい茶色のウェーブヘアに灰色の眼に少し太めの中年の婦人で、頭にカーラー、ライラック色のネグリジェを着ていた。
「大丈夫ですか? さっき邪羅鬼がおばさんを……」
「ジャラキ……? 何を言っているの、あなたは?」
ブラウフェ夫人は邪羅鬼のことは覚えていない。
「どういうこと……!?」
その時、夜の寒さに気づいてリシェールはくしゃみをした。
「リシェールちゃん、もう遅いわよ、早くおうちに入ってあったかくして寝なさい。それにしても、わたしもいつ外に出ちゃったのかしら」
「……はーい」
リシェールは不思議がりながら自分の家に入っていった。そしてオラフはもう安心して居間のソファに寝ころんでいた。
リシェールは部屋に戻ってヒーターに暖まっていると、クアンガイに何故魂を喰われた人達が邪羅鬼に襲われたことを忘れたのか訊ねた。
「あれはお前の聖力で邪羅鬼は無となり、喰われた魂は恐怖や傷心は浄化されるんだよ。怖い思い出が日常の中に思い出されないように」
「怖い思い出を消す、ねぇ……」
その時、両親の寝室に置いてある電話の子機が鳴った。リシェールが取りに行くと、母からの電話だった。
「あ、もしもし、ママ?」
『リシェール、寝ている時に起こしてごめんね。お姉ちゃんのケガは思ったより酷くなかったから明日の朝に帰ってくるから、今夜は待っていてね。一人で怖くない?』
「ううん、大丈夫。えっと……」
チラとリシェールはクアンガイを見た。
「オラフもいるから大丈夫だよ。お休みなさい」
そう言ってリシェールは電話の子機を切った。そして充分に暖まると、ヒーターを止めてベッドに転がり込んだ。
次の日の朝、リシェールは自動車のエンジン音で目が覚めた。壁の時計を見てみると、朝の七時。母が帰って来たのだ。リシェールは喜んで起き上がって、パジャマから学校に行く時に着る黒字に金ラインのブレザーとサワーピンクのシャツとネクタイ、それからショッキングピンクのボックスプリーツスカートに着替えた。それから通学鞄を持って、一階の台所に降りた。
「ママ、お帰り」
「リシェール、ただいま。この様子だと、大丈夫だったようね」
母は着替えやタオルやらが詰められているトートバックを右肩に下げている。左手には、
パンや果物が入っている紙袋を抱えている。
「ママ、お姉ちゃん大丈夫だって? 良かったね。洗濯物、持ってってあげるよ」
「ありがとう、リシェール」
リシェールは重たい荷物が入っているトートバックを洗面室の洗濯機まで持っていった。
その後は母が朝ご飯のクライダ(ポテトスープ)とサラダ、黒パンを用意してくれて、リシェールはパンをかじりながら、姉の入院を聞いていた。
リシェールの姉、アーシアは隣市のオルヴァにあるオルヴァ市立技術専門学校の服飾学科に入っているが、モデルも兼ねてやっている。十六歳の時に友達と一緒に副都市メヌーテにある映画館の帰り道に、女性ファッション雑誌『メヌエット』の編集者にスカウトされてモデルになった。
アーシアは母から受け継がれたプラチナブロンドのウェーブヘアと白い肌、一六八センチという長身にスリムな体型を買われたのだった。基礎学校時代の文化祭で校内ミスコン一位を採ったこともある。そのため、同級生のほとんどが「アーシアは女優かモデルになるだろう」と噂されていたが、本当にその通りとなった。
アーシアはもうすぐ十九歳を迎え、再来年技術専門学校を卒業するが、卒業してもモデルはやると本人は語っている。
それで昨日の事故であるが、アーシアはモデルの仕事先の自然公園で、岡の上で撮影していたら後ろが急な足場とは知らずに、滑って転んだというのだ。幸い柔らかい草と土の上だったので、酷くはならずに済んだ。
「びっくりしちゃったよ、お姉ちゃんがケガしたっていうから」
クライダをすすりながら、リシェールは姉の事故について言った。
「それでね、アーシアは三日間はおうちにいて、学校もお仕事も休むから」
母が言うと、リシェールは「えっ?」とガラスコップのミルクを零しそうになった。
「どうしたの?」
「あ、いや、何でも……ない」
母にそう言ったが、リシェールの部屋には黒い蛇がいついていて、姉と母に見つかったらどうしよう……と思っていた。
「な、何でもないよ、学校行ってくる」
そう言うとリシェールは自室のベッドに寝ているクアンガイが母と姉に見つかりませんようにと願いながら、家を出た。フロイチェク通りでは、リシェールの他に近所の子供や青年が学校や仕事場に行くところだった。
フロイチェク通りを出て、商店街のスラドフ通りはビジネスマンや学生、基礎学校生が自分の持ち場へと行き、店舗では店主がシャッターやカーテンを開けている。『ツグミ荘』という通りのアパートの前でリシェールは止まった。アパートの門前から、背の高いセミロングの赤茶色の髪に灰色の瞳の少女と小さな男の子が出てきた。
「おはよう、ヴァジーラ、ボルト」
「おはよう、リシェール」
赤茶の髪の少女はリシェールと同じ七年B組の生徒、ヴァジーラ・オストチル。リシェールの親友である。小さな男の子はヴァジーラの弟、ボルトは三年生。ヴァジーラは母子家庭で、父は三年前に浮気したため、離婚。母は市内の料理学校の事務員として働き、ヴァジーラは母に代わって、弟の世話と家事をこなしている。リシェールはヴァジーラ姉弟と一緒に学校に行くのが日課になっている。
リシェールとヴァジーラが仲良くなったのは二年前に同じクラスになった時だった。両親が離婚したばかりの頃でヴァジーラはいつも不機嫌そうで、クラスのみんなから「危険な存在」として扱われていた。リシェールも五年生の時は他の友達がいたため、ヴァジーラと口を訊くことはなかった。
だが、五年生の初春にリシェールが算数の宿題の一部をやり忘れた時、仲の良い友人は風邪で休んでいたためノートを写してもらえなかった。リシェールがあたふたしていた時、ヴァジーラが自分のノートを差し出してくれた。
「あ、ありがとう……」
「危険人物」と言われていたヴァジーラが優しくしてくれるとはリシェールは思ってもいなかった。三日後、リシェールはお礼としてヴァジーラに手作りのカップケーキを三つ、渡した。その帰り道にヴァジーラが一つは自分が食べて、二つは弟に差し出すところを見ていたのだ。
「ヴァジーラちゃんて本当は優しいんだね」
天使のように笑ったリシェールを見て、ヴァジーラは照れていた。
それから二人は一緒に遊ぶようになった。ヴァジーラには弟がいるのでリシェールの家には行けなかったが、リシェールがヴァジーラの家に遊びに来ていた。リシェールには友達らしい子が今までいなかったため、親友ができて嬉しかったのだ。
ペルヴェド市立基礎学校は、生成り色の壁にレンガ色の屋根をした三階建ての建物で、一階が一年生から三年生、二階が四年生から六年生、三階が七年生から九年生の教室である。
リシェールとヴァジーラは三階にある自分たちのクラスへと行き、席に座る。机は白い板金の開閉式のものである。窓際の前から三番目がリシェールの席で、リシェールは白い椅子に座ると、夕べの出来事が嘘みたいに思えたのだ。でも転化帳があって、今でも眠いのは事実だった。
――世界の均衡が崩れて邪気から邪羅鬼が生まれて、世界と人間を滅ぼす。
そのことがリシェールの頭の中にべっとりとくっついていた。けれど、
(「できない」と思ってやってみたら、ちゃんと戦うことができた。でも、溶け込むのに時間かかりそうだな)
それでも、自分の与えられた役目なんだと信じて、リシェールは立ち上がって叫んだ。
「やってやるーっ!!」
その時、担任のジャンナ先生と同級生たちがリシェールに目を向けた。
「何がやってやるの、リシェール・グラコウス? もうホームルームは始まってるんですよ?」
「え?」
すると同級生たちがクスクスと笑いだした。
「す、すみません……」
「それはいいから、出席の途中だからね」
リシェールは赤面して着席した。何はともあれ、リシェールの聖神闘者の生活が始まったのだった。
二体目の邪羅鬼を倒した三日後の朝、十月の頭の朝、リシェールが毎日学校に行っていること知ると、クアンガイは羨ましく思っていた。
「なあ、リシェール。俺も学校に連れてってくれよぉ」
「何言っているの、蛇は学校に行けないの。むしろパニックになるじゃない」
そう言ってリシェールはクアンガイに言っており、家にいる間は絶対に家から出ないようにと釘刺していた。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言ってリシェールは部屋のドアを閉めた。台所に行くと、母と姉がもうすでに食べていた。台所の床ではオラフがドッグフードを食べている。
「おはよう、ママ、お姉ちゃん」
「おはよう、リシェール」
母は食卓に座るリシェールに朝ご飯のライ麦パンとハムエッグとサラダを出した。姉のアーシアは一六八センチという長身に長いプラチナブロンド、群青色の瞳、色白の肌とモデルに相応しいスレンダーな体型の女性で、今年十九歳。今日の服はクリーム色のニットカーディガンに黒いハイネック、マドラスチェックのプリーツスカートという華やかな姉には珍しく質素な服装である。リシェールは金ボタンの黒ベストと青いピンストライプのシャツと灰色の八ひだスカートという服装である。
リシェールは基本的にはスクールカジュアルが好きで、姉は反対にフェミニンやロマンティック系の服を着ている。リシェールはどっちかといえば文学や絵が好きな芸術系女子で、アーシアは華やかで社交的で芸能系である。食べ物もリシェールはバナナとチョコレートの菓子好きに対し、アーシアはリンゴとキャラメル味が好きで、いくら外見が違えど、リシェールは小さい頃から性格や服や食べ物の好みで比べられていたのが悩みだった。でもやっぱしおばあちゃんが理解してくれた。
「リシェールの好きなものでいいんだよ。お姉ちゃんや他の女の子と同じでなくたって」
リシェールは両親や姉にとってはやっと出来た二番目の娘だったため、かわいがられていたし、学校でいじめられていた時は姉が助けてくれたり、祖母が慰めてくれた。
(今は、ヴァジーラがいてくれるから大丈夫だもんね)
リシェールの家では、父のザズ・グラコウスは遠くの街の大学で教授をやっているため、週末にしか家に帰ってこれず、日曜日に家にいるが、月曜日の早朝にまた行ってしまうのだ。
「あ、そーだ、リシェール」
アーシアがミルクを飲んでいるリシェールに声をかけた。
「ん? 何?」
「これ、いる? 良かったらあげるけど」
姉がカーディガンのポケットから券を二枚渡した。券には『ニゲルス美術館』の入場券だった。リシェールは美術館の券を見て、思わず吹き出しそうになったが落ち着きを取り戻して、訊ねた。
「お、お姉ちゃん! どしたの、それ?」
「んー、スタッフさんがくれたんだけど『美術館の入場券で行ける期間は仕事が入っていけないから』ってわたしに。でも、わたしよりリシェールの方がいいかなー、ってそう思ってあげようと」
「い、いいの? あ、ありがとうっ!!」
リシェールは姉から美術館のチケットをもらって有頂天になった。というのもリシェールは絵を描くのが上手で、将来は画家になることを夢見ていた。学校通いの他、家の手伝いやクラブ活動、それから邪羅鬼退治と忙しくなって絵を描く余裕がなくなってしまったが、尊敬している女流画家、マドレーヌ・フォンティンの絵を見られる楽しみができた。
「でも、二枚あるよ?」
「そしたらヴァジーラちゃん誘えばいいでしょう。行けるかどうか訊いてみたら?」
母はそう言ってくれたが、でもリシェールは困った顔をした。
(ヴァジーラ、一緒に来てくれるかな……。行ける日は土曜日で、ヴァジーラ家にいなくちゃ行けない日だからなあ……)
学校に来て、リシェールは休み時間にヴァジーラにニゲルス美術館に行かないかと誘ったら、彼女の返事はOKだった。
「今度の土曜日、うちのお母さん家にいるから、わたしとリシェールで遊びに行こうよ」
「えっ、いいの?」
「いいの。お母さんも荒れていてイライラしてたあたしが穏やかになったのは、リシェールのおかげだって言ってたよ」
そういえばヴァジーラの家に遊びに来たときは、その日の夜にヴァジーラの母からリシェールの家に電話をしてリシェールの母にお礼を言っていた。「娘と仲良くしてもらって、ありがとう」と。
「こうやって学校で会う以外にも、外で遊んだ方がいいでしょ」
「うん!」
リシェールは嬉しかった。ヴァジーラと一緒に家の近く以外で出かけることができたのだから。
家に帰ると、リシェールはクアンガイに土曜日にヴァジーラとニゲルスへ遊びに行くことを話したが……。
「何でだよっ!? どうして俺じゃなくって、ヴァジーラを選んだんだよ!」
「だってもう決めたことだから……」
「そうじゃなくって! もし出かけ先に邪羅鬼が出ちまったらどうしろって俺は言っているんだ!」
「あ……」
そう言えばそうだった。でも、リシェールは言い直した。
「大丈夫だよ、転化帳持っていくから。それに蛇は入場できないから。お留守番、しててよね」
「おい、勝手に決めんな……」
「誰のおかげでこの家で食い寝できると思っているの?」
リシェールがぴしゃりというと、クアンガイは「うう……」と口ごもった。これはクアンガイが無理な注文をしてきた時に使うリシェールの脅し文句で会った。
土曜日になり、リシェールとヴァジーラは昼食を終えると、トラムに乗り、隣市オルヴァの二つ先の町、ニゲルスにやって来た。
二人がやって来たニゲルスはプレゼオのぺルヴェドと同じドマーニック地方最北西端にあり、この町の名物は大型美術館で、各国の芸術家達の絵や彫刻などが展示されている。
ロココ調の建物と広大な敷地が特徴の美術館は、プレゼオの観光スポットの一つでもある。赤い絨毯が敷かれた大理石の床、白い壁には有名画家達の油絵や肖像画や風景画など、様々である。リシェールとヴァジーラは美術館内を歩き回っている。二人の他にも、若いカップルや美術学生、絵画趣味を持つ老紳士などが来ている。
リシェールの好きな女流画家、マドレーヌ・フォンティンの作品、『冬の湖を泳ぐ白鳥』の絵もあった。北大陸の南部国リーネの代表画家、マドレーヌ・フォンティンは貧しい生まれながらも、画家で成功を勝ち取った女性画家で、彼女のよく使う緑、黒、ピンクの色彩が特徴的で、多くの女性の心を魅了させるのである。
リシェールもフォンティンの絵に魅了され、四年生の時に美術部に入り、リシェールの描く絵は色付けが良く、線が細いのが特徴的だ。特に動物や花の絵が得意であった。
リシェールがフォンティンの他の絵に見とれていると、白いダウンジャケットのポケットに入れてあった転化帳が激しく鳴った。
(これは、もしかして邪羅鬼がこの近くに!?)
そう感じてリシェールはポケットから転化帳を出して開き、邪羅鬼の居場所を探した。邪羅鬼が出現したのは、美術館の彫刻広場……即ち美術館の外である。そして画面の後ろにあったのは……。
「二十三番、『転げ落ちる螺旋の球』!」
リシェールは場所を見極めると、駆けだしていた。
「ちょっ、リシェール! どこ行くの?」
リシェールは振り向いて、ヴァジーラに言う。
「美術館から出ないで! 他の人たちにもそう言っておいて!」
リシェールはそう叫ぶと、館内を飛び出して巨大展示品広場へと向かったのだった。
美術館の彫刻広場は二三〇坪あり、巨大な芸術作品が展示されている。作品は全部で五十あり、一日では到底見きれない。リシェールは転化帳で調べた展示品のある場所へと向かう。
巨大展示品広場は白いタイルと色つきのタイルが敷き詰められた道と、十数種類の花を植えられた花壇で区域されていた。今はマリーゴールドやケイトウ、キンモクセイなどといった黄色や赤の花が咲き乱れている。広場には、たくさんまでとは言わないが、邪羅鬼に魂を抜かれて倒れている人々をみかけた。
(早く、やっつけて倒さないと……)
そうでないと、邪羅鬼は館内の人達まで襲うだろう。そしてようやく、二十三番の展示作品置き場に着いた。そこに居たのは、シャチの特徴を持つ邪羅鬼であった。邪羅鬼はすでに外の人たちの魂を食いつくしたところだった。
「邪羅鬼、これ以上の被害は増やさせはしない!」
リシェールは邪羅鬼に向かって叫ぶと、服のポケットから転化帳を出して、転化した。
転化したリシェールは帯に挿している三節棍を抜き、棒に変形させて邪羅鬼を叩きつける。三節棍はバシッと邪羅鬼の背中に当たる。邪羅鬼はひるみ、リシェールは三節棍の先を邪羅鬼の胸、腕、肩、腹、腿、脚と叩きつける。だが、邪羅鬼も負けてられない。邪羅鬼は口から水流を出して、リシェールを押し出した。
「あああっ」
リシェールは水に目が入って視界を失い、水も口に入って咳き込んだ。その隙に邪羅鬼は武器のレイピアを出して目を伏せているリシェールに刃を向ける。気配を感じたリシェールは転がりよける。やっと目を見開いたリシェールは邪羅鬼の様子を見る。
「クアンガイ、どうしたら……」
いつもの癖で後ろを振り向いたリシェールは、今日はクアンガイがいないのを思い出した。
(しまった。今日は置いてきてきちゃったんだ)
リシェールはクアンガイを置いてきたことを後悔し立ち上がろうとした時に、殺気を感じた。このまま立ち上がって振り向いたら、邪羅鬼が自分を刺そうとしてくるのを。
(振り向いたら、やられる……)
邪羅鬼が剣で突こうとした時、リシェールは三節棍で受け止め、スライディングで邪羅鬼の脛を蹴った。邪羅鬼は自分の出した水で濡れた地面に足を滑らせて倒れた。
(今のうちに!)
リシェールは精神を統一させて水行を溜めこもうとした時、邪羅鬼は口から水を出して、リースの視界を奪った。リシェールが目を伏せている時に、近くの黒い大理石製の人工滝に逃げこんだ。目を開けたリシェールは邪羅鬼が滝の中に入るのを見て、水の中に入ったら力を増すと気づいた時、邪羅鬼は人工滝の水行を自分に吸収して力を増した。そして両手から水の大玉を出し、リシェールにぶつけてきようとした。リシェールは慌ててよけ、水の大玉が当たった地面がえぐれるように穴が開いた。
(当たったら、一たまりもない……)
リシェールはぞっとした。邪羅鬼は次々に水の大玉を出し、リシェールは予知で邪羅鬼の攻撃しそうな場所を見極めてよける。だが、よけていればいるほど、体力は消耗してしまう。リシェールの体力は限界に達し、花壇やタイル道はメチャクチャになっていた。リシェールは疲労で倒れかけた時、邪羅鬼の水の大玉が近づいてきた。
(もうだめ……!)
そう思った時だった。何者かがリシェールの足首を掴み、芝生の上に後退させた。
(え!?)
後ろに引きずられたリシェールは芝生に腰を打ちつけ、誰がやったのかと見てみると、それはクアンガイだった。
「やっぱり俺がいないとダメだな。こっそりとついてきて正解だった」
「く、クアンガイ!?」
クアンガイを見てリシェールは目をまん丸くした。
「いつの間にこの場所に……?」
「それよりも邪羅鬼をなんとかしねえとやべーぞ」
「!!」
その時、邪羅鬼が口から水流を出してくるのを見て、リシェールは水行を右手に溜めて、弧を書くようにし、水のドームを出した。
「水流鏡・円」
水のドームは邪羅鬼の攻撃を跳ね返し、自分の攻撃で後ろに押された。光が鏡に反射するように。
「ぐぶぁっ」
邪羅鬼は自分の攻撃をまともに受け、人工滝の壁に叩き付けられた。邪羅鬼が弱っていると、リシェールは精神を統一させ、水行を両拳に溜め込んで向ける。
「冷たき邪気よ、激流の清しさに浄化され、体は無へと還れ」
両拳を邪羅鬼に向ける。
「玄武嵐舞‼」
両拳から水竜巻が出て水の玄武となり、邪羅鬼を貫いた。邪羅鬼は消滅し、喰われた魂は金の雨となって降り、美術館の広場全体に包まれた。
リシェールは転化を解き、濃灰色の衣と角と尾を持った姿から、美術館の時に来た白いダウンジャケットと黒いチェックのチュニックとサブリナジーンズの姿に戻る。そしてクアンガイに礼を言った。
「助けに来てくれて……ありがと」
「ああ。やっぱサポート役の俺がいないとダメだろ」
「そうだね……」
リシェールは小笑いする。しかし、メチャクチャになった広場を見て、青ざめる。
「どうしよう、これ……」
「どうせお前がやったとは誰も気づかねぇよ。とんずらしちまおうぜ」
「いや、それより、美術館の方が……」
「?」
その頃美術館の中では、来客たちが館長にもめていた。
「早く出してくれ!」
「俺たちを閉じ込める気か!」
恰幅のいい美術館の館長は来客たちをなだめる。
「お、落ち着いてください。すぐに何とかさせますので……」
来客たちの中のヴァジーラはリシェールが何故出て行って、どうして自分達が館内に閉じ込められたのか、気になっていた。
(何でこうなるのよ~。リシェールがいなくなった途端、閉じ込められるなんて~)
実はリシェールは美術館を出る時、入り口近くにあった鎖と南京錠で出入り口の取っ手を塞いだのだった。館内の客が邪羅鬼に襲われないようにと。
その後、レスキュー隊が来て、鎖を解いたのだった。リシェールたちが戻ってきた時は、既に開けられていた。その様子を見て、リシェールとクアンガイは立ちすくんだ。
(おい、どーすんだよ。えらいことになってるぞ)
(そ、そんなこと言われても……)
美術館をやっと出られたヴァジーラが外にいたリシェールを見つけた。クアンガイはとっさにやぶの中に隠れた。
「リシェール、あんたどこに行ってたのよ~。こっちは大変なことになったんだから」
「た、大変なことって?」
「あたしや他の人達が美術館に閉じ込められちゃった上に、外では展示広場がメチャクチャになってたんだよ。一体、誰の仕業なのか許せないよねー」
リシェールは内心ちくりとしながら、初めて聞いたような素振りをした。
「それは大変だったね~。わたし、美術館に行く途中の道で、落し物をしたらしくて探しに行ってたの……」
「そうだったんだ……。それで、見つかった?」
「ううん、わたしの勘違いでちゃんとポシェットの奥にあった」
苦しい嘘だが、みんなを安心させるにはこうしかなかったのだ。
「リシェール、顔色悪いよ? どうしたの?」
ヴァジーラがリシェールの顔色を伺う。
「いや、何でもないよ。別に」
リシェールは平気な顔をしたが、ヴァジーラは気遣った。
「先に帰る? なんか具合悪そうだけど……」
「病気じゃなくって……」
するとヴァジーラがぴしゃりと言った。
「無理したら、もっと悪くするよ。早く帰って寝なよ」
「ごめん。ありがと……」
リシェールは苦笑いをして、重い足取りで美術館を出て行った。リシェールが門前に近づくと同時に隠れていたクアンガイが姿を見せ、リシェールに言う。
「リシェール、俺がついてってやんよ」
二人は美術館を出て行き、クアンガイは素早くリシェールのポシェットの中に入った。
リシェールはよれよれになりながらトラム停留所に到着し、トラムが来ると、座席に座り眠り込んだ。外出のハイテンションと邪羅鬼戦での疲労が一気に出てしまったのだ。
空はすっかり、薄いばら色になっている。カタンカタンと走るトラムの中で、リシェールの安心しきった寝顔を見ながら、クアンガイはポシェットから顔を出して呟く。
「人間って結構いいもんだな」
家族と友達と相棒。この三つはリシェールにとって、かけがえのない存在である。




