「総」の書・メイ=ファラン
『五聖神黙示録』は2000年前半に思いついた物語で、2010年2月14日から2016年8月9日まで私営のホームページで連載しました。
2017年5月5日から『小説家になろう』に移行し、毎日1話掲載します。
三日月の夜の港町――。倉庫街で誰も知らない戦いがおこっていた。
ドガシャーン
積まれていたドラム缶が何かにぶつかって、倒れ落ちた音が響く。
「グゥッ……、何て奴だ……」
今攻撃されている者――トカゲの邪羅鬼は目の前の相手にひるんでいた。邪羅鬼は長い尾を巻いて逃げようとしたが、相手は邪羅鬼より素早く跳んできた。
「逃がさないぜ」
目の前にいる少年――神選者、化浪は月明かりで見える赤い眼を光らせて、邪羅鬼をつかまえ、両掌を向けてきた。
「白虎閃光‼」
倉庫街が一瞬白く光ったかと思うと、その光はすぐに治まった。邪羅鬼がいた場所には奴の姿はなく、ファランはその場を去っていった。
淡岸の片隅にある丘の上の家、そこがファランの家である。秋の朝は爽やかで、青い空と白雲。日差しは暖かく、秋風が吹いていた。
「ファラン、ヤンジェ。忘れ物はないか?」
玄関先で祖父が二人の孫、ファランとヤンジェに訊ねた。
「大丈夫だよ、行ってきまーす」
「行ってきます」
二人はそう言うと、自分達が通う中学校へと向かっていった。
玫化浪(メイ=ファラン)は今年の九月に十四歳になったばかり。同じ中学にかよう陽傑も年明けの一月で十四歳になる。ファランとヤンジェは実の兄妹やいとこ同士ではない。両親がいない為に今の祖父に引き取られて育った。
「あ~あ、かったるいなー」
ファランは自分の黒髪をかきながら呟く。
「四日前にも同じことを言ってたよね。そんなに授業が嫌なの?」
ヤンジェが訊ねると、ファランはぶっきらぼうに答えた。
「そんなんじゃねーって。苦手な授業もあるけどさ、そりゃあ仕方ねぇって。もっと別のこと別のことなんだよ。色々と……」
と、ここでファランは口をつぐんだ。危うく秘密を漏らすところだった。
「色々って? まぁ、私がファランの私事に口出してもしょうがないし……」
ヤンジェもファランの私事に口を挟むのはやめた。
二人の通う淡岸中学校は住宅街の中にある学校で、普通の家と同じく瓦屋根に石壁でできた校舎で、隣には小学校が建っている。中学と小学の違いは、中学の屋根は黒く、小学は朱赤である。ファランとヤンジェは町の片隅から住宅街を通じて通学している。
住宅街では学校に行く子どもや仕事に出掛ける大人たち、家のゴミ出しや掃除をしている主婦が行き交いしている。会社や事務所や銀行勤めの大人は背広にネクタイとスラックスを着、子どもや学生、工場務めや店勤めの通勤者はチャイナシャツやチャイナズボンやスカートを身につけている。ファランも白い長袖のチャイナシャツに紺の綿ズボン、ヤンジェは丈の長い黄色のチャイナブラウスと茶色の綿ズボンといった服装である。
中学校に着くと、十一歳から十五歳までの少年少女が集まって、校舎に入っていく。ファランの通う中学校は一学年四クラスあり、一クラスの生徒数は平均二十五人。ファランとヤンジェは同じ四年四組の生徒である。
「おはよー」
「おーっす」
ファランの友人、両秀龍(リャン=シウロン)と宮大成(ゴン=タイチェン)がファランとヤンジェに声をかける。シウロンは栗色の天然パーマに細身の少年で、タイチェンは黒いベリーショートの体格の大きい男子で、その為ラグビー部に所属している。
教室では朝のホームルームになるまで、みんな仲良しのグループに分かれていた。女の子達はアイドルやファッションの話題で持ちきり、男の子達もゲームや漫画の話をしている。ファランは教室の中心の列の後ろの自分の席へと座り、机のフタを開けて白い肩さげ鞄からノートや教科書を移した。
やがてチャイムが鳴り、担任の美人教師、社安円先生が教室の前扉を開けて入ってきた。
シェ先生は師範学校を卒業して二年になる女の先生で、栗色の髪をボブカットにし、優しさと厳しさを兼ねていたが、男女の生徒からは人気があった。
「みなさん、おはようございます」
シェ先生の挨拶から学校での一日は始まるのである。
ファランは今の淡岸中学校に通うまでは首都・美都にある中学校に通い、そこで暮らしていた。
美都は連極の首都都市で、国一番の大都会であり、高層ビルも空港も都市のシンボルである天神塔もテレビ局も有名ブランド店などが揃った都市であった。
ファランは両親が亡くなる三ヶ月前までは美都にいた。だが、その時のファランは今のような性格ではなかった。
ファランは自動車会社の営業員の父・昇万新(シェン=バンシン)と母・恩李の子どもとして生まれてきた。生まれた時は両親の初めての子どもとして祝福を受けたが、翌日ファランは両親を驚かせた。
紅い瞳をしていたのだ。それが両親を驚愕させた理由であった。
この大陸では古来から紅い眼の人間が生まれると飢饉や災害を招くと云われてきた。実際に紅い眼の人間がいた町では、飢饉で村一つが全滅したり、伝染病が起きたり、竜巻などが起きたリシェールると、紅い眼の人間のせいにされてきた。ファランの住む連極でも災いが起きた時は紅眼の子どもが生まれると谷底に落としたり、森に捨てて狼の餌食にさせるという惨い扱いをしてきたのだという。
しかし二十世紀に入ってからはある医学士の研究により、紅眼の人間が生まれるのは遺伝子の突然変異だということが発表されて、人々は紅眼の人間を殺さなくなったが差別や虐待や迫害は相次いでいた。
両親はファランを人に見せないで育てることにした。人にファランの目を見せないのがファランの幸せだと考えていた。しかし、幼稚園入園の時期になると近所の人のお節介を受け、仕方なしにファランを区立の幼稚園に入れたのだった。ファランは幼稚園に入園すると、紅眼が原因でいじめを受けたのだった。
幼稚園では靴を隠されたり、クレヨンを折られたり、遠足の弁当をひっくり返されて地面に落とされたり、果てには石を投げつけられたこともあった。
「来るな、『災いの子』。お前がいると不幸がうつる」
ただの突然変異で周りとは少しだけ外見が違うという理由だけでファランはみんなから気味悪がられていた。先生も全く頼りにならず、両親は三回も幼稚園を変えたのである。
初級学校入学になると、最初の四ヵ月間はいじめを受け、五ヶ月目から両親は「そんな学校に行かなくていい」とファランを家にいさせ、家庭教師をつけさせ、欲しいものは何でも買ってあげたという生活をさせた。ファランは初級学校にいかないまま卒業し、中級学校に入る前に別区に引越しし、そこの中学に入学したのだった。
中級学校では同じ初級学校の出身者とは一緒になることはなく、いじめられはしなかったものの、気味悪がられて避けられていた。ファランは長い間家で暮らしていたため、人見知りが激しく内向的で大人しかった。それでもファランはいじめられるくらいならまだいいと思い、みんなから声をかけることもなくシカトをすることもなく、中学校に通っていた。
だが、三ヶ月前の中学二年の修了式、ファランのいる教室に副担任の先生が青い顔をしてファランを呼んだ。
「君のご両親が交通事故に遭って……」
亡くなった、と聞いてファランは衝撃を受けた。教室にいた生徒達や担任も驚いていた。
その日、両親は友人の父親の葬式に行くといっており、夕方には帰ってくる筈だった。だが、行く途中に大型トラックと両親の車がぶつかって、トラック運転手も両親も即死した。
夏休みに入ってすぐ、両親の葬式が行われ、ファランを避けていた同級生達も来たが、みんなどうしたらいいかわからなかった。慰めればいいのか、元気付けさせればいいのか。
近所のおばさんが泣いているファランを見て、ひおひそと話していた。
「あの子、これからどうするのかしら」
「親戚とかいないのかしら。もしかしたら施設かも」
問題はそれであった。ファランの引き取り手である。ファランには親戚がいないと思っていた。その時、一人の老人が式場に現れたのだ。背が高く灰色の髪を長く垂らし、つかつかと母の遺影に向かってこう言った。
「ここにおったのか、馬鹿娘。父親のわしより早く死ぬとは……」
老人はぶるぶる震えながら泣いていた。突如現れた老人を見て、ファランも他の喪客もシンと静まっていた。それから老人はファランのほうを振り向く。
「君がエンリーの子供か?」
老人が母親の名を知っていたのを聞いて、ファランはこくりと頷いた。
「わしは玟建雄(メイ=ジェンシュン)。エンリーの父だ。つまり、君の祖父だ」
いきなり現れた老人を見て、ファランは信じられなかった。目の前にいる老人が自分の祖父だなんて。
「君はわしが引き取るよ。名はなんていうのかね?」
ジェンシュンはファランの顔を見て、朗らかに笑う。
「ファラン」
ファランはそう言うと、ジェンシュンに言った。
「そうか、ファランか。わしが面倒を見るよ。わしと暮らそうな」
それからジェンシュンは他の喪客に言った。
「この子はわしが引き取りますから、安心してください」
ファランは両親の葬式が終ると、祖父の住む淡岸に移り住んだ。夏休みの途中だったので、学校も変えたのだった。
祖父の家は町外れの丘の上にあり、先祖代々受け継がれていたもので、建物は基が白かったのだろうか黄色くあせてひびが入り、床も色あせており、柱や梁も傷ついていたが住み心地のよさそうな家であった。
家は家族の部屋がある母屋と台所と風呂場と祖父の書斎のある離れがある。ファランは母屋の一室を与えられ、部屋には柏の机と椅子とベッドとタンスや本棚が揃っており、床にはウグイス色の麻のラグが敷かれている。隣の部屋を覗いてみると、くすんだ麻のラグ、桜の花柄のベッドカバー、黄色のカーテンのある部屋である。机やベッドなどはファランと同じものであった。
「この部屋、お母さんが使っていた部屋なの?」
祖父に訊ねると、この家にはもう一人子供がいて、その子は今買い物に行っていてファランより前にこの家にいる女の子の部屋だという。そのとき丁度、その女の子が帰ってきて祖父は女の子にファランを紹介した。
「今日から一緒に住むファランだ。仲良くするように」
ヤンジェは大きな琥珀色の瞳でファランを見た。ヤンジェは長い黒髪をポニーテールにし、背丈は平均並みで色白の女の子だ。
(この子がおじいちゃんの孫……)
ヤンジェは顔を和らげずにツンとした口調でファランに言った。
「私はヤンジェ。よろしく、ファラン」
だがファランは自分の瞳をヤンジェに見せないように俯いていた。
「ちょっとー、ちゃんと眼を合わせなよ」
「ヤンジェ、ファランは自分の目を見せたくないんじゃよ」
「何で?」
ヤンジェには理由がわからなかった。
「眼が紅いからだ。それでファランは見せたらヤンジェが気味悪がると思っている」
祖父が言うと、ファランは自分の部屋へと入ってしまった。
「ファラン!」
祖父はため息をついて、頭をかいた。
「こりゃあ、手間がかりそうじゃわい……」
ファランはベッドの上で寝転がっていた。窓の外は夕日が朱く空に染まっている。
「ファラン、入っていいか?」
祖父がドアを軽く叩き、訊ねてきた。
「……おじいちゃんなら、いいよ」
ぼそりと言うと祖父が入ってきた。
「ファランはヤンジェが嫌いか?」
祖父は後ろ向いて寝ているファランに聞いた。
「もしかしたら、僕のことを嫌うんじゃないかって怖いんだよ……」
ファランがそう言うと、祖父はファランの顔を向けている方へ行った。
「ファランは自分の眼が嫌いか?」
「……この目は不幸を起こす目だもん」
ファランが自信なさ気に言うと、祖父はファランの頭を撫でた。
「じゃあ、ファランと一緒にいた子たちは本当に不幸になったか? 何か災いでも起きたか? そんなこと、本当のことを知らない子供たちが面白がっていただけじゃないか」
ファランはそう言われて思い出した。確かに幼稚園や学校で一緒だった子達は、不幸になってないし、災いだって起きてなかった。向こう側が紅眼の真実を知らずにファランを「不幸を呼ぶ子供」と決め付けていたのかもしれない。
「なかった……」
「じゃろ? だからこの眼は不幸を呼ぶ眼じゃない。ファラン、これからは外見なんか気にせずに堂々としてればいい」
そう言うと祖父はファランの手を持った。
「さあ、行こうか。ヤンジェがご飯を作っている頃じゃろ」
祖父はファランを連れて、台所のある離れへと向かった。
「ねえ」
ファランは離れに行く途中、祖父に聞いた。
「ヤンジェって僕のいとこ?」
「いいや、わしの子供はお前の母さん、エンリーだけじゃ。あの子はわしが引き取った身寄りのない子じゃ」
「どういうこと?」
すると祖父は渋い顔をした。
「わしはばあさんを先立たれて、エンリーと二人で暮らしていた。うちは娘だけで他の子供がいず、エンリーが跡取りだった。エンリーは優秀な娘で、玉菫にある商業学校に通わせていた。玉菫は遠かったから、学生寮に入って暮らして、そこの学校を卒業したら淡岸に帰るという約束だった……」
だが、エンリーはバンシンと出会い恋仲になり、彼と結婚したいと言い出した。当然祖父は反対した。跡取りの一人娘が、どこの家だかわからない長男と結婚するのは。バンシンの家族も反対したに違いない。
「そして二人は駆け落ちし、わしの知らない場所で死ぬとは……」
ファランは祖父から聞いて、母の過去を知った。死んだ両親はあまり自分の家族のことは話さなかったのを思い出した。
「わしはメイ家の跡取りとして、ヤンジェを孤児院から引き取り養子にした。あの子も不憫な子でのう。生まれて直ぐ孤児院で暮らしておった。食事や服や生活には困らなかったが、あの子の出生は誰にもわからん」
ファランはヤンジェのことを聞くと、自分より不遇だと思った。
「ただわかるのは、あの子の持っていた封筒の中に陽傑・二〇〇六年一月九日生、と書かれてあった紙の情報だけ。わしは五歳のヤンジェを引き取り、共に暮らして八年になる。最初は懐かなかったが、それでもあの子はわしの孫だ。もしかしたら戸惑っておるのかもしれんな。わしに実の孫がいたのを」
そう言いながら離れに入り、台所に入った。台所は六畳ほどの大きさで、ステンレスのシンクとコンロ、それから白い冷蔵庫とガラス戸の食器棚が置かれ、中心には食卓と椅子が四脚ある。ヤンジェはクリーム色のエプロンをつけ、鍋から牛だしの野菜スープを器に注いでいる。
テーブルには白い皿に持った蒸した白身魚のトマトチリがけ、青菜とシイタケとチャーシューの炒め物、茶碗に盛られた五穀米が三人分揃えてあった。
「おお、今日はいつもより豪勢だのう」
祖父が言うと、ヤンジェはエプロンをはずして席についた。
「だって今日は新しい家族ができたんだもの――」
そう言ってファランの方を見る。ファランもさっきと違って、顔を見上げている。ヤンジェはファランの眼を見て、じーっと見つめる。
(紅い……瞳……)
ヤンジェはファランの紅眼が不気味だと思わなかった。それどころか珍しくて綺麗で、心を奪われたのだろう。
「ヤンジェ!?」
祖父が呼びかけてヤンジェはハッとした。
「あ、ごめん。それじゃあ、食べようか」
ファランはヤンジェが作ったご飯をほおばった。どれもこれも美味しく、魚のソースは辛すぎず、炒め青菜もしょっぱすぎず丁度いい味で、スープもさっぱりしており、ご飯も柔らかだった。
「美味しい、美味しいよ!」
ファランが誉めると、ヤンジェはしどろもどろに言った。
「え!? ああ。そんなにたいしたことないのに……」
「はっはっは」
祖父もファランがヤンジェの料理を誉めたことを喜んだ。
新しい家族と新しい家――。この日から、ファランの新しい生活が始まるのだった。
夏の間ファランは淡岸市とその近隣を覚えるために、ヤンジェと一緒に歩き回っていた。
淡岸市は坤海に面した湾岸の町で、船が出入リシェールる港や夏季には海水浴でにぎわう客が集まり、商人は市場で海外から仕入れた異国の服や果物や陶器を売り、町並みは昔と変わらない白流岩と反翼瓦でできた家々が建ち、岬には灯台が建てられている。淡岸では昔から建物は海水に強い白流岩と漆玄土で造られており、漁と貝細工が盛んであった。ファランの住んでいた美都は平地にいくつものの摩天楼のビルが並び、木や花といった自然はほとんど見られず、舗装道路には自動車が何台も走り、モノレールや電車もあった。
ある時、ファランはヤンジェと共に港市場へと買い物に行った。ヤンジェや祖父は市場や町の人達と顔見知りで、買い物の時はよくおまけしてもらっていた。
「こんにちは、おばさん」
ヤンジェは果物売りの女主人にあいさつした。
「ああ、いらっしゃい、ヤンジェちゃん」
果物屋のおばさんは常連客のヤンジェの後ろに男の子がいるのに気づいた。
「この子がファラン。おじいちゃんの孫」
ヤンジェはファランを紹介すると、おばさんはファランを見て微笑む。
「この子がジェンシュンさんの……。まあ、お母さんの子供の頃にそっくり……」
「お母さんを知ってるの?」
ファランはおばさんに訊ねた。
「エンリーちゃんはとても美人で賢かったよ。でも、あんたを残して亡くなったとはね」
それからファランの紅眼を見つめる。
「あんたの目は紅いんだね。昔は紅眼なんて忌み嫌われてたんだけどね。この淡岸は外見で迫害されていた人達の聖地だから、紅眼なんて珍しくないさ」
おばさんによると、今から四百年前、紅眼や色素欠乏などの外見で差別されていた人達はある聖職者に助けられて岩と砂だけの湾岸地に村を建て、人々が増えると町になり、貝細工などの技術で外海と貿易するようになったという。聖職者は北大陸にあるラスンテという国の神父で、人々は彼の教えである「外見は違っても心は同じ」を守って、外見差別者や異人、奴隷などを助けて受け入れたという。
「ここは外見なんて気にしなくていい。紅眼であろうと、褐色人であろうと、関係ないのさ」
おばさんが笑うと、ファランはほっとした。
(ここでは外見なんて気にしなくていいのか……)
でも長いこと、気味悪がられていたファランは人間不信になっていて、身内しか心に赦していなかった。
ファランはその日、バナナとオレンジとマンゴーをおまけしてもらった。それからファランは市場の買い物へ行き、市場の人々と顔見知りになった。みんな優しく接してくれて、ファランにとって淡岸は新たな居場所で、しかも潮風の香りと紺碧の海も彼にとって新鮮なものだった。
西大陸最大の山の内部にある月長殿――。
山の内部はくり抜かれたような空洞になっており、その中心に虹色の月長石でできた神殿があった。建物は四方を支えるように建てられた塔と壁と天守閣、その天守閣中心の王間に西大陸を守る聖神、白虎がいた。
王間は円状に広く、天井はドーム状になっており、中心に八角柱に置かれた巨大な水晶玉があった。白虎は水晶玉を覗いて見た。
「邪羅鬼が動き始めてきている。早く聖神闘者を探さなければ、この世の全ての命が滅んでしまう。この西大陸を守る聖神闘者を見つけて、邪羅鬼を倒させないと……」
白虎は水晶玉をオレンジの瞳で見つめて、聖神闘者に相応しい人間を映しだした。ぼんやりとたが、だんだんを映しだされていく。そして映しだされたのは――。
黒く短い髪、白い肌に紅眼の少年だった。
ファランが淡岸に来てから、三ヶ月が経った頃だった。
「ただいまー」
ファランとヤンジェは毎日同じ時刻に登校し、同じ時間に家に帰ってくる。
「おお、お帰り、二人とも」
家に帰ると、必ず祖父が出迎えてきて、おやつを用意してくれる。ファランが転入した学校は先生も生徒もいい人ばかりで、誰もファランをいじめたりしなかった。というのも、この学校の三十人に一人が紅眼の人間が必ずいるからである。
ファランが新しいクラスに入った時、男子や女子もヤンジェに同い年の義兄弟がいたことに驚いて、もてはやしたのだった。ただ、ファランは長いこと誰かから意地悪されたり、自分から距離を置いていたため、人と接するのが苦手だった。祖父もヤンジェも担任の先生からファランが消極的すぎると言われて、少し気にしていた。
「まあ、長いこと両親に守られていたからな。人に心を許すのが怖いんじゃろ。でも次第に打ち解けていくさ」
「そうだといいんだけど……」
ヤンジェはファランが誰にも心を開かないことを祖父と話し合っていた。
九月二十二日。この日はファランの誕生日の前日だった。ファランは毎年誕生日を両親とささやかな誕生パーティーを行っていた。ケーキは両親のどちらかが買ってきてくれて、ファランの欲しいおもちゃや図鑑などの本や自転車などを買ってくれたのだった。でも、今はその両親がいない。
転校して三日経った日、学校でファランは同級生から誕生日はいつかと聞かれた時、九月二十三日と答えた。
「へー、じゃあもうすぐ十四歳なんだな」
「でも二十三日は祝日だから、前日にあげようか?」
そう言ったのはシウロンとタイチェンだった。
「別にいい……」
ファランは遠慮しながら答えた。その時、ヤンジェがシウロンとタイチェンに言った。
「ふ、二人ともお祝いしてあげたいのはわかるけど、ファランは長いこと友達と一緒から祝ってもらったことがなくって……ちょっと戸惑ってるの。ね、この通り」
ヤンジェはシウロンとタイチェンにお願いした。
「うん……。ヤンジェがそこまで言うのなら……」
ヤンジェは二人の背中を押して、ファランから少し離れた距離でひそひそ話し合った。
「どうせなら、仰天させた方がいいよ。そっちの方が喜ぶと思うの」
「は~、そうかそうか」
そして三人はファランの誕生日にびっくりさせて喜ばすという作戦に出た。さすればかえって感動すると思ったからだ。
授業が終わった日、ファランはヤンジェと一緒に帰ろうとた時、ヤンジェは断った。
「ごめんね。今日、他の友達と買い物に付き合わせてもらうことになっちゃって……。悪いけど、一人で帰ってくれる?」
ヤンジェは掌を合わせてファランに言った。
「わかった……」
ファランは鞄を肩に下げて教室を出ていくと、シウロンとタイチェンに言った。
「さあ、ファランが家に帰っている間にプレゼントを買って、明日驚かすのよ!」
「おう!」
ファランは知らなかった。明日の誕生日がびっくり誕生会だということを。
ファランが呑気に帰っていると、おかしな気配を感じた。
「……?」
まるで白い雪が黒いどぶに染まってゆくような感じだった。悪い心の人間が近くにいるようにも思える。
「何だろ?」
しかし周りを見てみると、買い物に行く親子や散歩をする老人、学校から帰る子供たちの姿しか見なかった。しかしすぐに声が聞こえたのだった。
「ここに……いたか」
「だっ、誰っ!?」
呼ばれたような気がしてファランは振り向いた。しかし、誰も呼んではいなかった。
「気のせいか……」
しかし次にはありえないことが起きた。
空が激しく白く光り、ファランのいる真上に穴があいて、ファランはそこに吸い込まれていった。
「うわあああ……」
白いらせん状の空間に回されてファランは自身の身に何が起こったのかわからないでいた。
「う……」
気がつくとファランは見知らぬ場所にいた。壁が並ぶ街中ではない。床も石道ではなく、
白い虹色がかかった石床の上にいた。天井はドーム型でやはり白い石だった。
「どこなの、ここ……」
ファランが驚いていると振り向くと、そこには体調十メートルはありそうな白い虎がいたのだ。虎の瞳は琥珀のようなオレンジ色である。
「う、うあ……」
ファランは虎を見て、思わず叫びそうになった。
「怖がるな、少年」
白い虎は大人の少し太い男のような声で言った。
「いきなり見知らぬ場所に連れてきてすまなかった。私は西大陸の聖神、白虎だ」
「びゃっ……こ……?」
ファランはポカンとして訊き返した。
「君を呼んだのは他でもない私だ。まず、私の話を聞いてほしい」
白虎はファランに語りかけた。
「この地球には五つの大陸があり、各々の大陸に聖神が地球の均衡を保っている。北に玄武、
東に蒼龍、南に朱雀、西は私白虎が守り、中央は麒麟が守っている。光と闇、善と悪、平和と破壊……それらが常に対象であるように陰と陽、五分五分だ。だが……」
自然破壊や公害による環境変化、戦争などによって陰の力が大きくなると、均衡が崩れて地球が保てなくなり、更に邪羅鬼という邪悪な生命体が生まれるというのだ。邪羅鬼は破壊や殺戮の本能だけで行動し、人間達の魂を獲って喰らうという。このまま邪羅鬼が世界中で埋め尽くされれば人間は滅んでしまう。それだけでなく、植物は枯れ、大地は荒れ、水がは濁り、空気は荒み、鳥や魚や獣も虫も全て滅び、地球は死ぬというのだ。
「そんな……」
白虎の話を聞いて、ファランは心が重たくなった。
「本来なら、私たち五聖神が邪羅鬼を倒さなければならない。しかし、定められた場所から長いこと離れると、地球の均衡が崩れてしまう。この月長殿からは出ることはできない。だから、代わりの者が邪羅鬼に頼むしかない」
「それが、僕なの……?」
ファランは紅い瞳を揺らがせ、白虎に訊いた。
「どうして……」
「君しかできないことだ。この白虎が司る“勇”の意が最も強き者が邪羅鬼を倒せる人間だ」
「“ゆう”のい……?」
「虎は古来から勇猛果敢と言われている。君は自分のことをよく見ていないだけで、最強の勇猛さを持っているんだ」
そんなのない、とファランは首を振った。
「第一どうやって邪羅鬼と……」
「ああ、すまなかった。これを……」
白虎は右前脚を出し、そこから白い光の球をファランに出した。球はファランの手元に降りて、シュッと姿を変えた。ファランの手元に一つの道具が現れた。
道具の形は片手に乗るくらいの長方形のもので薄さはファランの手の厚さと同じで、銀色の縁で枠とり、表面と裏はミルキーホワイトで、表面の中心に銀色のエンブレムが刻まれていた。エンブレムには虎が刻まれていた。ファランが眺めていると、コンパクト鏡のようにパカッと開き、上ぶたは鏡のように煌めいており、下の方は六つのマークが入っている。一つは電波のような絵文字、その隣に人と星を重ねたような絵、もう一つは鬼を思わせる絵が浮かんでいる。下の三つは「1+2=」の絵、その隣は漢字の「漢」の字、最後のは紙にペンというものである。
「転化帳だ。これを使えば、邪羅鬼を倒せる。頼むぞ、我が聖神闘者……」
ここでパアッと光が発され、ファランはその眩さに目を閉じた。
「うわ……!」
気づくと、ファランはいつもの通学路である町中に立っていた。人々は何もなかったかのように歩いていた。
「幻だったのかな……。それにしても……」
ファランが腰に手を当てると、ズボンのポケットに何か入っていた。出してみると、それは白虎からもらった転化帳だった。
「嘘……!」
ありえない、とファランは思った。しかし、本当だったのだ。転化帳が手元に今、あるのだから。
「それでね、おじいちゃん。同級生の二人を呼んで、ファランにびっくり誕生会をさせようと決めたの……」
「ほうほう」
その日の夜、ヤンジェは祖父に明日のファランの誕生日にサプライズを用意することを話した。
「明日のお昼まで、ファランには内緒」
「ああ。それにしても学校から帰ってきたファランは元気がなかったぞ。何があったんじゃ?」
「うん? わかんない。ご飯の時も元気なかったし、私が訊ねてきても答えないし」
祖父とヤンジェが台所で話し合っている頃、ファランはベッドの上に寝転がり、転化帳を眺めていた。
「僕にあるのだろうか? 邪羅鬼を倒せる力というのが……」
そしてそのまま時間が流れてゆき、十二時になった頃、ファランは十四歳になった。
「お誕生日おめでとう、自分」
自分の誕生日を自分に祝うと、あとは夢の世界に入っていった。
ピピリ、ピピリ、ピピリ……。
明け方に甲高い音が鳴るので、ファランは目覚まし時計に手を伸ばした。時計を見ると、
朝の五時を差していた。
「確か朝の八時にしておいたのに……」
寝ぼけ眼で時計を見つめたが、鳴っていたのは時計ではなく、昨日白虎からもらった転化帳の方だった。転化帳は机から音を発していた。
「ま、まさかこれが……?」
ファランはベッドから起き上がると、転化帳を開けた。そして画面には、獣人が町中を襲っている光景を見たのだ。獣人はまるで物語に出てくるような怪物――カマイタチを思わせる風貌で、大鎌を振りまわして塀や壁を斬り壊し、その周辺の住人を襲い、逃げ惑う人間を捕まえて体から魂を引き出して食べているというものだった。
「そんな……、邪羅鬼は本当にいたなんて……」
ファランは衝撃を受けた。こんな怪物相手に戦えるわけがないとそう思った。しかし、脳裏に昨日、白虎から教えられた言葉を思い出した。
――君は自分をよく見ていないだけで、最強の勇猛さを持っている。
(本当にそうなのか? でも、僕しかやれないことだって言っていた)
そして自分の意思がどんなものか思い浮かべた。
(僕はいつも逃げていた。他の人たちから疎まれるのが怖くて。お父さんとお母さんが守ってくれていたけど、それじゃ解決になっていなかった。守られているだけじゃ、ダメだったんだ……)
そう感じた時だった。転化帳が眩く白い光を発した。転化帳がファランの“勇”の意に反応したのだ。そしてファランは転化帳の中に付属してあるタッチペンを持って、“転化”のパネルに触れて声を出した。
「聖神金転化!!」
胸から全身にかけて白い金属がファランを包み、全体が包み込まれると金属片が弾け、転化したファランが現れた。
黒い髪は前髪の二房が虹色がかった白に変わり、金縁の白い衣をまとい、胸に萌黄のスカーフ、両手には茶色の手甲、足は茶色の靴。そして何より特徴的なのは、頭の虎の耳と尾である。
(姿が変わった……)
ファランは自分の姿が変わったことにただただ驚いていた。
「これで邪羅鬼を戦えるんだ……」
行こう、とファランは転化帳に映る邪羅鬼の居場所を当てにして家を飛び出していった。
転化帳はファランを聖神闘者に変える他にも邪羅鬼の居場所を教えるレーダーの役割も持っていた。ファランは仄暗い町中を走り、邪羅鬼のいる地区へとやってきた。そして気づいたのだ。転化した姿になると、いつもの倍以上の力が引き出されるのを。
(転化すると、強くなるんだ)
ファランはそう感じながら、目的地に向かっていった。
「魂、よこせ」
イタチを模した邪羅鬼は古代の連極人を思わせる衣装を身にまとい、ターゲットにした人間の家族の魂を喰らい尽くそうとしていた。
「うああああ……」
邪羅鬼に襲われた家の娘はただ怯えるばかりだった。
「いや……、助けて……」
家の中には両親が倒れて動かないままになっている。家具は倒れたりひっくり返って、家の中もめちゃめちゃである。邪羅鬼の鋭い爪のついた手が娘に伸ばしてきた時、ガシャーンという音がした。
「な、何者だ!?」
邪羅鬼が振り向くと、後ろには上の窓から飛び込んできたファランが現れたのだ。ファランはその場で着地し、邪羅鬼に向かって叫んだ。
「邪羅鬼、これ以上の悪事は許さないぞ!」
何を言っているんだろうと思いつつ、ファランは立ち向かおうとした。
「聖神闘者か。白虎め、我ら邪羅鬼を滅ぼす者を差し向けにきたか」
邪羅鬼はそう言うと、大きな鎌を出してファランに向けて振り回した。
「うおっと!」
ファランは大きく真上に跳び上がり、二階の吹き抜けの廊下に跳び移った。
「転化したのは、いいけれどどうやって戦えばいいんだ?」
ファランはどうすればいいか悩んだ。その時、衣の懐に入れてある転化帳から声がした。
転化帳を開くと、そこに白虎が映っていた。
「ファラン、腰帯に剣が挿してあるだろう。それを抜いて戦うんだ」
「腰?」
白虎に言われて腰を見てみると、確かに細身の長剣が二本下げられている。一本抜いてみると、鉄などの重金属の重さを感じさせず、木の杖を持ったように軽く持てたのだ。剣はレイピアのように細長く、銀色の刃に白い柄である。
「ゆくぞ、邪羅鬼」
ファランは転化帳を懐に入れ、もう一本の剣を持つと邪羅鬼に向かって跳び下りて刃を向けた。だが邪羅鬼は鎌で受け止めて、ゴルフスイングのように大きく振ってファランを薙ぎ払った。振り払われたファランは壁に叩きつけられた。
「ぐはっ」
「思ったより大したことないな、聖神闘者。まずはお前から殺す……」
そう言うと邪羅鬼は大鎌をファランに向けようとしてきた。
「く」
ファランは目を開くと、邪羅鬼の刃の気配を感じ取った。
「そうは……、いかない!」
そう言うとファランは右手に持った剣を邪羅鬼の左肩に投げつけた。剣はヒュンと風切り音を出して、邪羅鬼の左腕の付け根に刺さった。
「ぐぎゃああああ!」
左肩を刺された邪羅鬼は鎌を落とし、刺された部分を押さえてもがき苦しんだ。刺された部分から、緑色の血がしたり流れる。
ファランは精神を統一させ、体中に金行を走らせ、口から技の呪文が流れてくるのを感じた。
そして金行の気を両手に集め、掌を邪羅鬼に向けた。
「暗き邪気よ、白金のまぶしさに浄化され、体は無へと還れ」
「白虎閃光!!」
ファランの両掌から白い光が白虎に姿を変えて、邪羅鬼に向かってくる。弱っていた邪羅鬼は逃げることもできず、光の白虎に飲み込まれて消滅した。
「やっ……た……」
ファランは邪羅鬼を倒せたのを見張ると、そこにへたれこんだ。そして空中にいくつかの丸い光を見て、それが邪羅鬼に食われた人々の魂だと感じ取った。
「ファラン、よくやった。最初の邪羅鬼退治に成功した。邪羅鬼を倒せば、人々は元に戻る」
転化帳を通じて白虎が言った。ファランはそれを聞くとほっとした。
そして邪羅鬼に襲われた地区を後にして、家に戻りそのまま自室で眠り込んでしまったのには、覚えていなかった。
ファランが目覚めると、時計は十二時近くになっていた。
「うわっ、ずい分眠っちゃった」
明け方に転化して別区に現れた邪羅鬼と戦って倒したのには、ファランにとって大きな緊張とスリルだった。未だに世界の平衡を崩したために生まれて生命を滅ぼさんとする邪羅鬼と戦うのにはまだ受け入れがたかった。因みに家に帰った時に転化は解けていた。
「あーあ、おじいちゃんもヤンジェも怒っているだろうな。僕が昼まで眠っていたのには」
しぶしぶ寝まきから普段着のチャイナシャツとズボンに着替えて、台所のある離れへと歩いていった。ドアを開けると、ありえないことが待っていたのだ。
「ファラン、お誕生日おめでとー!!」
なんと台所には、祖父とヤンジェの他、同級生のシウロンやタイチェンもいたのだ。そして、台所のテーブルには手作りと思われるケーキやカモローストオレンジソースかけ、海老やふかひれ入りの点心、かにチャーハン、ファランの好物の味付け卵が置かれていたのだ。
「え……。何……、これ……」
ファランが目をパチクリさせていると、ヤンジェが言った。
「今日はファランのためにサプライズで喜ばせようと思ったの!」
「え……」
ファランがきょとんとしていると、シウロンとタイチェンも声をかけてきた。
「俺たちも協力したんだぜ」
「ファランは両親しか誕生日を祝ってくれなかったっていうから、俺たちも参加させてもらったんだ」
そして祖父がファランにお祝いの言葉をかけた。
「誕生日おめでとう、ファラン」
ファランは初めて両親以外の者たちから誕生日を祝ってもらったことに心がジーンと感じた。
「みんな……ありがとう……」
嬉しかったのだ。自分の生まれた日を祝ってくれる人たちは優しいまなざしと感謝の言葉をファランに向けてくれた。
ファランは思った。
(これからは誰かに優しくしてあげたり、助けてあげたりしよう。そうすれば、みんな僕のことを好いてくれるだろう)
もう限りのある人間だけでなく、自分から仲良くすることをファランは誓ったのだった。
十四歳の誕生日は幸せな日だった。これからの思い出の中で。
誕生日に邪羅鬼出現と金行聖神闘者の力に目覚めてから八日――。三日前に夜の倉庫街
でトカゲの邪羅鬼を倒してから、ファランはこの世界に誰も知らない悪と正義が戦っているのに気づいてないことを感じていた。最初の邪羅鬼を倒した時、魂を抜かれた人達はあの後どうなったか少し気になっていたが、白虎が誕生日の夜に教えてくれた。
『魂を抜かれた人間達は、お前の聖力によって邪羅鬼に襲われた記憶を無くしている。邪羅鬼のことなんて、聞かれてもわからない』と。
(そんなに都合がいいというのもなあ……)
ファランは歴史の授業中、そう考えていた。教壇では初老の逢先生が教科書の内容を朗読している。
「一二五三年、この地は坑王が彩の芳王と協力し、大国の暴君であった恭の邦王の支配していた鋼族の解放を求めた。
ガン族とチャイ族とツァン族の三族協戦を『異族同戦』という。この異族同戦は連極だけでなく、他の大陸でも使用されており――……」
全ての授業と掃除が終わり、下校時間になった。と、いってもこの日はクラブのある日であるため、帰る生徒はほんの少しだけである。ファランとヤンジェはクラブに未入部のため、クラブ活動生より早く下校していた。
「じゃあね、シウロン、タイチェン」
「ああ、またな」
ファランは最初の友達であるシウロンとタイチェンに別れを告げると、ヤンジェと共に学校を出ていった。
帰り道にヤンジェはふとしたことに気づいた。
「どした?」
「ファラン、私手芸屋に行ってくる。明日の家庭科で使う白い縫い糸がなくなったのに今気づいて……。悪いけど、先に帰ってくれる?」
「うん、それより気をつけていけよ」
「わかった」
そう言うとヤンジェは商店街に向かっていった。
(そうだ、今日の晩ごはんは僕の番だった)
ファランは今日のご飯担当に気づくと、家に向かって駆け出した。ファランは淡岸に来てから、祖父から料理を教わり、三人で替わりばんこで炊事していた。祖父は風水師をやっていて家から離れた風水館で働いており、運気を上げてもらう客たちの相手をしていた。
夕方の街並みは子供たちの遊ぶ声が聞こえ、買い物に行く車や主婦、犬を連れて散歩している老人を見かけた。
小走りしている最中、ファランは転化帳が鳴っているのに足を止めた。
(邪羅鬼だ……。しかもいるのは……)
転化帳の画面を見て、ファランは方向転換し、商店街へと駆け出していった。
ヤンジェは死に物狂いで逃げていた。商店街に来たら人々は皆倒れ、大人も子供も老人も赤ん坊も謎の化け物に襲われたのだ。
(何なのよ、あの化け物は……)
ヤンジェは左右交互に長屋の店が並ぶ商店街を抜け出し、近くにある閉鎖した板金工場へと逃げ込んだ。板金工場は壁や屋根が崩れ、ガラスが割れており、中にあるコンベヤや穴あけの機械はホコリやクモの巣で汚れていた。
ヤンジェは工場の壊れた裏口から入り、事務室だった部屋に身を潜めて震えていた。外では商店街を襲った邪羅鬼がヤンジェを探していた。
邪羅鬼は灰色熊を思わせるような外見で、体も大きく舌なめずりしながらヤンジェを探していた。扉の向こうで邪羅鬼がガシャン、バタンと大きな音を立てながら獲物を探している。
(私を見つけようとしてるんだ……)
そう思ってヤンジェは息を殺して邪羅鬼が素通りしてくれるのを待った。だが、ズシンズシンとこっちに近づいてくる足音が聞こえてきた。
(お願い、こないで……)
ヤンジェはそう願った。だが、鉄の扉がガキンガキンと力づくで壊され、蹴り飛ばされ、
二メートルは軽く越す大きさの熊の邪羅鬼が現れた。ヤンジェは恐怖で声も出ず、逃げることもできず、邪羅鬼に腕を掴まれた。そして邪羅鬼は鋭い爪のある手を伸ばし、ヤンジェの魂を抜き出そうとした。
(もう、ダメ……!)
そう思ったときだった。
「ぎゃあっ」
邪羅鬼が突然叫び、ヤンジェを手放した。ヤンジェは床に落ちたが怪我はしなかった。邪羅鬼が自分の腹を見てみると、細剣が刺さっている。剣が引き抜かれると邪羅鬼は再び呻り、紫の血が流れる腹を押さえてうずくまる。
(誰が、助けてくれたの……?)
ヤンジェが助けてくれた相手のシルエットを見てみると、彼女はその姿に目を奪われた。
それは転化したファランであった。
(誰? この人、ファランに似ているけれど、耳と尻尾が……)
ヤンジェは転化したファランを見て、似ているようで違うような気がした。紅眼は同じものの、前髪の色や衣を見ると、別人だというのがわかる。
腹を刺されてうずくまっている邪羅鬼は立ち上がり、自分の中の邪気を上手く使って傷を塞いだ。邪羅鬼はウガァ――と吼えると、鋭い爪でファランを叩き潰そうと手を振り下ろしてくる。ファランは下へと避け、体を転がして邪羅鬼の攻撃を避ける。邪羅鬼は突いたり叩きのめそうとするが、身体強化能力を備えたファランには当たらない。邪羅鬼の攻撃は機械や壁に当たってばかりだが、その破壊力は相当なものである。壁は抉られ、機械にも穴が開いた。
(この邪羅鬼は知力はないが、攻撃は確かなのか。だったら……)
ファランは邪羅鬼の攻撃パターンを掴むと、一発勝負に出た。自ら邪羅鬼に突進してくるではないか。
(そんなことしたら、敵の攻撃を受けちゃうじゃない)
ファランと邪羅鬼の戦いを陰から見ていたヤンジェじゃファランの行動を見て、不安を感じる。だが、ファランは邪羅鬼の一歩前に近づくと大きくジャンプし、手に金行を走らせ、電撃を発した。
「雷伝光撃‼」
白い電撃が走り流れ、邪羅鬼は電撃をまともに喰らい感電した。
「ギャアアアア」
邪羅鬼はその場に黒焦げになって倒れ、ファランは落下しながら、決め技の呪文を唱えた。
「暗き邪気よ、白金のまばゆさに浄化され、体は無へと還れ」
両手を邪羅鬼に向け、光の白虎を放った。
「白虎閃光‼」
光の白虎が下に真っ直ぐ邪羅鬼に向かい、邪羅鬼は攻撃を浴びて消滅した。そして工場から金色の玉が大きく真上を飛び、光の雨となって散り、魂を抜かれた人々の体に降り注いでいった。
邪羅鬼が倒され、ファランがそこから立ち去ろうとした時、ヤンジェが呼び止めた。
「待って!」
ファランは振り向いてヤンジェの顔を見る。ヤンジェは少しドキドキしながら、転化したファランに訊いた。
「助けてくれて、ありがとう。あのう……あなたは私の知っている人に似ている……」
ファランは一瞬驚いたが、動揺は見せなかった。
「あなたは誰なの? そして何者なの?」
するとファランは少し笑って落ち着いてヤンジェに言った。
「僕は白虎。この西大陸を守る聖神だ。君達人間に危機が訪れた時、僕は現れる」
そしてファランは工場を出て行き、少し離れたところで転化を解いて、ヤンジェを迎えに来たそぶりをするようにした。
「西神白虎……」
ヤンジェはその名を呟いた。人々に危機が訪れた時に助けてくれる神様がいたのだと。
ヤンジェは工場を出て商店街に戻ってみると、人々は何事もなかったように買い物や商売をしている。
(何でみんな、怪物に襲われたにも関わらず、普通に振舞っているの?)
驚いたヤンジェは魚屋のおじさんに訊ねた。
「さっき怪物に襲われましたよね。ほら、熊みたいな」
「何言ってるんだ。そんなのはテレビの中の話だけだろう」
(覚えてない?)
ヤンジェは商店街の店主たちに邪羅鬼のことを訊ねてみたが、誰一人その記憶はなかった。
ヤンジェは商店街で新しい糸を買って商店街を出ると、入り口でファランが待っていた。
「ファラン、迎えに来てくれたの?」
「ああ。女の子の一人歩きは危ないだろ?」
「ありがとう……」
家に着くまでの帰り道で、ヤンジェはファランに自分の身に起きた出来事を話した。
「……それで、白虎という神様は一瞬ファランかと思ったんだ。すごくそっくりで……」
「そうなんだ……」
ファランはあの時助けたのは自分で、本物の白虎の代わりに邪羅鬼退治していると言おうとしたがやめた。正義の味方は自分からは名乗り出ない方がいいのだ。
そしてファランは即席の笑みでヤンジェに言った。
「それよりお腹減ったね。帰って晩飯作って食べよう!」
「うん。そうだね」
二人は駆け足で祖父の待つ家へと走り出した。
ファランはこれからも邪羅鬼と戦い続けるだろう。大切な人や平穏を守るために。
空は夕日で朱く染まっていた。