国労と駆け抜けた181系
みなさんお久しぶりです。ほぼ1年ぶりですね…。ちょっと他の小説で忙しかったりネタ切れがあったので…。久々の投稿ですががんばっていきたいと思います!!
2009年10月21日、大宮にある鉄道博物館へやって来た。その日から公開されてる1両の車両を見に来た。
101系やC55や181系の顔が展示されてるところの奥にその車両が展示している別館への出入口があり、俺はその車両を見ようとしてるたくさんの人々とその別館へ進む。
俺はその車両を見て言った。
「久々に会えたな。」
その車両の名はクハ181-2。東海道本線の超特急ひかりとして東京から大阪、岡山、広島、下関を走っていた車両だ。
そして俺は田原雄大。東海道本線で特急の運転士をやっていた。また、高速度試験で250㎞/hを出したり、ひかりの一番列車の運転士も務めたことがある。
車内に入り、空いていた椅子に座った。
窓にはタッチパネル式のモニターが付いていて、そこに181系のたくさんの貴重な資料が入っていた。俺はモニターをスクロールし、当時の資料に目を通した。
「本当に懐かしい写真ばかりだな。」
そう呟いていると…
「あれ?田原か?」
俺が振り向くと老けた俺ぐらいの爺さんがいた。でも、その顔を見て、俺はすぐにわかった。
「玉城だよな?久しぶりだな。」
「田原こそ。お前もずいぶん老けたな〜。」
この爺さんは俺の現役時代の同期かつ同僚の玉城竜太。
「お前だってそうじゃないか。」
「確かにそうだな。それにしてもお前と会うのも何年ぶりぐらいなんだろうな。」
「俺が国鉄辞めて20数年ぶりぐらいかな?」
「もうそんな経つのか…。あれから…。」
「そうだな…。お前もこいつのこと見に来たのか?」
「もちろん。俺が運転した車両だからな。」
「それを言ったら俺もそうだな…。」
「あの頃は無茶をして、こいつにもかなりな迷惑をかけたからな…。」
そう言って、俺は車体をなでた。
「あの頃はすごかったからな。」
2人で国鉄で働いていた頃を思い出す…
俺はかつて国鉄労働組合、通称、国労に属してかなり大暴れをした。超特急ひかりの運転開始をした頃は対して国鉄には不満は持っていた。しかし、年々、輸送量が増え、列車もたくさん増発されて、俺らが列車に乗務する量が増えた。それなのに、当時、赤字体制だった国鉄は賃金を上げずに以前と同じ賃金で俺ら乗務員を死にものぐるいで働かせた。
その我慢の限界が万博の大量輸送を終えた頃だった。その年は大阪万博が行われ、東京と大阪で大量の列車増発が行われた。それでも乗客は裁ききれず、その増発にプラスして更なる増発を行った。それにより、乗務員はものすごく、忙しい日々を送っていた。
しかし、どんなに働いてもそれに見合った賃金が支払われない。俺はそれに不満を感じ、国労に属することにした。
俺らは毎日のように論争を起こし、本社を説得しようと切磋琢磨した。でも、それに対して本社は「今の国鉄は知っての通り、赤字なんだ。要求には応じたいところだが、国鉄にはお金がなくて君たちに払える賃金がない。」と、そのようなことを答えてくるばかりだった。
俺ら国労はそこでなぜ、国鉄が赤字体制なのかを改めて考え直した。すると1つの結論に至った。
その答えは目の前にあった。そう、俺らが乗務している超特急が赤字の原因なのだと。超特急を走らせる計画、通称「狭軌最強鉄道計画」にはその走る路線の線路、架線を全て高速運転に対応した物に取り替えれなければいけない。それにそれを作るのには多大なお金がかかり、さらに車両にも多大なお金をかける必要がある。その上、列車の本数も増え、乗務員は以前より更なる過酷な労働を強いられる。
俺ら国労はそのような物を作っても乗務員の賃金は変わらない。だから、断固、新規での「狭軌最強鉄道計画」を行うのを反対した。
ということで、その事やスト権を求めてストをやるスト権ストを行った。
「あの頃は本当に酷かったよな…。」
玉城が言う。
「本当そうだな。こいつにもいろいろしたからな。」
俺はその頃を振り返る。
当時、首都圏、名古屋、大阪を走る通勤電車には「スト権スト」など、車体にストに関することを白い塗料で書いていた。それは東海道本線を走る特急も同じようなことを書いていた。決まりとしては、特急車両には書いてはならないと言われていたが、東海道本線の特急たちは当時、「国鉄の赤字の元凶」と言われていて、昼行に東海道、山陽本線を走る、超特急ひかり、特急こだま、つばめ、しおじ、はとに使用している181系、481系、485系、581系、583系のみ、それをやることが許されていた。
ということで、車両には「狭軌最強鉄道計画反対!!」「特急増発阻止!!」など書かれ、おまけに順法闘争をやって、遅延も多発。ただでさえ本数や利用客が多い東海道本線なのでそのような事をやったので、東海道本線は毎日のようにダイヤが乱れていた。
だが、このようなことをしても本社は耳を傾けず、車両の増結、列車の増発を繰り返した。
更には東北・上越でも狭軌最強鉄道計画は実行され、東北本線、上越線の運転士はかなりの反発をして、ストライキを行った。また、工事を行ったという偽造の報告書を提出するなどの行為を行い、計画を阻止しようとしたが、それも失敗した。
俺ら東海道本線の運転士もこの計画の阻止に協力をした。それはと言うと、神戸の川崎重工から出荷された485系の甲種輸送の阻止を行ったことがある。一度は輸送用の機関車を神戸に送り込まなかったことがあった。しかし、別の機関区から代理の機関車を神戸に送り込まれ、大宮へ輸送されてしまった。
二度目は車両丸ごとを壊す計画が実行された。東海道本線で輸送中の車両にATSを解放した181系を追突させた。しかも、それを旅客が乗っている列車でやったのだ。これで問題になり、その計画に関わった国労メンバーは処分された。ちなみにこの計画には俺は関わってなかったので、処分は免れた。
結局、計画は全て失敗し、1982年10月、東北本線でも狭軌最強鉄道計画が完了し、250㎞/h運転が開始された。しかも東北本線はレールを雪対策としてスプリンクラーの設置、線路のスラブ軌道化を行った影響で国鉄は財政悪化した。
「結局、狭軌最強鉄道計画は国鉄の首を締めるだけだ。」
この財政悪化に不満を感じた国労メンバー、大規模なストライキを行うことにした。それは東海道本線、東北本線の超特急、特急、急行への乗務拒否を国鉄が「参った」と言うまで行うことになった。
さらに俺が所属する田町の運転所では国労メンバーが集まり、演説を行うことになった。その演説を行うのが俺だった。俺は国鉄に要求する文を何ヶ月も掛けて練った。
もちろん、国鉄は俺らの要求など聞かなかった。そして、団体行動、ストライキをやることになった。
1983年3月1日。田町電車区にて、ついに狭軌最強鉄道計画の進行中止、特急運転士の賃金アップを求めた「東海・東北特急ストライキ」通称「TT特スト」を開始した。
朝5時、俺が現場に向かうと並べられた181系、485系、583系の顔部分には「狭軌最強鉄道計画撤回」という横断幕が掲げられてその車両たちの前にはたくさんの国労メンバーが。その真ん中には小さなステージとハンドマイクがあり、俺はそこに乗り、話ことになっていた。
超特急ひかり1号の回送の出庫時間の5時32分、俺はステージに立ち、ハンドマイクを持って、みんなの想いを俺は叫んだ。
「我々、日本国有鉄道労働組合特急運転士組合は本日3月1日より、ストライキを開始する!!我々は今後の狭軌最強鉄道計画の中止、賃金の値上げを要求する!!年々、増発を行い、運転士の乗務時間が増えているのに、それに見合った賃金が上がらない。我々はそれに不満を感じる。本社が賃金の値上げを行わないのは狭軌最強鉄道計画による多額な出費が絡んでるのだと思う。お客様に快適かつ俊足な旅を提供できても、乗務員には快適な生活が提供されていない!!我々を何だと思っている?だから我々は国鉄がうんと頷くまでストライキを続行する。狭軌最強鉄道計画によってたくさんの人が喜んでる一方で苦しんしでる人々もたくさんいる!!でもお前ら本社はそんなこと苦しみには耳を一切傾けない!!少しは我々の話にも耳を傾けろ!!」
「そうだそうだ!!」
俺が叫ぶとみんなが便乗して言う。
「我々国鉄労働組合は…」
その時だった
ファーン!!ファーン!!
後ろに止まっていた車両がいきなり汽笛を鳴らした。しかも何度も。
「こんなの計画にはなかったぞ!!」
俺は近くにいた玉城に言った。
「俺にもわからないよ。」
玉城が首を振る。すると俺たち国労の前にたくさんの人々が現れた。
「国鉄労働組合に告ぐ。直ちにストライキをやめて本来の乗務についてください。さもなければ、後ろにいる列車をみなさんを轢いてでも出庫させます!!」
と、20代ぐらいの若者の声が聞こえた。こいつらは本社の奴らか?
それに対して俺ら国労の答えは
「轢いてみろ!!」
「俺らは轢かれてでもストを続行する!!」
「若いクセして生意気なこと言いやがって!!」
みんなは口々に言った。
「田原、お前からもなんか言ってくれ!!」
「田原、頼むぞ!!」
俺を見てみんなが言った。
「わかってるよ。」
俺はハンドマイクをもう一度持ち
「そんなこと言われても俺らはストライキをやめない!!お前ら、若いクセして何言ってやがる?そんなで国労にでも逆らえるとでも思ってるのか?それにお前ら何者だ?」
「申し遅れました。我々は狭軌最強鉄道計画を推進する狭軌の会です!!」
「お前らか〜狭軌最強鉄道計画を阻止しようしてる国労の行動を妨害してる奴らか!!」
狭軌の会とは、主に若者で結成された組織で、みんな子供の頃に東海道本線の超特急を見てその運転士に憧れて国鉄に入った奴らの集まりだ。こいつらは俺らのよく計画を妨害してる。例え俺らがストライキしてでも電車を動かしている。また、狭軌最強鉄道計画の工事資料の偽装を暴いたのも奴らだ。
「これ以上の無駄な抵抗はやめてください!!こんなことしてもなんの意味もありません!!だから、やめてください!!僕たちの憧れの運転士とは違います!!僕たちはもっときっちりとして礼儀正しい国鉄職員だと思ってました!!こんなの違います!!」
「ここはそんな憧れだけで来るところじゃない!!お前らは間違ってる!!世の中そんな甘くなんだよ!!お前らもわかってるだろ?理想と現実じゃ、違うって!!いいな、だから…」
俺が話を続けようとすると相手側の1人の組合員がいきなりハンドマイクをその若いのから取り上げ…
「もうやめて!!」
ということ女の人の声が聞こえた。俺はその声を聞いて言葉を失った。
「花香…。」
彼女はうちの娘の花香。東北本線で特急の運転士をやっている。この子も俺の運転士の姿に憧れ、国鉄へ入ってきた。
「わかってるでしょ?こんなことやっても意味無いって!!」
「そのセリフはさっきも聞いたわ!!」
「黙れ!!この小娘が!!」
「女は引っ込んでろ!!」
みんなからのヤジが飛んでくる。
「私はそんなこと言われてもみなさんがわかってくれるまで説得を続けます。私たちは特急の運転士として輝いているみなさんを子供の頃から見てきました。いつもたくましい姿で何があっても必死に対応する。そんなかっこいい姿を私たちは見てきました。現に私だって運転士姿のお父さんたちに憧れて国鉄へ入ったんだもん!!私の知ってるお父さんたちはこんな人たちじゃない!!だからお願いだからやめて!!こんなの誰も望んでない!!」
「…。」
俺はそれに対して何も言い返せなかった。
「田原…。」
「こんな小娘に負けるなよ!!」
「そうだよ!!」
みんなが俺を見た。それでも俺は何も言わなかった。その時だった。
「もういい!!田原、ハンドマイク貸せ!!」
1人の国労の組合員が俺の持っていたハンドマイクを取り上げこう言った。
「こんなじゃ、交渉の埒が明かない。お前らあいつらに力で俺らの気持ちを思い知らせてやれ!!」
「おー!!」
そう言って国労メンバーは相手に襲いかかった。
「だから私たちの話を…」
花香がまだ説得を続けようとするが、みんな、話を聞かず、殴り合いを開始した。
俺はそれを隅から見守っていた。何もできずに…。
「やっぱり、娘には勝てないか…?」
横にいた玉城が聞いてきた。
「そうだな。でも、こんなで負けたなんて言えない。だって負けを認める根拠がないからな。」
そう言って俺は181系の車体をなでた。
「だから何も言えないと?」
「そう。理由が娘だからと言ってそんなのみんなが納得してくれない。俺は何もできない。それに俺だって納得できない。だから…あっ…」
俺は話しながら台車を見て、あることに気がついた。
「どうした?」
「これ。」
俺は台車を指さした。
「これって…。」
「もしかしたら他にもあるかもな。」
「探して見るか。」
国労と狭軌の会が殴り合いをしている横で俺と玉城は田町の車庫にいた181系の台車をくまなく見た。
「やっぱりか…。」
「あちこちであったぞ。」
「このままだと重大事故が起きかねんな…。」
「そうだな。」
「本当に止めさせないと何が起こるかわからないな。」
「田原頼むぞ!!」
「おう!!」
俺はそう言って、ハンドマイクを持って再び、ステージに立ち上がり叫んだ。
「お前らこんなのもうやめろ!!」
そう言ってみんなは俺を見た。
「田原どうした?」
「お前もまさか…。」
「どうする気なんだよ?」
口々にみんなが言った。
「俺らは間違えたことをしていた。その証拠は181系に出ていた。お前ら181系の台車や床下を見てみろ。」
そいうとみんなな181系の台車や床下を見た。
「これは…。」
「ダメなやつだな…。」
みんなはこれを見てショックを受けていた。
「見てわかる通り、台車にはたくさんの大きな亀裂が入っていて、床下も傷だらけだ。これは俺らが整備を怠った証拠だ。このままだと本当に重大事故が起こってしまう。俺らは自分たちの生活のことに頭がいっぱいで車両のことは何も考えていなかった。俺らはこいつらがいるから仕事が出来ているのに、俺らはこいつらを酷使していていただけだった。俺らだって超特急を運転したいという気持ちでこの部署に入ったはずだ。超特急が運転を開始した頃は誰もが車両のことを大切に扱っていた。でも今はどうだ?台車には亀裂が入り、床下は傷だらけだ。特に181系なんかそんな車両だらけだ。俺らは自分の給料のことより、先に要求することがあるだろ?みんなわかるだろ?それはボロボロになった車両の修繕だ。そして俺ら運転士は大切に扱うことだ。みんなだって181系のこと大好きだろ?せっかくの伝説を作った車両をこんなで終わらせたくない!!だからストライキを中止して本社に181系の現状を伝える!!お前、このことに納得してくれるか…?」
俺はこの時、誰もこんなことに納得してくれないと思っていた。しかし…
「181系がこんなじゃ、自分たちどころの話じゃないな。」
「事故なんか起こさせてたまるか。」
「賃金の前に車両のことを要求しないとな。」
みんな俺の意見に賛同してくれた。
するとそこに…
「お父さん!!」
「花香…。」
娘の花香がステージ前でにっこり笑っていた。
「お父さんたち国労の意見に対して私たち狭軌の会も追加の意見があります!!」
「まだ反論する気か?」
俺は苦笑いした。
「そんなわけないよ。」
花香は首を振ってハンドマイクを持ち言った。
「私たち東海道本線、東北本線の特急運転士から国鉄本社への要求です!!全ての特急車両への修繕工事を要求します!!」
と叫んだ。
「このまま事故起こしたらどうなるかわかるよな?本社!!」
「この要求聞かなかったらまたストライキ起こすぞ!!」
みんなが叫ぶ。それは運転士の年齢に関わらず、意見が一致した。
これによりストライキは中止となり、約2時間遅れで東海道本線の超特急ひかり1号は東京を、東北本線の超特急はつかり1号は上野をそれぞれ発車した。
それから国労メンバーで181系の現状について報告書を本社に提出した。その結果、一部を修繕して使うことにはなったが、こんな通告が来た。
「東海道本線の181系は1984年1月31日付けで引退させる。」
東海道本線から181系が撤退することになった。181系の初期車は1970年代の後半から廃車が少しずつ進んでいたが、本格的に廃車にするということになった。でもこれは国労が報告書を提出してなくても同じ結果となっていただろう。
そして数年後には国鉄も民営化する。俺はそれが納得できなかった。181系も国鉄も無くなる。俺は何もない職場にいたくなくて181系の東海道本線での最後の輝きを見た2ヵ月後の1984年3月の終わり、俺は国鉄を退職した。
それと同時に俺と一緒に運転士をやっていた奴らは俺みたいに国鉄を退職したり、別の部署に移ったりとした。
そして翌年、上越線で特急ときとして走っていた181系も引退し、鉄路から181系が去った。
だが、一部、保存車両が残り、東京の神田にある交通博物館に181系の顔の部分、大阪の交通科学博物館には181系が4両保存されている。
そして交通博物館から大宮に移転した鉄道博物館には俺が今見ているクハ181-2も保存されている。こいつが廃車になったのは1978年。それから国鉄の大阪の鉄道教習所に保存されそれを経て鉄道博物館にやってきた。この車両にも「スト権スト」などのビラを貼ったりペンキでいろいろなことを書いた記憶があり、かなり無理をさせてしまい、寿命を縮めてしまった。
「本当に寿命を縮めた181系には悪いと思ってる。」
俺はそう言って車体を見上げた。
「本当にお前は昔から181系を子供のように可愛がっているよな。」
「当たり前だろ。うちの家族の次に大切なものだからな。」
「でも、その想いは昔から変わらないな。」
「そうだな。それを言ったらお前も相変わらずだな。」
俺はニヤと笑って言った。
「相変わらずってよ…。それで退職した後はお前は何してるんだよ。」
「自宅を改装して模型屋やってるよ。」
「お前らしいちゃ、お前らしいな。」
「そうだな。」
俺はそう言って優しく微笑んだ。
「玉城こそどうしてるのか?」
「俺は国鉄伊奈線の丸山運転所で所長やってたら伊奈線が国鉄から三セク化したからそのまま出向して、定年退職するまでずっとそこの会社で働いたよ。」
「お前はずっと鉄道業で貫いたのか。」
「まぁな。でも、正直、国鉄で特急の運転士やってた方が楽しかったな。」
「俺もそれは同じだな。」
玉城が言うと俺はうなずいた。
181系が現役時代に国労に振り回されながらも駆け抜けてたなんて知っている人はそんなに少ないだろう。でも、現実はそうだった。俺はそんなことがあったと誰かに話せる時が来るのだろうか。俺はそんなことも含めて全部伝説だと思っている。
俺は今後も181系がこの鉄道博物館で静かな余生を送れることを心から願っている。そして1人でも多くこの伝説のことを知ってもらえるように────
久々の投稿でしたがどうですか?
次のお話もなるべく早く投稿します。
できれば来月も更新できれば…。