夢見心地の絵空事
ティエルが目を覚ましたのは、まだ夜が明け始めた頃にも関わらず高らかに鳴り響くノックの音のせいだった。そもそも引き籠って研究を続けているティエルのところにやってくるのは、怪しげな古文書を売りつけようとしてくる商人か、彼の研究に異を唱える聖職者くらいのものだ。どちらにせよ、年齢に釣り合わない経験をしてきた少年にとっては取るに足るほどの相手でもなく、故に彼は何の警戒もせずに扉を開けた。
まず見えたのは神々しく光る銀色。絢爛な装飾はないながらも丁寧に作りこまれたそれは朝日を浴びて鈍く輝いている。顔は兜に隠されて窺い知ることはできず、背格好からかろうじて女であることが読み取れるばかりだ。当然ティエルには見覚えがない。
「えぇっと・・・・・・どちら様でしょうか?」
異様な存在感を放つ鎧を前にして、ティエルは自分の中の警戒レベルを引き上げた。いざとなれば逃げることも視野に入れて左手をポケットの中に突っ込む。猛禽のような目つきの少年を前にして、鎧は何も喋らなかった。ただ無骨な顔でティエルの顔を見据えるばかりである。
「なにか言ったらどうなんです?」
沈黙に耐えられなくなったティエルが語気を荒ららげて言の葉をぶつけると、鎧は少しだけ首を傾け、しばらくしてまだティエルと年もさほど変わらぬような幼げな声で言う。
「貴方は、英雄を信じますか?」
その瞬間、ティエルの警戒レベルは最高値に跳ね上がった。左手で酸の入った試験管を鎧の関節部めがけて投擲する。試験管は鈍い銀に破壊され、中身が鎧に取り付いて気持ちの悪い蒸発音を上げる。まったくの予想外だったのか、鎧の少女は慌てふためいて思わず足を半歩後ろにずらした。その隙間を少年の小柄な体がすり抜けていく。
(なんだか知らないけど捕まったらやばい!)
英雄という言葉に過剰反応したティエルは脇目も振らずに走る。彼がようやく歩を緩めたのは周りが何もない草原である事に気付いてからだった。
「なん、だったんだあいつ・・・・・・?」
寝る直前に読んだ眉唾物の英雄譚、そして無骨な鎧の「英雄」という言葉。とても無関係とは思えない。
何かとんでもない事実を知ってしまったのかもしれない。普通ならその推測に腰を抜かしてしまうだろう。だが、絵空事のような偶然を前にして、彼は笑っていた。世界の起源。英雄という言葉にそれは隠されている。そう考えただけで彼の体が震える。にやけた口元もそのままに、少しずつ獲物を見るような目つきに変わっていく。
そんな彼を巨大な影が覆った。
「ティエル・ローレンス。罪は神への冒涜。判決は死刑」
影に気付き、ティエルが見上げたのは、自らの体を今まさに砕こうとする戦斧に反射した光だった。
時が止まる。そう感じたのはティエルの意識だけで、いくら鮮明に斧の先が見えようとも、体は石のように固まって指先すら動かない。その代わりに走馬灯とでもいうべき過去の映像が次々に目の前に浮かんでは消えていく。かつて、親に自論を語った時のあの狂人を見るような目。昔の友人から与えられた膝の痛み。探索した遺跡での危機や、目当てのモノを見つけた時の感動。偽物を掴まされたときのあの絶望感。感情があべこべに繋がって感じたことのない恐怖へと変わる。
────動け、動け動け動け!
必死の叫びもその場から伝わらない、いや伝われない。やがてゆっくりと斧が動き始め、少しずつ、だが確実にティエルの眉間へと近づいていく。
────嫌だ、死にたくない
無慈悲に斧は迫ってくる。そして──
「ハロー、イスカリオテの隊長さん」
目の前で斧は止まっていた。身の丈程はあろうかという戦斧をたった一人の青年がいとも容易く止めたのを彼は見た。しかし、いつこの青年が割って入ってきたは分からなかった。通常の何万倍にも凝縮されたティエルの意識の中を、青年はまるでスキップするようにすり抜けてきた。
金縛りから開放され、力なく腰を落とす。目の前の非現実的な光景は恐怖を通り越して滑稽にすら思えた。
「貴様がなぜここにいる」
力任せに青年を斧から振り払う。青年は風のように軽やかな身のこなしで、それを流し、片手でティエルの小柄な体を持ち上げて飛びずさった。体格差を見れば圧倒的に青年の方が不利だが、しかし顔を見れば、余裕がないのは大柄であり、人を容易く肉塊にできる凶器を持った男の方だ。
「英雄は大人しく死んでいろ」
「英雄ってのは得てして人の希望だからな。そう簡単に死ぬわけには行かねえさ」
──英雄。肩が反射的に跳ねる。あの荒唐無稽な古文書を読んでから、今の乖離したような状況の中にまで入ってくる言葉にティエルは違和感を感じる。英雄というのは人に希望だ。だが、今その言葉はまるでパンドラの箱の中身のような話され方をしている。
「それより、まだやんのか? 自分の置かれた状況がわかってねえわけじゃねえだろ」
ティエルは自分たちを囲むように幾つもの気配が潜んでいることに気付かされた。戦斧を持った男は突然向けられたおびただしい量の殺気を受け、顔をしかめる。
「確かに、ここで貴様ら全員を根絶やしにするのは難しそうだな」
「まるで全員でなきゃ倒せるみたいな物言いだな」
「貴様とトーキ・バトルフィールド以外なら、束になろうと変わらんよ。実に忌々しい男だ貴様は」
「ま、褒め言葉と受け取っておいてやるよ。で、どうすんだ?」
「退くさ。流石にここで命を無駄にするほど愚かではおらんよ。だが、忘れるな。貴様らは必ず殺す。我が命に代えてもな」
男の体が少しずつ崩れていく。それは砂よりも小さな粒となり、やがて目にも見えなくなった。そこに誰かの居た痕跡もなく、最初から無人であったかのような静けさだけがその場に残る。
「あー、ほんとめんどくせえ奴だ。と、それよりも」
青年は、未だに立つこともままならないティエルに手を差し延べる。戸惑いながらもその手を取ると、青年はニッコリと笑った。
「ティエル君だったか? そう怯えなくてもいい。俺はトラン」
視界がいきなりぐらついた。目の前の笑顔が二つに分かれ、輪郭がぼやけていく。人影が増え、どれだけの人数が居るのか検討も付かなくなる。青年の白い歯だけがやけに眩しく映った。
「お前をちょいと攫いに来た」
ティエルの意識が完全に途絶えた。