第五話「私の赤ちゃん」
「おろしたら?」
簡単に言う。ゴミだしとけ、みたいな。
でも逆らうことができない。
この男を失いたくはない。
こんなひどい男だというのに、好きなのだ。
迷ったことは迷ったが、結局、おろした。
まだ完全に人になっていないとはいえ、あと数ヶ月で、人、になるはずの存在。
その命を奪っても、殺人罪に問われない不思議。
その代わりに、身軽にはなった。
男をつなぎとめておくことができる。
しばらくは後悔の日々。
尊い命をこの世から消し去ってしまったという、悔いが残る。
これは、母としての大役を放棄した人道上の罪悪感なのか、それとも単に、わが子を愛する母性愛なのか。
考えた。でもわからない。
ただ、悔しいだけだ。
身を削るような想いでわが子をおろしたというのに、父であるあの男が、最近あからさまに冷たくなった。
私をうとましく思っているようだ。
私から離れようとしている。間違いない。
男の態度が、後悔をさらに後押しする。
男を取るか子供を取るか、あの時、さんざん迷ったのは確かだ。
結果、子供をあきらめて、男を取った。
子供はその身代わりだ。
だというのに今では、男は平然と、別れ、を口にする。
気持ちが離れていくのが、手にとるようにわかる。
新しい女でも、できたのか?
調べてはっきりした。新しい女ができている。
電話にも出ず、部屋に押しかけても、居留守を使って出てこない。
ストーカーそのものとなって追いかけまわしたが、男は露骨に避けて、あくまで涼しい顔。
こちらは後悔が先にたち、私の全身を焦がしているというのに、男はなにも悩むことなく、自由を謳歌しているのだ。
ごめんね、ごめんね、私のかわいい赤ちゃん。
もし、ちゃんと産まれていっしょに暮らせるのなら、私はもうなにもいらないわ。
男のほうから言ってきた。
お互い包み隠さずの話し合いだそうだ。
だが男は自分の都合の悪いことは、口が裂けても言わない。
答えたくないことには返事をせず、話題を変えて話をそらすだけ。
当然、うそも平気だ。それこそ意味のない無駄な時間。
お互い包み隠さずの話し合いは、決裂におわった。
私の赤ちゃんを取り戻したい。
こんな男、もうどうでもいい。
夜の街で、飲めないお酒を飲み歩く。
ここのところ、ほとんど毎日だ。
胃が朝からむかつく。もちろん寝るまで。
節々が痛む。身体が徐々に確実に、壊れていくようだ。
それでも止まらない。今日も飲み歩く。
私の体なんか、どうなろうと知ったことではない。
飲み屋街の裏路地に入ると、暗く寂しい場所に、人がいた。
椅子に座り、その前には机がある。
机の上に灯篭のようなものがぼんやりと光り、そこには「手相、占い」と書かれてある。
それがどうした。私には関係ない。
そのまま通りすぎようとした。
「お悩みが、おありですね」
しわがれた声が聞こえた。
誰にでもそういうのだろうと思いつつも、歩みが止まる。
見れば女で、老婆だ。
「私は百歳なんですよ」と言ったら、「お若く見えますね」と本気で言い返せそうなその容貌。
そんなお年寄りが、酔っぱらい相手に商売しているなんて、あわれなものだ。
「お子さんのことでしょう」
かまをかけている。
私ぐらいの年になれば、たいてい子どもがいる。
子供がいる母親は、たいてい子供のことで悩んでいる。
当たる確立は高いはずだ。
たとえ外れたとしても、次の獲物を狙えばいいのだ。
再び歩き出す。
「あんたがおろした、あのお子さんのことですよ」
足が止まった。
――おろしたお子さんのこと?
ありえない。かまをかけるには、確立が低すぎる。
この世の中で、子供をおろした女がどれくらいいるのかは、正確には知らない。
正確には知らないが、おろしたことのない女のほうが、圧倒的に多いのは確かだ。
思わず老婆を見る。
「あんた、おろしたお子さん、取り戻したいんでしょう。取り戻せますよ。いろいろとめんどうなこと、しないといけませんけどね」
思わず老婆のほうへ歩み寄った。
男に連絡をいれた。
これが最後だから、最後だからもう一度だけ話し合いましょう、と最後を強調すると、しぶしぶ合うことを承諾した。
場所は山あいにある別荘。
父が私に残してくれた唯一のものだ。
誰にも邪魔されずに、二人っきりでじっくり話が出来る、と男には告げた。
先に別荘へ行った。準備がある。
準備が終わった頃、外からタイヤが砂利をふむ音が聞こえてきた。男がやってきたのだ。
中へ入るなり、言った。
「話って、なんだい?」
とっととすませたいらしい。そうはいかない。
「まあ、一杯飲んでから。それからゆっくり、話しましょう」
ソファーに半ば強引に座らせて、台所へ向かう。
用意した特性のワイン。それを持って男のところへ戻る。
二つのグラスに注ぎ、形だけの乾杯。
それはもう、白々しいものだ。
男は一気に飲みおえた。
「でっ、話って、なんだい?」
そこまで急いでいるのか。
私はまだ、口もつけていないというのに。
何も言わず、もう一杯注ぐ。
男は憮然とした顔になったが、黙って今度はゆっくりと飲んでいる。
私も一口つける。私には効果はない。
「話というのはねえ」
「なんだ?」
「あの赤ちゃんのこと」
「赤ちゃん? ああ、おろした、あれか?」
――あれ、だって。自分の子供なのに。
「そうよ」
「で、赤ちゃんが、どうかしたか?」
「責任とって欲しいの」
男の眉間にしわが寄る。
「……金か?」
「お金じゃないわ。父親としての責任をとって欲しいの」
「父親として? いったいどういう意味だ?」
語尾がだんだんと荒くなる。
予想どおりだ。そういう男なのだ。
さらに、追い打ちをかけてみる。
「父親として、その言葉はおかしいわ。どういう意味だ、と訊くんじゃなくて、どうすればいいんだ、と訊くべきだわ」
「……それじゃあ、どうすればいいんだ? ……訊いたぞ」
「まずは、そのワイン飲んでね」
男は飲みかけのワインに目をやった。
怪訝そうな色を、その顔に浮かべている。
毒でも入っているんじゃないか、と思っているのかもしれない。
「毒なんか入ってないわよ。見てのとおり、私も飲んでるし。さあ、飲んで。いつも、俺は酒に強い、と自慢してたじゃないの。あれはうそなの? まさか、その程度のワインが、飲めないの?」
「ばかにするな。これくらい平気だ」
一気にあけた。思ったとおりだ。
プライドだけは、人一倍強い。
中身はたいしたことないくせに。
どうしてこんな男に、心底ほれてしまったのだろうか。
今となっては、自分でも理解できない。
からになったグラスに、もう一杯注ぐ。
「さ、飲んで」
明らかに警戒しているが、飲まないとまた馬鹿にしたように言われる、と思ったのだろう。
それにしても、なによりもプライドを優先させる男だ。
紙切れ程度の薄く軽いプライドを。
水のように飲んだ。
これで三杯飲んだ。もう充分だろう。
「飲んだぜ」
どうだと言わんばかり。
お酒が強いと言うのは、うそではない。
三杯のワインぐらいでは酔わない。
それは知っていた。
「じゃあ、横になって」
意味を取り違えたのだろう。
一瞬、淫靡な笑みを浮かべる。最後にもう一回、と。
この男でなくても男なら、そう思うのが当然かもしれない。
「ちょっと、待っててね」
そのまま隣の部屋へと向かう。寝室だ。
入り口で振り返ると、男があっけにとられた顔で見ていた。
寝室に入り、中から鍵をかける。
この別荘は、すべての部屋に鍵がついている。
今男のいるリビングも、男が入った後、気付かれないように鍵をかけてある。
普通にドアを開けて、部屋から出ることはできない。
――時間をかせがないと。
老婆は、少し時間がかかる、と言っていた。
効果が現れるまでに。寝室でベッドに座って待つ。
しばらくすると、入り口の戸がどんどんと叩かれた。
「おい、どういうつもりだ? そこでいったい、なにをやっている」
男だ。予想通りの行動。
「ちょっと待って、って言ったでしょ」
「それは聞いた。で、いつまで待つんだ?」
「そのうちわかるわよ」
「俺もひまじゃないんだぜ」
女と約束しているんだ。間違いない。
私との最後の夜だというのに。
でもここで折れるわけにはいかない。
これが最後なのだから。
「今日が最後って言ったでしょ。最後くらい、言うことを聞いてよ。でないと永久に最後じゃなくなるわよ」
「……」
静かになった。
足音から判断して、ソファーに戻ったようだ。
あの女にどう言おうかと、遅れた言い訳でも考えているのだろう。
再び待つ。
いつまででも引き止めておくことはできない。
本気で暴れられたら、止めるのは無理だ。
はやく効果が現れて欲しい。
「ぐぶぶわっ!」
待っている間、つい思考が違う方向に向かっていた。
男との思い出。
楽しかったあんなこと、嬉しかったあんなこと。
いいことばかり思い出していた。
そこに男の声が聞こえてきた。
苦しそうな呻き声。
――効果が出たんだわ。
急いで鍵を開け、リビングに戻る。
男は床の上に倒れていた。
全身をえびのようにのけぞらせ、手足が激しくけいれんしている。
口から、あわやら、唾液やら、血液やらをたれ流していた。
そして、腹がいびつに膨らんでいる。
――あの粉が、効いたのね。
ワインに入れたのは、老婆からもらった粉。
血のように赤い。
「味もにおいもしないから、混ぜてもわかりゃしないよ。三杯くらい飲ませといたほうが、確実だね」
粉の正体は、教えてくれなかった。
「知らないほうが、あんたのためさ」
男はあいかわらず、えびぞりでけいれんしている。
苦しいし、痛いのだろう。
ただ、あまりにも苦しく、あまりにも痛いので、のたうちまわることすら、できないでいるようだ。
激しい苦しみも痛みも当然だ。
老婆の話が本当なら、男の腹の中には、私の赤ちゃんがいるのだから。
男は子宮をもたない。
赤ちゃんは、男の腸をつかみ、肝臓を蹴りあげ、心臓を突いていることだろう。
男の腹の皮膚が、その下で何匹もの大きな芋虫がうごめいているかのように、波うっている。
老婆が言っていた。
「赤ちゃんを取り戻すには、腹の中にもう一度入れるしかないんだよ。しかしあんたは一度おろしてしまったから、その資格がもうない。残念だけどね。あるとすれば、父親のほうさ」
普通なら、とても信じられない話だ。
しかし老婆の語り口には、そんな不可思議なことをいとも簡単に信じさせる、一種独特の重みがあった。
この地球上で、この老婆しか持ち得ないのではないかと思わせるほどの、胸にずしんと来る重み。
男のけいれんが止まった。
弓なりの身体もゆっくりと解け、今は力なく床に転がっている。
死んだのだ。
死んだら腹の中から、私の赤ちゃんが出てくると、老婆が言っていた。
もう一度、この世に生を受けるのだ。
見れば男の腹が、中からぐいと持ち上がる。
特にへその上のあたりが。
そして何度も上がったり下がったりしていたが、ぐっと大きく持ち上がったかと思うと、そこからなにかが出てきた。
小さな手。赤ん坊の手だ。
次に頭が出てきた。
男の腹とシャツを左右に引き裂きながら、肩、腰、足と次々に姿をあらわにする。
血まみれの小さな赤子。
想像していたのとは、まるで違う。
その赤ちゃんは、よく見る普通の赤ちゃんではなかった。
皮膚はもちろんのこと、骨も筋肉も充分には成長していないと、ひと目でわかる。
よく見えない内臓すら、未完成に思える。
顔はまるで爬虫類のようだ。
おろした時のままの姿。
それが男の腹の中から、はいずり出てきたのだ。
赤ちゃんが出てきたら、両手でおもいっきり抱きしめてあげようと、考えていた。が、それが出来ない。
あまりにもおぞましいその姿。
赤子は充分に育っていない体をものともせずに、二本足で立って、母のもとへと歩いてくる。
見た目からは想像が出来ないほどの、力強い歩き方。
そのまま母の前に立った。
思わず座り込んだ。
どんなにみにくくとも、この子は私の赤ちゃんなのだ。
母性が理性よりも強かった。
「私の赤ちゃん」
抱きしめた。
するとその途端、首の二ヶ所に、強い圧迫感を感じた。
――なに?
なにかわかった。
赤ちゃんが小さな手で、私の首を絞めているのだ。
赤ん坊とは思えない、とてつもない力。
苦しい。どんどん意識が薄れてゆく。
なくなりつつある意識の中に、老婆の言葉が浮かんできた。
「大事なことを一つ、言っとくよ。赤ちゃんが生まれたら、その子の好きなようにさせてあげることだ。それがあんたの最後のつとめだからね」
自分を抹殺しようとした母親を、再び生を受けたら自らの手で殺すこと。
それがこの子の望み。
そしてそれを叶えてあげることが、私の母親としての最後のつとめだったのだ。
終