第十一話「まっちうりの少女」
久しぶりに、しこたま飲んだ。
同僚と飲みに行くことはたまにはあるが、酔うまでは飲まないようにしていた。
すぐに二日酔いになってしまうからだ。
もともとお酒に強いほうではない。
ところが今日会社で、前々から気にいらなかった後輩と、やりあった。
それはもう、ひどいものだ。
よってたかって止められ、あげくのはてに俺が怒られたのだ。
おまえは指導がなっていない、と俺以上に指導がなっていない上司から、つるしあげをくらった。
もう飲むしかないだろう。
明日のことなど、知ったことではない。
といいつつも、二日酔いになる前に、現時点で後悔している。
心臓が脈打ち血液が流れるたびに、ずきんずきんと激しい頭痛に襲われる。
頭が本当に割れそうだ。
歩きながらそのへんで、何度も吐いた。
もう胃液も出ないような状態なのに、吐き気は止まるどころかさらに強くなっている。
むかつきは半端ではない。
それなのに、タクシーにも乗りそびれて、ひたすら歩いて家にむかっている。
元気な時なら少々無理をすればいい距離だが、今はサハラ砂漠でも歩いているような気分だ。
歩けば右に行ったり左に行ったり、ときに前に進もうとしているのに、ふらふらと後ずさりをしたり。
歩みがカタツムリよりも遅いのではないかと思う。
いつになったら家にたどり着けるのか、皆目わからない。
ふと公園が目にはいった。
よろけながら中へはいると、木々のむこうにぽつんとベンチがある。
――とりあえず、あそこで休むか。
座るつもりが座った途端、身体が横倒しになる。
ベンチをベッドのように使うはめになった。
――とにかく明日は急病ということで、休むしかないな。
家まではもう一息のはずだが、今の状態では、行き着ける自信がない。
今日は十二月にしては、暖かい。
寒いつもりで完全防備で家を出たので、なんとか数時間ならここにいても大丈夫だろう。
身体はぶっ壊れたように言うことを聞かないが、意識はまだまだはっきりしている。
ポケットに手をつっこみ、携帯をさがす。
あった。落としていなかった。
明日は朝イチで会社に電話をしなければならないのだ。
「おじさん、なにしてるの?」
突然、声がした。
見れば、四、五歳の女の子が、目の前に立っている。
――えっ? こんな時間に、こんな子供が……。
暖かいといっても、十二月だ。
それにしては軽装。寒くはないのか?
とりあえず返事をする。
「いや、べつに、ちょっと休んでいるだけだよ」
頭が割れそうに痛いのに、しゃべるのはつらい。
自分の声が、声帯の振動が、ずきずきを強烈に後押しする。
――さっさと、どこかに行ってくれないかな。
それにしても、もう夜中の十二時はすぎているはずなのに、なんでこんな時間に少女が一人でいるんだ?
その点は、気にはなる。
じっと、人の顔をのぞきこんでいた少女が、なにかを思い出したかのように、言った。
「おじさん、酔ってるの?」
なにか気に障った。
「うるさい! 酔ってなんかいない」
すると小女は、笑みを浮かべた。
それは、少女の笑みではなく、海千山千の大人の女性が見せる笑み。
相手を明らかにさげすんでいる笑みだ。
「ふーん、うそをつくんだあ。酔ってるのに。うそつきはねえ……こうなるのよ」
少女がさらに近づいてきた。
最初に発見したのは、公園近くに一人で住む初老の婦人だった。
つれあいを五年前に亡くしたこの女性は、近所の誰よりも早く起きて、朝の散歩をするのを日課としていた。
それは雨が降らない限り、真夏も真冬も変わらない。
いつものように散歩に出かけて、いつものように公園にさしかかり、いつものようにベンチで一休みしようとした。
ベンチのまわりは、なぜかそこだけ木が何本も植えられており、まわりからはよく見えない。
木々の間を抜けてベンチが目にはいったとき、そこで寝転がっている男を見つけた。
――こんなところで、寝ている。大丈夫だろうか?
いつもよりも暖かいとはいえ、十二月だ。
――風邪でもひいていなければいいけど。
背中を向けていた男の前に回る。
男の顔をのぞきこんだとき、心臓が凍りついた。
男は白目をむき、そしてだらしなく開けた口から、大量の血を吐き出していたのだ。
児童公園で、男が一人死んだ。
名前は本村勇一。
公園から少し離れた一軒家に住む、四十四歳のサラリーマン。
妻あり、子供二人あり。
死因は、舌を噛み切っての自殺、という見解だった。
ただ事件性がないわけではない。
なぜなら、男が噛み切ったはずの舌が、どこにも見つからなかったからである。
「そんなわけで、今日は帰りが遅くなるから」
妻に電話した。
疑われてはいないようだ。
女のカンと言う言葉があるが、うちの妻にはその言葉がまるであてはまらない。
両親に甘やかされてぬくぬくと育ち、そのせいで人を疑うことをしらない大人になっているのだ。
男はベッドに横になっている。
シャワー室から女が出てきて、男の前に立つ。
バスタオルをはだけると、そこには産まれたままの姿。
それを上から下までながめまわしながら、男は思う。
――いつものことだ。
女がすり寄ってきた。
ちょっと羽目を外しすぎたらしい。
予定よりも帰るのが、遅くなっている。
にぶい妻とはいえ、女だ。
いつまででも気がつかないという保障は、どこにもないのだ。
用心してかからないと。
児童公園の前を歩く。
ふと目をやった公園に、意外なものを見た。
女の子だ。
小さな女の子が、木が何本も植えられているその前に、一人立っている。
――こんな時間に……。
もうすぐ日付が変わる。なのにあんな子供が一人でいる。
男が思わず駆け寄ると、女の子が先に言った。
「おじさん、なにしてるの?」
「いや、家にかえるところだけど……お嬢ちゃんこそ、こんなところでなにしてるんだ?」
「遊んでるの」
「遊んでるって……こんな時間に一人で? お父さんやお母さんは、どこにいるの?」
「家にいると思う」
「……家にいるって」
女の子が、奇妙な笑いを浮かべた。どこかで見たことがあるような。
思い出した。若いころに先輩に連れられて、ある新興宗教の集まりに連れて行かれた。
その時に見たのだ。
後に霊感詐欺商法で捕まった五十代の女教祖。
その女の笑い方に似ているのだ。
人を見下し、さげすみ、騙し、お金を巻き上げることしか考えていない、したたかな女と同じ笑み。
こんな小さな子供が、浮かべることは決してありえないような、老獪で悪意に満ちた笑みだ。
少女が言った。
「で、おじさんは、こんな遅くまでなにしてたの?」
「うん? おじさんは、お仕事してたんだよ」
「お仕事? へえーっ、そうなの? 女の人と会ってたんじゃないの?」
――ええっ!
なにも返せなかった。図星だ。
でも、なんでこんなところにいる、こんな子供が、そんなことを知っている?
「そうでしょう、おじさん。女の人と会ってたんでしょ。それって、奥さんにばれると、困るんじゃないの?」
ものの言い方が、完全に大人だ。激しく言い返した。
「女の人なんかとは、会ってない!」
また笑った。
少女の笑いには、狂気すら含まれているように見える。
「ふーん、嘘つくんだ。女の人と、会ってたのに。嘘つきはねえ……こうなるのよ」
少女が男の顔をのぞきこんだ。
――お散歩の時間だわ。
いつものように軽く準備をすませると、家を出る。
まだ薄暗いが、いい天気だ。
――鍵はかけたわね。
一ヶ月ほど前、散歩の途中で、とてもいやなものを見た。
公園のベンチに横たわっていた、男の死体。
口から大量の血を吐いていた。
それを見てから、数日間はどうにも気が沈んで日課の散歩を休んだが、それも復活した。
健康のためにやっている唯一のことだし、それに永年の習慣は、そう簡単には変えられない。
散歩を休んだ日は、その日一日、どうにも落ちつかないのだ。
いつものように公園にさしかかった。
途中、休憩のために、ベンチに向かう。
――まさか!
そのまさかだった。
スーツを着た若い男が、公園のベンチに仰向けで横たわり、口から血を吐き出していたのだ。
一人目のときもけっこう盛り上がったが、二人目となると、その騒ぎは半端ではなかった。
公園近くにあるアパート。
かなりの規模を誇るそのアパートに住むご婦人の数は、少なくはない。
お昼過ぎは暇でしょうがない主婦達は、暇にまかせて噂話で時間と労力をつぶす。
「……だってさ」
「ほんとにねえ。二度も。いったいなんなのかしら?」
「とにかく、気味がわるいわね」
同じ話が延々くり返される。
まるで前向きではないが、暇つぶしには、これほどもってこいの話はない。
ドラマティックで悲劇的、なおかつ自分達にはなんの関係もない。
そのなかで一人の主婦が、ふと思う。
――二人連続なら、三人目があるかもね。
いきなりぶつかってきた。かなりの勢いで。
よろけて倒れたところを、手に持っていたポーチを奪われた。
「きゃーっ」
叫び終わった時には、男は走り去る途中だった。
今から追いかけても、女の足ではとても追いつかない。
助けを呼ぼうにも、追いはぎの背中以外、誰も見当たらない。
女はゆっくりと立ち上がった。
そして奪われたのがボーチだけだと気付き、ほっと一息ついた。
ずいぶん走った。もうそろそろいいか。
走るのをやめて、肩で大きく何度も息をする。
――さすがに疲れたぜ。
目の前に公園がある。
入ると木々のむこうにベンチが見える。
そこのへたり込むように座ると、さっき女から奪った獲物をあらためた。
よく見れば、見れば見るほど安物のポーチ。
ふと不安がよぎる。チャックを開け、中を見てみると
――あらっ!
中は化粧道具ばかり。
それも、男の目から見てもすぐに安物とわかる、二流品の揃いぶみだ。
「くそっ!」
思わずチャックを荒々しく閉めた。
あれだけしんどい思いをして、収穫がこれなのか。
自分が追いはぎであることを完全に棚に上げて、男は怒り狂っていた。
が、その怒りは一旦おさまった。
目の前に少女が立っていたからだ。
二月の夜だと言うのに、薄いジャンパーを着た、今どき珍しいおかっぱ頭の女の子。
四、五歳にしか見えない子供が、夜中の十二時を過ぎたというのに、公園に一人でいるのだ。
「おにいちゃん、なにしてるの?」
いきなり訊いてきた。
「いや、ちょっと休んでいるだけだよ」
ここは女を襲った場所からは、そこそこ離れてはいるが、いつまででもここにいては身の安全は保障されない。
とっとと家へ帰るにかぎる。
「それじゃあ、おにいちゃんは、忙しいから」
立ち上がろうとしたその時、少女がポーチをつかんだ。
「これ、なに?」
なぜか背中に冷たいものが、ざわざわと巻き上がってきた。
なにか言おうとしたのだが、言葉が出ない。
「おにいちゃん、これ、どろぼうしたんでしょ」
――ええっ!
なんでそんなことが、この子にわかるんだ?
一瞬動揺したが、相手は小さな子供だ。
なんとでもなる、と思い、ポーチをつかんだ手を振り払って、立ち上がった。
「どろぼうなんか、してねえよ。へんなこと言うと、おにいちゃん、怒るよ。お嬢ちゃんこそこんな遅くに一人で、こんなところをうろうろして、悪い子だ。はやくお家へ帰りなさい」
少女が笑った。
子供が、いや人間がこれほどまでに冷たい笑みを浮かべることができるのだろうかと思えるほどの、氷の笑み。
再び先ほどよりも強く、背中につめたいものが巻き上がる。
「ふーん、嘘つくんだ。どろぼうなのに。嘘つきはねえ……こうなるのよ」
少女がまた一度、ポーチをつかんだ。
――お散歩の時間だわ。
今日こそは、やらないと。
ある種の強迫観念が、彼女におおいかぶさっていた。
ほぼ二ヶ月前に、散歩の途中、公園で、男の死体を見た。
口から流れ落ちた赤い血が、いまだに目に焼きついている。
そのショックで散歩を数日休んでいたのだが、再びはじめたところ、一ヶ月ほど前にまた公園で、舌を噛み切った男の死体を見た。
自殺者の第一発見者となったのだ。
それもよりによって、二人連続で。
それ以来、散歩はひかえていた。
また見るんじゃないか、また口からだらだらと血を流した男の第一発見者になるんじゃないかと。
そんなのは絶対に嫌だ。
二度と見たくない。
それなのに、朝の散歩をしなければならないという思いは、日々ふくらむ一方なのだ。
――今日こそは、お散歩しないと。
簡単に身支度を整えると、彼女は家を出た。
公園が目の前に見える。
木々に隠れてベンチはよくは見えない。
なにしろ夜明け前でまわりは明るくはないいうえに、ベンチのあたりは木の陰で真っ暗だ。
――お散歩だけにして、
ベンチで休むのはやめようかしら?
頭を強くよぎる。
だが、せっかく意を決して家を出たのだ。
中途半端に終わらせたくないという気持ちもある。
――やっぱり、行かないと。
仕事以上の義務感を感じていた。そのまま進む。
ベンチが見えた。木々の間から。
――うそでしょう!
そこには、口から真っ赤な血を流した男が、顔を真っ直ぐ彼女のほうへ向けて、座っていた。
――こんな捜査は、どこから手をつければいいんだ?
磯崎省三は悩んでいた。
郊外の住宅地にある児童公園で、男が死んだ。
死因は舌を噛み切っての自殺。
それが一人だけなら、遺族には気の毒だが、たいした問題ではない。
ところが同じ場所で三人連続となれば、やはりおかしい。
なにかある。
おまけに三人とも噛み切ったはずの舌が、見当たらないのだ。
もちろん、このあたりにはカラスはいるし、公園にありがちなハトもいる。
数は少ないが野良犬もときたま見かけるし、野良猫や飼い猫もうろうろしている。
それらが〝餌〟として食ってしまったかどこかへ持ち去った可能性は、充分にあるにはあるが。
三人連続とは言うが、模倣犯と言う言葉があるように、自殺の模倣も今までに例がないわけではない。
ただ一番ふに落ちないのは、三人ともが舌を噛み切っているということだ。
舌を噛み切って死ぬのは、簡単ではない。
人間の舌はたやすくは噛み切れないし、経験はないが、かなりの激痛をともなうことは容易に想像がつく。
舌を噛み切り損ねた自殺未遂は、けっこう事例が多いのだ。
――模倣ではないな。
そんな気がする。
おまけに三人とも自殺する理由が見当たらない。
もちろんなぜ自殺したのかわからない人間もいるが、それは少数派だ。
理由は残された家族や親しい人に聞けば、だいたいわかる。
自殺の大半は、その人の持って産まれた性格や思考、その上に現在の生活や悩みなどを重ね合わせれば、納得のいく理由が見つかるものだ。
が今回は、それがまるでないのだ。
自殺でなければ、残るは殺人しかない。
その方法は定かではないにしろ、その線が自殺よりは高そうだ。
磯崎はそう考えていた。
お偉いさんも、似たような考えだ。
キャリア組が心理学的にどうのこうのとか言っていたが、そんなことは磯崎には関係のない話だ。
怪しいことは確かなのだから。
動機や殺害方法なんぞは、犯人を見つけて本人に聞くのが一番手っ取り早い。
それが最優先事項だ。
マスコミも騒いでいる。
なかには『呪われた公園』などといった字が踊っているのも見たことがある。
お偉いさんが一番危惧しているのは、そこだ。
ただ目撃者もなく、怨恨の線も薄そうだ。
通り魔的犯行と思われるが、その場合、被害者の交流関係は、意味をなさない。
死んだ三人には、なんの関連性もないことは、はっきりしている。
その点は、捜査ずみだ。
最初の二人は住んでいた場所がわりと近所だが、遺族、親族、同僚、友人知人とすべて当たった結果によると、顔をあわせたこともないようだ。
もちろん親しい間柄には、ほど遠い。
郊外とはいえ都会の一角は、そんなものだ。
三人目の男にいたっては、ただの追いはぎである。
家もここからかなり離れている。
たまたまこの近くを、実行場所に選んだのだろう。
自分の家の近所で追いはぎをするバカは、ほとんどいない。
――とりあえず、聞き込みからか。
どうあがいても、公園とその周辺を捜査するしか、道はない。
最初の聞き込みは、なんといっても、あの例の婦人である。
最初の死体の第一発見者であり、二番目の死体の第一発見者であり、三番目の死体の第一発見者だ。
普通の人生を送っている人なら、一生のうち一度でも死体の第一発見者になることは、かなり珍しいと言えるだろう。
それが三人連続とは。
磯崎の個人的見解から言えば、間違いなく日本の犯罪史上において〝前人未到の快挙〟である。
逆に言えば、いや逆に言わなくとも、一番怪しいという見方が出来るのだが、証言を取った警察関係者の全員が「あの人は発見者であって、犯人ではない」と、そろいもそろって太鼓判を押している。
おそらくそれが、正しいのだ。
磯崎もそう思う。警官とか刑事は、まず疑うのが仕事だ。
そういった連中が口をそろえて「関係ない」と言えば、まず関係ないだろう。
ただ、第一発見者なら、なにか見ているかもしれない。
証人本人は事件に関係ないことと考えて、警察にも言っていなかったが、実はそれは事件の鍵を握る重要なことだったという事例は、今までにもいくらでもあるのだ。
――その点を、探ってみるか。
それしかなさそうだ。
警察手帳を見せると、予想はしていたことだが、露骨に嫌な顔をした。
「なんですか。もうお話しすることは、ありませんが」
思い出したくもないのだろう。
無理もない。当然の反応だ。
しかし、ああそうですか、と引っ込んでいたのでは、仕事にならない。
押してみる。
「いやいや、ちょっとですね、いろいろともう一度お聞きしようかと思いましてね。ほら、あんなもんを見たんだ。ショックで最初は忘れていた、あるいは気がつかなかったけど、あとから思い出したり気がついたり、ということは、こういった場合、ほんと、よくあることでしてねえ。そうでしょう、奥さん」
有無をも言わせない言葉の響きが、そこにはある。
言わせてたまるか。
「……でも」
「いや、直接あのことでなくても、いいんですよ。あの事件以外で、なにかかわったこととか、おかしいこととか、あの公園でありませんでしたかねえ」
最初は、このぐらいが妥当か。
なにか聞き出せれば、そこからいくらでも話を広げることができる。
「……そうですか。おかしなことですか。……かわいそうなことなら、昔あの公園で、ありましたけど」
かなり意外な返答があった。
もちろん食いつく。
「かわいそうなこととは?」
彼女の顔は、悲劇を語るのにふさわしい表情となった。
「ええ、まっちうりの少女、のことなんですが」
「まっちうりの少女……ですか?」
――童話の? いやそんなわけはない。
「ええ、一年ほど前なんですが、あの公園で女の子が一人、死んだんです」
――一年前に、そんなことがあったのか。
磯崎は半年ほど前に、別の部署から転勤できていた。
だから一年前のことは、知らなかったのだ。
「なんでも、母親に公園で待つようにと言われて、待っていたんですけど、来なくて。そのうちに待ち疲れたんでしょう、ついベンチで眠ってしまって。……おまけにその夜は、雪がたくさん降って」
朝に発見された時は、もう凍死していたのだという。
そして持っていた小さなノートの最後のページに、震える指で書いたのだろう、ミミズがのたくったような字で〝うそつき〟とただひと言、書かれていたのだそうだ。
冬の夜、雪に埋もれて死んだ女の子。
誰言うことなく名づけられた名前が、まっちうりの少女。
このあたりでは有名な話である、と。
婦人の顔がさらに曇る。
「母親はその時、なにをしていたと思いますか?」
「……わかりません。なんですか?」
「男と会ってたんですよ。旦那が出張でいないのを、いいことに。男と朝までホテルで……それで……」
――そんなことが、あったのか。
なるほど、涙を誘うほど、哀れな話ではある。
その少女がかわいそうだと、本気で思う。
しかし刑事としては、その事件が今回の事件と、関係あるかないかだ。
――関係あるな。
磯崎はそう思った。
なぜそう思ったのか、自分でもわからない。
三件の殺人事件――あれが殺人事件とすればだが――と、少女の不幸な死。
直接結びつくものは、なにもない。
しかし、関係ある、という確信が頭の中に沸きおこる。
それは長年の刑事のカン、としか言いようがない。
――夜まで待つか。
夜、あの公園で待つ。
それが一番いいだろう。
「それじゃあ、いろいろありがとう。お騒がせしました」
えっ、もう終わりですか? という顔の婦人を残して、磯崎はその場を立ち去った。
時計を見る。もう十一時を過ぎている。
三人の死亡推定時刻は、午後十一時から午前一時の二時間である。
磯崎はそれを、これまでの経験からして、午後十一時半から十二時半までの一時間の間、と推測した。
――この時間帯に、あの三人になにかが起こったんだ。
公園に行く。
一直線にベンチに向かい、座って待つ。
公園の西側には街灯があるが、ベンチのある東側にはない。
おまけにベンチの横の太い木によって、街灯の光が見事にさえぎられている。
――なるほど、これでは朝まで見つからないのも当然だ。
公園の北側にある道は完全な生活道で、近所の人以外はめったに通らないが、その近所の人というのが、アパートもあってけっこうな人数となっている。
真夜中に誰かが公園の前を通っても不思議ではないのだが、おそらくたまたま通った数少ない人間からは、手前は木々でさえぎられ、おまけに街灯も当たらないベンチの付近が、よく見えなかったのだと思われる。
そのため、ベンチに横たわる死体に気がつかなかったのだ。
死体に気付いたのが、早朝の散歩の途中でベンチに座る習慣のあったあの婦人だけだったのは、そういうわけだ。
時計を見る。十二時過ぎだ。なにもない。
しばらく待ち、もう一度時計を見る。十二時半に近い。
――ひょっとして、あてがはずれたか?
まあ、毎日なにかあるわけでもないだろう。磯崎は、今日のところは一旦帰ることにした。
――いつのまに?
すぐ目の前に、小さな女の子が立っていた。
磯崎も刑事である。
〝人〟に関してはそれこそ、人一倍敏感だ。
それなのに、いくら体の小さな少女とはいえ、すぐ目の前に来るまで気がつかないなんて。
そんなことは、ありえない。
――ちょっとして?
まさかとは思ったが、一瞬頭をよぎる。
この少女が、あのまっちうりの少女なのではないかと。
しかし磯崎は、幽霊などというものを、いっさい信じてはいない。
どんな奇妙な事件であっても、全て化学的に説明がつくと思っている。
死んだ子供が現れるなんて、あるわけがない。
一応、声をかけてみる。
「お嬢ちゃん、こんな時間にこんなところで、なにをしているの?」
返事がない。
ただじっと磯崎を見るその目は、とても小さな子供のものとは思えなかった。
なにか、理不尽な狂気のようなものを含んでいる。
年齢の判断つかない、生きた人間ともおもえない、異形の眼。
磯崎の中で、一種異様な不気味さが生まれ、足元から背中をつたって這い上がり、首筋にべたりとへばりつく。
子供の頃から自他共に認める怖いもの知らずの磯崎が、いままでに感じたことのない、いいようのない歪んだ恐怖。
恐怖は、その余裕のなさから怒りへと変わり、怒りは必要以上に人の声を荒げさせる。
「いいからお家にかえりなさい! 子供がこんな遅くまでうろうろしてたら、だめじゃないか!」
「おじさん、なにしてるの?」
いきなり、あどけない少女の声で言った。
顔も、いたって普通の女の子の顔。
不意をつかれた気分だ。
「おじさんはね、ちょっと休んでるの」
「休んでるの? お仕事してるんじゃないの」
その声を聞くと、なぜか再び怒りがこみ上げてきた。
「なに言ってる! こんな時間にこんなところで、仕事するやつなんか、いやしない!」
笑った。
その笑いは、まるで老婆のような笑い。
「休んでる、だなんて、ここで見張ってたんでしょう、刑事さん」
――えっ!
なんでそんなことが、わかる。
ここで俺が聞き込みしたのは、発見者の夫人だけだ。
一人住まいの。
それなのにこの少女が、俺が刑事だなんてわかるはずがない。
「なに言ってる。仕事なんかしてないって言っただろう!」
再び恐怖が影のように忍び寄ってくる。
首筋どころではなく、全身に張り付く。
わけがわからないが、とにかく怖い。
少女がまた笑った。
今度は、その見た目に似合った笑い方に。
「ふーん、うそつくんだ。お仕事してたのに。うそつきは……」
「うるさい! 黙れ黙れ! 仕事なんかしていない。それに俺は刑事なんかじゃない。わかったか!」
少女の顔から笑いが、ふっと消えた。
憎しみであふれている。
どこまでも果てしなく残虐な憎しみ。
磯崎は気付いた。
少女にとって大事な話を途中でさえぎられたが故の怒り、最後までしゃべらせてもらえなかったが故の憤りが、憎しみとなって、表に顔を出しているのだ。
「ふーーーん」
全身の毛を逆立てるような、冷たい声。
「お仕事しているのに、お仕事してない。刑事さんなのに、刑事さんじゃない。ふたつもうそをついたわね」
実際に聞いたことはないが、悪魔がしゃべれば、多分こんな声なのだろう。
とても人間の、ましてや少女のものとは思えない声だ。
「ひとつうそをついた人は、えんま様に舌を抜いてもらうの。私が呼ぶと、すぐに来てくれるのよ。今までの人は、みんなそうしてもらったわ。でも、ふたつうそをついた人はねえ……」
磯崎の目の前に、突然何かが現れた。
暗くてよくは、わからない。目をこらしてみる。
――針?
針だった。
何百本、いや千本はあろうかという針が束になり、先を磯崎に向けて、宙に浮かんでいた。
少女が言った。
「針千本、のーーます!」
針が向かってきた。
歯や舌や食道をすべて無視して突き進んだ千本もの長い針が、一本残らず磯崎の胃に、深々と突き刺さった。
終




