「僕は聞いていない」と言われたので、証拠を叩きつけます
「僕は聞いていない」
王太子ジェラールのこの言葉は、どんな盾より丈夫だった。何を言われても跳ね返し、跳ね返った先にはいつも同じ人が立っている。
「ロザリンド、あなたの不手際ね」
王妃のため息まじりの声が、晩餐の席に落ちた。客たちが気まずそうに皿へ目を落とす。
この客を同じ夜にまとめて招いたのはジェラール本人だった。それでも叱られるのは、婚約者になって三年目の侯爵令嬢ロザリンドのほうだ。
(はいはい、わたくしの不手際ですわね。今月で何度目かしら)
今夜の客は、仲の悪い伯爵家がふた組。ロザリンドは十日前に、両家は別々の夜にお招きくださいと殿下に伝えていた。殿下は「分かった、分かった」と笑って、招待状に二度もお名前を書くのは面倒だと、同じ夜に一通ずつで済ませた。同じ卓を囲まされた伯爵ふたりは、さっきからスープの匙を剣みたいに握っている。
「申し訳ございません、王妃様。以後、気をつけますわ」
ロザリンドは頭を下げた。ジェラールは葡萄酒を飲みながら、ほっとしたように肩をゆるめている。
「ロザリンド、こういうことはちゃんと僕に言ってくれないと困るよ。僕だって暇じゃないんだから」
殿下は客に聞こえる声でそう言って、伯爵たちに肩をすくめてみせた。若い婚約者に手を焼いている王太子、という顔だ。伯爵のひとりが同情するように頷いた。
頭を下げたまま、ロザリンドは心の中で手帳をめくった。
(十日前の午後。中庭の東屋。殿下はお菓子を三つ召し上がりながら、ちゃんと頷いていらした)
四つ目のお菓子に手を伸ばす前に、殿下は覚え書きにお名前も書いた。ペンを置いて、指についた砂糖をなめていた。
顔を上げたとき、ロザリンドはにっこり笑っていた。
(その一枚、今もわたくしの書類挟みに綴じてありますのよ、殿下)
お名前を書いていただく。それはもう三年前から始めていた。
「お嬢様、また書いていらっしゃるんですか」
部屋に戻ると、侍女のアンネが革の書類挟みを抱えて待っていた。ロザリンドは机に向かい、今夜の一件を紙に書きつけている。
「書くわよ。書かなかったら、なかったことにされるもの」
「また分厚く……いえ、重たくなりましたね」
アンネが書類挟みを持ち上げて、わざとよろけてみせた。ロザリンドは吹き出した。
三年前、婚約が決まって最初の月のことだ。殿下に伝えた来客の名前を、殿下はすっかり忘れて別人の名で呼んだ。そして言った。僕は聞いていない、と。叱られたのはロザリンドだった。
その夜、悔しくて眠れずにいたロザリンドに、アンネが言ったのだ。
「お嬢様。殿下は、お聞きになったことを覚えていらっしゃらないだけかもしれません」
「そうね。だったら、覚えていなくても困らないようにして差し上げればいいのよ」
「どうやってです?」
「聞いていないなら、書いていただけばいいのよ。お伝えしたことは全部紙にして、殿下にお名前を書いていただくの。お名前を書いた方は、聞いていないとは言えないでしょう?」
それから三年。ロザリンドは伝えたことを一つ残らず覚え書きにし、殿下の署名をもらってきた。殿下は面倒くさそうにペンを走らせる。読みもせずに。
署名の束は増えていった。けれど、濡れ衣は止まらなかった。
最初からこうだったわけではない。
婚約が決まったばかりの春、王宮の庭園で、ジェラールは一度だけロザリンドの手を取った。
「君がいてくれて助かるよ、ロザリンド。僕はどうも、細かいことを覚えるのが苦手でね」
照れたように笑う顔は、まだ少年のようだった。
「では、細かいことはわたくしが覚えますわ。殿下は大きなことだけ見ていらして」
「約束だ」
薔薇のアーチの下で、ふたりは小指を絡めた。
あのときの殿下は、ちゃんとロザリンドの目を見て話していた。いつからだろう。殿下がロザリンドの顔を見るのは、責任を押しつける相手を探すときだけになったのは。
「王家に逆らうな。黙って詫びておけ」
侯爵である父は、娘の差し出した書類挟みに目もくれなかった。
「お父様、一度でいいから読んでくださいな。殿下は全部ご存じだったんです。ここにご署名が」
「読んでどうする。王太子殿下の落ち度だと騒ぎ立てるのか。うちの家がどうなると思っている」
「わたくしが、ずっと濡れ衣を着せられたままでもですか」
「濡れ衣など、着ていれば乾く」
父は書斎の扉を閉めた。ロザリンドは廊下にひとりで立って、書類挟みを抱え直した。重かった。三年ぶんの紙は、腕がしびれるくらい重い。
扉の向こうから、父が執事に話す声が聞こえた。
「あれは昔から、細かいことにうるさい娘でな。殿下もお疲れだろう」
ロザリンドは扉に向かって舌を出した。誰も見ていないのだから、それくらいは許されるはずだ。
(細かいことを覚えると約束したのは、殿下のほうからでしたのよ、お父様)
部屋に戻ると、アンネが温かいお茶を淹れて待っていた。
「旦那様、お読みになりました?」
「表紙もめくってくださらなかったわ」
「では、わたしが読みます。全部」
「アンネ、それはもう三回読んだでしょう」
「四回目です。お嬢様が負けないように」
ロザリンドはお茶を一口飲んで、やっと笑った。
味方は、アンネしかいなかった。
膝をつかされたのは、あの晩餐からひと月ほどあとのことだ。
ローデンの大使が国書を携えて王宮に着いた日、ジェラールは門まで出迎えに行かなかった。ローデンでは、国の跡継ぎが自ら門で客を迎えるのが礼儀だ。ロザリンドはそれを五日前に伝え、覚え書きに殿下の署名ももらっていた。
殿下はその時刻、遠乗りに出ていた。
「僕は聞いていない。ロザリンドが伝え忘れたんだ」
謁見の間で、ジェラールはいつもの盾を構えた。大使の眉間に深い皺が寄っている。王妃が、ロザリンドを振り返った。
「ロザリンド。大使にお詫びを」
「王妃様、わたくしは」
「膝をついて、お詫びなさい」
広間がしんとした。廷臣たちの視線が、ロザリンドのドレスの裾に集まる。
ロザリンドは膝を折った。磨かれた大理石が、絹ごしに冷たかった。
「わたくしの不手際でございます。どうかお許しくださいませ」
自分の声が遠くに聞こえた。頭の上から、誰かのささやきが降ってくる。
「また伝え忘れのロザリンド嬢か」
「伝え忘れ令嬢、だな」
くすくすと笑う声。扇の陰で交わされる目配せ。
大使は短く頷き、ジェラールは何事もなかったように大使の手を取った。
ロザリンドが立ち上がったとき、膝が笑っていた。
謁見が終わり、廷臣たちが引き上げていく。ジェラールが大使を見送って戻ってきて、すれ違いざまにロザリンドの肩を軽く叩いた。
「さっきは助かったよ。次は気をつけてね」
悪びれた様子は、かけらもなかった。殿下は鼻歌まじりに執務室へ歩いていく。その背中を見ながら、ロザリンドは書類挟みの中の一枚を思い浮かべた。五日前の日付。門で客を迎えること。その下に、殿下の流れるような署名。
(助かった、ですって)
三年前の春、庭園で同じ言葉を聞いた。あのときは嬉しかった。今は、同じ言葉が喉に刺さった小骨みたいに痛い。
回廊の角を曲がって、人の気配が消えたのを確かめてから、ロザリンドは床を踏み鳴らした。
一回。二回。三回。
「もう! もう! 信じられませんわ! 五日前ですわよ、五日前! お名前まで書いていただいたのに!」
どん、どん、と絹の靴が石の床を叩く。
「次は、お名前を二回書いていただこうかしら。いいえ、三回。大きな字で!」
ぶっ、と誰かが吹き出した。
ロザリンドは足を止めた。回廊の脇の小さな扉が開いていて、そこから若い男が顔を出していた。片手に紙の束を抱え、もう片方の手で口を押さえている。肩が笑いで揺れていた。
「……失礼。いや、本当に失礼。外務府の写し部屋から出てきたら、ちょうど三回目の地団駄だったもので」
「数えないでくださいます?」
「つい」
男は咳払いをして、背筋を伸ばした。外務卿の次男、カシアンだった。いつも回廊で誰かと笑っている人だ、とロザリンドは覚えている。
「名前は三回より、日付を入れたほうが効きますよ」
「……ご忠告、どうも」
ロザリンドがむっとして通り過ぎると、背中で、また小さく笑う声がした。
(この方、なぜいつも笑っていらっしゃるのかしら)
腹が立った。けれど、さっきまで笑っていた膝は、いつの間にか静かになっていた。
先月十日。ローデンの王女が来訪すると知らせが入った日、ロザリンドはいつもより丁寧に覚え書きを作った。
ローデンの王女殿下は、母君を亡くされて喪に服している。迎える宴には白い花だけを飾ること。楽の音は控えること。赤い色は、ローデンでは祝いの色なので使わないこと。
「殿下。こちら、王女殿下をお迎えする際の作法でございます。とても大事なことですので、お目通しを」
「分かった、分かった」
ジェラールは女官とお喋りをしながら、紙を見もせずにペンを走らせた。ペン先が止まったとき、殿下の目は一行も紙の上を通っていなかった。
(今、一行も読まずにペンを置きましたわね)
ロザリンドは署名の乾きを確かめた。いつものように外務府の窓口へ持っていき、受け取りの印を押してもらう。殿下の執務室へは、外務府から知らせが回る決まりだ。印の済んだ紙を書類挟みに綴じていると、窓口の奥でカシアンが顔を上げて目だけで笑った。
ロザリンドはつんと顎を上げて通り過ぎた。
宴の前日、ロザリンドは広間をのぞきに行った。
扉の前で、侍従が両手を広げた。
「申し訳ございません。殿下のご命令で、支度が済むまではどなたもお通しするなと」
「わたくしもですの?」
「婚約者様も、とのことで」
扉の隙間から、花籠を運ぶ下働きの背中が見えた。籠には布がかぶせてあって、中の色は分からない。
ロザリンドはその足で外務府の窓口へ回った。
「喪中の作法を殿下にもう一度お伝えしていただけます? わたくしは広間に入れていただけないの」
「上申書にして、今日のうちに執務室へ上げます」
カシアンは笑わなかった。いつも笑っている人の、初めて見る顔だった。
宴の夜、広間は赤い薔薇で埋まっていた。昨日、布の下に隠れていた色だ。
天井から吊るされた花籠も、長卓の飾りも、全部が赤い。楽団が華やかな舞曲を奏でている。
ロザリンドは入り口で足を止めた。血の気が引くのが自分でも分かった。
「アンネ。これ、どなたが」
「殿下が、昨日お決めになったそうです。華やかなほうが王女殿下もお喜びになる、と」
ロザリンドは裾をつまんで、広間の奥にいるジェラールのもとへ急いだ。
「殿下。薔薇を下げてくださいませ。楽団も止めて。ローデンの王女殿下は喪中です。先月お伝えしましたわ」
「今さら何を言ってるんだい。こんなにきれいに飾ったのに」
「赤はいけません。白い花だけ、と書きましたでしょう。今ならまだ、花籠だけでも」
「やめてくれよ、客の前で。僕は聞いていないって」
殿下は笑って手を振り、ロザリンドから離れていった。侍従を呼んで花籠を下ろさせようとしたが、侍従は弱りきった顔で首を横に振る。王太子殿下のご指示ですので、と。
そのとき、扉の前で先触れの声が上がった。
ローデンの王女が入ってきた。黒い喪服に、白い花を一輪だけ胸に挿している。王女は広間を見渡し、赤い薔薇を見て、楽団を見て、青ざめた。
「……わたくしの母が亡くなったことを、この国の方はご存じないのですか」
小さな声だった。王女は踵を返し、侍女に支えられて広間を出ていった。
使節が、ジェラールの前に進み出た。
「王太子殿下。喪中の王女殿下を、祝いの赤と舞曲で迎えるとは。これがこの国のお答えと受け取ってよろしいか」
ざわめきが広がる。国王が玉座から身を乗り出した。
「ジェラール。前へ」
「僕は聞いていない」
ジェラールは、玉座の前でもその言葉を使った。
「ローデンの王女が喪中だなんて、誰も僕に教えなかった。ロザリンドが伝え忘れたんだ。いつものことだよ」
広間じゅうの視線がロザリンドに集まった。またあの令嬢か、伝え忘れのロザリンド嬢か。扇の陰のささやきも、この三年いつもと同じだった。
王妃が低い声で言った。
「ロザリンド。黙って下がりなさい。王家の恥をこれ以上ここで広げるつもり?」
(下がりませんわ。今日だけは)
ロザリンドは侍女のアンネから革の書類挟みを受け取った。ずしりと重い。三年ぶんだ。
彼女は玉座の前の卓まで歩いていき、書類挟みを両手で振り上げて、思いきり叩きつけた。
ばん、という音が天井まで響いた。ローデンの使節が肩を跳ねさせ、ジェラールが一歩下がった。
「殿下。わたくしが殿下にお伝えした覚え書きです。一枚残らず、殿下のご署名をいただいておりますわ」
一番上の紙を抜いて、ジェラールの鼻先に突きつける。
「先月十日。ローデンの王女殿下は母君の喪に服しておられるので、白い花だけを飾り、楽の音は控えること。ここに殿下のお名前がありますわね?」
「そ、それは偽物だ。君が僕の字を真似たんだろう」
「では、こちらの控えもお疑いになりますか」
進み出たのはカシアンだった。外務府の印が押された綴りを、彼は書類挟みの隣に置いた。
「外務府の控えです。殿下が署名なさった覚え書きは、すべて写しを取って保管しております。日付も文面も原本と一致します。受け取りの印はどれも外務府の窓口のものです」
広間がざわめいた。ローデンの使節が綴りを手に取り、一枚、また一枚とめくっていく。
「大使を門で迎える作法も、喪の花の色も、楽の音を控えることも書いてある。我が国のぶんだけではない。三年ぶん、どの国の客の支度も一枚も欠けていない」
使節は顔を上げた。見たのはジェラールではなく、ロザリンドだった。
「この方は三年のあいだ、一度も客を迎える支度を怠らなかったのですね。読まなかったのは殿下のほうだ」
ジェラールの口が開いて、閉じて、もう一度開いた。
「僕は、聞いて……」
その先を聞こうとする者は、もういなかった。さっきまでロザリンドに向いていた扇の陰から、今度はジェラールに向けて、くすくすと笑い声が漏れた。
ロザリンドの指先が小さく震えていた。腹が立っているのか、ほっとしたのか、自分でも分からない。ただ、三年ぶりに胸の奥まで息が吸えた。
(お名前を書いた方は、聞いていないとは言えませんのよ、殿下)
国王が立ち上がった。
玉座の段を一段ずつ下りてくる足音だけが、静まり返った広間に響いた。国王は卓の上の書類挟みを手に取り、何枚かめくって、長く息を吐いた。
「ジェラール。印章を出せ」
「父上、待ってください。僕は」
「聞いていない、か」
国王の声は低かった。ジェラールは指から王太子の印章を抜いた。抜いた拍子に一度取り落とし、床を転がった印章を自分で拾って差し出した。国王はそれを受け取り、振り返らずに言った。
「ローデンとの話し合いは、エドモンに任せる。エドモン、使節殿と王女殿下に、この国の名で詫びてこい」
「はい、父上」
第二王子エドモンが前に出て、使節に深く頭を下げた。ジェラールは空になった指を見つめて立ち尽くしている。
「母上! 母上からも言ってください。ロザリンドがちゃんと説明しなかったから」
ジェラールは王妃にすがるような目を向けた。王妃は口を開きかけて、卓の上の書類挟みを見て、そのまま閉じた。扇を持つ手が、かすかに下がった。
「ぼ、僕は、本当に聞いて……」
また、その言葉が出た。今度は誰もロザリンドを見なかった。広間のあちこちで、こらえきれない笑いが起きた。あの晩餐で匙を剣みたいに握っていた伯爵ふたりが、そろって肩を揺らしているのが見えた。
ロザリンドは国王の前に進み出て、膝を折らずに、深く礼をした。
「陛下。お願いがございます。殿下とのご婚約を、解いていただけませんでしょうか」
国王は書類挟みを見下ろし、それからロザリンドを見た。
「三年、これを書き続けた者の願いだ。聞かぬわけにはいくまい」
国王の目が広間の隅へ動いた。そこに、ロザリンドの父が立っていた。
「侯爵。異存はあるか」
父は青い顔で卓の上の書類挟みを見た。表紙もめくらなかった、あの書類挟みだ。それから娘を見て、深く頭を下げた。
「……ございません、陛下」
「ロザリンド、待ってくれ、僕は」
「殿下」
ロザリンドはにっこり笑った。
「ご心配なく。お聞きになっていなくても、陛下がお聞きになりましたわ」
広間を出たところで、王妃に呼び止められた。
王妃は扇を閉じたまま、しばらく黙っていた。一度だけ扇を開きかけて、また閉じた。いつもの厳しい声ではなかった。
「あの子の名に傷をつけたくなかったの。王太子が頼りないと思われれば、国が揺らぐ。だから、あなたに被ってもらうのがいちばん静かだと思っていた」
「存じておりました、王妃様」
ロザリンドは書類挟みを開いて、一番底から一枚を抜いた。端の黄ばんだ、三年前の最初の覚え書きだ。殿下が別人の名で呼んでしまった客人を、もう一度お招きした日のもので、客人のお名前とその呼び方が書いてある。下には、今よりずっと丁寧な字で殿下のお名前がある。
「最初の一枚です。これだけは、どなたかに読んでいただきたかったのです」
王妃は紙を受け取り、目を落とした。一行目で指先が止まった。三年前、名を呼び違えられたあの客人の前で、ロザリンドを叱ったのも王妃だった。
「……読むわ。全部」
ロザリンドは深く礼をして、背を向けた。責める言葉は、一つも出てこなかった。
回廊に、カシアンがいた。
壁にもたれて、腕を組んでいる。ロザリンドの足音に気づくと、いつものように笑った。
「今日は地団駄、踏まないんですか」
「踏みませんわ。もう、踏む理由がありませんもの」
ロザリンドは彼の前で足を止めた。
「昨日の上申書、殿下は読んでくださいました?」
「封も切らずに戻ってきました。執務室の机の上で、葡萄酒の瓶の下敷きになってたそうです」
「でしょうね」
ロザリンドは小さく肩をすくめた。それから彼の顔をまっすぐ見た。
「それより、教えていただけます? なぜ写しを取っていらしたの。三年もわたくしに黙って」
「外務府の窓口を通る書類は、写しを取る決まりですよ」
「全部ですか?」
「……全部ではないです。印を押すだけの書類は本当は写さなくていいんです。写していたのは、あなたの紙だけです」
カシアンは頭をかいた。笑い上戸の顔が、少しだけ赤くなっていた。
「三年前の春に、ここで地団駄を踏んでいる人を見ましてね。『お客様のお名前、ちゃんとお伝えしましたのに!』って、一人で怒っていた。あんまり元気に怒るものだから、つい目で追うようになって」
「見ていらしたの、そのころから」
「何日かして、その人の覚え書きが窓口に来ました。殿下のお名前つきで。いつか誰かに消されたら困ると思ったんです。廊下で地団駄を踏んでいる人の紙を、黙って消させたくなかった」
ロザリンドは口を開けて、閉じた。さっきのジェラールみたいで、少し悔しかった。
「……わたくし、三回目の地団駄から数えられていたと思っていましたわ」
「三年前のぶんから数えたら、両手の指じゃとても足りません」
「そんなに踏んでいませんわ」
「先月だけで十二回です。写し部屋の窓から、この回廊がよく見えるので」
「仕事をしてくださいな、外務府」
「してましたよ。写しを取りながら見てたんです」
「数えないでくださいます?」
「つい」
ふたりは同時に吹き出した。回廊の窓から、宴の楽の音が消えた夜の静けさが流れ込んでくる。
カシアンが、上着の内側から一枚の紙を取り出した。
「申し込み書です」
差し出された紙には、整った字でこう書いてあった。外務卿家次男カシアンは、侯爵令嬢ロザリンドに結婚を申し込む。返事は急がない。地団駄は好きなだけ踏んでよい。
「読んでから署名してください。あとで聞いていないとは言わせません」
ロザリンドは紙を受け取った。三年間、彼女が殿下に言ってきた言葉だった。それを今度は、自分が言われている。
「では、読みますわ。声に出して」
「えっ」
「外務卿家次男カシアンは、侯爵令嬢ロザリンドに結婚を申し込む」
「ちょっと、声に出さなくても」
「返事は急がない。地団駄は好きなだけ踏んでよい。……これ、本当に書く必要がありました?」
「大事なことなので」
カシアンは耳まで赤くなって、窓の外を見ている。ロザリンドはこらえきれずに笑った。お腹の底から笑ったら、頬が痛くなった。
アンネが黙ってペンを差し出してくる。いつの間に来ていたのだろう。
ロザリンドは一字一字を確かめるように読み返して、それから、紙の一番下に自分の名前を書いた。大きな字で。
「ちゃんと読みましたわ。だからもう、わたくしも、聞いていないとは言えませんわね」
一番底にあった最初の一枚は、もう王妃の手の中にある。書類挟みに綴じる最後の一枚は、ロザリンドが自分で選んだ一枚になった。




