婚約破棄の予行演習をしていたら、幼なじみの近衛騎士から本気で求婚されました
「セレスティア。明日の夜会で、私は君との婚約を破棄する」
王太子ユリウスは、神妙な面持ちでそう告げた。
「はい。先月から存じております」
向かいに座るセレスティア・グランベル公爵令嬢が答えると、ユリウスは一度だけ咳払いした。
「そこで今夜、予行演習をしたい」
「……婚約破棄に、予行演習が必要なのですか?」
婚約破棄とは、もっと衝動的に行われるものではないだろうか。
華やかな夜会で突然立ち上がった王子が、身に覚えのない罪を並べ立て、令嬢を絶望の底に突き落とす。
それを見た周囲の貴族たちが驚き、ある者は同情し、ある者は面白がって噂を広める。
少なくとも、前日に当事者同士が集まって練習するものではないはずだ。
「必要なのだ」
ユリウスは深刻そうにうなずいた。
「先日の外交晩餐会を覚えているだろう」
「ええ。殿下が隣国の大使に『両国の末永い断交を願っております』と仰った晩餐会ですわね」
「友好と言うつもりだった」
「続けて『今後とも変わらぬ敵意を』とも仰いましたわ」
「厚意と言うつもりだった」
「大使閣下が剣に手をかけておられました」
「だから予行演習が必要なのだ!」
ユリウスが机に両手をついた。
彼は決して愚かな王太子ではない。
学問にも政務にも真面目に取り組み、民の暮らしにも心を配る善良な青年である。
ただし、極度に緊張すると、とんでもない言い間違いをするという欠点があった。
明日の夜会では、セレスティアとの婚約解消を正式に発表する予定になっている。
アルセリア王国における王族の婚約は、当人同士だけでなく、家同士の政治的契約でもある。
特に王族側から解消する場合には、十二名以上の上級貴族が見守る場で理由を説明し、当事者双方が明確に同意しなくてはならない。
さらに王家側の事情で解消する場合、令嬢の名誉に傷がつかないよう、彼女に非がないことを公に宣言する必要もあった。
「もし殿下が『セレスティアには何の非もない』と仰るところを、『セレスティアには非しかない』と言い間違えたら、我が公爵家と王家の間で戦争が始まりますものね」
「想像するだけで胃が痛い」
「わたくしは頭が痛いですわ」
今回の婚約解消は、決してユリウスが一方的にセレスティアを捨てるという話ではない。
二人の婚約は、十年前に両家が決めたものだった。
関係は良好だったが、恋愛感情が芽生えることはなかった。
政略結婚とはそういうものだと二人とも受け入れていたが、半年前、ユリウスが王宮図書室の補佐官である伯爵令嬢リリアーヌと想い合っていることをセレスティアが知った。
ユリウスは恋を諦め、予定どおりセレスティアと結婚するつもりだった。
しかし、セレスティアは尋ねたのだ。
『お互いに別の方を想いながら結婚して、立派な国王夫妻のふりを一生続けるのですか?』
その言葉に、ユリウスは顔を上げた。
セレスティアにもまた、長い間胸に秘めてきた相手がいた。
結果として、二人は国王夫妻に婚約解消を願い出た。
公爵家との調整には時間がかかったものの、最終的には双方の家から許可を得ることができた。
もっとも、セレスティアが想う相手には、まだ何も伝えていない。
その相手は今もユリウスの背後に立ち、彫像のような無表情で二人の会話を聞いている。
近衛騎士アルベルト・レインハルト。
侯爵家の次男であり、ユリウスの側近。
そしてセレスティアの幼なじみだった。
「予行演習は母上と宰相からの命令だ」
ユリウスが一枚の台本を差し出した。
「明日の会場を実際に使い、最初から最後まで通しておけと言われた。台本から一文字でも外れたら、やり直しだそうだ」
「王妃陛下のご判断は正しいと思いますわ」
「君までそんなことを言うのか」
「わたくしの名誉が懸かっておりますから」
「安心してくれ。完璧に覚えてきた」
ユリウスは胸を張った。
「セレスティア・グランベル公爵令嬢。君には何の取り柄もない」
「非もない、ですわね?」
「……やはり練習しよう」
日の暮れた王宮の大広間には、翌日の夜会に備えて無数の燭台が並べられていた。
壁際では使用人たちが花を飾り、楽師たちが楽器の調子を確かめている。
広間の中央に立つのは、ユリウスとセレスティアだ。
リリアーヌは進行表を手に舞台脇で待機し、アルベルトはユリウスが台詞を忘れたときのためのカンペ係を任されていた。
王室書記官のグレゴールも、少し離れた机で筆を走らせている。
「グレゴール。練習まで記録する必要があるのか?」
ユリウスが尋ねても、白髪交じりの書記官は顔を上げなかった。
「王族の発言ですので」
「これは公式の発言ではないぞ」
「王族が公式か非公式かを決めるのは、後世の歴史家でございます。私はすべてを記録いたします」
「私が転んだ回数まで記録していないだろうな」
「先週までで二十八回です」
「忘れてくれ」
「記録の破棄はできません」
ユリウスはため息をついたが、気を取り直してセレスティアと向き合った。
リリアーヌが手を打つ。
「それでは、明日の入場から始めましょう。セレスティア様が中央へ進み、殿下が呼び止めます」
セレスティアは指示どおりに歩き、広間の中央で足を止めた。
「セレスティア・グランベル公爵令嬢」
ユリウスが台本を読む。
「私は、君との婚約を破棄する」
沈黙が落ちた。
セレスティアはしばらく待ったが、続きがないので振り返った。
「……どうだろう?」
「明日の献立を読み上げるより感情がありませんわ」
「感情を込めすぎると間違える」
「だからといって、退屈そうに仰られては困ります。顔を上げて、わたくしの目をご覧になってくださいませ」
「目を見ると罪悪感が湧いてくるのだ」
「その罪悪感を利用なさればよろしいのです」
「婚約を解消しようと提案したのは君ではないか」
「事情を知らない方々には、殿下のご都合で解消するように見えるのです。わたくしを悪者にしないためにも、申し訳なさそうにしてくださいませ」
「難しい注文だな」
「では練習いたしましょう。まず、わたくしを見下すような冷たい表情を」
ユリウスは眉間にしわを寄せ、セレスティアを見つめた。
「お腹が痛いのですか?」
「冷たい表情だ」
「傷んだ料理を召し上がったようにしか見えません」
リリアーヌが口元を押さえながら近づいてきた。
「殿下。セレスティア様を嫌っているように演じる必要はございません。ご自分の決断に苦しみながらも、覚悟を決めて告げるのです」
「なるほど」
「もう一度お願いします」
ユリウスは大きく息を吸った。
「セレスティア・グランベル公爵令嬢。私は君との婚約を破棄した」
「過去形になっていますわ」
「まだしていないのか?」
「明日の予定です」
「では、破棄する予定だ」
「旅行の予定を伝えているのではございません」
何度繰り返しても、ユリウスの演技は一向に改善しなかった。
アルベルトは舞台脇に立ったまま、無表情で一部始終を見つめている。
「アルベルト」
セレスティアは彼に向き直った。
「あなたは今の演技をどう思いました?」
「問題があると思います」
「どのような?」
「このまま本番を迎えれば、殿下の人間性が疑われます」
「アルベルト!」
ユリウスが悲鳴を上げた。
それでもアルベルトの表情は変わらない。
「もう少し驚いたり、悲しんだりしてくださらない? 観客が無表情では、殿下も演じにくいでしょう」
「驚いております」
「顔に出してくださいませ」
「出しているつもりです」
「アルベルトの驚いた顔は、十年前から変わりませんね」
セレスティアは笑いそうになり、慌てて扇で口元を隠した。
幼い頃から、彼は感情を表に出すのが苦手だった。
だが、決して冷たい人ではない。
セレスティアが転べば誰より早く駆けつけ、疲れていれば何も言わず椅子を用意してくれる。
王太子の婚約者となってからは距離を置くようになったが、必要なときには必ずそばにいてくれた。
その優しさを、自分への特別な感情だと思ったこともある。
けれど、それはあまりに都合のよい考えだ。
アルベルトは誠実な騎士である。
幼なじみであり、王太子の婚約者であるセレスティアを気遣うのは、当然のことなのだろう。
「セレスティア様にも、本気で演じていただいてはいかがでしょうか」
リリアーヌの提案に、セレスティアは我に返った。
「わたくしも、ですか?」
「殿下お一人では、どうしても棒読みになってしまいます。セレスティア様が感情を込めれば、殿下もつられて役に入れるかもしれません」
「私が棒読みなのは認めるのだな」
「事実ですので」
リリアーヌは愛する相手に対しても容赦がなかった。
セレスティアは考え込んだ。
学生時代、慈善公演で何度か舞台に立った経験がある。
演劇は今でも好きだ。
舞台の上でなら、普段の自分では口にできないような言葉も言える。
「分かりました」
セレスティアは扇を閉じた。
「では、婚約者に突然裏切られた哀れな令嬢を演じてみせましょう」
「突然ではないが」
「そこは演技ですわ」
「君は昔から、舞台に上がると人が変わるからな」
「中途半端な演技は観客に失礼ですもの」
「これは練習で、観客はいないぞ」
ユリウスの言葉を聞きながら、アルベルトだけがわずかに眉を寄せた。
「嫌な予感がします」
「奇遇ですわね。わたくしは楽しくなってまいりました」
セレスティアは開始位置へ戻った。
背筋を伸ばして広間を進み、合図に合わせて足を止める。
ユリウスも覚悟を決めたらしく、先ほどより力強い声を響かせた。
「セレスティア・グランベル公爵令嬢!」
セレスティアはゆっくり振り返る。
「私は、君との婚約を破棄する」
手から扇が落ちた。
乾いた音が、広間に響く。
「……殿下」
セレスティアは震える声で呼びかけた。
「それは、真実でございますか?」
「あ、ああ」
「わたくしは、今日まであなたの隣に立つことだけを考えて生きてまいりました」
ユリウスの顔が引きつる。
「あなたのために国政を学び、外交を学び、他国の言葉を覚えました。いつか立派な王妃となり、殿下をお支えすることだけが、わたくしの役目だと信じておりました」
「セ、セレスティア?」
「あなたのために捧げた十年も、耐えてきた孤独も、すべて無駄だったのですね」
「いや、無駄ではないぞ。それに君が婚約を解消しようと言ったのだろう?」
セレスティアは姿勢を戻した。
「そこで現実に戻らないでくださいませ」
「無理だ! 事実と異なりすぎる!」
「殿下は明日、事情を知らない方々の前で演じるのです。もっと役に入り込んでください」
「君が入り込みすぎなのだ」
広間の壁際から、すすり泣く声が聞こえた。
二人が振り返ると、花を飾っていた侍女がハンカチで目元を押さえている。
「申し訳ございません。セレスティア様があまりにおいたわしくて……」
「練習ですから泣かなくて大丈夫ですわ」
「はい……ですが、もう少しだけ続きを聞かせていただいても?」
その侍女の背後には、いつの間にか数人の使用人が集まっていた。
楽師たちまで演奏をやめ、こちらを見ている。
「観客ができたな」
ユリウスが呟く。
「ちょうどよいではありませんか。本番のつもりで続けましょう」
セレスティアは再び悲劇の令嬢の表情を作った。
「殿下。わたくしよりも、その方を愛していらっしゃるのですね」
「ああ。私が愛しているのは、リリアーヌだ」
広間の隅でリリアーヌが一礼する。
セレスティアは涙をこらえるように目を伏せた。
「そう、でございますか」
「だが、君には何の非もない。これは私の心が弱かったために起きたことだ。君を責める者がいるなら、私が許さない」
今度のユリウスの言葉には、しっかりと感情がこもっていた。
セレスティアは満足しながらも、演技を続ける。
「いいえ、殿下を責めてはなりません。人の心だけは、王権をもってしても縛れないのですから」
侍女たちが一斉に泣いた。
気づけば広間の扉が開き、廊下にも人が集まっている。
翌日の夜会に出席するため、早めに王宮へ到着した貴族たちまで騒ぎを聞きつけたらしい。
「王宮で新作劇の先行公演をしているそうだ」
「公爵令嬢ご本人が主演らしいぞ」
「相手役は王太子殿下だと?」
そんな声が聞こえてきたが、セレスティアは止めなかった。
舞台に立った以上、途中で投げ出すなどできない。
「殿下。最後に一つだけ、お聞かせくださいませ」
「なんだ?」
「わたくしと過ごした日々に、少しでも真実はございましたか?」
「もちろんだ!」
ユリウスは耐えきれなくなったように駆け寄った。
「本当に申し訳ない! 君には感謝しているし、これからも大切な友人だと思っている。どうか許してくれ!」
「謝罪が早すぎますわ」
セレスティアは演技を中断した。
「台本では、わたくしが婚約解消を受け入れた後です」
「これ以上続けると、私が人として耐えられない!」
「もう少し冷酷になってくださいませ」
「君にそんな顔をさせられて、冷酷になれるか!」
そこで観客から拍手が起きた。
「素晴らしい!」
「王太子殿下の苦悩が伝わってくる!」
「公爵令嬢の演技も見事だ!」
ユリウスは頭を抱えた。
「なぜ増えているのだ、観客が」
「殿下、せめて最後まで終わらせましょう」
リリアーヌが冷静に促した。
「婚約を解消したセレスティア様が、お一人で退場すると印象がよくありません。誰かに付き添っていただいたほうがよろしいかと」
「父上か兄上が迎えに来るのが自然だろう」
セレスティアの言葉に、リリアーヌは首を振った。
「お二人とも今夜は王宮にいらっしゃいません。代役を立てましょう」
ユリウスとリリアーヌの視線が、同時にアルベルトへ向いた。
アルベルトは一歩後ろへ下がった。
「私は護衛です」
「護衛なら、なおさら適任だ」
「台本にありません」
「今、書き足す」
「殿下」
「失意の令嬢を支え、格好よく退場させるだけだ。君ならできる」
「できません」
「命令だ」
「職権の濫用です」
アルベルトは珍しく抵抗したが、観客はすでに期待に満ちた目で彼を見ている。
ここで拒めば舞台が中途半端になってしまう。
セレスティアは役に戻り、彼に向かって手を差し出した。
「アルベルト。お願いいたします」
その一言で、アルベルトは抵抗をやめた。
彼は重い足取りでセレスティアの前まで進み、差し出された手を取った。
広間のあちらこちらから、感嘆のため息が漏れる。
「何か格好いいことを言え」
ユリウスが小声で指示した。
「聞いておりません」
「今、言った」
「何を言えばよいのですか」
「失意の令嬢を慰めるのだ。君ならできるだろう」
「なぜ私ならできると?」
「君は昔から、セレスティアをよく見ている」
アルベルトが黙り込む。
セレスティアは流れをつなぐため、悲しげに彼を見上げた。
「あなたも、わたくしを哀れだと思っていらっしゃるのですか?」
「いいえ」
アルベルトは即座に答えた。
「あなたを哀れだと思ったことなど、一度もありません」
演技とは思えないほど真剣な声だった。
セレスティアの胸が、かすかに高鳴る。
「では、なぜここに?」
「あなたを愛しているからです」
広間が静まり返った。
セレスティアも言葉を失った。
背後でユリウスが小さく手を打つ。
「そうだ。その調子だ、アルベルト」
だが、アルベルトはユリウスを見なかった。
彼の目は、セレスティアだけを映している。
「幼い頃から、ずっとあなたを愛していました。あなたが王太子妃となると決まってからは、告げる資格などないと思い、黙っていました」
セレスティアの指先が震えた。
これは台本にない。
先ほどのユリウスの指示も、失意の令嬢を慰めろというだけだった。
「それは……練習用の台詞ですか?」
「違います」
「殿下が命じたのですか?」
「違います」
「では、今の言葉は……」
「私の本心です」
アルベルトがセレスティアの手を握る。
「本当は、婚約解消から時間を置くつもりでした。あなたが解放された瞬間につけ込むような真似はしたくなかった」
「それなら、なぜ今?」
「あなたが一人でここを去ろうとしたからです」
「演技ですわ」
「分かっています。それでも耐えられませんでした」
その声に、いつもの揺るぎない騎士らしさはなかった。
「明日、この場にいる誰かがあなたを『王太子に捨てられた令嬢』と呼ぶかもしれない。それが許せなかった。あなたは誰かに捨てられるような方ではありません」
セレスティアは舞台の上でなら、どのような言葉にも返事ができると思っていた。
悲しみも、怒りも、喜びも演じられる。
台本を忘れた相手に合わせ、即興で台詞を作ることもできる。
それなのに今は、一言も浮かんでこない。
「もし許されるなら、今度は私があなたの隣に立ちたい」
アルベルトは彼女の手を取ったまま、片膝をついた。
「セレスティア・グランベル公爵令嬢。私はあなたを愛しています。どうか、私と結婚してください」
観客たちは息をすることも忘れ、二人を見守っていた。
セレスティアはアルベルトの顔を見つめる。
いつも無表情な彼が、今は不安を隠せずにいる。
断られる可能性を、本気で恐れているのだ。
その事実が分かると、急に愛おしさが込み上げてきた。
「アルベルト」
「はい」
「求婚の時期と場所については、最低点ですわ」
「……申し訳ありません」
「婚約を解消する前に求婚なさるなんて、騎士としても問題があります」
「弁解の余地もありません」
「大勢の前で、断りにくい状況を作ったことも減点です」
「はい」
「それに、わたくしがどれほど長く同じ想いを抱いていたかも、ご存じなかったのでしょう?」
アルベルトが顔を上げた。
「同じ、想い……?」
「わたくしも、あなたをお慕いしておりました」
彼の目が大きく見開かれる。
アルベルトがこれほど驚いた顔をするのを、セレスティアは初めて見た。
「まあ。きちんと顔に出せるではありませんか」
「セレスティア、私は……」
「今の求婚には問題が多すぎます。それでも、お断りする理由が見つかりません」
セレスティアが微笑むと、アルベルトはしばらく動かなかった。
「アルベルト?」
「……本当に?」
「何度も言わせるおつもり?」
「いえ。ただ、成功するとは思っていなかったので」
「では、なぜ求婚なさったのですか」
「一生分の勇気を使えば、気持ちだけは伝えられるかと」
セレスティアは思わず笑った。
次の瞬間、大広間が揺れるほどの歓声と拍手が上がった。
涙を流している侍女もいれば、抱き合って喜ぶ貴族たちもいる。
楽師の一人が勝手に祝いの曲を演奏し始め、周囲もそれに続いた。
「よかったな、アルベルト!」
ユリウスまで満面の笑みで拍手している。
「殿下」
リリアーヌが彼の袖を引いた。
「まだ殿下の婚約破棄の途中です」
「そうだった」
「お忘れにならないでください」
「私の婚約破棄より、あちらの求婚のほうが盛り上がっているではないか」
「殿下の演技が地味すぎたせいですわ」
セレスティアが答えると、ユリウスは不満そうに口を曲げた。
「君たちが勝手に台本を変えたのだろう」
「わたくしは変えておりません。アルベルトの独断です」
「申し訳ありません」
「なぜ私に謝る。セレスティアの父君に謝る準備をしておけ。明日には決闘を申し込まれるかもしれないぞ」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
そのとき、固い靴音が響いた。
王室書記官グレゴールが、分厚い記録簿を抱えて進み出たのだ。
彼は先ほどの求婚にも一切表情を変えていない。
「ユリウス王太子殿下、セレスティア・グランベル公爵令嬢」
「なんだ?」
「王家婚姻令に基づき、両名の婚約解消が成立したことを確認いたします」
広間に、再び静寂が落ちた。
「……何?」
ユリウスが首をかしげる。
「ただいまをもちまして、殿下とセレスティア様の婚約は正式に解消されました」
「待て。これは予行演習だぞ」
「存じております」
「では、なぜ正式に成立する?」
グレゴールは記録簿を開いた。
「王家婚姻令の定める条件が、すべて満たされたためです。まず、殿下はセレスティア様との婚約を破棄すると明確に宣言なさいました」
「練習としてだ」
「続いて、解消の理由を説明し、セレスティア様には何の非もないと明言なさいました」
「それも練習だ」
「セレスティア様は婚約解消を受け入れました。そして現在、この場には公爵、侯爵、伯爵を合わせて十九名の上級貴族が把握しております」
いつの間にか増えていた見物人たちが、気まずそうに目をそらした。
「最後に、王室書記官である私が、すべての発言を公式記録として書き留めました。よって婚約解消は有効です」
「予行演習中の発言は無効ではないのか?」
「婚姻令に『予行演習中の発言は無効』という条項はございません」
「そんな抜け穴があるのか!」
「抜け穴ではなく、すべて正規の手順でございます」
グレゴールは無表情のまま記録簿を閉じた。
「おめでとうございます。明日の夜会で婚約破棄を行う必要はなくなりました」
ユリウスは頭を抱えた。
「母上に何と説明すればよいのだ」
「予行演習が成功したと仰ればよろしいのでは?」
リリアーヌが提案する。
「成功しすぎだろう」
「少なくとも、言い間違いはございませんでした」
「私の婚約解消より、アルベルトの求婚のほうが長く記録されている気がするぞ」
「事実ですので」
翌日の夜会では、本来予定されていた婚約破棄の発表が中止された。
代わりにユリウスが壇上へ立ち、セレスティアとの婚約が双方の合意によって円満に解消されたこと、そして彼女に何の非もないことを改めて説明した。
今度は言い間違えることもなく、立派な挨拶だった。
続いてリリアーヌとの関係を明らかにすると、会場から温かな拍手が送られた。
セレスティアもまた、アルベルトに手を取られて会場へ入った。
もっとも、二人の婚約が正式に決まったわけではない。
話を聞いたセレスティアの父は、夜が明ける前にアルベルトを公爵邸へ呼びつけた。
『娘を幸せにできるという根拠を、三日三晩かけて説明してもらおう』
そう告げられたアルベルトは、魔物の群れを前にしたときより青ざめていた。
それでも逃げなかったのだから、今のところ合格だろうとセレスティアは思っている。
「昨日の公演は素晴らしかったですわ」
夜会で、一人の侯爵夫人が目を輝かせながら近づいてきた。
「ぜひ、もう一度見せていただけませんこと?」
「公演ではなく予行演習です」
セレスティアが訂正しても、夫人は聞いていない。
「わたくし、途中からしか見られませんでしたの。婚約破棄の場面から、騎士様の求婚まで、すべて再演していただきたいわ」
「それはよいな」
近くにいたユリウスが、気軽にうなずいた。
「せっかくだから、もう一度やってみるか?」
「お断りします」
アルベルトが即答した。
「求婚を見世物にするつもりはありません」
「だが、昨日は大勢の前でやったではないか」
「あれは事故です」
「大成功だったぞ」
「二度と起こしません」
アルベルトの耳が赤くなっている。
セレスティアは扇で口元を隠しながら、彼の隣へ寄った。
「では、二人きりのときに、もう一度聞かせてくださいませ」
「もう一度、とは?」
「昨日の求婚です。今度は演技と間違えられないよう、最初から最後までお願いいたします」
「……善処します」
「殿下のような棒読みは許しませんわよ」
「努力します」
ユリウスが不満そうな顔で二人を見た。
「私の演技は、それほどひどかったのか?」
「殿下」
リリアーヌが彼の腕に自分の腕を絡める。
「婚約破棄の演技など、上手にならなくてもよろしいのです」
「それもそうだな」
「もう二度となさらないのでしょう?」
「もちろんだ」
ユリウスは胸を張り、広間に響き渡る声で宣言した。
「私は生涯、リリアーヌとの婚約を破棄すると誓おう!」
「殿下」
リリアーヌの声が低くなった。
「今のは『破棄しない』と言うべきところです」
広間中が静まり返る。
ユリウスはしばらく目を泳がせた後、アルベルトを振り返った。
「……明日の夜、予行演習を頼めるか?」
「お断りします」
笑い声と拍手が広間を満たす中、セレスティアは愛する人の手を取り、今度こそ心から幸せそうに笑った。
終幕




