第86話 その場で作る
「その場で作る、だと?」
今度は、トール男爵までもが思わず低い声で驚きを漏らした。
「ええ。ただ、トール殿のこちらに、それに見合う道具と材料があるかどうかは分かりません」
「道具と材料なら心配はいらん。書斎の隣が私の工房だ。普段、私はそこで新しい酒を研究している」
トール男爵はゆっくりと立ち上がった。
その声には、わずかな迷いが混じっている。
「ただ、本当に全員の前でその場で作るつもりなのか?」
彼が疑うのも無理はない。
現実世界であれ、ゲーム内であれ、美味い酒を造るには、長く複雑な工程が必要になる。
それを今、俺はこの場で作れると言っているのだ。
こんな話、まともな人間なら信じがたいと思うだろう。
「酒造りは、短時間で終わるものではないぞ」
案の定、トール男爵は俺にそう忠告した。
今ならまだ引き返せる、という意味だろう。
俺が礼を言おうとした、その時。
アシュビー男爵が先に言葉を奪った。
「コロン殿がその場で披露したいと言うのなら、それは願ってもないことではないか。こちらもちょうど証人役を務められる」
彼はウェバー先生へ顔を向けた。
「そうでしょう、ウェバー先生?」
ウェバー先生は高背の椅子にもたれたまま、冷笑を漏らしただけだった。
返事をするのも面倒だと言わんばかりだ。
その目は、こう語っているように見えた。
好きに足掻け。どう収拾をつけるのか見てやろう、と。
「では、工房をお借りします」
俺は二人を相手にせず、トール男爵へ頷いた。
執事の案内で、俺たちは書斎の脇にある彫刻入りの木扉を抜け、隣の工房へ入った。
中の光景を一目見た瞬間、俺でさえ思わず少し固まった。
ここは作業室というより、小型の錬金工房と呼ぶべき場所だった。
部屋の中央には、大きな橡木の作業台が置かれている。
その上には、大きさの異なる黄銅製の蒸留器、ガラスの計量杯、乳鉢、濾し網、そして様々な留め具が整然と並んでいた。
どの器具も、ぴかぴかに磨き上げられている。
壁際には、高い薬棚が二つ立っていた。
棚は手のひら大の格子に細かく分けられ、それぞれの外側に草薬の名札が貼られている。
反対側は貯酒区だった。
一ガロンしか入らない小さな橡木樽から、人の腰ほどもある大樽までが順に並び、樽の表面には白墨で酒名と年代が記されている。
「どうだ?」
トール男爵は卓上の蒸留器へ手を添えた。
「私の工房は、君の要求を満たせそうか?」
「もちろんです」
俺は我に返り、力強く頷いた。
冗談ではない。
ここの道具なら、酒造りどころか、その場で何種類かの魔力薬剤を精製することだって十分にできる。
「ならば始めてくれ」
トール男爵はそれ以上何も言わず、作業台の奥の位置を譲った。
執事が手早く壁の燭灯へ火を入れる。
暖かな黄色い光が、すぐに部屋全体へ広がった。
俺は作業台の前へ立つ。
他の者たちも自然と、半円を描くように周囲を囲んだ。
「始める前に、一つだけ小さなお願いがあります」
俺は周囲を見回し、落ち着いた声で言った。
「先に皆様で、ウェバー先生が持参した火竜の涙を改めて味わっていただけませんか。あとで俺が作り上げた時、知らぬ存ぜぬと言われては困りますので」
トール男爵はわずかに頷き、執事へ酒を注ぐよう目で示した。
執事は小さなガラス杯をいくつか取り出すと、書斎にあったあの酒壺から、それぞれ半杯ほど注いでいく。
そして、その場の者たちへ配った。
「この酒一本がいくらするか分かっているのか?」
アシュビー男爵は酒杯を受け取りながら、嫌味ったらしく呟いた。
俺は相手にせず、そのまま杯を唇へ運んだ。
酒液が口に入った瞬間、眉が自然と寄った。
違う。
この酒は、確かに火竜の涙特有の淡い緑色をしている。
外見だけ見れば、澄みきって透き通っていた。
だが、味が記憶のものとは明らかに違う。
口に含むと果実の香りがある。
口当たりは柔らかく、滑らかだ。
飲み込んだあと、舌先に淡い温もりが浮かぶだけだった。
しかし、本物の火竜の涙はそうではない。
氷と炎が口の中でせめぎ合うような、極限の刺激。
とりわけ酒液が舌の根に触れた瞬間、火花が舌の上で跳ね、爆ぜるような衝撃。
それこそが、この酒にとって最も重要な特徴だ。
俺はもう一口だけ含んだ。
これで判断は完全に固まった。
アシュビー男爵の言う火竜の涙は、完全な方法で造られたものではない。
これは模造品だ!
そう断言できるのは、ゲーム時代に、俺がこの酒の製法と工程を専門的に研究したことがあったからだ。
目の前の酒は、外見こそ本物にかなり近い。
だが、味は一段どころか、数段落ちる。
「どうした?」
俺が眉をひそめたのを、アシュビー男爵は見逃さなかったらしい。
彼はすぐに酒杯を置き、袖口で口元を拭った。
「コロン殿は味が良すぎて、すでに自分では及ばぬと悟ったのかな?今なら負けを認めても間に合うぞ」
ウェバー先生も、再び髭を撫でながら、ゆっくりと口を開いた。
「若者よ。今、素直に非を認めれば、こちらもそこまで君を追い詰めはしない。なにしろ――」
「たぶん、問題ありません」
俺は相手の言葉を遮った。
隣にいたオリアンの目元が、はっきりと動いた。
それから俺の耳元へ顔を寄せ、声を潜める。
「ご主人様……今、『たぶん』とおっしゃいましたかな?」
俺は説明せず、ただ安心してくれという目を向けた。
そして貯酒区へ向かう。
『赤葡萄酒』と書かれた小樽を見つけると、注ぎ口の栓を抜き、深紅の酒液を陶罐いっぱいに受けた。
陶罐を持って作業台へ戻る途中、俺は横目でウェバー先生を見た。
彼の顔に浮かんでいた得意げな笑みは、もう半分以上消えていた。
吊り上がった口元だけが、まだ顔に貼りついている。
「はは、葡萄酒か?」
アシュビー男爵は、明らかに仲間の変化に気づいていなかった。
今もなお、俺が恥をかくところを楽しみに待っている。
「何か本物の技でもあるのかと思えば、ただ混ぜ物をするつもりだったとはな」
俺は陶罐を作業台の上へ置き、薬棚の前へ向かった。
そこで草薬を選び始める。
他の者たちが気づいたかどうかは分からない。
だが、俺にははっきり見えていた。
俺が草薬を一つ取り出すたびに、ウェバー先生の顔色が一段ずつ白くなっていく。
四つ目の格子から龍牙草の根を取り出した時、彼の身体が明らかに揺れた。
酒杯を握る指にも、急に力が入る。
七種類目の草薬が作業台に置かれた頃には、先ほどまで偉そうにふんぞり返っていた醸造の名匠も、とうとう座っていられなくなった。
彼は椅子から立ち上がり、無意識のうちに数歩前へ進む。
そして作業台のそばで足を止めた。
皺に覆われたその顔からは、すでに傲慢さなど欠片も消えていた。
残っているのは、必死に押し隠そうとしても隠しきれない狼狽だけだ。
トール男爵とアシュビー男爵も、ようやく異変に気づいた。
二人は互いに目を合わせ、それから同時に作業台のほうへ数歩近づく。
俺は、周囲から近づいてくる視線を気にしなかった。
甘草、太陽花、葛根など、八種類の草薬を順に取り出す。
量る。
砕く。
酒液へ入れる。
煮詰める。
薬性が完全に酒の中へ溶け込んだところで、俺は濾し網を使って薬滓を取り除いた。
その後、澄んだ濃色の液体を黄銅の蒸留器へ注ぐ。
下の火炉へ火を入れ、火加減を整える。
俺は一歩退き、腕を組んで静かに待った。
時間が少しずつ流れていく。
蒸留器の出口に、最初の透明な液体がゆっくりと凝り始めた。
やがて、それは下に置かれたガラスの収集瓶へ落ちる。
続いて、二滴目。
三滴目。
途切れ途切れだった液滴は、すぐに一本の細い線へ変わった。
同時に、複雑で濃密な酒香が空気中へ広がり始める。
最初に鼻腔へ入り込んできたのは、清冽な草薬の香り。
続いて、葡萄酒特有の芳醇な果実香。
最後に、ごく淡いが、どうしても無視できない硫黄の気配が一筋混じった。
その場にいた者たちの表情が、ほとんど同時に変わる。
なぜなら、その香りは、彼らがつい先ほど飲んだ火竜の涙とまったく同じだったからだ。




