第16話 別れ
アラレン大陸の各地では、夜はそれぞれ異なる色を帯びている。
溶岩の炎が燃え盛り、絶え間ない鍛冶の槌音が響く溶鋼城。澄んだ笛の音と柔らかな歌声が夜に溶ける、エルフの都。
どの土地にも、それぞれの風情がある。そして、ゼス村の森の夜は――ただ静かだった。
暗闇の中、さらさらと葉擦れの音が低く響き、茂みを伝って広がっていく。その音は、ここで夜を過ごす冒険者たちの周囲を優しく包み込んでいた。
時折吹く風には、かすかな松の香りが混じっている。まるで母の手のように、そっと人の眠りを撫でるようだった。
カッセは焚き火のそばには座らず、少し離れた太い杉の木にもたれかかりながら、手にした長弓を静かに拭いていた。
それは、彼にとって二十年近く連れ添った“相棒”だった。
十八の誕生日、家を出て旅に出ると告げたときの、無口な父のあの表情を、彼はいまでも覚えている。
翌朝、父は庭に立っていたナツメの木を自ら切り倒し、その中でも最も硬い芯材を使って、この弓を作ってくれた。
今の目で見れば、決して出来の良い弓とは言えない。矢台はやや低く、上弓は厚く、弦溝の仕上げも甘い。
それでも、手放すことはできなかった。あまりにも手に馴染みすぎていたからだ。
この弓とともに、彼は未熟な青春を過ごし、人生の底を歩き、そしてやがて家庭を持った。
数年後、妻と娘を連れて故郷へ戻ったとき。
あの広い背中を探し求めた彼を待っていたのは――墓標に刻まれた、見慣れた名前だけだった。
カッセはふと、空になった右脚に目を落とす。そして視線をわずかにずらし、少し離れた場所に置かれた両手斧を見る。
「……はは」
低く笑みが漏れる。
自分は、やはり不吉な人間なのかもしれない。周りにいる者は、誰もがどこかで不幸に見舞われる。
多かれ少なかれ。
「……やめだ」
カッセは軽く首を振った。夜番になると、どうしてこうも感傷的になるのか。歳のせいかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいい。
やるべきことがある。
視線を焚き火の向こうへ向ける。そこには、丸太にもたれかかるようにして眠る一つの影。毛布に付いた小さな露が、呼吸に合わせてわずかに揺れ、橙色の火光をぼんやりと反射している。
カッセの目が、ゆっくりと鋭さを帯びていく。牛筋で作られた弦を静かに引き絞る。繊維が軋む音は、ほとんど聞こえない。
「恨むなよ、小僧。これが冒険者の世界だ」
バン――
この距離なら、蟻一匹でも外さない。
ヒュッ――ドスッ。
矢は毛布の上部に突き刺さる。ちょうど後頭部があるはずの位置だった。
これが、自分なりの最後の情けだ、苦しみのない死。
声は上がらない。
毛布に包まれた塊は、そのまま丸太の向こうへと転がり落ち、静かに動かなくなった。
カッセの心臓は激しく打っていた。胸は風箱のように上下し、荒い呼吸が止まらない。アンデッドプリーストと対峙した時でさえ、こんな感覚はなかった。
しばらくそのまま待つ。やがて呼吸が落ち着くと、彼は弓を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。足を引きずりながら、焚き火へと近づく。
火の上を越えた瞬間、揺らぐ炎が空気の流れに煽られ、無数の火の粉が舞い上がった。
そして視界に入ったのは――
丸太、毛布、そして矢で穴を開けられた背嚢だけ。
「……何だと?」
次の瞬間。
ドスッ――
背中に、何かが突き刺さった。
カッセはゆっくりと視線を落とす。胸元から突き出ているのは、鋭い剣の切っ先。そこには、自分の血が滴っていた。
「お前……」
振り向こうとするが、口から溢れるのは言葉ではなく、血だけだった。
激痛が全身を貫く。体は前へと崩れ落ち、視界は急速に暗くなっていく。
そして最後に、ぼやけた意識の中で見えたのは――
一人の、ローブをまとった影だった。
……
焚き火の光は弱まり、カッセの表情をはっきり捉えることはもうできなかった。
ただ見えたのは、限界まで見開かれ、やがて光を失っていく瞳と、断続的に痙攣する身体だけだった。
私はしゃがみ込み、心臓の鼓動が止まっていることを確かめる。その瞬間、力が抜けたようにその場へと座り込んだ。
……
昨日の時点で、すでに違和感には気づいていた。だからこそ警戒もしていたし、どうか自分の予想が外れてほしいと願ってもいた。
ついさっきまで、同じ戦場を共にした仲間だったのだから。
そして迎えた、今夜。
今夜はカッセにとっての最後の機会であり、同時に――全員にとっての最後の機会でもあった。
だが、彼はそれを掴めなかった。
……
夜が明け、朝靄がゆっくりと晴れていく。
湿った髪が額に貼りつき、目の前には、目を見開いたままのカッセの亡骸があった。
私は一睡もしていない。闇の中では、正体の分からない音が絶えず耳にまとわりつき、名も知らぬ虫が何度も身体を這っていった。
誰も見張りをしてくれる者はいない。だから私は、一人で全員分の夜番を引き受けた。
その間、言いようのない孤独が、ずっと私を包み込んでいた。
仲間もいない。
家族もいない。
信頼できる相手も、言葉を交わせる相手もいない。
ふと、転生前の生活が頭をよぎる。みっともなくてもいい。見下されてもいい。狭いアパートでもいい。
――あの、安定した日常に戻りたい。
「……そうなのか? 本当にそれでいいのか?」
ゲームの中では頂点に立っていた自分が、現実ではこんなにも弱い人間だったのか。
この世界で、それでも信念を貫けるのか。
見知らぬ他人を、再び信じることができるのか。
たとえそこに虚偽があふれていようと。
冷酷なルールが支配していようと。
命の危険が常に付きまとおうと。
――答えは、決まっている。
「当然だろ」
コロンとは、そういう人間のはずだ。
私は思わず額に手を当て、小さく笑った。どうやら、自分は新しい人生を受け入れなければならないらしい。そして、ようやく理解した。
昨夜、矢に射抜かれて死んだのはコロンではない。
――あの世界の“自分”だ。
人は、自分自身を受け入れたとき、初めて何かを手放せるのだろう。
……
カッセの上着の内ポケットから、彼の住所が書かれた紙を見つけた。チカ町からそう遠くない、小さな村。歩けば半日ほどの距離だ。
私は、冒険者のルールに従い、彼の取り分の戦利品をその家族へ届けるつもりだ――たとえ昨夜、彼が私を殺そうとしたとしても。
遺体にはそれ以上触れず、昨夜の荷物を手早くまとめる。
火を消し、私はそのまま山を下り始めた。
……
森を風が抜ける。高い杉の梢が揺れ、葉がさやさやと音を立てる。
カッセは静かに木にもたれかかり、胸にはナツメの木で作られたあの弓を抱いていた。
その姿はまるで――
父と別れた、あの陽の光に満ちた午後へと、帰っていったかのようだった。




