流星王子 17歳の少年王者 沢田 二郎
ライト級という階級は体格的にあらゆる民族がそこに含まれるがゆえに層が厚く、かつてガッツ石松が東洋人初の世界ライト級チャンピオンになったときは大騒ぎだった。ましてや沢田の時代は、東洋チャンピオンが昨今の世界チャンピオンより希少価値が高かっただけに、17歳の東洋チャンピオンの人気ぶりたるや、今日の我々の想像を超えていたはずだ。華やかな世界の甘い誘惑を振り切るには、沢田はあまりにも若く、純朴すぎたのだ。
昭和三十一年四月二日、富山県高岡市に向かう汽車の中で、少年は転寝をしている若いボクサーの手にそっと触れてみた。いつか触れてみたいと思っていたその手は、およそボクシングをしている男の手とは思えないほど綺麗だった。
「彼と同じ汽車に乗っているのだ」少年は改めて実感した。
そう思っただけで嬉しくてたまらなかった。
若いボクサーの名は前東洋ライト級チャンピオン沢田二郎十七歳。そして日倶との帯同興行のタイムキーパーとして同行しているもう一人の少年は、沢田に憧れて前日に新和ジムに入門したばかりの石川圭一十八歳。「第二の沢田」と謳われ、この日からわずか一年半後にはデビューから史上最短で日本ライト級王座に駆け上る次代のホープである。
史上最年少の十七歳一ヶ月で東洋王座に就いた「天才少年」沢田二郎は、未来のチャンプを目指すボクシング少年たちの憧れの的だったのだ。
昭和三十年八月二十五日、約一ヶ月前に東洋ライト級タイトルを奪回したばかりの秋山政司は、圧倒的有利という予想の中、自信満々で初防衛戦に臨んでいた。
挑戦者の沢田二郎はプロ入りしてわずか一年二ヶ月の新鋭ボクサー。
ここまで十四勝二敗(一KO)と好成績は残しているものの、過去に八回戦までしか経験がなく、去る七月二十六日に十九回防衛した日本ライト級タイトルを返上したばかりの大ベテラン秋山が相手では万が一にも勝ち目はないだろうと見られていた。もっともそれ以前に十七歳という年齢が「二十歳未満のボクサーは十二回戦には出場できない」という当時のコミッションルールに抵触するため、タイトルマッチへの出場資格そのものが危惧されていたが、ドクターチェックで二十歳以上の体格と判断されたことで、例外的に試合が認可されたのである。
そもそもなぜこんなグリーンボーイに東洋タイトル挑戦の機会が与えられたかというと、二ヶ月前の五月二十五日に沢田が強豪ウスマン・ソンデン(タイ)に番狂わせの判定勝ちを収めたことによる。
ソンデンは好不調の波が激しく、タイトルとは無縁だったが、二階級上の日本ミドル級チャンピオン辰巳八郎に判定勝ちした経験があるほか、沢田との対戦の直前に、ノンタイトルながら秋山政司をわずか一ラウンドKOに仕留めているほどのスラッガーである。
八回戦とはいえ、ソンデンに勝つというのは並大抵の事ではないが、専門家の多くはフロックと見ており、沢田の潜在能力に気付いていたのは師匠の若松巌会長をはじめとするほんの一握りの業界関係者に過ぎなかった。そのうちの一人が、金子繁治やファイティング原田を育てた名伯楽笹崎僙であった。
昭和三十年七月八日、東洋無敵を謳われる東洋フェザー級チャンピオン金子繁治は、来日した世界フェザー級王者サンディ・サドラー(米)とのノンタイトル戦に挑み六ラウンドKO負けで一蹴されているが、師弟で偵察を兼ねて新和ジムにサドラーの練習を見学に行った際、スパーリングパートナーを務めていたのが十七歳の沢田と、後年安部譲二のペンネームでベストセラー作家となる十九歳の安部直也だった。
世界フェザー級史上最高の強打者であるサドラー相手に、無名のライト級ボクサーの沢田はひるむことなくパンチを振るい、ワンツーをびしびし王者の顔面に決めた。とりわけ右フックはヘッドギアの上からでもサドラーをロープに弾き飛ばすほど強烈だった。パンチの見切りがよく接近戦でのカウンターを得意とするサドラーがこれほど一方的に打たれるのは珍しい。
驚いた笹崎が若松会長に「それにしても、あのパートナー誰です。滅法強いじゃありませんか」と尋ねたところ、「沢田二郎」という聞き慣れない名前が帰ってきた。
実は沢田二郎というのはリングネームで本名は恵谷弘という。東京は江東区深川の生まれで、築地の魚市場で働きながら新和ジムに通う坊主頭の 新国劇の人気役者沢村正二郎にちなんでつけられたものである。
第一ラウンド、秋山は序盤から得意の左フックを振るって前に出ながら先手を取ろうとするが、若い沢田は不用意な打ち合いには応じず冷静そのもの。伸びの良いワンツーが秋山の出鼻によく決まり、歴戦の王者もなかなか攻撃の糸口を見出せない。
試合が大きく動いたのは第二ラウンドである。左ガードが下がった瞬間に沢田の右フックとアッパーを浴びた秋山は、大きくぐらつき場内は騒然となった。沢田にはワンツーとフックという単調な攻撃パターンしかないにもかかわらず、打ち気にはやって振りが大きくなった秋山の左カウンターはことごとくブロックされ、逆に返しのパンチを浴びるという苦しい展開が続く。
フィナーレは四ラウンドにやってきた。沢田の右クロスが綺麗に顎を捉えると、王者はつんのめるようにしてダウン。カウント七で立ち上がったものの、追撃の右ストレートをまともに浴びて二度目のダウン。さらに立ち上がったところに右フックを決められ三たびフロアに転がった。
よろよろと立ち上がった秋山は足元がおぼつかず、自らよろけて倒れたが、何とかファイティングポーズをとり試合は再開。現在ならどう考えてもここでストップのところだが、昔は凄い。決着がつくまでとことんまでやらせるのだ。
最後は沢田の右ストレートで四度目のダウンを喫したところで、レフェリーストップ。四ラウンド二分五十八秒、TKO勝ちで沢田は殊勲の王座に就いた。
沢田の勝因は、ガードを固めてじっくりと相手の出方を伺いながらわずかな隙に乗じて一気にスパートをかけるという冷静沈着な試合ぶりにあった。
まさか十七歳の青二才が初のタイトルマッチの大舞台でこれほど綿密なボクシングが出来ようとは秋山も想像していなかったに違いない。いつになく我を忘れエキサイトした秋山は、まんまと若いチャレンジャーの術中に落ち、自滅に近い敗北を喫してしまったのである。
無名の少年によもやの大金星を献上した大ベテランは、試合直後に涙を流しながら引退を表明した。
この日、東京体育館の二階席に大挙した魚河岸の仲間たちの大声援に応え大偉業を達成した沢田は「ただ夢中でした。自信を持って押しまくれとマネージャーの若松さんに言われたとおりに戦いましたが、まさか四回で勝てるとは・・。練習で一ヶ月キャンプに入り職場の皆さんには迷惑かけちゃって。明日からはまた仕事です」と爽やかなコメントを残し、一夜にして下町のヒーローとなった。
長身でリーチが長く筋肉質な沢田の身体は日本人のライト級ボクサーの中ではひときわごつく、ウエルター級と遜色がない。実際、サドラーとのスパーリングや秋山戦で見せたようにラッシングパワーも相当なもので、ガードの上から打たれてもズシリと重い沢田の腰の入った連打の前では、一流のディフェンスマスターでさえ防戦一方になってしまうほどだった。加えてガードが固く、防御勘もよいとくれば、素質だけなら日本の中量級屈指の逸材といっても過言ではなかった。
「魚河岸のチャンピオン」として一躍世間の注目を浴びる存在になった沢田は、九月十九日に行われたノンタイトル戦で一階級上の日本ウエルター級チャンピオン松山照雄に判定勝ちしたのを皮切りに、十一月一日には赤沼明由(元日本フェザー級チャンピオン)、十一月十八日には風間桂二郎(三ヶ月後に日本ライト級王座を獲得)にそれぞれ判定勝ちを収めるなど中量級のトップクラスを連破。十七歳の怪童は、余勢を駆って挑戦者レオ・アロンゾの地元マニラまで乗り込んで東洋ライト級タイトル初防衛戦に臨んだが、四ラウンドにストップされ、わずか九十日余りのチャンピオン生活に別れを告げた。
東洋タイトルを手放してからの沢田は、まだ十七歳の若さにもかかわらず急速に輝きを失ってゆく。その要因の一つにウエート問題がある。
一七三cmの上背があり骨太で筋肉質の沢田はどう見てもウエルター級の体格である。しかし、日本のウエルター級はまだまだ層が薄いため、ライト級に留まらなければ好カードが組めない。つまり興行上の理由で、ライト級での出場を余儀なくされた時の沢田は、減量苦のせいか動きに冴えがなく、ファン垂涎の好カードと騒がれた東洋フェザー級チャンピオン金子繁治とのノンタイトル戦(昭和三十一年二月六日)では一階級下の金子にいいところなく敗れている。
その代わり、スーパーライトあるいはウエルターでリングに上がった時は、金子をはじめ日本の一線級を総なめにしたアベル・ドンネル(米)に日本人で唯一勝利した(同年八月十七日)ほか、元日本ミドル級チャンピオンの横山守を二ラウンドKOで葬る(十月二日)などベストコンディションの時の強さはいまだ中量級ではピカイチだった。
ところが再起を期待された昭和三十二年四月、日本ボクシング界を震撼させる出来事が起こる。沢田が突如引退を表明したのである。
「ライト級でやるためには、食うものもろくに食えない。これでは身体がもたずボクシングが出来ない」というのが沢田の言い分だったが、若松会長は「ライト級でやれないのは本人の節制が足りないせいだ」と反論し、業界内に大きな波紋を呼んだ。
慌てた各ジムのオーナーは熱海で会合を開き、一度ジムを退会した選手は他のジムへの入会を認めない取り決めを結び、ジム同士が承認したトレード以外は移籍できないことになった。その後まもなく沢田が前言を撤回し両者は和解したかに見えたが、今度はファイトマネーをめぐるトラブルが原因で沢田が十月四日にジムに退会届けを郵送しそのまま失踪するという事件が起こった。
沢田くらいの人気ボクサーともなるとファイトマネーもトップクラスで、タイトルマッチなら五十万以上、ノンタイトルでも十~二十万円が相場であった。ところが前年十二月のゴルザルベス戦から、七月のソムデス・ヨントラキット戦(東洋ウェルター級タイトルマッチ)までの五試合で受け取ったファイトマネーが十六万円程度に過ぎなかったことから、若松会長に不信感を抱いた沢田が新和ジムからの移籍を希望したのだった。
かつて亀田兄弟の協栄ジムからの独立問題が大きな話題になったことがあったが、沢田の移籍騒動は日本ボクシング界初の出来事であった。
結局トレード話はまとまらず、一時はAO拳に身を寄せていた沢田も、会長との再度の和解を経て、新和ジムからの再出発となったが、数々のトラブルを引き起こしたことでいつしか問題児のレッテルを貼られてしまい、一時はその人気に大きな影を落とした。
心機一転した沢田は昭和三十三年五月十三日のエキジビションで八ヶ月ぶりのリングに立ち、日本・東洋ウエルター級二冠王の福地健治とグローブを交えた。
ベストウエートのウエルター級での沢田はさすがに動きが良く、定評のあるディフェンスワークは福地の強打を全く寄せ付けない。右ストレートの伸びも素晴らしく、一ラウンドに二度、五ラウンドに一度、全てカウンターの右で福地からダウンを奪う快勝だった。
六ラウンドで終了のエキジビションでなければ、現役の東洋王者が一階級下から上がってきたばかりの少年ボクサー(この時の沢田は東洋十位)にKO負けという赤恥をさらしていたかもしれない。
超満員のファンの前で完全復活を印象づけた沢田は、六月十日には福地との日本タイトル戦に挑み、KOこそ逃したものの、日本ウエルター級タイトルの奪取に成功した。
ところがここでまた問題が起こった。沢田は晴れて日本ウエルター級チャンピオンになったが、その沢
田に連敗している福地が同級東洋チャンピオンというのはおかしいと、大勢のファンからクレームが寄せられたのである。
つまり、沢田は福地より強いことをリングで証明したにもかかわらず、東洋ランキングでは福地より下の三位に名を連ねており、ランキングが意味を成さないというわけだ。
この問題はかなり紛糾し、一時は福地は東洋タイトルを返上すべきだという声まであがったが、試合の契約が東洋タイトルマッチの十二回戦ではなく、十回戦で行われたことを理由に、コミッショナーは東洋タイトルの移動はないとの査定を下した。
もしかしたら興行側の、ラバーマッチ(同じ相手との三度目の対戦)で盛り上げて、もうひと稼ぎ、という意向を汲んだのかもしれない。十月八日には、今度は東洋タイトルを賭けて福地対沢田の一戦が挙行されたが、さすがに後の無い福地が踏ん張り、かろうじて引き分けで東洋タイトルの防衛に成功している。
十代で東洋二階級制覇(現在の世界二階級制覇より価値が高い)の偉業までは惜しくも届かなかったとはいえ、十二月三日の日本タイトル初防衛戦では韓国の英雄康世哲(後の東洋J・ミドル級チャンピオン)を下すなど、同年は六戦全勝と久々に好調ぶりを示し、後輩の日本ライト級チャンピオン石川圭一とともに新和ジムの二枚看板として存在感をアピールした。
この時期の新和ジムの人気は群を抜いており、『プロレス&ボクシング』誌による昭和三十三年度の人気ボクサー投票では、フライからミドルまでの六階級中、新和ジム所属のボクサーが五階級でトップを独占するほどだった。もちろん、ライト級一位は石川、ウェルター級一位は沢田だが、沢田の得票数は東洋チャンピオン福地の約十倍というから、人気も桁違いだったことがわかる。
ところが翌三十四年四月の防衛戦で品田博に日本タイトルを奪われてからというもの、かつての天才少年は平凡なボクサーに成り下がってしまう。一度失ったタイトルはすぐに再戦で奪い返したものの、KOパンチは全く不発のまま安全運転に徹した消極的な戦いぶりはファンの失望感を募らせただけだった。
中量級の強打者として恵まれた才能を持ちながら沢田のKO勝ちが驚くほど少ないのは、傑出したカウンターパンチャーではあっても、それを狙いすぎて受身にまわるきらいがあり、相手が打ってこない限りは、退屈なダルファイトに終わることも少なくなかったことによる。
身体が堅いという欠点があったにせよ、見るからにファイタータイプの沢田が萎縮したかのようにガードを固めて守りに徹するようになったのは、早すぎた栄光が原因かもしれない。
基本的に打たれ強く、海外遠征で現地のボクサー相手に二度ストップされたことがあるのを除いては、国内でのKO負けは一度も無い沢田は、次第に人気に溺れて試合で手を抜くようになってきた。
日本人のパンチでは倒れない自信もあったのだろう。練習不足で試合に挑んでも勝ってしまうため、タイトルマッチこそタイトルを奪われないようそれなりに真剣なファイトを見せても、タイトルの移動がないノンタイトル戦となると覇気のない試合が続き、昭和三十四年の東洋ウエルター級二位をピークに、選手としては下降線を辿っていった。
落ち目になってもタイトルマッチだけはしぶとく生き残り、昭和三十六年十一月まで足掛け三年余りにわたって日本チャンピオンの座を維持できたのは、本気を出せば中量級で世界に羽ばたける素質があったからだろう。
一見気の強そうな沢田だが、本来は気が小さくてお人よしだという。前述のとおり、沢田在籍時の新和ジムは大そう羽振りがよく、試合が終わると選手たちはよく繁華街に繰り出していたそうだが、気も腕っ節も強い連中だけにヤクザやチンピラとすぐ小競り合いになる。そんな時でも沢田は全く喧嘩に加わらず、鉄拳を振るうのはもっぱら後輩の関光徳(後の東洋フェザー級王者)らの役割だった。
沢田は殴りあいを生業にしてはいても、それは彼にとってあくまでも仕事であって、本質的には魚河岸の人の良いお兄ちゃんのままだったのである。なまじ若くしてスターに奉られてしまったがゆえに、無様な試合を見せられないというプレッシャーが、無名時代のような思い切りの良さに歯止めをかける原因になったのは皮肉としか言いようがない。
引退後の一時期はコーチ業にも精を出していたが、アルコール依存症のため長続きはせず、晩年は千葉の博徒の食客として生活の面倒を見てもらっていた。
肝臓を病んで五十五歳の若さで亡くなった時には、彼を慕っていた組の若い衆たちが「チャンピオン、チャンピオン」と泣いて見送ったというから、ボクサー時代同様、後輩たちの面倒見はよかったのだろう。
かつてはリングの華だった沢田が最後に残したのは、ボクシンググローブだけだったという。
生涯の戦績は四十八勝二十三敗(九KO)四引分だった。
17歳6ヶ月という史上最年少で世界チャンピオンになったウィルフレド・ベニテスも、ほとんど廃人同然となり家族による介護でかろうじて生きながらえていることを思うと、あまりにも若くしてつかんだ栄光は、残りの人生を担保に借りた闇金からの借金みたいなもので、後で法外な利子に苦しめられることを痛感させられる。