第8章 漂う硝煙と消えた証拠
夜の新世界。串カツ屋の暖簾が風に揺れ、立ち飲み屋からは焼けたソースの匂いと笑い声が漏れている。その一角、古びたビルの二階にある雀荘の奥の個室に、氷室は腰を下ろしていた。薄暗い照明の下、灰皿には吸い殻が山のように積まれ、壁際の換気扇は小刻みに震えている。
テーブルの向かいには、髪を七三に分けた中年の男――山崎組若頭補佐の田淵が腕を組んでいた。
「例の“処理”の件、聞いとるやろな」
田淵の声は低く、しかし確実に相手の心臓に刺さる硬さがあった。
氷室は黙って頷く。今回の依頼は、ただの殺しではなかった。標的は、ある半グレの幹部で、先週から行方不明になっている男だ。だが田淵は「死体が出たら意味がない」と言った。警察や報道に嗅ぎつけられることを何より嫌う組は、死体そのものを“存在しなかった”ことにしたがる。
氷室は頭の中で、いくつもの“消し方”を並べていた。
──ドラム缶焼却。
──産廃業者経由での溶解炉。
──山奥での酸浴処理。
いずれも実際に裏社会で使われてきた方法だが、それぞれにリスクがある。今回の標的は体格の大きい男で、しかも全身に特徴的な刺青が入っている。見つかれば、すぐ身元が割れる。
「とにかくな、あいつの存在自体を消せ。やり方は任せる」
田淵は短く言い残すと、ポケットから茶封筒を出して氷室に滑らせた。中には現金がぎっしりと詰まっている。
雀荘を出た氷室は、その足で浪速区の外れにある古いモーテルに向かった。そこは、彼が仕事の下準備によく使う場所で、部屋には簡易の解体用具やポリタンク、強酸の入った容器まで揃えてある。
部屋の隅にはすでに、ブルーシートに包まれた人影が横たわっていた。協力者が先に運び込んでおいたのだ。鼻を刺す血の匂いと、かすかに焦げたような臭気が漂っている。
氷室は手袋をはめ、ブルーシートをめくった。現れたのは、顔面を殴打され骨が潰れた男だった。首筋の刺青が、依頼の標的と一致する。
彼は無言で作業を始めた。電動ノコの音が低く唸り、部屋の中に金属臭が充満していく。窓は完全に塞がれ、外には一切漏れない。
パーツごとに分けられた肉体は、ポリバケツへと移され、強酸を注がれて泡を立てながら溶けていく。数時間後には、骨片すら残らないだろう。
しかし、その最中――廊下から小さな物音がした。
氷室は作業を止め、耳を澄ます。足音は一歩、また一歩と近づき、ドアの前で止まった。
ノックはない。ただ、静寂。
次の瞬間、ドアの隙間からスッと細いワイヤーカメラが差し込まれた。
氷室は即座に動き、カメラを引き抜いて床に叩きつけた。レンズが砕け、赤いランプが消える。
誰かが監視している――。
警察か、それとも他の組織か。
彼は処理を一旦中断し、残りの肉片を急ぎ強酸に放り込んだ。数分後、バケツの中はただの濁った液体に変わっていた。
証拠は消えたが、監視者の存在が新たな不安を呼び起こす。
外に出ると、モーテル前の路地は異様なほど静まり返っていた。ネオンの灯りすらどこかくぐもって見える。氷室は気配を探るが、誰の姿もない。
ただ、アスファルトに一枚の名刺が落ちていた。
拾い上げると、それは大阪府警捜査一課の女性刑事――片桐美沙のものだった。
氷室は、薄く笑った。
これは偶然ではない。あの女刑事は、確実に彼の周囲を嗅ぎ回っている。
そして、次の一手を打つのは――こちらだ。




