第6章 暗渠の底の声
大阪・西成区の路地裏。昼間でも陽が差し込みにくい細い道は、湿った臭気と、かすかなアンモニアの匂いで満ちていた。人ひとりやっと通れるほどの路地を、刑事の三宅梓はゆっくりと歩いていた。
足元のコンクリートには黒ずんだ水たまりが点在し、どこからともなく下水の水音が響く。細いドブ板の隙間から、時折、白く泡立った水がぼこりと湧き上がっては消えていった。
目的地は、地元の人間から「暗渠の巣」と呼ばれる廃屋群の一角だ。数日前、この近辺で立ちんぼの女が一人、遺体で発見された。外傷は少なかったが、首元の圧痕と、体内から検出された強い鎮静剤が決定的な証拠だった。だが、死因を裏付けるにはあまりに不自然な点が多い。
——遺体処理の痕跡が、あまりにも“プロ”すぎる。
三宅は、廃屋の鉄扉を押し開けた。油の切れた蝶番が、甲高く悲鳴を上げる。
中は薄暗く、天井からは裸電球がひとつだけぶら下がっていた。電球の下、膝を抱えて座っている男がいる。痩せこけ、長髪で、右の耳たぶにいくつも安ピンを刺している。精神障害者施設から行方不明になっていた男、中井悟。
統合失調症と双極性障害の診断を受けていたが、同時に、地下格闘サークルや薬物売買にも関与していたという噂がある。
「……誰や?」
中井が顔を上げた。目は血走り、瞳孔は開ききっている。
三宅は腰の拳銃には触れず、低い声で応じた。
「刑事や。あんたに聞きたいことがある。例の立ちんぼ殺しについて」
沈黙が落ちた。外から、ネズミが走る音がする。
中井はやがて、不自然なほど緩慢な笑みを浮かべた。
「……死体は川より、下水の方が楽やねん。川は人に見つかるけど、下水は犬も猫も食うからな」
その声は、乾いた空気に溶け込むように淡々としていた。まるで、殺すことも捨てることも、日常の延長にあるかのように。
三宅は表情を変えず、さらに踏み込む。
「遺体には性病の痕跡もあった。お前、接触したんか?」
その問いに、中井は肩を震わせて笑った。
「そんなん、俺だけちゃうやろ。この辺で働いとる女、だいたい何か持っとる。梅毒、淋病、クラミジア……名前覚えるだけで賢なった気がするわ」
その笑い方に、三宅は一瞬だけ背筋を冷やした。
人間の“底”を覗き込んでしまった感覚。
会話の最中、廃屋の奥から小さな声がした。女の声——いや、呻き声。
三宅は即座にライトを構え、足音を殺して奥へ進む。
薄汚れたマットレスの上で、若い女が両手を縛られ、口にガムテープを貼られていた。瞳はうつろで、焦点が合っていない。
手首の痕跡から見て、拘束は長期間に及んでいる。肌は痩せこけ、ところどころに膿んだ皮疹が見える。
——性病の進行と、薬物依存の症状だ。
「救急を呼ぶ」
三宅が無線に手を伸ばした瞬間、背後で金属の擦れる音がした。
振り向くと、中井が錆びたパイプを手に立っていた。目は、もはや人間のものではなかった。
「刑事さん。見たもん、忘れられるか?」
低く掠れた声。
三宅は迷わず腰の拳銃を抜き、狙いを定めた——。