第5章 腐臭
八月の湿った空気は、ただでさえ重苦しい大阪湾沿いの倉庫街に、さらにねっとりとした膜を張っていた。海から吹く風はほとんどなく、腐臭は空気の層の中で逃げ場を失って淀んでいる。
黒田組の若衆、立花は、倉庫のシャッターを半分だけ開けると、中に足を踏み入れた。床はコンクリートだが、湿気と油で滑りやすく、歩くたびに靴底がぬるりと音を立てる。
中央には、青いターポリンで覆われた大きな塊。そこから、強烈な悪臭が立ちのぼっていた。
立花はマスクを外さず、持ってきた工具箱を開けた。中には、解体用のノコギリ、園芸用の剪定バサミ、ゴム手袋、漂白剤、そして大量の黒いビニール袋。
「やるしかないな……」
声に出すと、倉庫の奥にいた別の男――組の死体処理専門の下請け業者、平沼がうなずいた。年齢は五十代、手の皮膚は薬品で焼けたように荒れている。こういう仕事を十年以上続けてきた男の目は、感情を映さないガラス玉のようだった。
ターポリンをめくると、そこに横たわっていたのは、港区の路上でたちんぼをしていた中国人女性、リィンだった。三日前、客とのトラブルで絞殺された。
彼女はHIVキャリアで、梅毒の治療も途中だった。組としては、警察沙汰にせず、跡形もなく消す必要がある。
皮膚の色は蝋細工のように白く変わり、鼻筋は潰れ、唇は紫がかっている。死後硬直はすでに解け、体液がターポリンに滲み出していた。
平沼はためらいなくゴム手袋をはめ、膝をつくと、関節ごとに関節鋸を当てて切断を始めた。
「頭と胴は別ルートで運ぶ。手足は港に沈める」
平沼の声は淡々としていたが、その動作は無駄がない。ノコギリの音が骨に当たるたび、倉庫内に鈍い振動が響く。立花は目を逸らしそうになったが、吐き気を堪えて薬品を準備した。
漂白剤を溶かしたバケツに切断された手首を落とすと、血の色が化学反応で茶色く変わり、泡を立てながら薄れていく。
「立花、おまえ、こういうの初めてか?」
「……ええ」
「慣れるなよ。慣れたら終わりだ」
平沼はそう言いながらも、手際よく作業を進めていく。
外では港のクレーンが鈍く軋む音。
やがて、頭部は別の小さなクーラーボックスに収められ、胴体はドラム缶の中に押し込まれた。そこへ強アルカリの水酸化ナトリウム溶液が注がれ、ドラム缶はゆっくりと密封される。
立花はこの工程を見ながら、自分がもう後戻りできない場所に足を踏み入れたことを確信した。
「明日には骨も柔らかくなってる。港に沈めたら、もう誰にも見つからん」
平沼はそう言うと、汚れたゴム手袋を脱ぎ、足元に放り捨てた。
倉庫を出ると、外の空気は少しだけ涼しかった。しかし、立花の鼻にはまだ腐臭が残っており、それが彼の喉の奥を締め付け続けた。
湾岸の向こうには、夜景の光がぼんやりと滲んでいた。あの光の下で、普通の人々が普通に生活している――それが、異世界の出来事のように思えた。