第2章 消えた風俗嬢
翌朝、西成の路地は、夜のざわめきが嘘のように静まり返っていた。段ボールを積み上げたバラックの陰では、酔い潰れたホームレスが薄い毛布にくるまり、かすかな寝息を立てている。
昨夜、谷村から渡されたメモをポケットの中で握りしめながら、俺は「三人目」の足取りを追っていた。
名前は——朝倉 美咲。二十四歳。身長一六〇センチ。茶髪のセミロング。
源氏名は「ミオ」。大阪ミナミのセクキャバで数年働いたのち、客付きが落ちて西成の立ちんぼに転落した。戸籍上はまだ奈良県の実家に籍を置いているが、家族とは絶縁状態。
病歴には淋病、クラミジア感染歴あり。最近、梅毒の検査を受けた形跡はない。
俺はまず、美咲が住んでいたはずの簡易宿泊所に向かった。
受付のカウンターにいた老人が、タバコの灰を落としながら面倒くさそうに答える。
「ミオか? 二週間前に部屋空けてしもうたわ。荷物もほとんど残ってへんかったで」
「誰か迎えに来た形跡は?」
「うーん、夜中にな、黒いワンボックスが止まっとったんは見た。窓ガラスにスモークかかってて、中はよう見えんかった」
老人の声は眠たげだが、その眼だけは何かを知っているように細く光った。
荷物の残りを見せてもらうと、古びたキャリーバッグの中には、二着の服と安物の下着、使いかけの避妊具が一箱。だが、化粧道具や身分証明書は消えていた。
現金も、携帯電話もない。あまりに“きれい”な消え方だった。
次に、彼女がよくいたという交差点角の立ちんぼスポットへ足を運んだ。
日中の路地は妙に乾いた空気で、夜の猥雑さが薄れている。代わりに、昼間からビールを煽る中年男と、安物のワゴンで唐揚げを売る屋台が目立つ。
屋台の女将が、俺の顔を見るなり言った。
「あんた、警察か?」
「元や」
「……ミオのことやろ?」
俺は無言で頷く。
女将は唐揚げを油から引き上げ、紙袋に入れながらぽつりと話し始めた。
「三人のうち、あの子が一番マシやった。酒癖も悪くないし、客も選ばへんかった。でも……あの晩は様子が違った」
「晩?」
「消える二日前や。背の高い男が来てな、ずっと路地の端で立っとったんよ。黒いコート、黒い帽子。口数は少ないけど、あの子にだけ何か言うてた」
「何を?」
「さあ……でも、あの子、帰るとき笑ってなかった。いつもなら『おばちゃん、また明日ね』って言うのに、その日は無言で消えた」
女将の話を聞きながら、昨夜の谷村の言葉が頭をよぎる。——背が高くて、声が低い男。
偶然じゃない。
西成署の旧知の刑事、佐伯に連絡を入れた。
「例の風俗嬢失踪の件、動いてるか?」
電話口の佐伯は、ため息交じりに答えた。
「動きようがない。家出人扱いや。遺体も証拠も出てへんし、誰も本気で捜索なんかせんわ」
「三人も続けてやぞ」
「知ってる。でも、署の上は“裏の話”に触れたがらん。堂島組が絡んどるやろ」
通話が切れる前、佐伯が小声で付け加えた。
「探偵さん、深入りすんな。今回はマジで、引き返せんぞ」
午後、俺は谷村に再び会うため、堂島組の事務所がある萩之茶屋へ向かった。
事務所前には黒塗りのクラウンが二台停まっている。入口には二人の若衆が立ち、俺を見ると無言で中に通した。
薄暗い応接室に谷村はいた。壁には組の代紋、テーブルの上には開封された封筒と札束。
「美咲の件、進展あったで」
谷村は封筒を押し出した。中には防犯カメラの静止画——路地を出る美咲と、その後ろにぴたりと付く黒コートの男。
「こいつ、噂じゃ“処理屋”らしい」
「処理屋……遺体を?」
「せや。堂島組ですら、こいつの仕事の中身は知らん。噂じゃ、薬品と海、両方使うらしい」
画像の男は、帽子の影で顔が見えない。それでも、その立ち姿には妙な静けさがあった。周囲の喧騒から切り離されたような空気——普通じゃない。
その瞬間、また幻聴が耳の奥を掠めた。
“お前も、見られてる”
俺は静かに封筒を閉じた。美咲の失踪は、単なる売春婦の行方不明ではない。背後にはもっと大きな何かがある。
そして、それは確実に俺の方へ近づいてきていた。