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第12章 崩れゆく均衡


 夜の大阪湾岸沿い、錆びついた貨物倉庫の奥に、ぽつりと黄色い照明が灯っていた。倉庫の前には無数のコンテナが積み上がり、外からは中の様子をうかがうことはできない。海から吹き込む湿った風が、潮と油の匂いを運び、重苦しい空気を纏わせていた。


 倉庫内では、ヤクザの幹部数名と裏稼業の仲介人が集まっていた。彼らの目的は、密かに流通し始めた新型合成麻薬「カストリ(KASTORI)」の次の取引計画だ。既に大阪ミナミの風俗街と歌舞伎町の一部では、この薬による“異常な事件”が複数報告されており、警察の目も厳しくなっている。


 長机の端に座っているのは、黒いスーツを纏った藤森――組内では冷徹な交渉人として知られ、相手の弱みを掴むことに長けている男だ。藤森は煙草に火をつけ、深く煙を吸い込みながら、隣に座る若頭補佐の石黒を睨んだ。


「石黒、例の“処理”はどうなってる? 港区でやらかした件だ」


 石黒はグラスの氷を弄びながら、ゆっくりと答える。


「遺体は例のルートで処理した。臓器を抜けるだけ抜いて、あとは産廃業者に流した。跡は残ってないはずだ」


 その場にいた何人かが、苦笑とも不快ともつかない表情を浮かべた。遺体の処理方法は、現場ごとに異なる。溶剤で骨まで溶かすケースもあれば、地方の養豚場に運び込むこともある。だが今回の手口は、あまりに露骨だった。


「抜いた臓器は?」


「上海行きのコンテナに乗せた。医療ルートじゃなく、闇医者経由で。数は少ないが、質が良かったから高く売れる」


 藤森は小さく頷き、机に指先をトントンと叩いた。その音が倉庫の薄暗い空間に響く。


 一方その頃、南署の捜査会議室では、刑事の美咲が白板に地図を貼り、事件の関連地点を赤いマーカーで結んでいた。彼女の目は鋭く、疲れの色を見せない。今までに浮かび上がった死者は八人、全員が何らかの性病に感染していた。しかも、感染経路が通常では考えられないものばかりだ。


「つまり、この死者たちは全員、カストリの常用者か、その供給ルートに関わっていた可能性が高いってことね」


 隣に立つ巡査部長の桑原が腕を組んだ。


「でも、どうやって感染が広まってるのかが不明です。風俗店、立ちんぼ、デリヘル……すべての経路を洗いましたが、特定できません」


 美咲は唇を噛み、地図のある一点を見つめた。それは湾岸沿いの倉庫群。捜査線上に何度も浮かび上がりながら、決定的な証拠が掴めない場所だった。


 その夜遅く、美咲は単独で湾岸に向かった。雨が降り出し、アスファルトに打ちつける水滴が街灯の光を反射していた。彼女は遠くから双眼鏡で倉庫を覗き、黄色い灯りの中に見える人影を数えた。六人……いや七人。中には見覚えのある顔があった。過去に風俗店の性病事件でマークした密売人だ。


 その時、背後で小さな水音がした。振り返ると、黒いパーカーの男が立っていた。顔はマスクで覆われ、手には細いナイフが光っている。


「刑事さん、そんな所で何してるんすか?」


 美咲は瞬時に腰の拳銃に手を伸ばそうとしたが、男の動きは早かった。ナイフの刃先が彼女の頬をかすめ、冷たい感触が皮膚を裂く。


 痛みよりも先に、全身に広がる冷たい恐怖。だが、美咲は目を逸らさなかった。その視線の強さに、一瞬だけ男の動きが止まった。


「……消えてもらいますよ、刑事さん」


 雨音が急に強まり、世界が歪んだように感じられた。次の瞬間、遠くからクラクションの音が響き、男が振り返った。その一瞬の隙をつき、美咲は男の手首を掴み、全力で捻った。


 ナイフが地面に落ち、金属音が夜に響いた。だが、男は抵抗する間もなく後退し、闇の中へ消えた。


 残された美咲は、頬の血を拭いながら息を整えた。倉庫の中では、まだ黄色い灯りが揺れている。

 ――均衡が、崩れ始めていた。

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