第十一章 ——火種の行方——
夜の新今宮駅前は、独特の匂いに満ちていた。焼き鳥の煙、立ちんぼ女が纏う安物の香水、漂うアルコール、そして何か焦げ付いたような匂い。すべてが雑多に混じり合い、この街の夜を作っている。
藤崎はロータリー脇に停めた黒のクラウンから降り、コートの襟を立てた。目の前の路地には、立ちんぼの女たちが客引きの声を潜めながら立っている。街灯の明かりに照らされた顔は、化粧の下に深い疲れと諦めが刻まれていた。中には、口元や手の皮膚に明らかな梅毒の兆候を見せている女もいる。
藤崎の視線は、その奥のスナック「沙羅」に向けられていた。木製のドアの前には、スーツ姿の男が一人、腕を組んで立っている。顔には見覚えがあった。大国組の末端構成員、沖田。以前、北浜のラブホテルで殺しの片棒を担いだ前科を持つ男だ。
「藤崎さん……久しぶりですね」
沖田は薄い笑みを浮かべ、しかしその目は笑っていなかった。
「ここで何の用だ?」
藤崎が低く問うと、沖田は一瞬だけ目を逸らし、
「上の指示でな。あんたに会わせたい奴がいる」
と言ってドアを押し開けた。
店内は、場末のスナックらしい暗さと、強すぎる芳香剤の匂いで満ちていた。カウンター奥に、恰幅のいい男が座っている。紺のスーツに派手な金のネクタイ、大国組若頭補佐の東条だ。藤崎はこの男と会うのは初めてではなかった。だが、今日の東条の顔つきは、以前よりも冷たく、計算高い光を宿している。
「藤崎。最近、あんたの周りが騒がしいな」
東条はグラスのウイスキーを揺らしながら言った。
「俺の周りが、じゃない。街が騒がしいんだ」
藤崎が応じると、東条は小さく鼻で笑った。
「港区で例の“カストリ”がまた出回った。あれはウチのシマじゃねえ。けど、流通ルートに妙な名前が出てきた。……高槻の精神科医、覚えがあるだろ」
藤崎は眉をひそめた。数年前、双極性障害の患者を使って違法実験を繰り返していた医者だ。警察が押収に入ったが、証拠不十分で不起訴になった経緯がある。
「そいつが、今度は新今宮で何かやってるらしい。立ちんぼ女や知的障害者を“モルモット”にしてな」
藤崎の喉が、わずかに鳴った。
「で、俺にそれを追えってか?」
「そうだ。だが気をつけろ。そいつはヤクザじゃない。だからタチが悪い」
そのとき、ドアが乱暴に開いた。若い男が転がり込むように店内に入り、息を切らせて東条に耳打ちした。
「……死体が、出ました」
東条の表情がわずかに変わった。
「どこだ」
「動物園裏の廃アパートです。全身の皮膚がただれてて……医者じゃなきゃ、あんな状態には……」
藤崎は無意識に拳を握った。事件はすでに始まっている——いや、もっと前から火種は撒かれていたのだ。
外に出ると、夜の風が妙に冷たかった。路地の奥で、立ちんぼの女が客に笑いかける。その顔の頬に、白い粉を吹いた皮膚が見えた。梅毒か、あるいは——もっと別の、未知の病か。
藤崎は歩きながらポケットからスマホを取り出し、ある番号に発信した。
「……お前の出番だ。例の医者を洗え。遺体の処理方法、感染経路、全部だ」
相手は短く応え、通話が切れた。
その瞬間、街の騒音が遠く感じられた。だが藤崎の胸中では、すでに次の死の匂いが、はっきりと形を持ちはじめていた。
西成の路地裏は、夜になると別世界のように息づき出す。昼間は炊き出しや安宿に群がっていた人々が、夕闇の中で金を求め、薬を求め、身体を売り、そして命を落としていく。
藤堂と真希は、錆びたシャッターが並ぶ細い路地を歩いていた。目的地は、北野組の裏ルートで流通している覚醒剤と、新たに噂が広がっている合成麻薬「カストリ」の保管場所だった。だが、その倉庫にたどり着くまでに、予想外の人物が彼らの前に現れる。
「……お前ら、こんなとこで何してんだ?」
声の主は、ヤクザ崩れの元幹部・村瀬だった。頬はこけ、目の奥に宿る光は濁っている。左手の薬指が途中から欠けており、右腕にはタトゥーの蛇が絡みついていた。
「村瀬……まだ生きてたか」藤堂が低くつぶやく。
「お互い様や。こっちは今じゃフリーやけど、あの倉庫には近づかんほうがええぞ。あそこ、今は北野組だけやない」
「どういう意味だ?」
村瀬は、周囲を警戒するように視線を走らせ、小声で続けた。
「カストリの件に、外国人グループが絡んどる。ロシアと中国、それに東南アジア系や。金も武器も持っとる連中やから、素人は一晩で消されるで」
真希は眉をひそめた。彼女は刑事として多くの修羅場をくぐってきたが、異なる国籍の犯罪組織が同時に絡む案件は、予測不能なほど複雑になることを知っている。
藤堂も同じだった。だが引き返す選択肢はなかった。
「村瀬、その情報……ただで教えてくれるのか?」
「ただやない。俺を次の取引の場に連れてけ。証拠はお前らが持っとけ。俺は新しい居場所を見つけたいだけや」
藤堂は一瞬考え、真希と視線を交わす。彼女の瞳には、わずかながら承諾の色があった。
路地を抜け、三人は港湾地区の外れにある古びた倉庫へ向かった。夜風に混じって、油と海水の匂いが鼻をつく。倉庫の外壁には落書きがびっしりと描かれ、割れた窓ガラスから漏れる光が、ぼんやりと足元を照らす。
藤堂は耳を澄ませた。中から低い笑い声と、金属を擦る音がする。銃を整備しているのだ。
「……入るぞ」
真希が頷き、村瀬は息を殺した。
扉を押し開けた瞬間、異様な光景が飛び込んできた。
中には北野組の若い衆だけでなく、ロシア系の大男と中国語を話す男たちが混じり、テーブルの上には銀色の真空パックに詰められた白い粉が積み上がっていた。さらに、見慣れない虹色に輝くカプセル――カストリだ――が並んでいる。
その傍らで、椅子に縛られた男がうめき声を上げていた。顔は殴られ、腫れ上がり、鼻血が床に滴っている。藤堂は、その男を見て息を呑んだ。
「……新井か」
新井は、数週間前まで藤堂の情報屋だった。裏切りの末に姿を消していたが、まさかこんな場所で捕らえられているとは。
「おやおや……珍しい客だな」
ロシア系の男が片言の日本語で笑った。手には銃、腰にはナイフ。背後では中国人の若い男が、まるで遊び半分のようにカストリのカプセルを弄んでいる。
「ここで会ったのも何かの縁だ。お前ら、取引に参加していけ」
藤堂は即座に状況を計算する。武装した敵は最低でも七人。自分たちは三人、しかも村瀬は信用できるか分からない。
真希はわずかに前に出て、冷たい声で言った。
「取引の条件は?」
ロシア男は口角を吊り上げた。
「簡単だ。カストリのサンプルを持ち帰る代わりに、この裏切り者の処分を手伝え」
空気が凍りついた。
藤堂は迷った。新井を救えば、組織全体を敵に回す。見捨てれば、確実に命を奪われる。
その時、村瀬が静かに一歩踏み出した。
「……俺がやる」
彼の声は低く、しかし揺るぎなかった。




