第1章 大阪・西成の夜
西成の夜は、湿った匂いが漂っていた。真冬のはずなのに、路地裏の空気は妙にぬめり、鼻腔にこびりつく。腐りかけた段ボールと油まみれの鉄板、そして安酒の吐瀉物の匂いが混じり合う——この街の匂いだ。
釜ヶ崎から少し外れた細い路地。裸電球に照らされる壁際には、数人の女たちが立っていた。派手な化粧は、近くで見ると粉が吹き、口紅はにじんでいる。年齢は二十代から四十代まで様々。中には顔色が土のように灰色で、咳を繰り返す女もいた。
その足元には、安物のブーツと、擦り切れたパンプス。冬の冷たいアスファルトに、ヒールの音が乾いた響きを立てる。
「お兄さん、遊んでかへん?」
声をかけてきたのは、髪を脱色しすぎて毛先がちぎれたような女だった。笑顔の奥に、どこか焦りと諦めが混じっている。
俺は足を止めなかった。昔、この通りで警察官として立ちんぼの検挙に立ち会ったことがある。性病の感染率が高く、梅毒やクラミジア、淋病は当たり前。中には、HIV陽性を自覚しながらも金のために立つ女もいた。
——そして、ほとんどがどこかの組に上がりを納めている。
「今日は寒いな」
ふと背後から声がした。振り向くと、黒いコートに身を包んだ男が立っていた。短髪で、頬には浅い刀傷。堂島組の若衆、谷村だった。
「探偵さん、また調べもんか?」
俺は軽く頷く。
谷村は笑いもせず、煙草をくわえたまま立ちんぼの列を眺めていた。
「この辺、最近、嬢が二人消えたん知ってるやろ?」
俺はその言葉に眉をひそめた。
「警察は事件性なしやと?」
「せやけど、遺体が出てへんだけや。俺の勘じゃ、もう海の底やろな」
谷村の声は低く、確信を帯びていた。西成で人が消えるのは珍しくない。金を踏み倒した、薬のツケを払えなかった、組のルールを破った——理由は山ほどある。
遺体の処理は早い。浴槽で塩酸を使うやり方、工場の焼却炉に放り込む方法、あるいは解体して港のコンテナに忍ばせる方法。谷村はあえて詳しくは言わなかったが、その目は全てを知っている目だった。
「最近、梅毒が増えてるらしいな」
俺が話題を変えると、谷村は口の端をわずかに上げた。
「せやな。まあ、感染した嬢はすぐ“廃棄”や」
廃棄——その言葉は、モノに使うはずの冷たい響きだった。ここでは人間も商品と同じだ。
路地の奥で、立ちんぼの一人が客と揉めていた。客は酔って声を荒げ、女の腕を乱暴に引っ張っている。数秒後、別の影が現れた。スーツ姿の男、耳にインカム——堂島組の見張り役だ。彼は何も言わず、客の首を片手で掴み、路地裏に引きずり込んだ。
しばらくして、何事もなかったように戻ってくる。女は口紅を塗り直し、また客待ちの列に戻った。
谷村はそれを見届けると、ポケットから小さなメモを取り出した。
「お前、これ知っとけ」
そこには、三つの名前と日付が書かれていた。どれも、この一ヶ月で消えた女たちのものだった。
「全部、同じ日に“最後の客”が付いとる」
「同じ客……?」
谷村は頷く。
「名前はまだ分からん。ただ、背が高くて、声がやたら低いらしい」
その瞬間、俺の背筋を冷たいものが走った。幻聴が耳の奥で囁く——
“また、ひとり消える”
西成の夜は深まり、立ちんぼの列は途切れない。街灯に照らされた女たちの顔は、笑っているようで、笑っていない。
どこかで、また見えない取引が交わされ、消える命がある。
そして俺は、またその渦の中へ足を踏み入れることになるのだった。