途切れ時間にみた夢
カリカリと小気味よい音が続く。
手を止めて天井を見た後、万年筆に目を向けた。
その昔、彼女からもらった万年筆。
書きたい気持ちになるこのペンで、ずいぶんと長い期間、日記をつけていた。
忘れられない想いばかりが綴られた日記
同仕様もなく、恥ずかしい負の遺産のようでいて、『アオハル』という言葉が使われる昨今なら、まるでそのものとばかりの、青い言葉で溢れた、今となっては捻り出すことすら出来ない想いが詰まっていた。
『小説でも書こうかな』なんて口にしながら、そんな技術が全然無いという事実に打ちのめされてきていた。
結婚式場でカメラマンをしている傍らで書き連ねた文章は、無理に創り出した世界で、キャラクターも曖昧。
舞台も、そして、何が言いたいか、伝えたいかがわからないままだった。
『もういいわ〜』と想いながら、ずっとつけていた日記は3冊程になっていて、『3年日記』だから、毎年、似たような時期に、同じような事を想っている事に気づいてしまった。
それは、2冊目の初年と3冊目の初年は、日記は真っ白だから、前年の言葉に影響を受けないのに、同じ様に、似た想いが綴られていたからだった。
こんなにもまだ、君がそこにいたままなんだな、と。
それだけ忘れられない想いを、持ち続けられる理由。
そんな女性、いますか?いませんよね?
魅力的なキャラクター。ただ恋をして失恋したつもりだった恋。
そしてまだ終わらせていない想い。
だからまだ僕は失恋していないんだよ、と、ずっと綴られていた日記の日付は、君の誕生日だった。
君のことなら、何ページだって書ける。
小説家でなくていい。君を自慢したくなったから、ペンを取った。
万年筆にまた目を向けて、彼女との日々を、久しぶりに思い出したきっかけの続きに戻る事にする。
交差点で、同じ服を着た女性とすれ違った事を思い出しながら電車に揺られる。
地下のターミナルから一駅過ぎるとトンネルから地上にそして高架へと、一瞬で景色が変わる。
高校時代は、この路線はターミナルを出れば、程なくトンネルを抜けて地上を走っていた。
ゆるゆると長い坂の先に地上に出て、ひと駅越えた先にある、JRの高架をくぐり抜けて高架へと景色を映していたのだが、都会の地上を走るという事は、その間にある踏切が、開かずの踏切として渋滞を引き起こし、社会問題となっていた。 対策としてJRの高架のくぐり抜けたそのまま地下に入って行くことになり、一つの駅が地下に降りた。
かつての古いトンネル出入りは緩やかに坂が続き、ガタンゴトンという音の変化と共に、地下にそして地上に。
出入りの際には水に潜ったり浮きあがったりするような感覚があって、いつもその感覚に身を委ねていたようにおもう。
あの世とこの世の行き来にも似て。
そういう日々の中で彼女に出会った。
中学生から高校生への大きな変化を一番感じた事といえば、通学が徒歩から電車へと変わった事だった。
父が使うように、自分も憧れだった定期券で改札を通ることで、連れられて見ているのではなく、自分で見る景色に、『大人になったな』と実感しきりの新入生の春だった。
学校はそんな楽しみに十分浸るだけの時間の先にあり、毎日が遠足レベルの距離。
同じ中学からは、他に通う生徒はおらず、また、その距離以上に始業時間の早さから、朝の電車には同窓生の姿どころか、高校生自体と乗り合わせる事もなく、思う存分にひとりの時間を楽しんでいた。
ゴールデンウィークを過ぎる頃には、そんな楽しみと、クラスでの新しい環境にも慣れ、同窓のしがらみもない分、新しい友人も、席が近いやら、話しやすいやらで築き上げ、浅くも深くもない関係性を構築しつつあった。
高校での初期の友人づくりに失敗はしなかったが、結果としては、僕の地元は高校からは遠く、駅に着けば反対方向の電車に乗るか、同じ方向でも、皆2つ3つ先の駅で降りて行く為、わざわざ急行には乗る必要はなく、下校時はいつもひとりになっていた。
とはいえ、中学校から唯ひとりの高校を選んだのは自分なわけで、さみしいと思うこともなく、物思いの時間、束の間の睡眠、音楽への没頭などなど、楽しみ方は、いくらでも用意できていた。
5月になれば、朝が少しずつ早くなり、駅のホームに差す光は随分と強くなっていた。
こんな日はプールに入りたくなる。
小さい頃からプールが大好きだった。陽射しが強くなれば、夏を想ってプールが恋しくなる。
ホームを学校に向かって歩きながら、クラブ活動選びについて、想いを馳せる。
中高一貫の私立高校ではあったものの、内部進学者を含めて、4月にはクラブ活動への参加は認められていなかった。
高校生になれば甲子園を目指す事が出来る。
この時代の、かつて男の子であったらば、高校野球に憧れない男子は少なかったはずだ。それが運動神経によって疎外されていたとしても。
どうせ入ってもなぁ、と野球部での自身を想像してみたが、上手くはいかなかった。
今朝の暑さは、夏を思わさせる。
毎年、季節よりずいぶんと早い時期に、来る季節らしい気候になる事がある。
実際に水に入れば、まだまだ冷たくて、泳ぐレベルには程遠いとしても、泳ぎたいな、と想ってしまう。(他の高校ではすでにこの時期にプール活動があって、同仕様もなく寒いらしい事を、のちに知った。無い物ねだりで済んで良かったと想う)
やっぱり水泳部にしよう、と決める事にした。
中学時代も同じ。
『夏に涼しいクラブ活動≒水泳部』
元々、入学前に一番興味を持った事は、この学校には50mプールがある、という事だったのだから。
ゴールデンウィークを明けた昨日の放課後『やっと体を動かせるわ〜』何人かの内部のクラスメイトが、下駄箱ではなく部室へと向かっていた事を、中高一貫校なのになぁ、という気分と共に思い出す。
おはよう、と、一緒の電車になった幾人かのクラスメイトに挨拶をしながら、教室に向かった。
各クラブ紹介のイベント等は無い学校だったので、教室での案内と廊下に掲示された各クラブのポスターで活動時間を確認して、放課後に、プールの更衣室へ行くことにした。
この日に集まった新入生は3人だった。
ひとりはすでに、昨日から参加していたらしい。
各競技の人気の格差というか、そもそもクラブ活動への参加率が低く、大半以上が受験勉強の為の予備校通い、という学校においては、入部受付開始2日目で、この人数は、そこそこの様子だった。(2年生は6人。2年の夏の終わりで引退となるクラブに
おいては、3年生は遊びで顔を出している。)
高校によっては4月中に屋外プールで練習を開始する高校もあるというものの、どこかのんびりした郊外の学校は、プール開きも遅く体育館での体力強化やランニングでの基礎訓練がこの時期の活動で、顧問の先生も練習に参加する事は無く、先輩が指導するシステムには、驚くとともに、随分と楽なメニューだったので、また驚いた。
ランニング、筋力トレーニングといったメニューが進み、1時間程過ぎた。
ランニングと言っても何故かまあまあ広大と言える程度に広い敷地を持つ学校の外周を走るわけではなく、体育館2階のスロープをぐるぐる周り、ポスターに書いてあった活動時間の終盤にさしかかった頃、『せんぱーい、遅くなりましたぁ』と、ケラケラと笑いながら女子生徒がひとり体育館に入ってきた。
『今ごろ、なにしに来た?』と強面の3年生の言葉に『え〜っ、インターアクト終わってすぐに来たのに、言い方ひどくないですかぁ』と、あっけらかんと笑いながら返している。
『とりあえず10周走ってこい』と言われて、『は〜い』と、走り出した。
『背が高いなぁ』と、金髪?この学校で?と思うほど、傾きつつある西陽に透けて明るい茶色の髪は、キラキラと金色に輝いて見えた。
『こら、松原。しっかり走れ』と声をかけたのは2年生の先輩。
最初に部長との会話から上級生だと思っていたものの、どうやら内部生の1年生だと気づいた。
無理。絶対にあわへんわ。
そんな事を思いながら、その後、トレーニングの道具を片付けて、部室を出た。
先輩には男子が多いものの、1年は女子ばかりになりそうだ。
中高一貫の為に、中学生も一緒にトレーニングしているため、新入部員なのに後輩がすでにいるというのは変な感覚だが、中学3年生は受験組もいるので、男子が不参加。他すべて女子とのことで、周りの男子が騒ぎ立てたとして、実際に泳ぐ時に女子を意識することはない。
この辺りは、健全な男子であるにもかかわらず、不思議なもんだと、他人事のように思う。
先輩達とは駅まで一緒に歩き、ひとり反対方向の電車に乗っていると、松原さんが突然隣に座ってきた。
スラリとして見えるものの、背が高い分、体重が軽すぎるということはない。
そんな彼女が、勢いよく飛んできたのだ。
この椅子は、高級ホテルのふかふかベッドでは決してない。
たしかによその電車に比べればはるかにクッション性が良い、と、鉄道関係の書籍には書いてあった。
だとしても、だ。
一応、お嬢様学校ということになっている。
(だからこそ、金髪並みの茶色い髪に驚いたのだ。)
また、分別のわからない小学生という訳でもない。
それがいきなり
視界に陰がさした気がして、顔を上げたら
5月に入って合服になった白いシャツに紺色のスカートをはためかして、飛んできたのだ。
文字通りのジャンプ
そのまま空中で回転してきっちりと、おしりからシートに着地。
体は跳ねるものの、両手を広げて10点満点、と言いたいところ、彼女の右手がきれいに胸元を叩いてきた。
『カゲヨシっていうんやんなぁ?』
『水泳部に入るん?』
突然胸に水平打ちを喰らったと思えば、矢継ぎ早に話しかけてくる。
『とりあえず、かげよし、な。』
『イントネーションが違う。うしろあげたら名前みたいに聞こえる。』
『かげよし。うしろ下げて発音して』
『そんなん、どうでもいいやん。さなえは、カゲヨシって呼ぶわ。うん、決めた。』
そう言って、どこか胸をのけぞらして誇らしげに宣言した。
『どうでもいいわ、好きにしいな』と言い放っておいた。
そもそも
初めてのクラブで緊張もあり、先輩とも反対方向になったことで、将来的にはさみしいと思うこともあるかもしれないが、今日に関してはひとりになれて、ほっとしていたところだったのだ。
電車のドアが閉まる。
この駅が始発になる各駅停車は、時にしばらく先の急行停車駅まで先着になる事もあり、ゆっくり座って帰りたい時には、よく乗っている。
また、ほぼ一車輌貸切なんて事もあり、今日がまさに貸切状態だった。
3つ目の駅で、彼女は立ち上がり
降りるのかと思っていたら、おもむろに『立って』と言われたので、反射的に立ち上がってしまった。
『はい』と言われて手を引っ張られた後ろで、電車のドアが閉まる。
『おい』と言いながら、ゆっくりと動き出す電車を見るとはなしに見る
何なんだいったい。
疲れている事、あったばかりで全く知らない人間で、ましてや無理、と思うタイプに引きずり回される感覚は好きではない。
ましてや相手の目線はぼくより上にあるのだ。
『は〜っ』
ため息しか出ない。
『何ため息ついてんの』
『ここで乗り換え。あっち』
そう言って、さらに手を引っ張って歩いていく。
『乗って』
『乗せられてる』
あはは、と笑っている。
何を考えているのかさっぱりわからない。
『さあ、降りよう』
えっと思うまもなく、反対側も開いているドアから出て、駅の椅子に座って、隣に座れとばかりに、椅子をトントンと叩いている。