2話 現実って残酷なのよ(チートほしかったなあ)
私がこの世界に降り立った理由は、今でもはっきりしない。特に神々しい気配を感じたわけでも、私を求める声を聞いたわけでもなく、気づいたらここ――シュタール大陸を牛耳るルクセン帝国のはずれに転移していたのだ。
五年前、私は日本の都会でもど田舎でもない中途半端な地方都市にある、これまたパッとしない中小企業で営業事務として働いていた。
営業事務というのは、言うなれば何でも屋だ。顧客対応や受発注業務など、営業のサポートを行いつつ、小さな会社では総務経理も兼任していたりする。
業種によって雇用条件はまちまちだが、基本的に給料は低いがストレスは多い。高卒で働いて三年。何度転職しようと思ったかしれない。
その日も私はコンビニで買ったビールを片手に、理不尽な営業への恨みつらみを吐き出しながら、薄暗い公園の中を横切っていた。
「やってらんないわよ、あのクソ野郎。納期が遅れたのは私のせいじゃないっつーの。なけなしのバーコードをむしり取ってやろうか」
時刻は午前零時。ロクに飲み屋もない寂れた地方都市には、酔っ払って道端に転がっているおっちゃんも、楽しそうに屯っている青年たちもいない。『不審者に注意!』と書かれた色褪せた幟だけが、秋の冷たい風に吹かれている。
念を押すが、酔いに任せて曰くのある祠を蹴ったりはしていない。不法投棄避けの小さな鳥居に悪戯したりもしていない。だから、本当にわからないのだ。なんでこんなことになったのか。
舌打ちを掻き消す虫の音に包まれつつ、ビールを煽る目に飛び込んできた満月が、とても綺麗だったことだけは覚えている。
汚い感情を浄化するような冴え冴えとした光に少しだけ見惚れ、空になった缶を近くのゴミ箱に捨てて足を踏み出した瞬間、強い風が吹き、周囲の景色が一瞬で変化したのだ。
今思えば、転移した先が森の中だったのは幸いだったかもしれない。
もし街のど真ん中だったら、私は今頃牢屋で暮らしていただろう。もしくはエルネア教団の籠の鳥になっているか。
ともかく、さっきまで月が輝いていた夜空に太陽が昇り、とても日本ではお目にかかれない極彩色の巨大な鳥が悠々と飛んでいるのを見て、私はほろ酔い状態の頭で思った。
「これ、異世界転移ってやつじゃない?」と。
カビ臭い六畳間で日々鬱屈とした思いを抱えている私にとって、創作の世界――特に異世界転生ものの物語は大きな救いだった。
初めてお給料を頂いたときは、奮発して漫画や小説を大人買いしたものだ。物語の中で生き生きと動く主人公たちを見て、私も異世界に行ってみたいな、なんて夢想したこともある。
けれど、現実は残酷だ。なんの取り柄もない事務員が実際に転移してみたところで、誰もがひれ伏するチートな能力が与えられるわけもなく、むしろ今までの社会的地位が全て剥ぎ取られた裸状態。ならず者の一撃で即死するクソ雑魚スライムだ。
もし、このまま無事に森を抜けられたとしても、言葉が通じるかもわからない。法律だって日本とは違うだろう。とても物語の主人公たちみたいに、タフに生き抜けるとは思えなかった。
これからどうするべきなのか。元の世界には戻れるのか。
そんなことをぐるぐると考える私の元へ飛び出してきたのは、どう好意的に解釈しても魔物としか思えない生き物だった。
見た目は可愛らしい兎ちゃんなのに、額から生えた凶悪なツノには血が滴っている。それも、体は人間の子供ぐらいにでかい。
兎ちゃんはそのつぶらな瞳で私を見つめると、口裂け女もかくやなほど口を大きく開け、喉の奥から振り絞るように「ぐげげげげ」と叫んだ。
その悍ましい鳴き声に恐怖を覚え、咄嗟に鞄を投げつける。
だらしなくチャックを全開にしていたせいで、中身がバラバラと地面にこぼれ落ちていく。家の鍵、リップ、スマホ、ハンカチ……元の世界の持ち物たちが。
見慣れぬものに興味を惹かれたのか、兎ちゃんは口を開けたまま、スマホに鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。逃げ出すチャンスは今しかない。
「来ないで……。来ちゃダメよ。そう、いい子ね。それはあげるから森へお帰り。私なんて食べても美味しくないからね」
今まで読んできた数多の物語を思い出しながら、じりじりと後ろに退がる。
しかし、やっぱり現実は残酷だ。兎ちゃんは微かに立てた私の足音を、その長い耳で聞きつけると、姿勢を低くして飛び掛かる素振りを見せた。
この世に生まれて二十一年。ロクな人生じゃなかったが、まさか兎に食べられて死ぬなんて。
兎ちゃんが地面を蹴る。思わず目を閉じてその場に蹲る。けれど、どれだけ待てど暮らせど予想していた痛みは訪れなかった。
届いたのはパチパチと何かが爆ぜる音と香ばしい匂いだ。恐る恐る目を開けると、兎ちゃんは私の荷物と共に炎に包まれていた。
目の前でバーベキューになっていく兎ちゃんを見て呆然とする私の元に、誰かが近寄ってきた。
顎の辺りで切り揃えたプラチナブロンドの髪に、じゃらじゃらと大ぶりなイヤリングがぶら下がった長い耳。
髪色の割に、顔は濃い目のアジア人といったところだが、どこの大物女優かと見間違うほどの美貌は、まさしくエルフと言って相違なかった。
「あーしょーか? けかは?」
言葉の意味はわからないものの、なんとなく日本語の響きに似ている気がした。
けれど、方言が強くて聞き取れないというか……例えるなら薩摩弁や津軽弁の話者と話している感じだ。
私を助けてくれた人――キリッとした眉と銀縁メガネの下から覗く緑色の瞳を持つおばあちゃんは、私の手を取って立たせると、少しだけ驚いた顔をして、しげしげと私の服装を見つめた。
手触りが良さそうな生成色のシャツを着て、紫色のサルエルパンツを穿き、その上からミントグリーンのローブを羽織っているおばあちゃんに対して、私は仕事帰りのくたびれた紺色のスーツ。どう見てもこの世界の人間じゃない。
こいつ怪しい、と思われても当然だが、おばあちゃんは私と燃えている荷物を見比べたあと、小さく頷いて自分の胸を叩いた。
「あーしゃー。るいー」
どうも名前を伝えている気がする。極力発音を真似して口に出してみる。
「るい?」
「ちかよ。る、うぃー」
「ルビィ?」
おばあちゃんがこくりと頷く。おお、通じた。外国のお客さんに応対したときのことを思い出す。
おばあちゃん――ルビィは胸に当てていた手を今度は私の胸に当てた。まな板だと思わなかったのだろう。綺麗なマニキュアが施された指が一瞬だけびくっと跳ねる。
「さ、や。私は紗夜です」
「さあら?」
「ええと、さや。さーや」
「サーラ!」
ルビィが嬉しそうに微笑む。いいやもうそれで。元々自分の名前に愛着はない。むしろずっと捨てたかった。
「サーラ。おーて」
ついて来いと言っているらしい。差し出されたしわくちゃな手が私を招くように揺れている。
物語の展開としてはよくあるパターンだが、この手を取っていいのだろうか。奴隷として売られたり、何かの実験に使われたりして――。
そのとき、風が強く吹いた。
灰になった兎ちゃんと私の荷物たちが一つに混ざり合って、空中に溶けていく。まるでこの世界の一部になったように。
それを見た瞬間、私を縛り付けるものは全て失われたのだと気づいた。過去も仕事も――そして、家族も。
「サーラ?」
ルビィが首を傾げる。
まあ、いいや。騙されたら、そのときはそのときだ。今さら惜しむ人生でもないし。
「なんでもないです。よろしくお願いします。ルビィ、さん」
そっと握ったルビィの手は、今まで触れたどんな人間の手よりも温かかった。きっと何年経っても忘れることはないだろう。
それが私の師匠――ルビィ・ロステムとの出会いだった。
紗夜からサーラになりました。
「あーしょーか?」は「大丈夫かい?」、「あーしゃー」は「アタシは」、「ちかよ」は「違うよ」です。