ぷつん vol.1
「ぷつん」と何かが切れる音がして、そのまま気を失った。
玲はそれなりの企業に勤めていた。上司のコロコロ変わる理不尽な要求をうまくやり過ごし、いつもなぜか進捗が遅れていくタスクをこなして、なかなか要領を得ない後輩の面倒も見て、何度もかかってくる電話に対応して、週末の会議にも毎回出て。有給がなかなか取れなくとも「みんな忙しいしね」とどうにか割り切っていた。
たまに愚痴だっていう。いつもの居酒屋で酔うためのお酒を片手に
「いや~、上司の相手するのが大変でさ、今日もね~…」
いつものように友人の愛に話していたつもりだが、少し顔をしかめているように見える。気のせいか。そんな違和感はお酒で流す。たくさん話して少しだけ気が晴れて、家に帰るとそのまま爆睡。あとは頼んだ、明日の自分。いろいろあるけれど、すべてうまくいっている人なんかいない。みんな割り切りながら働いてる。これが普通これが普通。そんなふうに思っていた。
この日も会社に行こうと思っていたけどなかなか起きられず、朝ごはんも食べずに出て行き急いで駅まで向かった。息を切らせてホームまで行って、電車に何とか間に合った。よかったと思ったその瞬間、気が遠くなった。
なぜ倒れたのかわからなかった。日常はそれなりに回っていたしそんなに無理もしていない。ならなぜなんだろう。
「大丈夫?!」
愛が駆けつけてきた。名前の通り愛とやさしさにあふれる友人。
「全然!大丈夫だよ。あ、会社に連絡しなきゃ。仕事に穴開けてすみませんって。」
「いや、倒れるほど働かせてた会社も悪いでしょ。連絡するにしても別に謝る必要ないって。とりあえず休みなよ。」
「いやそういうわけには…。でも普通に働いてただけなのになんでだろう。」
友人は怪訝な顔をした。
「『なんでだろう』って…。わからないの?ずっと仕事大変そうだったじゃん。前から思ってたけど話聞いてる限り普通じゃないって、玲の会社。なんで自分のミスでキレてる上司をあんたがなぐさめなきゃいけないの。後輩のミスもそうだよ。本人は何もしてないって顔してるだけであんたに庇われて。玲なにも悪くないじゃん。頑張ってやろうとしてるって言ってたけど本当に頑張ってたら自分のミスは自分で責任とるよ。少なくとも取ろうとする態度を見せるよ。電話対応もほぼあんたしかしてないらしいし。私しかできる人がいないからって言ってたね。それが常態化して会社の『普通』になっちゃってるけど普通じゃないから!普通はみんなが対応するもんなんだよ。手の空いてる人が優先で。会議も毎週土曜の午前中だって言ってたよね。休日返上じゃん。しかも上司たちが長々話すだけで中身なし。実質週休1.5日になってる。有給だってそう。なんで取りたい日にとれないのよ。そりゃ数日は仕方ないよ、外せない会議とか。でも年に5日だけしか使えないのはおかしいよ。忙しいことが理由っていってるけど有給ってそういうことじゃないから。働いた分はきちんと休みとっていいんだから。あと年末年始とか夏休みで有給消化させるのもおかしいからね。たぶん消化日数を増やすためだろうけど普通年末年始と夏休みは有給と別でもらえるから。」
愛はものすごいスピードでまくし立ててきた。
「いや、そっちの会社はそうなのかもしれないけどうちは違うから…」
「倒れといてよくそんなことがいえるね。前に聞いたけど給与の形態もおかしいよ。基本給と能力給に分かれててその基本給分しかボーナス出ないから実質ボーナスは月給と変わんないって。何、基本給7万で能力給3万、その他手当で合わせて1 5万にする会社って。ありえない。仮にボーナスが月給の3か月分でも21万じゃない。もらえるだけいいとかそういう話じゃないからね。そういう風に法の合間を縫ってボーナスを減らそうとしてるやり方が気に入らない!そんなの絶対いい会社じゃない。普通じゃない。」
そこまで言われると流石にカチンときた。
「そこまで言うことないじゃん。入りたくて入った会社でやりがい感じてるし。そんなに悪い会社じゃないよ。ちょっと疲れてただけだから…。」
「だからって倒れるまで働く理由にはならない。あんたこの間、私と飲んだ時、自分のことしゃべるだけしゃべって私の話聞いてないし心ここにあらずだったよ。会社帰りそのまま来たって言ってたけどスーツよれよれだしクマできてたし。限界だったんじゃないの?気づいてないだけで。大学のころは服装には気を使うほうでおしゃれも大好きだったじゃん。就職したらブランドもの買ってみたいって言ってたじゃん。そんな身だしなみに気を使わないような人じゃなかった。」
「そんなこと言っても社会人になったらプライベートの時間が減るのは普通じゃない?仕事してるんだから。」
「そもそもの仕事量とかプライベートの減り方が普通じゃないって言ってるの。あんたにとっては普通でもうちじゃ普通じゃない。そんな会社、人を使えるだけ使おうとしか思ってないよ!」
「じゃあ普通って何?」
玲のものとは思えない、大きな声が出た。
「私なりに必死に働いてるだけなのに。世界規模のイベントがあるから景気も良くて今年の就職は安泰とか言ってたのに、感染症のせいでまた不景気になって。内定全然決まらなくて。ようやっと採用してもらえた会社なんだよ?拾ってもらえたの。多少の理不尽、我慢しなきゃじゃん。愛はいいよ、内定何個かもらってよさげな会社選べたんだから。私は一つしか受からなくてそれでもどうにか働かなきゃいけなかった。」
「それはそうかもしれないけど、でも、」
「でもって何。働けることより大事なことある?生きてかなきゃいけないんだよ?お金なしじゃいられないでしょ。そっちは一年くらい就職できなくても何とかなったかもしれないけどうちにそんな余裕ない。」
「言い過ぎた、ごめん」
「転職すればと思うのかもしれないけど、今生きていくのに精一杯で無理。転職なんてそれこそ余裕と時間がないとできないじゃん。今も必死なのに。どうしたらいいの、これ以上。どうすればいいっていうの。」
「だからごめんて。」
「もう帰って!」
気が付くと、そう言い放っていた。愛は気まずそうに、去り際に「お大事にね」とだけ言って、帰っていった。
愛が帰ってから病室で大きくため息をついた。
愛のいうことも分からなくはない。でも会社以外でどうやって生きたらいいんだ。
気分は最悪だったが検査や診察は進み、過労ということで診断がついた。医者にいろいろ言われた気がするが、全然覚えていない。とりあえず最寄り駅へむかった。
駅についてホームのベンチに座った。一息ついて会社に連絡しようとスマホを開く。するとGoogleフォトから通知が来ていた。何かと思って開いてみると「20××年9月22日の思い出」とあり、勝手にスライドショーが始まった。大学の夏休みで旅行した写真で、愛とUSJに行った時の記録だった。ミニオンたち、ハリーポッターのお城、二人でびしょぬれになったところ、キャラクターの形をした食べ物、そして笑顔。
見ていたら涙が止まらなかった。
そう。ほんとはわかってた。見て見ぬふりをしてただけだって。普通だって言い聞かせたけど全然普通じゃなかった。好きだった服を買いに行く暇もないし、周りの友達とも遊べなくなって。それでも働けてるだけましだと思って。でもそんなことなかった。インスタを見れば休暇を利用して遊んでいる友人や洋服を楽しんでいる人も山ほどいる。なんで私は人と違うんだろう。どうしてこんなに忙しいんだろう。どうしたら、抜け出せるんだろう。どうしたら…
ブッとスマホが震えた。メッセージが来たらしい。愛からだ。反射的に開くと
「玲、少しは休めましたか?大丈夫?さっきはごめん。言い過ぎました。」
そう来ていた。「大丈夫です、私もごめん」とだけ返すと少ししてまたスマホが震えた。
「それはよかった。いろいろ言ってしまったけど、玲が必死なのも分かります。仕事って簡単に変えられないよね。でも好きな服にすら興味がなくなってる玲を見てたら悲しくて。」
「長くなるけどこれだけは言っておきます。玲、会社がすべてではないです。私は玲がどんな仕事をしていても、していなくても、一緒に話したいし遊びたい。また何かあったら連絡ちょうだい。いつでもいいからね。」
メッセージを見て、また涙が止まらなかった。私、何してるんだろう。こんなに心配してくれてる友達まで悲しませて。何やってんだ。もう。苛立ちやら不甲斐なさで涙を止められずにいると、
「大丈夫ですか?」
上から声が降ってきた。見上げると同い年くらいの女性だった。
「いや、ずっとうつむいてるから気分悪いのかもと思って。あ、お邪魔だったらすみません!年も近そうだったからつい…。良ければ使ってください。」
ティッシュを差し出してくれた。
「ありがとうございます。こちらこそすみません、心配かけちゃって。」
知らない人にすら心配されるなんて。なにやってんだ、私。
「いえいえ!それは全然。」
そういいながら隣に腰かけてきた。まだ何かあるのかな、と思っていると
「あの、何かあったんですか。」
「え、」
返答に困った。
「いや、余計なお世話だったらいいんですけど。昔の私と同じように見えて。話せば少し楽なるんじゃないかと思って。知らない人のほうが都合のいいこともあるし。でもよく考えたら声のかけ方が不審者ですよね、すみません。」
そういって席を立とうとする。
「あ、待ってください」
思わず声をかけた。
「いや、私も話せるなら話したいし…」
そういうと彼女は遠慮がちにまた座ってくれた。
「えっと…」
そうはいっても何から話そう。
「自分が普通だと思って仕事してたんですけど今日倒れちゃって。それで友人にも心配かけて。言い合いになっちゃって。でも今の仕事辞めたらお金もないし。どうやって変えていったらいいのかも分からない。そしたらたまたま昔の写真見ちゃって涙が止まらなくて…。」
だめだ、話がふわっとしすぎてるし支離滅裂だ。
「ごめんなさい、呼び止めたのにまとまってなくて。」
「いえ、話しかけたのはこちらですから。」
そういうと女性は少し考えてから話し出した。
「とりあえず、体は大丈夫なんですか?」
「あ、はい!病院の検査も大丈夫だったのでとりあえずは。」
「そう、それならよかった。少し話しても大丈夫ですか?」
「はい。」
「たぶん、今あなたは『仕事』という泥沼の中にいるんだと思います。」
「泥沼?」
「そうです。その中にいるうちは周りが見えないからどうしたらいいのかもわからない。まずその泥の中から抜けだして、泥を落とさないと。」
理解が追い付かず、ぽかんとしてしまった。
「意味わかんないですよね。でも私もそうだったんです。私もちょっと前まで仕事に必死で。倒れるまでやってた。そうしないと生きられないと思って。でもほんとに倒れて休養することになって、実家に戻ったんです。しばらくは何もする気が起きなかったんだけど、少し回復してきたら昔はまってた漫画を見返す元気が出て。そしたらアニメ化してるの知って見始めたんだけどこれが面白くて。その話を母にしたら『笑ってるとこ久しぶりにみた』って言われて。それがちょっとショックで。そんなにしばらく笑ってなかったのかと思って。そしたら仕事のせいで体調崩してるのが馬鹿らしくなって求人調べだしました。そしたらたくさんでて来るんです。ああ、仕事って一つじゃないなって感じました。だから、一度自分の中で何が大切で何を失っちゃいけないか考えてみるといいと思います。」
「えっとそれは、仕事をやめろってことですか。」
「そういう意味ではなくって。一度、仕事とかお金とか抜きで自分のやりたいことや失くしたくないものを考えるんです。例えばさっき言ってたお友達。それはとても大切で失いたくないものでしょう?」
愛の顔を思い浮かべる。
「そうですね。」
「そしたらその人に会うためには自分も元気でいたいじゃないですか。そうやって今の仕事を調整するのか、それとも仕事を変えたほうがいいのか、考えるんです。」
「なるほど。」
「今お時間があるなら、少し考えてみるといいと思います。今の仕事を一生続けていっていいのか。続けていくとしたら、たぶんまた倒れる気がしますけど。時間がなくて次のこと考えられないと思ってるなら、今考えてみちゃいましょうよ。」
うっ、確かに。痛いところを突かれた。正直、考える時間もないから思考を止めて現状維持を続けていたところはある。
「うーん。」
ちょっと考えてみる。
「今の仕事を続けていても最低限生きてはいけるけど友達にも会えないし、趣味にも時間を使えない。かといって今の仕事でプライベートとのバランスが取れるとも思わない。だからベストは転職になるのかな。」
「だったら───────。」
「でも!」
相手が続けようとしたところを遮った。
「でも、それにはお金も時間もかかる。理想を言えば転職だけど、理想に過ぎない。すぐにどうこうっていうのは、」
「仕事はいくらでも見つかりますよ。」
さらっと言ってのけた。
「お金もアルバイトとかだってありますし。正社員なら失業保険とかの制度もあるし。言い訳を言い出したらきりないですよ。できないと思ったらできないけど、やろうと思えばできます。」
「いや、そうはいっても」
「自信がない?」
はっきり言われて言葉に詰まった。
「それともプライドが許さないですか?正社員じゃなくてアルバイトとかになるのが。」
「そうだよ!」と声を荒げた。
「みんなが普通に正社員でやってる中で急にアルバイトになるなんて、できないよ。周りになんて言われるか。」
「あなたのご友人は、それを笑うような人なんですか。」
言われてはっとした。
「あなたのご友人はそういう人なんですか。」
もう一度聞かれて考えを巡らせる。少なくとも愛は、倒れたと聞いて一目散に駆けつけてくれる愛は、そんな人じゃない。私の久しぶりの笑顔を喜ぶ家族だってきっと。
「そういう人────────ではないです。」
「あと、『普通』って大事ですか。世間とか周りが言ってくる『普通』があなたにとって心地いいとは限りませんし。案外、普通じゃない人も多いですよ。私を含めて。」
その言葉がストン、と腑に落ちた。そっか、普通じゃなくていいよね。心が決まった。
「ありがとうございます。おかげで少し、前に進めそうです。」
そう言うと彼女は微笑んでくれた。
「そうですか。それならよかったです。じゃあ、私はこれで。」
立ち上がろうとする彼女を
「あ、ちょっと。」
思わず呼び止めた。
「なんで話しかけてくれたんですか。」
駅のホームで泣いている人なんて、普通見過ごすだろう。
「私も行きずりの人の言葉にたくさん救われてきた。」
彼女は凛とした笑顔でそう言った。
「だから私もそうしたいと思ったの。それだけ。それじゃあ元気でね。人生、楽しんで。」
そう言うと何事もなかったように立ち去って行った。
彼女が行った後、しばらく呆然としていた。人生楽しんで。普通初対面の人に言わないでしょ。ああ、あの人自分で自分のこと普通じゃないって言ってたか。笑いが込み上げてきた。ふと我に返って愛に返信してなかったことを思い出した。
まず愛に謝って、今日のことを話そう。それから、仕事を減らせるようにして時間作って、できなそうだったら辞めたりするの考えよう。「普通」から外れた足取りは、朝とは打って変わって軽かった。
糸が切れた時、何かが起こる。そう思い『ぷつん』を書きだしました。仕事で自分を見失いかけている個人的な友人、ひいては人生に悩んでいる方に届けば幸いです。