第1章⑤~⑧
「どうぞ」
横田は啓子の顔を見ながら言う。
お酒は啓子の夫である達也が晩酌も取らない人なので、結婚してから何年も口にはしていなかった。が、嫌いではない。嫌いではないが家事や子供の世話が続いている間は飲みたいとも思わなかった。
「一杯なら。でも終業時間が来たらすぐに帰るわよ。子供が待っているから」
と釘を刺し、コップに口をつけ……横田から見ると実に飲みっぷりのいい飲み方ですぐにコップを空にしてしまった。
「嫌だわ……のどが渇いていたんだわ」と笑い、
「でも、おいしい」
と正直に言った。それがきっかけとなってビール瓶一本が空になるまで啓子と横田はコップを重ねた。横田は空いたビール瓶に目をやり、続けて二本目も飲もうと
「もう一本、店から持って来なよ」
と啓子に言う。その言葉で啓子は自分が調子に乗っていたと気がついた。
「ダメ、ダメ。今何時?」
と、久しぶりのアルコールが入っての酔い気分で横田に尋ねる。普段なら壁にかかった時計で啓子は確認するところを横田に聞いたのは、不思議と横田との会話が快ったこともある。
横田も啓子から時間を聞かれて自分の腕時計を見るのではなく店の時計を見ようとして調理場に顔を向けた。
時計は天井近くにあるのだが横田の眼はどうも違うところを見ているようで、啓子も横田の眼の方向を追うように調理場の方に顔を向けた。そして顔がこわばってしまった。息をのんだ。
五十歳の柴田と六十歳の爺ちゃんのキスを見るのも衝撃的だったが、それ以上に皆の目が見えるという店の調理場という場所が啓子の衝撃をより大きくした。
「こ、こんな……」
調理場に眼が釘付けになった啓子は口から漏らし、次に横田を見て
「か、考えられないわ!いつもこうなの?」
と声を抑えながら横田に聞いた。
「いつもとは言えないけど、娯楽が少ないからなぁ」
眺めている横田の声には驚きが入っていない。
「話によると柴田のおばちゃんがこの店の主導権を握ろうとして爺ちゃんを篭絡しているとは聞いたな」と言ってから横田は啓子を見た。
啓子は顔を背けたままで横田に尋ねる。
「わたし、もう帰っていいのかしら?」
「ああ、そうだな、閉める時間だ。俺も帰るよ。テーブルの物を片づけて持っていこう」と横田は立ち上がった。
片づけは啓子の仕事だったが、横田に従うように啓子も眼を伏せながらテーブルを拭いて横田に続く。横田と啓子が洗い物を調理場の窓口に置いて、ようやく柴田と爺ちゃんは抱擁を解き、
「後はこちらがやるから」
と柴田は何事もなかった自然さで啓子に言った。そして思いついたように帰ろうとした啓子を「ちょっと待って!」と止め、
「はい、お子ちゃんに」
と夕食用の弁当の包みが入った袋を啓子に差し出した。この包みは今日だけでなく毎度だから、夕食の支度の面でも啓子は助かっている。
柴田は啓子にお持ち帰り用の箱を手渡してから、
「今日はちょっと早いけど、お終いにするわ」と店の外に出て暖簾を外しだした。
その暖簾の外しで横田も啓子も追い出されるように外に出るのだが、横田はともかく、啓子は子供が腹を空かして待っているので、二人への挨拶もそこそこに早足で店から離れて行った。だんだん小さくなる啓子の後ろ姿を見て、
「あの子、都会から来たくせにけっこうウブよねぇ?」
と柴田は啓子の上気した赤い顔を思い出しながら横に居る横田に笑って言った。横田はそれに対して同意しがたいのか、「う~ん」と唸っている。
「おばさんはこっちからほとんど県外に出ないからな。俺は仕事で都会に行くけどさ、あっちでは今日みたいなことをやったら大問題になるんだぜ」
と顔をしかめて柴田に告げた。
確かに啓子は驚いたが、夫が自己破産をしたときの破綻のドタバタに比べると笑い話の範疇に入るものだった。啓子の早い足取りがゆっくりとなるころには、むしろ噴き出したいような笑いに変わって広がった。
その笑い顔を残したままアパートに着き、階段を上がり、そして啓子がドアを開けると、待ちかねた長女と長男が犬のような勢いで啓子に飛びついてきた。実際、犬と同じように爺ちゃんが作ってくれた弁当が入っている袋に顔を近づけ、クンクンと匂いさえ嗅いでいる。
姉の絵里は今年から小学生になり、弟の守は保育園の年長組だ。子供もこれくらいになると親が言っていることの多くを理解できるので手間のかかり方が格段に減った。
追っ手から逃れるようには大袈裟だが、前の仕事を失敗した姿を知り合いに見られたくないという夫の達也の気持ちは啓子も同じだったから、次の棲む場所は達也に任せていた。
二人は日本の高度成長はまだまだ続くと思っていたので「経営の授業料と思えば安いものだよ」と、呟きつつ深刻ににならない達也に啓子もまた同調していた。問題は達也の就職先だった。当時、すぐにでも職に就けるのは建設業界だったが、現場が固定していない。それでどうしても宿舎住まいを強いられるので、今の達也は金曜の真夜中に帰ってきて月曜日の早朝に家を出るという形になっている。
啓子は夫の忙しそうな達也の姿しか知らないのだが、スケジュールに追われていた夫の前の仕事も二十四時間営業は当たり前の業態だったので不規則な生活には慣れていた。
それでも五日間の不在、それも毎週、月に直すと夫が八日間しか家に居ないという状態の生活は気が張った。
子供達と一緒に風呂に入り、布団を敷くと二人はすぐに眠りに入るのが常だったが、啓子は逆に目が冴えてなかなか寝付けない。
こういう事が続いているときに、食堂のパート仕事の求人情報が新聞のチラシとして入っていたので啓子の眼を引いた。